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ユーリィ君の受難  作者: イブスキー
第一章
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第5話

 ユーリィはしばらく茫然とその場に佇んでいた。未だに事態がハッキリと判らない。いや、判らないのではなく認められないのだ。あれは初めての経験だったのに……。よりにもよってあんなヤツに、それも男にこんなに簡単に奪われてしまうとは!


 口の中にまだあの薬が残っていて、嫌になるほど苦かった。


(で、出て行ってやる!)


 そう思った瞬間、弾かれたようにその場から動き、広げてあった自分の荷物を乱暴に皮袋に詰め込み始める。本当に今すぐここから出て行くつもりだった。乾かす為に椅子の背に広げてあったズボンと上着を掴み取る。途端、部屋の片隅に置かれた毛布が眼に飛び込んできた。


“……この場所で身動き一つせず眠ることにする。神に誓ってもいい”


 ヴォルフの声が脳裏に蘇る。他人の言葉なんて信用出来るもんか。そう思ったが、同時にこの部屋とこのベッドは彼のものだということも思い出す。彼はその事には一言も触れず、あの隅で寝ると言いだしたのだ。


 ユーリィは溜息混じりに、まだ濡れている服を椅子の背に戻す。代わりにズボンに付いているホルダーからシミターを抜き取ると、それを握りしめベッドに潜り込んだ。今夜はこの程度の警戒で留めておいてやろう。


 横になる。すると先ほどの感触がやけに生々しく思い出され、怒りに頭が冴えてしばらく眠れそうもなかった。


 


 耳障りな鳥の声が窓の外から聞こえてきた。まるでこちらの睡眠を邪魔するかのように、不定期に甲高くなる鳴き方。小鳥を可愛らしいと描写することもあるが、こと朝に至っては憎たらしいとしか思えない。


 ユーリィは瞼に感じる光に気付きながら寝返りをうち、再び深い眠りに落ち込もうと努力した。だが一度目覚めてしまった意識はどうしようもなく、遂に諦めて薄目を開けてしまった。古い建物特有の、ランプの火に煤けた天板が見える。ベッドの脇にある窓を被うカーテンの隙間から、朝の弱い光が差し込んでいた。


 ユーリィは体を起こし、薄明るい室内を見渡した。ナイトテーブルの上には殆ど手つかずの夕食が残っている。一口だけ食べたバターパン、突っついただけのマッシュポテト、スープの表面には冷めて白くなった油が固まっていた。


 昨日のことは思い出すまでもない。意識が戻った瞬間からアッと言う間に脳裏に浮かんでいた。あの雨の森も、蛙に似た魔物のことも、ヴォルフという男のことも、そしてあの薬湯のことも……。そこまで思い出し、ユーリィはテーブルに置かれたままのカップを睨んだ。まるでそれ自体が気分を悪くさせる全ての根源であるかのように。


 重ねられた唇の感触が蘇り、ユーリィは思わず両手で頭を抱える。何で見ず知らずの、それも男とあんな事になってしまったんだろう。どこで間違っていたのだろうか。雨を押して進んでいたこと? 魔物に倒されこと? それとも薬を飲まなかったこと?


 肩で大きく息をした。もう忘れよう。あれはただ“薬を飲まされた”だけなんだ。自分にそう言い聞かせながら、ユーリィは目を瞑って二度三度頷いた。


 その時、部屋の隅からクスクスと笑う声が聞こえてきた。ハッとそちらに視線を移すと、あの男が身を起こしてこちらを眺めている。


「朝から面白いね、君」


 見られていた! 自分一人だけならどうということのない内なる行動を、他人に覗かれるとは。まして意識的にその存在を忘れようとしていた相手には絶対に見られたくなかった。ユーリィは恥ずかしさに上気した顔を(しか)め、唇を噛む。それにしても、彼はいつ帰ってきたのか。寝込みを襲われたら敵わないとユーリィはかなり遅くまで起きていたが、とうとう目が覚めている間は戻っては来なかった。一瞬、寝込みを襲われてはいないかと恐怖に引きつったが、まさかそこまで非道い男ではないだろう。いや、ないはずだ。


 ヴォルフが大きく伸びをした。それから立ち上がると、その場で腰を捻り始める。きっと床で寝たせいで痛いに違いない。


「…………」


 謝るべきか、それとも礼を言うべきか。ベッドを使わせてもらったことに対して何か言った方がいいだろう。そう頭では判っているのに言葉が思い浮かばず、ユーリィは押し黙ったまま視線を泳がせた。


「さてと」


 その声と同時にヴォルフが近付いてくる気配を感じた。慌てて振り返り、睨み付ける。


「来るな!」

「おやおや、すっかり嫌われてるね。窓を開けるだけだよ。朝の空気を吸いたいんだ」

「外に出るなりすればいいだろ」

「部屋の空気も入れ換えないと」


 確かに相手の言うことも一理あると納得した。部屋の空気が少し淀んでいるし、清々しい風が今すぐ欲しい気もする。仕方がなく彼は、ベッドの上をノソノソと移動して、カーテンを引きつつ窓を開ける。途端、光が部屋中を包み、ひんやりとした空気が室内に流れ込んできた。


「うん、朝はこうじゃなきゃ。今朝は顔色もいいみたいだな。熱も下がったようだ。薬が……」


 そこまで言いかけて、ヴォルフは口を(つぐ)んでしまった。禁句であることに気付いたようだ。確かにそれは禁句ではあるが、ヴォルフの存在そのものが危険なのでそんなことはもうどうでもいいとユーリィは思った。


「ま、まあいいや。とりあえず俺は着替えて食堂に行くが、君も来るだろう?」

「僕は……」

「昨夜も食べてないだろう? 全快したければ、無理にでも何か口にしなさ……した方がいい」


 ヴォルフはそう言いながら、椅子の背にあったユーリィの服を投げてよこした。慌ててそれを受け取る。ズボンの方はまだ乾ききってなかったが、生成のシャツと砥草色の上着は完全に乾いていた。自分の服の方が着心地がいいに決まっている。少しだけだが気が晴れた思いがした。


(まあ、いいさ。今日はやる事があるから)


 わざと明るく心で呟き、ユーリィはヴォルフに背を向けて着ていたシャツを脱いだ。



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