第26話
ヴォルフは相変わらずだ。アルフも自分もこんなに苦悩しているのになんて平和な奴なんだと、ユーリィは走りながら文句を言った。
「何が“抱き付く”だ。ふざけるのもいい加減にしろ」
けれど、何故かヴォルフを憎めない自分がいた。
あんなに真っ直ぐに愛情を口にする人間に、ユーリィは一度も会ったことがない。それに今は、ヴォルフの存在だけが“光”のような、そんな気がしていた。
(変人だけど悪人じゃなさそうだし……)
言い訳のように心の中で呟いてしまってから、彼の暴行を思い出して慌てて否定した。
気力を奮い立たせながら走り続け、何とかアルフに追い付く。
足音に気付いているはずだが、アルフは街灯りから目を離そうともせず、その様子にユーリィはやや気後れしながら彼の横に並んで歩き始めた。
静けさというものは、時に邪魔だと思うことがある。今はそんな時で、出来るなら梟でも狼でもいいから啼いてくれないかと切実に願う。だが聞こえるのは二人分の足音だけ。チラリと顧みれば、遠慮しているのかヴォルフも離れた場所を歩いている。
自分でも言いすぎたとユーリィは思っていた。アルフは兄に脅かされているに違いない。きっと彼も苦しんでいるんだろう。だからもうこれ以上、誰かを引きずり込む深い闇を作りたくはなかった。
「あのさ、怒ってる?」
「いいえ、別に怒ってませんよ」
「じゃあ、悩んでる?」
「どうでもいいではないですか、私のことなど」
アルフの声は冷え冷えとして、とりつく島もないとはこの事を言うのだろう。
「あの男を殺したのはマズかったかな。でも本当は差し違えるつもりでいたんだよね。邪魔が入って僕だけ助かっちゃったけど。もしかして兄さんに何か弱みを握られてるんだろ? あの人、陰謀好きだから。でもその辺は多分もう大丈夫だと思うよ。俺に張り付いてたエルフがそう言ってた。でも心配なら、ここで僕を殺してもいいけど……。ヴォルフが黙ってないな。アイツは変態だけど悪人じゃないから……。それともこっそり殺すとか?」
自分でも支離滅裂なことを言っていると思う。けれど言いたいことは伝えられたはずだ。下手な陰謀を企むぐらいなら、素直に殺しに来ればいい。いつだって逃げも隠れもしてなかったではないか。
そんなふうに思いながら、ユーリィは隣を歩く吟遊詩人を覗き見る。するとアルフはその冷たい表情を更に硬直させ、睨み付けるように見返してきた。
「貴方が何を考えているのか知りませんが、出来もしないことを口にされるのは不愉快ですね」
「……出来もしないこと?」
「ええ、そうです。死ぬだの自殺だの、そう言うことを口にする人間ほど生に執着しているのは知ってますよ。あの人も、貴方がしぶといと嘆いていました」
「僕はそんなつもりで言ったんじゃない。ただアルフがもし兄さんに……」
「では善人ぶった事を言えば私が感動すると思ったんですか? もしそうなら貴方は最悪ですよ。さあ、死ねるものなら今すぐ死んで下さい。貴方さえいなければ、誰も苦しまないのは確かですから。ええ、あの人も楽になるでしょう。あの人は貴方が“世界を汚す存在”だって言ってましたから」
アルフの言葉を聞いているうちに、ユーリィは歩く気力さえ失うほどの脱力感を覚えた。目の前が急に暗くなっていく。その場で立ち止まり、込み上げる吐き気を我慢する。怒りすら感じず、意識だけが遠くなる、そんな状態だった。
善人ぶっているわけじゃない。感動させようとも思ってもいない。自分だって自分の存在は許せないのだから。生まれてこなければ良かったなんて事は知ってる。けれどこの世に存在していなければと、そんな事を毎日毎日考えて、それでも今まで生きてきたのは、出来もしないことを考えているからなのだろうか? 自分は生に執着しているからだろうか? 憎悪の対象になるのはこれ以上嫌だと思っていることは、偽善なんだろうか?
アルフは振り向くことすらしなかった。その後ろ姿を見ながら、ユーリィは意識が混濁していくのが分かった。自分のではない自分が現れ始める。あの発作がくる前兆だった。
やがて、もう一人の自分の声が耳の奥から聞こえてきた。
世界を汚していく、汚していく、汚していく、汚していく、と。
けれど今は、その声に逆らう気などない。もう一人の自分とともに、ここから消えることだけが楽になる方法なのだから。
「……汚していく、汚していく、汚していく」
いつの間にか手にはシミターを握りしめていた。殺傷能力は低いけれど、急所を切るくらいは使えるだろう。折角の綺麗な飾りが、汚い血で汚れてしまうのは悲しいけれど。
“お前みたいな汚らわしい人間は死ねばいいんだ”
兄の声がした。
そうだね、兄さん、貴方の言うとおりだったよ。あの井戸で死ねば良かったね。僕は善人ぶってる臆病者だから、今まで生きて、みんなを汚しちゃったんだ。だけどもうすぐ綺麗になるから大丈夫。僕の息が止まるからさ……。
シミターを首に当てた。誰かが遠くで叫んでいる。きっと兄が早く消えろと言ってるのだ。
「うん、消えるから大丈夫……」
両手に力を込めれば、首筋が灼けるほどに熱くなった。鮮血が弧を描いて宙を飛び、足元の白い花を赤く染める。遠のいていく意識の中で、ユーリィは死ぬまで何かを汚している自分を情けなく思えた。
(ゴメンね。でも雨が降れば、また白くなるから我慢して……)
体がグラリと揺れて、そのまま世界が闇の中に溶けていく。遠くでまた誰かが叫んだが、もうユーリィの耳には届いてはいなかった。




