第56話
その女がやって来たのは、それからしばらくしてからである。叩かれた扉は、神経質な性格を表しているように、小刻みに鳴り続けた。
下層部にいたのはヴォルフとアルの二人で、ユーリィは自室から降りて来ていない。二人は顔を見合わせると、やがてヴォルフが立ち上がって扉へと近付いた。
開いた扉の向こうに立っていたのは、四十代半ばほどの中年女性だった。上等な絹のドレスを身に纏っている。厚塗りの化粧がやけに生々しい。赤い口紅は、たった今血を啜ってきたような錯覚さえしてしまうほどだ。
「あら……」
出てきた相手がヴォルフだったのが意外だったのか、彼女は眉を潜めてヴォルフを睨んだ。
「貴方、誰?」
「ユーリィ君の友人で、ヴォルフ・グラハンスと言います」
「ああ、そうなの。で、そのユリアーナは?」
ここに住む人間は、誰も彼も横柄である事が当たり前のようだ。そんな態度に、ヴォルフは少なからずムッとした。上に立つ者達は礼儀という物を知らないらしい。
「いますよ」
「早く呼んできて頂戴」
ヴォルフは何と答えようかと悩んでしまった。目の前の女性が、エディクの母、ユーリィの義母であることは一目瞭然だ。何となくだが、彼女とユーリィを会わせてはいけないような気がして仕方がない。女の見る目はある方だから、彼女がどういった女か直感的に理解出来た。人を傷付けることなど、何とも思わない女。それが目の前にいるイワノフ夫人その人であろう。
「どうしたの、早くして」
躊躇っているヴォルフに苛ついたのか、イワノフ夫人は踵を踏みならし、命令するようにそう言った。
「彼は寝ています、イワノフ夫人」
背後からアルの声が聞こえてきた。振り返ると冷たい笑みを浮かべた彼が、静かに近付いてくるところであった。
「貴方は……」
「お久しぶりです、覚えておいでですか?」
「アルベルトでしょ」
「ええ、分かりますか?」
「二年もここにいたのだから、忘れるわけはないわ。それに母親の葬式まで出したのは、誰だと思ってるの?」
「そうでしたね」
恩着せがましいというか、何というか。平然としているアルだが、その心の中は普通であるはずはない。
「貴方、エディクのくだらない遊びに付き合ってるそうね?」
「ご存じでしたか?」
「エディクからお金を出すように頼まれたわ。あの子、まだユリアーナを虐めて遊んでるみたいね。まあ、それで暇つぶしが出来るなら、私は構わないけど」
「それでユリアーナ君に何のご用ですか?」
「貴方には関係ないことだわ!」
挑戦的に顎を上げ、イワノフ夫人はアルを睨み返した。いったいこの女は何を苛ついているのだろう? まさか年がら年中、こんな横柄であるとは思えない。何かが彼女の機嫌を損ねているのだ。
アルはその事を知っているようだ。しばらく二人のにらみ合いが続き、やがてアルが口を開いた。
「今回、叔父上が彼を呼び寄せた理由が何であるのか、それを疑っていらっしゃるのですね」
「何の話かしら?」
「はっきり言いましょうか? 彼に継がせる……」
「お黙りなさい! それ以上言うと許さないわ。これはイワノフ家の問題よ!」
ヒステリックな夫人の叫び声が室内に木霊した。激しい怒りがアルに向かって打ち寄せる。ヴォルフはどうしたらいいのか分からず、ただ茫然と二人を見比べた。
願うことはただ一つ、ユーリィがこの場に現れないでいて欲しいということだった。こんなくだらない争いに彼を巻き込みたくはない。
やがてイワノフ夫人が踵を返し、階段を下りていく。ヴォルフとアルはその姿を見送りながら、ホッと息を吐き出した。
婦人の足音が消えた頃に、ヴォルフはアルの方へと振り返った。苛立ちが瞳に浮かんでいるのが自分でもよく分かる。
「怒ってるんですか?」
「当たり前だろう。何で挑発するようなことを言った?」
「私は本当のことを言ったまでです」
「あんな事を言えば、ユーリィの立場が悪くなるのは分かるはずだろう?」
「もう止めましょう、この話は。彼女も言った通り、私も貴方も部外者ですから」
「部外者? 部外者なら最初から何も……」
と、その時、背後で扉が開くような音がした。振り返るまでもなく、降りてきたのはユーリィだろう。ヴォルフとアルは咄嗟に口を閉ざし、何事もなかったような顔で静かに振り返った。
「何してるんだ、二人とも?」
「別に何も」
「誰か来たんだろ?」
「ど、どうして……」
「扉を開けっ放しで、そんなところで立ち話をしてれば誰だって分かる。で、来たのはエディクか、それとも母親の方か?」
降りてきたユーリィは二人の間に割って入ると、その姿を眺めようと螺旋階段を見下ろした。幸いイワノフ夫人の姿は闇に紛れて、もう見えなくなっていた。
「どっちでもいいや。明日はここを出ていって、もう二度と帰らないつもりだし」
「決めたのか?」
「本当は来るべきじゃなかったんだ。分かっていたのに、金の為に来た馬鹿さ加減に、自分でも嫌になるよな」
そう言って自傷気味な笑みを浮かべたユーリィだっが、そんな彼に突如、アルが思わぬ事を口にした。
「叔父上は明日、決断をされるようですよ」
驚いたユーリィが顧みる。
「なんのことだ?!」
「貴方に家督を譲るということです。だから貴方が帰らないと決めたからって同じ事です。そうなれば貴方はここから出ていく事は叶いません」
「馬鹿な……」
ユーリィは言葉を失ったようだ。ヴォルフもアルの真意を推しかねて、訝しげに彼を見返した。
「アル、いったい……」
「私は本当の事を言ってるだけです。エディクの命は風前の灯火、そしてフィリップは……」
「言うな!」
「それに貴方だって本当はイワノフの財産を欲しい……?!!」
アルが最後まで言い切らないうちに、ユーリィがその頬を殴っていた。頬を押さえたアルは、無表情のままユーリィを見返している。そんなアルを一睨みしたユーリィは、
「アルベルト・エヴァンス、それ以上言うと二度とお前とは口をきかないからな!」
階段を駆け上がっていくユーリィを見送るアルの顔はあまりにも哀しげで、ヴォルフは彼を責める事が出来なかった。




