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ユーリィ君の受難  作者: イブスキー
第二章
45/66

第45話

 再び扉が開く。途端に天井がほんのりと黄色く照らされた。


 現れたのは六人の女。二人はロウソクの乗った楼台を持ち、シルフィ自身は長い十字架を手に、押し黙って台座へと歩み寄る。銀に輝く十字架の先端は凶器のごとく ──実際に凶器なのだろう── 薄闇に妖しく浮かび、ユーリィは背筋にぞくりとするものを感じていた。


 炎に照らされた顔は全て、この世の美を集成させたような神々しさだった。こんな状況でなければきっと天界にでもいるような気分になったことだろうが、ユーリィの目には悪魔よりもおぞましい物としか映らない。


 衣服の擦れる音と引きずるような足音が室内に響く。どの瞳も狂信者の持つ影に染まり、感情の欠片すら覗くことは出来ない。


 固唾を飲んで彼らの動きを見守りながら、ひたすらユーリィはチャンスをうかがっていた。


 やがてシルフィが台座の横に、残り五人は足元に並んで立つ。女達の体より先ほど胸に落とされた同じ香りが漂い、甘過ぎる芳香に吐き気さえ覚えた。


 だが、シルフィを除く女達が足元に立ったのは幸運だったのかもしれない。あの道具を使うにはもってこいの状況だった。


 シルフィの顔はそれまで以上に毒を帯びている。彼女はグッと顎を引き、手にした十字架を胸の前で構え直すと、まるで獲物を捕まえた蟷螂のようにユーリィを見下ろした。


「これから処刑を執り行います」

「ふん、処刑ね、アホらしい」


 内心の緊張を隠し鼻で笑ってみせる。

 するとシルフィ剥き出しの嫌悪を露わにし、その言葉を口にした。


「汚らしい! 汚らしい者は早く死になさい!」



 それは禁句……。

 心の奥底で(うごめ)く者を呼び起こす言葉……。



 遠くなる感覚と曇っていく視覚。吐き気に似た物が胸の底から溢れ出て、指先が微かに震える。耳鳴りが聞こえ、心臓と呼吸が乱れ始めた。


 どうやらヤツが(あらわ)れるらしい。


 壊れかけた精神に耐えながら、ユーリィは僅かに動く(かかと)を持ち上げた。

 ヤツに支配される前に、自分が自分であるうちに、反撃しなければならない。死ぬのは怖くなかったけれど、そうなったらきっと悲しむだろう人間がいる。脳裏の端に、ブルーグレーをした男の顔が、浮かんでは消えていった。


 死んで喜ぶ人間のためではなく、死んで悲しむ人間のために、最後まで抵抗はしたい。以前にはなかったそんな気持ちが、ユーリィの精神をつなぎ止める最後の綱であった。


「お前の体を、これより女神ルル様のお力で浄化します」

「うん、僕は汚れてるよね……」


 遙か彼方で自分の声をボンヤリと聞きながら、ユーリィは力を込めて踵を下ろした。既に意識の半分をヤツに受け渡している。もうすぐ本当の自分は沈んでいくだろう。


「無駄なお喋りはお終いにします。さあ……」


 シルフィは手にした十字架の先端でユーリィの胸の上をなぞりながら、女達に目配せをする。すると五人の女は口々に祈祷のようなものを唱え始めた。


「汚れし亡者、天地抗う、鍾愛深き女神、煌々たる天界の門、煌々たる御顔……」


 意味のあるようで全くなさそうな言葉の羅列が閉ざされた空間に反響し、それと同時に一人がユーリィのズボンに手をかける。女は躊躇いも恥じらいもなくボタンを外すと、それを引き下ろそうと試み始めた。


 何も感じなくなった心で、されるがまま宙を眺める。願うのは死、ただそれのみ。


(死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……)


 天井から蜘蛛が降りてきて、白い糸が闇の片隅で煌めかせる。そこに何の意味があるのかすら今のユーリィには分からなかった。


 意識が壊れていく。


(もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ……)


 突然、ドサリという音が連続して室内に広がった。足元の五人が床に崩れ落ちた音だった。

 驚いたシルフィは、掲げていた十字架をユーリィの胸元から離す。祈祷の声が止み、代わりに息を飲む声が聞こえてきた。


「な、何をしたの?!」


 シルフィの怒鳴り声に、焦点の合っていないユーリィの瞳が左右に揺れた。


「殺してよ、僕を……」

「何をしたの!!」


 平手が頬を打ち鳴らす。熱を帯びた痺れが頬に広がり、切れた唇から血が流れ落ちる。


「何をしたって聞いてるの!!」


 シルフィが叫んだと同時に、持っていた楼台を下ろすと炎が心細げに揺らめく。キッとユーリィを見据えると手にした十字架の剣を振り上げた。顔にかかる金髪を払いもせず、荒い息を吐き出した。


「いいわ、もう儀式は終了よ、今すぐ殺してあげるわ」


 冷静さを取り戻そうとしているのだろう。シルフィはわざと楽しげな声でそう言った。だがユーリィが感情の欠片さえ見せないのを知ると、小さく舌打ちをしてその胸元に狙いを定める。薄明かりに浮かぶその顔はおよそ美とはかけ離れ、醜怪にすら見えた。


