第41話
隣を歩くユーリィを見下ろしながら、ヴォルフは再び溜息を付いた。
(完全に振り回されている……)
こちらに弱みはあるのは確かだが、それを差し引いても完全に彼のペースにはまっているのは事実だし、更に厄介なのは、本人はそれにまるで気付いていないことだ。
考えてみると、出会った当初から彼は暴走気味で、それを制御するのに自分は必死だったのはきっと気のせいではないだろう。
「なあ、本当に行くのか?」
「しつこいなぁ、行きたくなければ行かなきゃ良いじゃないか。僕一人だって全然平気だ」
「君一人だと何をするか分からないから付いていくんだ。どうせ喧嘩を売って最後に爆破でもするつもりだろう」
本当にそのつもりだったのか、ユーリィは視線を逸らしながら黙り込んでしまった。
(これだから……)
とにかく彼の暴走だけは食い止めなければならない。こんな大都市で騒ぎを起こせば警備隊も黙ってはいないだろうし、今後のギルドの仕事にも差し障る。
するとユーリィの向こう側を歩くアルが、相変わらずの涼しげな顔でニッコリと微笑んだ。
「でもシルフィ嬢の目的が一体何だったか、興味はありますね」
「アル、お前まで付いてくる必要はなかったんだぞ」
「私一人で仲間はずれは寂しいですよ、ヴォルフ」
「仲間はずれって……」
「それに何だか楽しいそうですよね、ユーリィ君?」
どうやら疫病神は一人だけではなさそうだった。
闇市と呼ばれる場所の一角。昼間は全く人気のない通りの中程辺りにその建物はあった。正面玄関の前には女性像が置かれ、大きな焦げ茶の扉には、絵と文字ともつかない紋様が掘られている。見上げると窓が四つばかりあったが、すべて濃紺のカーテンが引かれ、人の住んでいる気配は感じられなかった。
「本当にここなのか?」
飾り気のない黄土色の煉瓦を見上げ、ヴォルフは尋ねた。
「ってロジュが言ってた」
“ふぅん”と曖昧な返事をしながら考える。確かに請けた仕事も中途半端で後味が悪いし、その件で訪ねたと言えば何とかなるだろうか。すると元気よくユーリィがヴォルフの背中を叩いた。
「さあ、行こうぜ。当たって砕けろだ!」
「君の場合は叩き割るんだろう」
そうぼやきながらヴォルフは建物に近付いた。玄関先の前階段を上がり、扉に付いているノッカーを軽く二度ほど打ち鳴らす。腹を決めるしかないようだ。
人が現れる気配がした。やがて両開き扉の片方が音を立てて開くと、薄暗い内部から青白い顔がヌッと現れ、ヴォルフは思わず数歩下がってしまった。
顔を出したのはシルフィと同じ真っ白のローブを纏った若い女だった。彼女と同じくその顔は絶世と形容しても良いほどの美しさだったが、表情は硬く、緑色の瞳も虚ろに見える。
「どちら様ですか?」
「ヴォルフ・グラハンスといいます。先日シルフィ・ロマン嬢に仕事を依頼されたのですが、彼女が途中で消えてしまい途方に暮れているんです。ここにシルフィ嬢がいらっしゃると聞いて、是非彼女にお目にかかりたいと……」
「ああ……」
その途端、虚ろだった女の瞳がやや輝き、まるで舐めるような視線でヴォルフを上から下まで眺め始める。しばらくそうして視線を動かしていた女は、ようやく品定めを終わらせると、“中へ”と小声で言って三人を導き入れた。
玄関ホールに入ってまず驚いたのは、ホール中央に置かれてあった巨大な女性像だ。高さはヴォルフの三倍、吹き抜けらしいホール天井まで届くほどで、誰が作ったかは知らないが、そびえるようなと表現しても過言ではないだろう。漆喰か何かで出来てるのか、やたら白さが目に眩しいその像は、ショールのような布を胸から腰に巻き、両手を大きく広げられ、両足を交差させたような姿をしている。入口に置かれてあった像とは違い首から上が無く、不気味としか言いようがなかった。
