第29話
真夜中、誰もが寝静まり、独りベッドの中でユーリィは暗黒を持て余していた。体力はまだ回復していないが、起きあがれるほどには力は戻っていた。しかし今は何もする気が起こらず、闇の中で魔物のように見える家具達を眺めていた。
頭の中は空っぽに近い。数日来の出来事が走馬燈のように浮かび、何の感情もなくそれと見つめている自分がいる。ヴォルフに出会った時、魔物に襲われた時、アルフが部屋に現れた時、そして自らの喉を切り裂いた時、自分はいったい何を考えていたのだろう? 自分の中にいる色々な自分が思い出すことの邪魔をする。
世の中を敵に回したいと思っている自分、世の中に認めて貰いたいと思っている自分、生き続けたいと思っている自分、存在すら罪だと感じている自分、家族や肉親を愛したいと思う自分、憎悪している自分、全てを恐怖する自分、恐怖すら忘れてしまった自分……。
全ての感情が矛盾しているのだ。本来の自分の感情と、誰かの感情が入り乱れているような、そんな感じだった。いったいいつまでこんなことを続けなければならないんだろうか。
その時、ふとノックの音が聞こえてきた。ヴォルフだろうかと体を硬くする。今襲われたらたぶん抵抗は出来ない。けれどもしそんなことになったら、別の自分が現れずとも死んでやろう。
再びドアが鳴る。返事もせずにそれを見つめていると、やがて怖ず怖ずと開く音がした。
現れたのは、ヴォルフではなくアルフだった。ユーリィはホッと胸を撫で下ろしたが、数時間前に言ったアルフの戯れ言を思い出し、すぐに緊張を取り戻す。
ランプを持ったアルフは、ゆっくりとこちらに近付き、自分の様子を伺うようにベッドを覗き込んだ。ユーリィは思わず寝たふりをしたが、どうしてそんなことをしたのか自分でも判らない。ただ彼がもし自分を殺しに来たのなら、大人しく殺されてやろうと、そんなふうに考えていた。
「……あんな事を言うつもりなど無かったんですよ」
ユーリィが寝ていると思ったのか、アルフは囁くほどの小さな声でそう呟いた。
「貴方の言葉を聞いているうちに、どうしようもなく腹が立ってきたんです。今までずっと抑えてきた気持ちが爆発したように、自分以上に誰かを傷付けたくて仕方がなくなったんです。酷いですね、私は……」
その言葉にユーリィはパッと目を開く。アルフは驚いたように息を飲み、ランプを落とすほどに手を振るわせた。
「起きていたんですか?」
「うん、眠れなくて。たぶん寝過ぎだね。あんな事って、さっきの“立候補”のことかと思ったよ」
軽く笑って見せたが、哀しい瞳で見返された。真顔を作り直し、そんな相手をユーリィは眺める。彼が何をしに来たのか必死に考え、ようやくその答えらしきものが浮かんできて、遠慮がちに言ってみた。
「もしかしたら、全部話に来たの?」
「……ええ」
「いいよ、聞いてあげる。言いたいんでしょ?」
「こんな話をして、貴方が不愉快になるのは心苦しいのですが……。軽蔑しても構いませんよ」
「気にしなくていいよ、そんなこと。僕でも役に立つことがあるんだったら、それでアルフが楽になるなら」
「ありがとう」
アルフは近くにあった椅子を引き寄せ、それに腰を下ろした。ユーリィも半身を起こし、枕を腰に当てて相手が話し出すのを静かに待つ。息苦しいほどの沈黙が、ランプの光に照らされて辺りに漂った。
やがて決意したようにアルフは口を開くと、長い身の上話を語り出した。
「十五年前、私はイワノフの城に居たことがあるといいましたよね? その頃、父と母の関係は修復が出来ないほど最悪な状態に陥っていて、母はとうとう堪えきれずに従弟であるウラジミール・イワノフを頼っての事だったのです。
私は母と一緒に父の元を去りましたが、双子の兄は父と一緒に残りました。彼は私と同じ顔をしていますが、性格は全く違っていました。彼は私のような臆病者ではなく、思ったことを口に出来る人間で、母が出ていくと言った時も簡単に拒絶しました。私はと言えば、心では嫌悪を感じながらも、泣きついてきた母を拒むことが出来ない弱い人間だったのです。
父と母の不仲の原因は、父の愛人関係にありました。けれどもっと根本的な原因は、母の性格によるものです。彼女は独占欲が強く、貴族の娘にありがちな我が儘で父を絶えず苦しめていましたから。子供の私ですらそれを感じ取れたのですから、父本人にとっては我慢が出来ないほどだったと思います。
そういう意味で、貴方の継母と私の母は似た立場にいましたが、残念ながら母はイワノフ夫人ほど強い人間ではありませんでした。私は毎日、父の悪口や泣き言を聞かされ続け、そんな母を愛せない自分が許せませんでした。
自分は優しい人間だ、兄のように平気で他人を傷付ける人間ではないはずだ、もっと言えば兄よりも優れているはずだと、そう信じたかったのです。その時に間違いに気付けば、何年も苦しむことはなかったのに……。
そんな中、貴方があの城に連れてこられたんです。私は“愛人の子”である貴方に憎しみを感じずにはいられませんでした。まるで母が苦しむのも、自分が優しくなれないのも、全て貴方が原因であるかのように、幼かった私は思ってしまったのです。
だから私は貴方を傷付けました。こっそりと誰にも気付かれないように。その腕の傷はイワノフ夫人ではなく、私が切ったものですよ。血を流し泣き叫ぶ赤ん坊の貴方の姿は、きっと一生忘れられないでしょう。
その時私は初めて気付きました。自分は偽善者の仮面を被った醜悪な人間だと。幸い、誰も貴方の傷の原因を追及する者はいませんでしたが ──たぶんイワノフ夫人の仕業だと皆が思ったせいでしょう── そのせいで私は益々自分の醜さを痛感しました。私は傷付いた貴方を見て、“可哀想に”などと呟いたんですよ。笑えますよね?