 刹那、天井から糸を垂らしていた蜘蛛がいきなりシルフィの顔に飛び移った。あまりのことにシルフィは十字架を放り投げて絶叫する。


「いやーー!!」


 彼女は慌てて眉間に取り付いた蜘蛛を振り払おうとしたが、どういうわけか蜘蛛はまるで皮膚に食い込んでいるかようにビクリとも動かない。半狂乱になったシルフィはその場でわめき散らした。


「取って! 取って! 取って!!」


 やがてシルフィは悲鳴を上げて部屋の外へと飛び出した。

 遠くで再び彼女の叫び声が聞こえ、乱れた足音が遠ざかり、やがて室内に静寂が訪れた。




 どれくらいの時間が経っただろうか。

 残されたユーリィは、ゆるゆると本来の自分を取り戻し始めていた。すでに狂乱した自分が霞の如く掻き消され、意識の底へと吸い込まれていく。


 そして開きかけていた瞳孔が収縮すると、ユーリィはポソリと呟いた。


「助かったのかな……」


 初めて、狂った自分に打ち勝ったのだ。それが良かったのか悪かったのかは分からないが、ヴォルフを悲しませなかったことは少しだけ嬉しかった。



 その時、閉まったばかりの扉が再び開く音が聞こえてきた。


「ユーリィ君!!」


 驚愕したその声はアルのものだ。近付いてくる気配がして、薄闇の中に彼の穏やかなその顔が現れる。それを見たユーリィは助かったと静かに息を吐き出した。


「大丈夫ですか?」

「うん」

「何があったんですか?」


 そう言いながら、アルは足元に倒れている女達に視線を落とした。


「あんまり覚えてないけど、そいつら寝てる?」


 アルはしゃがみ込み、どうやら女の状態を確かめているようだったが、立ち上がるとニッコリと微笑んだ。


「ええ、グッスリ。何をしたんですか?」

「靴の(かかと)に眠り粉を仕掛けておいたんだ」


 クスクスとアルは笑いながら、ユーリィの腰の辺りに座る。


「笑ってないで、早く解けよ」

「そういえば、顔に大きな蜘蛛を付けたシルフィ嬢とすれ違いましたよ。私のことなど気付かずに血相を変えて走っていきました」

「蜘蛛? そうか、ロジュもいたんだ」


 結局は助けられたことに、ユーリィは酷くガッカリした。


「それより早く解けってば!」


 アルはもう一度笑みを見せ、小首を傾げた。


「とても良い眺めなので、このまましばらく見ていたかったのですけど……」

「なっ!!」


 その時になって初めて、自分がどんな状態なのかを思い出し、ユーリィは顔が真っ赤になるのを感じながら身悶える。


「見るな!」

「見なければ解けませんよ?」

「男の裸を見て喜ぶな、変態!」

「あ、その言い方ちょっと傷付きました。お詫びに濃厚なキスをお願いしましょうか?」

「ふざけんな!」


 しかし彼は大真面目らしい。アルは少しずつ体を屈めてのし掛かってくる。無駄な抵抗だと知りながら、ユーリィは顔を背けて唇を噛んだ。


「それともヴォルフの方が好きなんですか?」

「どっちも嫌いだ」

「どうして?」

「僕は誰も好きになれない」


 すると、アルは頬に一つキスをする。


「そうだと思いました」

「な、何が……?」

「貴方がヴォルフを拒絶するのは、同性だという以前に人を好きになれないからなんですね」

「別にいいだろ、そんなこと」


 例えそれが真実だとしても、今はそんなことを考えている場合ではない。早くこの束縛から逃れることが先決だとユーリィは切実に思った。


 てのひらが頬にあてがわれる。目を閉じ拒絶すると耳元でアルが囁いた。


「唇切れてますよ、舐め取ってあげましょうか?」

「余計なお世話だ!」

「私は貴方を癒やしたい、それだけです」

「馬鹿なことを……」


 そう言い始めた矢先、唇が塞がれてしまった。“慣れ”という自分でも嫌になる感覚を、何とか“嫌悪”と“憎悪”に変えようと努力したが、歯の裏を刺激され、口腔をなぞられ、舌が触れ合った途端、ユーリィは無意識に喉の奥を鳴らしてしまった。


 胸元に置かれた手に、恐怖を感じる。しかし気を抜くとついつい舌が反応してしまい、呻って拒絶を示し、足をばたつかせてて怒りを表した。



 唇が解放された時、ユーリィは知らぬ間に泣いている自分に気がついた。

 哀しかったのはその行為ではない。

 拒絶しきれない自分が情けなかったからだ。


「……本気で怒るからな……」


 息も絶え絶えにそう言うと、アルは寂しそうに薄い笑みを浮かべる。


「嫌われることは重々承知です」

「だったら!」

「貴方が綺麗だからですよ」

「な、なにを……」

「人は綺麗なものに触れたくなるんです、それだけです」


 そんな理由でこんな事をされては堪らない。本気で殴りつけたいのに、縛り上げられた両手がもどかしかった。


「そんなことを言って、僕が喜ぶとでも思ってるのかよ?」

「あの人にも貴方自身にも、貴方を汚いなんて二度と言わせませんよ。だって私はもっと貴方に触れたいと思っているんですから」


 そう言って伸ばされた手に、ユーリィは悲鳴を上げそうになった。


 しかし、それが胸元に到達する前に、扉が開く音がした。

 それに反応して、アルの手が停止する。


「どうやら邪魔者が来たようですね」

「邪魔者って……」

「きっと貴方の救世主ですよ」


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