第35話
着替えの服を身につけ、濡れた物は全て木の枝に引っ掛けた。ぽたぽた落ちる水音を聞きながら、焚き火のそばに座り込む。冷え切った体を温めるように、ヴォルフとアルは黙って火に両手を翳していた。
月光の中を、二人は散々泳ぎ回った。ヴォルフは溢れ出す涙を隠す為だが、アルはどうして水に飛び込んだのだろう? やや青ざめた友人の顔を眺め、彼が何か言い出すのをヴォルフは待った。
ユーリィ少年はしばらく畔に立って二人の様子を眺めていたようだが、諦めたのか呆れたのかしたらしく、やがて勝手に夕食を取ると、焚き火からやや離れた木の下で丸くなって寝てしまっていた。
静かな寝息が聞こえてくる。アルは例の派手なマントを荷物から引っ張り出して、彼にそっと掛けてやる。その様子は確かな優しさが感じられ、ヴォルフは小さく溜息を吐いた。自分はどうしてこんなに情けないのだろうか。
「……ヴォルフ、分かりましたよ」
ふとアルが小声で言った。
「何が?」
「彼は他人に優しさなど求めてないんですよ。もしかしたら、そんなものがあることすら知らないのかもしれないですね」
「それはあいつの過去が原因なのか?」
「たぶん……。だから人に何かを期待することもないし、嫉妬や保身の気持ちもないんでしょう」
ヴォルフはなるほどと納得する。いつだってユーリィの口から飛び出す殆どの言葉は辛辣で身も蓋もない。それでも苦笑いで許せるのは、要するに恨みや妬みの心がないからなのかもしれない。
「保身はなくてもいいけど、護身はもう少し欲しいな」
「ええ、そうですね」
と言いつつアルは軽く笑い、直ぐに真顔に戻って「だからこそ危ういんです」と付け加えた。
「確かに、暴走するきらいはある」
「護り甲斐がある?」
「今回は護るつもりが、護られてしまったけどな」
そのことがヴォルフには辛かったのだが、アルも又、同じように感じていたらしい。「そうですね」と答えた彼の声は深く沈んでいた。
「もし本当に彼を好きなら、感情を押しつけるだけではダメだと思いますよ」
「それは分かってる」
「欲情もね」
「もうしない」
「本当ですか?」
疑るような目で見られ、ヴォルフは顔をそらして誤魔化した。
「もっとも私が欲情しないとも限りませんけれど」
「アル、お前……」
「彼が壊れないように、そっと優しくね」
冗談とも本気とも思えぬ言葉が、ヴォルフを焦らせる。
「また何か企んでるじゃないだろうな?」
「そんなことはしてませんよ。ただ、彼を傷つけたことを償いたいだけです。そして傷を癒やしたい」
「お前なら出来るっていうのか?」
「さあ、分かりません。一度ついてしまった傷は二度と消えませんから」
そう言いながら、アルはユーリィにそっと手を伸ばすと、その右腕に軽く触れた。それを見ながら、ヴォルフは改めて思った。ユーリィはきっと、傷だらけの心に鉄の鎧を付けているのだと。彼をそんなに哀しませている過去とは何なのだろうか。
「なあ、ユーリィはどうして家出をしてるんだ?」
アルは一瞬顔を曇らせその質問を受け止め、身動き一つしないユーリィから手を離す。言おうかどうしようかと躊躇ったように唇を噛みしめ、やがて彼は静かに語り出した。
「朝っぱらから人の顔をジロジロ見るんじゃねぇ、ヴォルフ」
ユーリィは小さなカップから口を離すと、口汚く罵った。
「ユーリィ君、もっと綺麗な言葉を使いましょう」
「大きなお世話だ。っていうか、お前みたいに馬鹿丁寧だと嫌味にしか聞こえないぞ、アル」
どうやら少年は朝からご機嫌斜めのようだ。
「何事もほどほどがいいって事だな」
「爺臭いことを言うな」
爺臭いと言われ、ヴォルフは思いきり凹んでしまった。
確かに十歳以上も違うし、彼にしてみればオジサンと呼ぶような歳だろうし、微妙に説教臭いし……。
「ユーリィ君、何を怒ってるんですか?」
アルの言葉にユーリィは木の上にチラリと視線を走らせる。そこには昨夜濡らした服がまだ吊り下がっていた。
「別に怒ってないよ」
「もしかして昨夜のあれが気に入らないのか?」
「いきなり水泳がしたくなったなんて理由、納得出来るかよ。嘘は嫌いなんだ」
そういえば目が覚めて直ぐに、彼は昨夜の件を尋ねてきた。アルが適当に“水泳”と説明したのだが、どうやらそれが気にくわなかったらしい。
「じゃあ、どんな理由なら納得出来るんです?」
「本当は僕にムカ付いたか、呆れたんだろ? もしそうなら無理に一緒に居なくても……」
「それ以上言うと怒るぞ!」
ヴォルフは思わず怒鳴りつけていた。何をどう思ったのか知らないが、ユーリィの自虐的な言葉は本当に腹が立つ。
「なんでそう思ったんですか?」
優しい顔でアルがそう尋ねる。
「だってお前ら、僕に怒ったから飛び込んだだろ? 色々考えたんだけど、そうとしか……」
「あのなぁ、俺達が飛び込んだのは頭を冷やす為だ」
「頭を冷やす……?」
「禊ぎって昨夜言ったでしょう、私は?」
「それがわけ分からないって言ってるんだ」
やや口を尖らせ、ユーリィは恨めしそうな目で睨んでいる。その瞳に紛れる悲しみがあまりに辛くて、ヴォルフは彼を抱きしめたくなっていた。君は悪くないと、そう教えたかった。けれどそんなことをしても、彼は自分の気持ちをきっと分かってくれないだろう。
「分からなければ別にそれでいいですよ。ただし貴方のことを悪く思っての行為でないことだけは判って下さい」
まだ納得出来ないのか、ユーリィは憮然とした顔で考え込む。
あの水泳はただ、自分が情けなくて、落ちそうになった涙を消したかっただけだった。けれど、そんな説明しても分かってもらえないことは知っていたので、ヴォルフはそれ以上この話をさせることを止めにした。
「さて、そろそろ狩りにでも行くか」
その瞬間、アルとユーリィが「狩り?!」と叫ぶ。
「いつまでも干し肉のスープだけじゃ、ユーリィの体力が回復しないだろう。ソフィニアまで行くにしても、今日は一日休まないと駄目だろうから」
「僕のことなら気にしなく……」
「そのセリフは、俺の前では二度と言うな」
ユーリィの言葉を遮ると、ヴォルフは槍を掴んで湖岸へと走り出した。
振り向きもせずに畔を歩き始める。昨夜アルから聞いたユーリィの事情が、ずっとヴォルフの胸を締め続けていた。言動の端々からも感じられるように、彼はきっと自己否定の塊なのだ。どうしたらそんな考えを拭い去れるのか、今のヴォルフには分からない。その事がまた、ヴォルフを辛くさせている。