その後二年間、母の状態は酷くなる一方でした。最後は酒と薬で廃人のようになっていましたからね。貴方の父は何も言いませんでしたが、イワノフ夫人は陰で色々と言っていたようです。それがまた、母を落ち込ませた原因だったのです。
夫人は母と同じような状態に陥りながら、確固とした態度を貫ける人です。けれど母は親族に頼って暮らさなければならない。その事が母には耐えられなかったのでしょう。
私もまた、母のそばにいることに耐えきれなくなっていました。優しい言葉を口にしながら心の中では彼女がこの世からいなくなればいいと、そんなことを思って暮らしていたのです。
そんなある日、私の部屋に毒薬の瓶が置かれていました。誰が置いたのかその時は判りませんでしたが、極限の状態だった私はまるで天からの贈り物のように感じたのです。
その夜、私は母の酒に薬を混ぜました。これで自分も母も楽になると思いながら。次の朝、瀕死の状態で発見された母が、最後に私を見て何て言ったか想像出来ますか?
母は私を見て、兄の名を呟いたのです。何年も何年も感情を殺して母に付き従った私を、兄と間違えたんですよ。その瞬間、私は目の前が真っ暗になったのを覚えています。
私は母を殺しました。死因について毒によるものか、薬によるものかは定かではありませんが。前の晩、母はいつもの三倍以上の薬を飲んでいましたし。けれどやはり私が母を殺したんです。下らない偽善やその場限りの笑顔を見せて、母を追い込んでいったのは間違いなく私ですよ。
それでも私は自分の醜悪さを完全に認めることは出来ませんでした。だから葬式の席で母の死を悲しむ振りをして見せ、憮然としている兄よりも、自分の方がずっと素晴らしい人間であるかを、どうしたら父に見せられるか、そんな下らないことを考えたりしてたんです。
けれど私の本心を兄は気付かないはずはありませんでした。離れていても私達は双子ですから。“お前は顔で泣いて、心で笑ってる”と兄は言ったんです。本当にその通りでした。
同じ時間に同じ人間から生まれたのに、私と兄はどうしてあんなに違っていたのでしょうね。もしかしたら偏った性格をそれぞれが持って生まれてしまったのかもしれません。
私は父と兄の元には帰りませんでした。代わりに、イワノフ家に出入りしていた吟遊詩人を頼ったのです。あの城にいる時に彼の詩だけが私を癒してくれましたので……。
その後私は彼の元で修行を続けました。あの七年が私の人生で一番幸せだった時だと思います。しかしその師匠が死に、私は旅に出ざるを得なくなったのです。そしてヴォルフに出会いました。
彼とは上手くやっていけると、私は本当に信じていましたよ、あの朝までは……。
マリーは、母に顔も中身も本当に似ていました。母と同じように自分の人生を嘆き、他人を妬んで生きているような女で、私はその最悪とも言える彼女を心から愛そうと思っていたのです。それが母に対する償いだと馬鹿なことを考えていました。
けれど結局、彼女も私を裏切りました。友であるヴォルフと寝るという、一番してはならない仕打ちで私を卑めたのです。
ヴォルフは悪くないと私は頭では判っています。けれど自分を取り繕うのが辛くなっていきました。いつものように笑顔で本心を隠すしていることが辛くなったのです。だからヴォルフの元を去りました。
私はいつでも逃げるんです。兄からも母からもヴォルフからも自分からも……」
アルフはそこで言葉を切った。瞳から一筋の涙が流れ落ち、襟を濡らす。ユーリィはただ彼を見つめ、彼の言葉を黙って待った。慰めの言葉など無意味だということは、痛いほど知っている。だからただ彼の内にあるものを聞き続けようと、そう思っていた。
アルフは気を取り直すように小さく息を吐くと、再び話し始める。やや声のトーンを下げたのは、己を律したせいだろうか。
「一月前、貴方の兄から手紙が届きました。その中に母の酒に混ぜた毒のことが書いてあったのです。そう、あれを置いたのは彼だったのです。きっと彼だけが私の本心を見抜いていたんですね」
