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ユーリィ君の受難  作者: イブスキー
第三章
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第56話

 その女がやって来たのは、それからしばらくしてからである。叩かれた扉は、神経質な性格を表しているように、小刻みに鳴り続けた。


 下層部にいたのはヴォルフとアルの二人で、ユーリィは自室から降りて来ていない。二人は顔を見合わせると、やがてヴォルフが立ち上がって扉へと近付いた。


 開いた扉の向こうに立っていたのは、四十代半ばほどの中年女性だった。上等な絹のドレスを身に纏っている。厚塗りの化粧がやけに生々しい。赤い口紅は、たった今血を啜ってきたような錯覚さえしてしまうほどだ。


「あら……」


 出てきた相手がヴォルフだったのが意外だったのか、彼女は眉を潜めてヴォルフを睨んだ。


「貴方、誰?」

「ユーリィ君の友人で、ヴォルフ・グラハンスと言います」

「ああ、そうなの。で、そのユリアーナは?」


 ここに住む人間は、誰も彼も横柄である事が当たり前のようだ。そんな態度に、ヴォルフは少なからずムッとした。上に立つ者達は礼儀という物を知らないらしい。


「いますよ」

「早く呼んできて頂戴」


 ヴォルフは何と答えようかと悩んでしまった。目の前の女性が、エディクの母、ユーリィの義母であることは一目瞭然だ。何となくだが、彼女とユーリィを会わせてはいけないような気がして仕方がない。女の見る目はある方だから、彼女がどういった女か直感的に理解出来た。人を傷付けることなど、何とも思わない女。それが目の前にいるイワノフ夫人その人であろう。


「どうしたの、早くして」


 躊躇っているヴォルフに苛ついたのか、イワノフ夫人は踵を踏みならし、命令するようにそう言った。


「彼は寝ています、イワノフ夫人」


 背後からアルの声が聞こえてきた。振り返ると冷たい笑みを浮かべた彼が、静かに近付いてくるところであった。


「貴方は……」

「お久しぶりです、覚えておいでですか?」

「アルベルトでしょ」

「ええ、分かりますか?」

「二年もここにいたのだから、忘れるわけはないわ。それに母親の葬式まで出したのは、誰だと思ってるの?」

「そうでしたね」


 恩着せがましいというか、何というか。平然としているアルだが、その心の中は普通であるはずはない。


「貴方、エディクのくだらない遊びに付き合ってるそうね?」

「ご存じでしたか?」

「エディクからお金を出すように頼まれたわ。あの子、まだユリアーナを虐めて遊んでるみたいね。まあ、それで暇つぶしが出来るなら、私は構わないけど」

「それでユリアーナ君に何のご用ですか?」

「貴方には関係ないことだわ!」


 挑戦的に顎を上げ、イワノフ夫人はアルを睨み返した。いったいこの女は何を苛ついているのだろう? まさか年がら年中、こんな横柄であるとは思えない。何かが彼女の機嫌を損ねているのだ。


 アルはその事を知っているようだ。しばらく二人のにらみ合いが続き、やがてアルが口を開いた。


「今回、叔父上が彼を呼び寄せた理由が何であるのか、それを疑っていらっしゃるのですね」

「何の話かしら?」

「はっきり言いましょうか? 彼に継がせる……」

「お黙りなさい! それ以上言うと許さないわ。これはイワノフ家の問題よ!」


 ヒステリックな夫人の叫び声が室内に木霊した。激しい怒りがアルに向かって打ち寄せる。ヴォルフはどうしたらいいのか分からず、ただ茫然と二人を見比べた。


 願うことはただ一つ、ユーリィがこの場に現れないでいて欲しいということだった。こんなくだらない争いに彼を巻き込みたくはない。



 やがてイワノフ夫人が踵を返し、階段を下りていく。ヴォルフとアルはその姿を見送りながら、ホッと息を吐き出した。


 婦人の足音が消えた頃に、ヴォルフはアルの方へと振り返った。苛立ちが瞳に浮かんでいるのが自分でもよく分かる。


「怒ってるんですか?」

「当たり前だろう。何で挑発するようなことを言った?」

「私は本当のことを言ったまでです」

「あんな事を言えば、ユーリィの立場が悪くなるのは分かるはずだろう?」

「もう止めましょう、この話は。彼女も言った通り、私も貴方も部外者ですから」

「部外者? 部外者なら最初から何も……」


 と、その時、背後で扉が開くような音がした。振り返るまでもなく、降りてきたのはユーリィだろう。ヴォルフとアルは咄嗟に口を閉ざし、何事もなかったような顔で静かに振り返った。


「何してるんだ、二人とも?」

「別に何も」

「誰か来たんだろ?」

「ど、どうして……」

「扉を開けっ放しで、そんなところで立ち話をしてれば誰だって分かる。で、来たのはエディクか、それとも母親の方か?」


 降りてきたユーリィは二人の間に割って入ると、その姿を眺めようと螺旋階段を見下ろした。幸いイワノフ夫人の姿は闇に紛れて、もう見えなくなっていた。


「どっちでもいいや。明日はここを出ていって、もう二度と帰らないつもりだし」

「決めたのか?」

「本当は来るべきじゃなかったんだ。分かっていたのに、金の為に来た馬鹿さ加減に、自分でも嫌になるよな」


 そう言って自傷気味な笑みを浮かべたユーリィだっが、そんな彼に突如、アルが思わぬ事を口にした。


「叔父上は明日、決断をされるようですよ」


 驚いたユーリィが顧みる。


「なんのことだ?!」

「貴方に家督を譲るということです。だから貴方が帰らないと決めたからって同じ事です。そうなれば貴方はここから出ていく事は叶いません」

「馬鹿な……」


 ユーリィは言葉を失ったようだ。ヴォルフもアルの真意を推しかねて、訝しげに彼を見返した。


「アル、いったい……」

「私は本当の事を言ってるだけです。エディクの命は風前の灯火、そしてフィリップは……」

「言うな!」

「それに貴方だって本当はイワノフの財産を欲しい……?!!」


 アルが最後まで言い切らないうちに、ユーリィがその頬を殴っていた。頬を押さえたアルは、無表情のままユーリィを見返している。そんなアルを一睨みしたユーリィは、


「アルベルト・エヴァンス、それ以上言うと二度とお前とは口をきかないからな!」


 階段を駆け上がっていくユーリィを見送るアルの顔はあまりにも哀しげで、ヴォルフは彼を責める事が出来なかった。


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