三人は圧倒されながら巨像と見上げていると、女が“女神ルル様です”と説明した。
「女神ルル様?」
「私達が信仰している、この世界の女性全てを幸福に導く女神です」
「へ、へぇ……」
ヴォルフは曖昧な返事をしてその場を取り繕った。
「とにかく中へ」
「ええ」
巨像の横、広げられた右腕の下を通り、女は三人をホール奥にある部屋に案内した。
そこはこぢんまりした応接室で、ソファーとテーブル以外装飾品らしい物は何も置いていなかった。小さな窓には濃紺の厚いカーテンが掛かっていて、その隙間から漏れる薄い光だけが部屋の照明である。
女は“どうぞ”と三人に着席を勧めるとそのまま部屋を出て行ってしまった。
アルが徐に窓際に近付くと、カーテンを開けた。その瞬間に薄暗かった室内が明るくなる。ヴォルフは夢から覚めたような、現実を取り戻したようなそんな感じを覚えた。
「何か思いっきり胡散臭い」
ユーリィは座りもせずに室内を彷徨き廻っている。内心不安で一杯なのか、ポケットの中へ手を突っ込み何かを探っている様子に、その行動の方がよっぽど胡散臭いとヴォルフは思った。
「警戒した方がいいでしょうね」
そう言ったアルが懐から短剣を取り出し、神妙な面持ちで腰に差し直したが、その腕前が大したことはないということをヴォルフは知っている。要するに今一番しっかりしなければならないのは自分らしいと、握っている槍 ──矛先には一応、布を撒いている── を見上げながらヴォルフは思った。
散々待たされた挙げ句、やっとあのシルフィ・ロマン嬢が現れた。彼女の美貌は未だ健在で、それどころか更に磨きが掛かっているようにも思われる。瞳の奥の辛辣な光はそのままだが、綺麗に整えられた髪や薄化粧の顔には、色香さえ漂っていた。昨夜会ったエマよりももしかしたら彼女は上等かもしれないと、ヴォルフは感じた。
長椅子に男三人が座り、テーブルを挟んでシルフィ嬢がヴォルフの前の腰を下ろす。窓から差し込む陽光がシルフィの薄い金の髪を煌めかせた。
「何のご用ですか?」
「貴方をソフィニアまでお送りするという依頼を途中放棄してしまったことですよ」
「ああ、その事でしたらご心配なさらずに。報奨金はお支払い出来ませんが、ギルドには完了のご報告をさせて頂きましたので」
「それなら結構です。ただどうして消えてしまわれたか、お聞かせ願えますか?」
その言葉を受け、シルフィは如何にも憎たらしいといった様子でユーリィの方に視線を走らせる。それに気付いたユーリィがやや挑戦的な顔を作った。
「僕が気に入らないみたいだね。でも悪かったのは僕?」
「私の大切な宝を無くしたくせに……」
「じゃあ、今夜にでも買ってきてあげるよ。幸い、闇市は直ぐ外だからね」
途端シルフィの瞳が鋭さを増し、ヴォルフがその場を取り繕う為に慌てて話題を変えた。
「シルフィさん、一つお尋ねしますが、貴方は我々をどうするつもりだったんですか?」
「お二人は私達のお相手をして頂いて、私達の子孫を残す手伝いをして頂きたかったのです」
「子孫って……」
「私と寝るの、嫌ですか?」
臆面もなくいきなりそんな言葉を口にしたシルフィに、ヴォルフは思わず身を反らす。隣に座るユーリィがどんな顔をしているのか気になって横目で見たが、いつも通りの無愛想な表情からは心の中までは読めなかった。
「見ず知らずの女性とそういう関係になるというのは……」
「あら、“女泣かせのヴォルフ”様ともあろう方が」