「あの人は、人を見下し、貶める事に長けてるからな」
「憎いですか?」
「……僕のことなんてどうでもいいじゃないか。それより僕の兄さんは何て言ってきたんだ?」
「もし母殺しを兄に知らされたくなければ協力しろと書いてありました。貴方が殺された時、私が目撃されれば、兄に罪をなすりつけられる。何しろ顔だけはそっくりですからね」
「もしかしてそれが、例のウィン侯爵?」
「ええ、そうです。アルフレッド・ウィンは私の兄です。兄は今、パラディスの王室にとって邪魔な存在となっているので。
貴方の兄は、私が彼に母殺しを知られたくないと思っていることを悟ったんですね。ええ、そうです。私は兄に、弱く醜い人間だと知られるのが死ぬほど嫌でした」
アルフの暗い感情が、その一瞬、彼の体から浮き出てきたような気がした。双子という存在がどれほどなのかは分からないが、きっと他人には分からない何かがあるのだろう。
「あの手紙を読んだ時、本当に笑いました、馬鹿みたいにね。私の薄っぺらな仮面など結局は剥がされるんですよ。だから私は喜んで、ええ喜んで全てを引き受けることにしました。どうせ兄に知られるなら、その前に自分から壊してしまおうと。それに私は兄を、そして彼は貴方を憎んでいる。憎んでいる相手を抹殺して何が悪いんだと、そう開き直ったのも事実です」
アルフは息を大きく吐いた。全てを告白したことで心が少し軽くなったのか、以前より翳りの薄くなった瞳でユーリィを見つめ、唇を噛んで謗りの言葉を待っている様子だった。
「アルフもあの人も馬鹿だな……」
ユーリィはポソリと呟いた。
それが正直な感想である。人を憎みながら、ドロドロとした血を流して生きている、本当に馬鹿な人間達だと思った。
「そうですね。軽蔑しても構いません」
「僕は憎まれるのは慣れてるし、あの人も憎むのが趣味みたいなもんだからいいけど、アルフもそうなの? ヴォルフの事もそんなに憎んでいたの?」
「私は自分の事ばかり考えて、他人を憎むのが好きな人間なんです」
「僕はそうは思えない。アルフはヴォルフを憎んでなんかいないと思……?!」
ユーリィがそう言い終わるか終わらないうちに、突然アルフは椅子から立ち上がる。涼しげな顔が徐々に迫ってくるのを見ながら、どうしてコイツらは突然こんな真似をするんだろうとユーリィは思った。彼の接吻は、ヴォルフとは違う、甘く柔らかな軽いもので、唇が触れた瞬間、アルフは遠慮がちな瞳をして顔を離した。
「お前ら、何か変なものを喰ってるんじゃないのか?」
「今のは、私の下らない告白話に付き合ってくれたお礼ですよ」
「な、何を馬鹿な事を……」
「それに、貴方の心を少しでも軽くしたいんです」
「重くなる一方」
「立候補の件は本気ですよ。私も貴方が好きになった気がします」
「ば・か・や・ろ・う」
本当は怒鳴りたいところだが、隣の部屋にいるヴォルフが飛んできて、変態同士の修羅場が目の前で繰り広げられるのが判っていたので、何とか我慢した。アルフが声を殺してクスクスと笑う。そんな彼の姿に、こんな自分でも誰かを救えるなら少しぐらいなら我慢してもいいかと一瞬思い、ユーリィは慌ててそれを否定した。
(ダメダメダメ、認めたらダメ)
ふとアルフが真顔に戻る。前髪がハラリと顔にかかり、彼はそれを掻き上げもせずにユーリィを見つめた。
「今夜は本当にありがとう」
「いいよ、別に」
誰かに礼を言われることなど今まで経験したことがなかったので、ユーリィは何だか照れくさくなり、思わず横を向いてしまった。
「部屋に戻ります。ヴォルフにバレたら殺されますから」
「そういえば、本当の名前って何なの? アルフはお兄さんの名前だろ?」
彼はニコリと微笑んから、テーブルに置いてあったランプを持って扉の近くまで行くと、首だけを回してこう答えた。
「本名はアルベルト・エヴァンス。エヴァンスは母方の苗字です」




