第53話
「ユリアーナ?」
塔に戻ったヴォルフはユーリィにそう尋ねていた。
アルは戻ってきていない。彼はエディクの部屋に留まっているようだ。たぶん例の件を話しているのだろう。ユーリィによると、彼はエディクに利用されていたということだった。
「そう、それが本名。エディクの母親が付けたんだ」
「って、思いっきり女名じゃねーか?!」
「嫌がらせにしては程度が低いよな。その上、クソ長いミドルネームまでオマケしてくれたし」
「ま、まあ、名前なんか付いてればそれでいいわけだし。それに通称で済ませられるなら……」
慰めにもならないヴォルフの言葉に、ユーリィはフンと鼻で笑う。しかしその瞳は柔らかな光を放っていた。それを見たヴォルフは、内心ホッと胸を撫で下ろす。
とにかくここに来てからは、胸を締め付けられるような思いばかりしてきている。それがとても耐えられなかった。
「ヴォルフがいてくれて良かったよ」
ふと呟いたユーリィのセリフに、ヴォルフは思わず抱き付こうとしたのだが、伸びてきた足にそれを妨げられた。
「調子に乗るな」
「いいじゃないか、減るもんじゃなし」
「忍耐力が減る」
ユーリィはそう言うと、ソファの方へと歩いて行き、ドッカリと腰を下ろした。
「それよりアルは大丈夫かな……」
珍しく不安げな口調から、本気で彼がアルを心配していることを窺わせる。
やがてユーリィは城へと通じる扉に顔を向けながら、小さく溜息を付くとポツリと呟いた。
「あの人は変わらないな」
「変わらないって、エディクのことか?」
「うん。昔と言うことがあんまり変わらないから、ちょっとビックリしたよ。だから、今まではあんな態度を取ったこと無かったけど、今日は少し腹が立ったな」
「それは君が成長した証拠だ」
ヴォルフがそう言うと、ユーリィは驚いたように目を丸くして、振り返った。
「僕が成長した?」
「心に余裕が生まれたからだよ」
本当は“俺の愛のおかげだ”と言いたかったヴォルフだが、さすがに止めておいた。
「ふぅん。じゃあ、あの人はずっと子供の時のままなんだな。こんなこと思ったこと無かったけど、もしあの人がもっと元気になったら、楽しそうに笑えるのかなぁ。そう考えると、なんだか少し……」
そこでユーリィは言葉を切ると、目を細めて俯いてしまった。一瞬泣いているのかと思うほど、瞳は寂しげに揺れている。心配になったヴォルフは彼の隣に座り、その顔を覗き込んだ。
「少し?」
「少し可哀想だな、あの人……」
その瞬間、ヴォルフはユーリィを引き寄せると、強く抱きしめていた。
腕の中で少年が暴れ出し、悲鳴を上げる。
「うわ! 止めろ! 変態! ふざけんな! 馬鹿野郎!」
「しばらくこのままにさせてくれ。これ以上は何もしないから」
ヴォルフの言葉にユーリィの動きが止まり、やがて体から力が抜けていった。
「ホントかよ?」
「ああ」
少年の柔らかな髪が頬に当たる。けれど押し倒したいなどとは思わなかった。
この場所で更に傷を作るなど、悪魔でなければ出来るはずもない。ここで彼がどれほど泣いたか、それを想像するだけで、ヴォルフの心は痛くなった。
それでも彼は、壊れそうな心で他人を気遣う。本人はそのつもりがないだろうが、兄を“可哀想”だと言い、“いて良かった”と言い、ヴォルフの心を癒やしてくれる。
だから今は、ただ愛しいと思う、それだけで十分なのだ。
「君は良い子だ」
「そんなこと言っても、何も出ないぞ」
「もう十分色んなものをもらってる」
「あげた覚えはない」
「いいから、少し黙ってろ。ムードがぶち壊しだ」
するとユーリィは再び暴れ始め、
「ムードなんか気にするな、変態的気分になるぞ!」
そう叫んで、ヴォルフの腕からするりと抜けると、ソファから離れてこちらを振り返る。怒ったように肩で息をしているが、頬が赤く染まった顔がとても可愛らしかった。
「もう少し抱いてたかったな」
「それにお前、汗臭いし」
ヴォルフは驚いて自分の体を嗅ぎ始める。それを見たユーリィはクスッと笑った。
「笑うな」
「僕は部屋に退散する。汗臭いのが移ったら嫌だから」
「ユーリィ!」
掴みかかろうとするヴォルフを避けて、ユーリィが階段まで逃げていく。折角二人きりになったのに逃してなるものかと、ヴォルフはその後を追いかけたが、ユーリィが必死になって逃げるものだから、仕方がなく階段の下で足を止めて彼を見上げた。
真顔に戻ったユーリィと目が合う。何か言いたげに口を開きかけた彼だが、躊躇うように一度閉じると、視線を外した。
「どうした?」
少し心配になってヴォルフが尋ねる。
手が届かなくなった少年が、とても遠くに感じられた。
「あの……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
「言いたいことがあれば言えよ」
彼は少し考えあぐねるような表情をしていたが、やがて珍しく穏やかな微笑みを見せた。
「……ヴォルフがいて良かったよ」
それだけ告げ、ユーリィは部屋の中へと入っていった。
言いたかったことが何だったのかと考えながら、ヴォルフはしばらくユーリィの消えた扉を眺めていた。




