第42話
ユーリィは当てもなく走り続けていた。あの二人からこうして逃げ出すのはこれで何度目だろう。自分を居たたまれない気分に平気でさせるヴォルフもアルも憎たらしくてしようがない。
いや、そうではない。馬鹿なことだが、心の何処かで喜んでいる自分が居ることに気付いていた。自分を巡ってあんなふうに言い争われるのは初めてだ。いつだって自分は無視されるか、疎まれる存在だったのだから。
反面、二人の気持ちには応えられそうもない自分もはっきりと認識している。悪いとは思いつつも今後も彼らを非難するしか手はないのだ。
「渡すとか渡さないとか……僕は物じゃないんだぞ」
だから怒りを込めてそう呟いてみたが、成功したとは言えなかった。どうやら思った以上に自分は甘いのかもしれない。
気が付けば小高い丘の上に立っていた。ソフィニア全体を見渡せる広い公園で、楠木らしい太い樹木があちこちに植わっている。その幹から放たれる異国風の芳香が鼻を刺激して、ユーリィは木漏れ日をちらつかせるその常緑樹を見上げた。
葉と葉の間から見える青い空は抜けるように高い。季節がまた一段と暖かくなっているようで、この間まで感じた肌寒さはまるで遠い過去のような気がしてきた。
身を転じて今後はソフィニアの街を見下ろす。かの有名な魔法学院の大きな建物と敷地があり、正門から豪華な馬車が出ていくのが見えた。街の外れにある大聖堂の尖った屋根が、天を刺すように建っている。
ここは魔法都市ソフィニア。この世界の摩訶不思議が全てここに詰まっていると言っても過言ではない。フェンロンにはまだ行ったことがないが、多分世界の中心であるあの機械都市よりもこのソフィニアの方が性に合っているだろうとユーリィは思う。この街の、全ての物を優しく迎え入れてくれる気風が好きだった。
丘の外れまでやって来ると、ユーリィは煉瓦の壁に寄り掛かった。壁の高さはちょうど胸の位置ほどで、その向こうは切り立った崖になっていて、遙か下には街の中心へと続く道がある。人々が行き交う姿が蟻のように見え、ユーリィはそれをじっと眺めた。
左の人差し指で唇に触り、先ほどの感覚を拭い去ろうと試みる。何故あんな馬鹿な真似をしてしまったのだろうか。アルの口吻を受け入れるような行動を。慣れてしまったと言えばそれまでだが ──それもまた問題だけど── 確かにアルの言う通り、あの一瞬ヴォルフの顔に迷いが生まれたのが見えた。だからといってそれに怒りを感じたわけでもないのだが、彼を困らせてやろうという意地の悪い感情が無かったとは言いきれない。
だがそんなことが理由になるわけはなく、アルの体に腕まで回してしまった自分にやはり落ち込んでしまう。ヴォルフに当てつける必要など何処にもなかったのだから。
(このままじゃ、本気で貞操の危機だよ)
何とかしなければならない。昨夜買った例の道具でその場はしのげるかもしれないが、それが解決策になるとは流石のユーリィも信じてはいなかった。
ふと背後に人の気配を感じて、ユーリィは振り返った。見れば周囲を五、六人の者達に取り囲まれているではないか。彼らはシルフィの着ていたものと同じ白いローブに身を包み、頭からスッポリとフードを被っている。顔は見えないが、体形から全員女だいうことは判った。
「な、何の用だよ!」
「貴方はこの世の摂理を乱す悪魔の申し子だと言うことが判りました。よって女神ルル様の元で処刑を執り行いたいと思います」
「何の話だ?!」
「男子と男子が関係を持つなどありえません」
「別にそんな趣味無いぞ!」
「貴方の存在はきっと他の男を狂わせるに違いありません」
“ふざけるな”と叫ぼうとしたが、両側から二人に腕を掴まれて羽交い締めにされる。振り払おうとしたがとても女とは思えない力で取り押さえられた。一人がゆっくりと近付いてくると、いきなりユーリィの頬を平手打ちした。痛みを伴った熱が左頬から首筋に走り抜ける。怒りが込み上げて、ユーリィは喚いていた。
「放せよ!!!」
フードの下から見える形の良い唇が歪む。次の瞬間、鳩尾に強烈な一撃を加えられ、ユーリィの意識は混濁し、やがて深い場所へと落ちていったのだった。




