第62話
ベッドに横たわる兄の姿を、ユーリィは静かに見下ろしていた。
眠っている姿からは、あの猛毒は一切感じさせない。吐息が苦しげで、青ざめた顔は今にも死にそうであった。死ななかった事が不思議なぐらいだ。
憎しみはなかった。あるのは一握りの哀れみと、破片のような同情だけだ。
「兄さん、僕、思い出したんだ」
寝顔にそっと囁く。起きていたら、絶対にこんな素直な気持ちでは対峙は出来ないだろう。
「昔、一度だけ、兄さんが助けてくれた事があったよね。本当に小さい時だ。あの女が僕を刺そうとした時、止めてくれたよな?」
そう、あの時、確かに兄は“やめろ”と叫んでいた。もしかしたらそれは、殺すのは自分の権利だという事を主張したかっただけかもしれない。しかし凶器を目の前にして、ユーリィにはその声がまるで、神から発せられたように感じてしまった。
あの“教会”にいた女達のように、例えそこに真実が含まれていなくても、狂信的に想ってしまえばそれが正義だと信じてしまう。
「あの時、兄さんは僕の事を本当は嫌っていないとか、馬鹿な事を考えてしまった。それがずっと心に残っていて、だから兄さんに責められるたびに、自分の存在全てが嫌になっていた」
たった一つの言葉が全てを支配した。たった一つの気まぐれが全てを抑制した。いつかエディクが自分を許してくれるのではないか、いつかエディクが自分に優しくしてくれるのではないかと心のどこかで期待していたのだ。自分の汚れが消えた時、エディクに存在を認めて貰えるのではないかと……。
「それに誰かに存在を否定されるより、自分で否定した方がずっと楽だから……」
ユーリィは吐息のような小さな声で呟いた。
やがて意識の戻らない兄から視線を離し、ユーリィは窓の外の明け始めた空へと顔を向けた。
「夜が明けるね。そして僕ももう終わりにする。貴方を憎まないけど、でも大嫌いだ。貴方が死のうが生きようが、もう僕には関係ない。命令なんかに従わないし、絶対に殺されないし、そして殺しもしない」
兄の意識に届くように声を上げて言ってみたが、残念ながら相手はピクリとも動かなかった。出来れば聞いていて欲しい。変わった自分を、強くなった自分を見せつけて、今までの仕返しをしてみたかった。
「僕は何も悪くない、絶対に。この答えを見つけるまで十五年もかかったなんて、馬鹿みたいだよな?」
それだけ言うと、ユーリィは静かに部屋から立ち去ったのだった。
彼は知らない。残されたエディクが、目を閉じたまま呟いた言葉を。もし聞いていたらいったい何を思っただろうか。
「俺はお前よりもあの女が嫌いだった。だからアイツが死んで、お前を虐めていた理由が自分でもよく分かったよ。俺はお前を虐める事で、あの女に愛されようと思っていたらしい」
クククという笑い声が、静かな室内に響いていく。
「けれどもうこの性格は治らないな。今度はあの女の血を引くフィリップをいたぶろうと思い始めてるぜ、俺」
カッと見開いた瞳は、魔物以上に魔物の色を帯び、ユーリィの消えた扉を睨み付けた。
「そうだな、俺はお前が嫌いではないぜ。だからこれからはお前の為に働いてやることにしよう。フィリップを消してやるから、楽しみに待ってるんだな」