「俺のことを知ってるのか?」
「もちろんですわ。貴方に依頼を請けて頂いて、私がどんなに喜んだかご存じないでしょう。だからついあのような真似をしてしまったのです。貴方は女性の憧れの的ですもの」
「へ、へぇ」
如何にも怪しげで馬鹿馬鹿しい提案を受けるはずがない。だがシルフィの完全なる造形美が目の奥でチカチカと光り、ヴォルフの頭の中は色んな思考が入り乱れて瞬間的なパニックに陥った。それを察してか ──多分迷っていると勘違いしたのだろう── シルフィは女神のような微笑みを見せた。
「私など足元にも及ばないほど美しい女性もいますのよ。アル様にもきっとお似合いの……」
「私は別に結構ですよ」
苦笑混じりにアルが呟く。
「あら、ご遠慮なさらずに。私達は後腐れなどありません。ただ子孫を残す為の種が欲しいだけなのです。女神ルル様を支えていく為の礎になる人間を増やしたいだけなのです」
「そういう理由で女性と関係を持つのは、私の好みではないですね」
「お堅い方なのですね、アル様は。でも私、そういう殿方も好きですわ」
シルフィはそう言いながら、例の極上の笑みを浮かべながら髪を掻き上げた。その刹那、ずっと押し黙っていたユーリィが口を開く。冷笑を浮かべた口元は、彼がシルフィ嬢の美貌に全く傾倒していない証拠だろう。
「で、僕は?」
「あなたは……」
シルフィはクスッと鼻で笑った。途端にユーリィの青い瞳が冷たく光り出す。
「子供にはまだ早いお話よ、失礼ですけどね」
「僕は子供?」
「ええ、ゴメンなさいね」
「ああ、そうなんだ」
ユーリィの声は完全に抑揚を失っている。これ以上話を続けるとまずい展開になることは明らかで、ヴォルフはどうやってこの場を丸く収めようかと考え始めた。
「シルフィさん、悪いが俺もアルもそういうつもりは一切無いから……」
「どうしてかしら? 私はヴォルフ・グラハンスという方は女性にとてもお優しいと聞いたのですが。私にここまで言わせておいて、お断りになるの? 私に恥をかかせるのかしら?」
「あのですね、シルフィさん……」
何とかヴォルフは早く話を切り上げようとしていたのだが、困ったことにユーリィの方が先に切れてしまった。怒りも露わに彼は勢いよく立ち上がると、三人を冷たく見下ろす。口元の冷笑も今や浮かんではいない。
「じゃあ、関係のない僕は先に帰る。せいぜいゆっくりお話でも何でもしていていいさ。何だったら帰ってこなくても僕は全然構わないから」
「お、おい、ユーリィ……」
「ヴォルフ、アル、ここで別れる事になるけど、僕のことは忘れていいからね、じゃあ……」
「ちょ、ちょっと待て!」
そう叫んで立ち上がろうとしたヴォルフの手を、シルフィが掴んだ。驚いて彼女の方を見る。するとシルフィは小さく首を振り、そしてこう言った。
「『蒼の狂槍』と呼ばれる方が、女性に興味を示さないなんて変ですわ」
たぶんシルフィ嬢はヴォルフがユーリィに惚れていると知って、そう言ったのでは無いのだろう。そう後々考えれば分かるのだが、瞬間ヴォルフは“グラハンスは変態だ”と口々に嘲笑う友人や女達の顔を思い浮かべたのだった。
躊躇いが沈黙を作る。
やがてヴォルフのその躊躇いに、意外にもアルが怒り出した。彼はいつにない鋭い口調でヴォルフにこう告げる。
「どうやらヴォルフ・グラハンスはシルフィさんと一緒に居たいようですね。それならそれで私は別に止めませんよ」
「ち、違う、アル」
「あら、アル様はご一緒して下さらないの?」
如何にも残念そうな顔でそう言ったシルフィに、アルが冷徹な顔を向けた。上がり気味の口角も意識的に引き下げられ、空色の瞳は氷のような光を帯びている。
「貴方はご自分を美しいとお思いのようだが、私には作り損なった彫刻よりも醜く見えますね」
「なっ!!」
シルフィが激昂した言葉を発しようとしたその瞬間だった。アルがいきなり隣に立つユーリィを引き寄せる。彼らしからぬ乱暴さで少年の背中に腕を回し、相手に抵抗をする時間も与えずに顔を近付けた。
二人の濃厚な口吻をヴォルフはただ息を飲んで見つめるばかり。普段なら激しい抵抗をするはずのユーリィも、何故かアルの体に腕を回してそれを素直に受け止めているように見え、ヴォルフを更に打ちのめす。何が起きているのか、それを理解するだけの思考能力の一切を失ってしまったようだ。
やがて少年から離れたアルは、唇に付いた唾液を指で拭う。嫌味の含んだ両眼がシルフィとそしてヴォルフを見つめ返し、口元には挑戦的な笑みさえ浮かんでいた。
テーブルの向こうのシルフィは、まるで喘ぐように呼吸を繰り返している。白い顔を更に蒼白にさせた彼女は全身を硬直させているようにも見えた。
「こういうわけで私は彼しか興味がありません。折角のご好意ですが辞退させて頂きます。どうやらヴォルフ・グラハンスは貴方をお気に召しているようですので、どうぞ彼を満足させてやって下さい。ではこれにて失礼」
アルは強い調子でそう言い放った。それから軽く会釈をし、未だ立ち尽くしているユーリィの腕を引っ張って部屋から立ち去ってしまった。
“バタン”と扉の閉まる音が聞こえる。その音に我に返ったヴォルフは、茫然と立ち上がり何気なくシルフィを見下ろせば、彼女の薄青の双眸と視線がぶつかった。彼女の瞳は何かを期待しているかのように潤んで見えたが、もはやヴォルフは何の威力も発揮はしない。今はただ彼らを早く追い駆けなければという焦燥ばかりが募っていた。
「ヴォルフ様?」
「申し訳ないが、俺も帰る」
「まさか貴方まで、あの変質者達と……」
「何とでも評判を流してくれて結構だ」
そのままヴォルフは、引き留めるシルフィを無視して部屋を飛び出した。
巨像のある玄関ホールから外に出る。人影に少ない闇市の通りを眺めて二人を探すと、直ぐ先にユーリィを引きずって歩くアルの後ろ姿が見えた。
彼にはまだアルがどうしてあれほど怒ったのかその理由が判らずにいた。いや、判りたくなかったのかもしれない。
「アル、ユーリィ!」
ヴォルフの声に二人が振り返る。ユーリィの視線は宙を泳いでいたが、冷たい色を保ったままの眼をしたアルには、正面から見据えられてしまった。
「待ってくれ」
「おや、残るのではないのですか、ヴォルフ・グラハンス」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿なこと? では貴方はあの女に対してもっと強く言わなかったのですか?」
「そ、それは……」
ヴォルフは何も言い返すことが出来なかった。確かにシルフィの美貌に再び心を奪われそうになっていたのは事実なのだから。確かに己の悪評を流布されることを恐れたのは事実なのだから。
「今までは冗談半分でしたが、これから私も本気でいきますから」
「な、何?」
「ユーリィ君は貴方に渡しませんよ」
「お、お前……」
するとヴォルフの言葉を遮って、複雑な表情を浮かべたユーリィが口を挟んだ。
「あ、あの、僕一人で先に帰るから!」
語気を荒げてそう言った彼は勢いよくアルの手を振り解き、そのまま駆けだして行く。唖然としてそれを見送るヴォルフに今度はアルが宣言した。
「私は本気ですからね」
踵を返して立ち去るアルを、ヴォルフには引き留める言葉すら浮かばなかった。




