第17話
ヴォルフは“手と手を取り合って”と思ったが、もちろんそんなことではない。ユーリィは半ば引きずられた状態で、抵抗しようにも、疲れの為か逆らえなかっただけだ。たった一度の剣舞でも、思った以上に体力は消耗するらしい。
「……いい加減、手を離せ!」
ヴォルフの姿が見えなくなった頃、ユーリィは強引にアルフの手を解き、憮然とそう呟いた。
「見ましたか、あのヴォルフの顔を?」
「さあね。あんたもアイツも、僕にはさっぱり理解不能だ」
「これで一矢報いることが出来ました。貴方のおかげです」
嬉しそうに微笑んだアルフを、ユーリィはジロリと睨んだ。いったい何がそんなに愉しいんだろうか。
「以前、恋人を彼に取られた経験があるんですよ。もちろん女性でしたが。これは仕返しです」
「何で仕返しになるんだよ」
「さあ?」
アルフは軽く笑いながら小首を傾げた。
手と手は取り合っていなかったが、ユーリィとアルフ・エヴァンスはとりあえず村まで戻ってきた。森の出口でユーリィがふと後ろを振り返る。その視線を追ってアルフも背後を眺めた。
「ヴォルフが気になりますか?」
「別に……」
「大した怪我はしてなかったようですから、直ぐに現れますよ」
「だから別に心配なんてしてないって言ってるだろっ」
“へぇ”というようにアルフの形の良い眉が上がる。
「それよりお前、嫌がらせにしてもタチが悪いんじゃないの?」
「“あんた”から“お前”まで格下げですか」
「そんなことはどうでもいいよ」
「ここでは何ですから、部屋に行って話しましょう?」
部屋と言われて一瞬怯む。また何かをされるんじゃないかと勘ぐり、ユーリィはアルフをジロリと見た。
「何もしませんよ、何も」
ユーリィの視線にアルフは薄笑いを浮かべ、宿屋の方へと歩き出す。どう考えてもいけ好かない野郎だ。
宿の中は、昼食の美味そうな匂いに満ちていた。空腹も手伝って、部屋には戻らずに直ぐさま食堂に入りたかったが、ヴォルフがまだ森に残っているという事が少々心に引っかかり、ユーリィは仕方がなく諦める。心配などしてないが、後ろめたいのは確かだった。
物欲しそうに食堂の方を眺めたユーリィを、アルフが茶化す。
「貴方は意外と優しいですね」
「何言ってんだか」
口を尖らして顔を背け、ユーリィは階段を上がり始めた。背後でアルフが笑っているようだったが、もちろん気付かないフリだ。
「さて、何が聞きたいんですか?」
ユーリィの部屋で椅子に腰を下ろし、足を組んでその上に手を乗せたアルフが、微笑みながらそう言った。何でも聞いてくれと言った態度だが、たぶん自分に関することは何も喋らないつもりだろう。ユーリィは、アルフという人物が他人に自分を曝すことが嫌いなタイプだと既に判っていた。きっとヴォルフ・グラハンスとは正反対の人間だ。
「全部だよ。あの男は誰だ? 本当にイワノフと関係があるのか? 僕を浚おうとした理由は?」
「せっかちですね。では一つ一つお答えましょう。まずあの男の事ですが、私は身代わりだということはお話ししましたね? ただし私は狙われる役ではないですが。あの男は実行役兼監視役で付いてきた者なんです」
「身代わりって何の身代わりだよ?」
「貴方を浚う役の身代わりです。そうすることによって、色々な方々が喜ぶようですね」
「さっぱり意味が分からない。それに、なんで僕なんかを……」
「貴方がイワノフの人間だからです。貴方はイワノフ家のことをどこまで知ってるのです?」
「何も知らない。興味もなかったから」
と言うのが半分。あとの半分は教えて貰えなかったから。だが教えて貰ったところで、たぶんイワノフ家に対する嫌悪感が増しただけだろう。それなのにその嫌悪感を増しそうな事を、アルフは親切にもわざわざ説明し始めた。
「イワノフ家は代々、各国の皇族と血縁関係を結んで、その力を強めていった貴族です。特に貴方のお祖父様は、大変な野心家だったようですね。貴方の父上のご姉妹、つまり娘達七人を全て各国の皇族に嫁がせています」
その話はユーリィも何となく知っている。イワノフ家を世界の中心に据えようと言わんばかりの、醜悪なやり方だ。ただし誰がどこの国にいるのか、そこまで詳しいことは知らないが。
「その中で、唯一の男子が君の父上だったというのは皮肉なものです。その上、彼は野心家ではありませんしね」
「親父を知ってるのか?」
「ええ、お会いしたことはあります。優しそうな方ですね?」
ユーリィは“はん”と鼻で笑った。優しいと言えば聞こえがいいが、要するに優柔不断な男なのだ。
「貴方は自分が思う以上に知られていることはご存じです?」
「え?」
「貴方はいわばイワノフ家のスキャンダルですからね。噂になる前にもみ消してはいるでしょう。ですが、いくらもみ消しても、貴方の親戚筋には知れてしまうものなんです」
「だからそれがどうしたっていうんだよ?」
「私の雇い主は貴方を浚って、イワノフ本家にお金を出させようとしたんだと思いますよ。何かの資金に使いたいとのことで。こうしたことの背後には、色々な陰謀が渦巻いていますので。ですが私は手を引きます。やはりこうした陰謀に荷担するのは性に合わないので」
なるほどと頷きかけて、はたと気付いた。根本的な事は何一つ分からないではないか。
「ちょっと待て。言っておくけど僕を浚ったって金なんて出てこないぞ。それとあの国とかじゃなくてハッキリ名前を言えよ!」
ユーリィがそう吠えると、アルフはやや考えた素振りを見せた。だが涼しげなその空色の瞳を少しも曇らせる事もなく、ただし口元に浮かぶ笑みは限りなく冷気をもってこう答えた。
「あの国とはバラディスいう名の王国、その王族は貴方の親戚筋。近々内戦があるようですね」
「そんな国、知らないよ」
「遙か北にある小さな国です。こんな事でも無ければ、一生関わることも無いような、ね」
そう言った瞬間、アルフの瞳にわずかな陰りがさした。
「何度も言うけど、親父は僕のためになんか、絶対に金なんて出すわけないよ」
「果たしてそうでしょうか?」
短い沈黙が訪れた。父が金を出すかどうかは別として、何となく諸事情は納得出来た。
だがどうして目の前の男が、これほどイワノフや今回の件に関して詳しいのか、未だに疑問は残ったままだ。
「で、いったいお前は誰だ?」
「私はただの雇われ者ですよ」
「嘘をつけ。ただ雇われただけで、こんなに詳しく内情を教えてくれるはずがないじゃないか」
アルフの空色の瞳に妙な表情が浮かぶ。ユーリィは訝しげにそれを見つめた。するとアルフは小さく溜息を一つ吐き、言葉を探すように視線を遠くしながら、口を半分開いたまま考え込む。
しばらくそうしていた彼がようやく口にした話は、予想を遙かに超えたものだった。
「私は貴方に会うのはこれで二度目なんですよ」
「え?!」
「貴方がイワノフ城に引き取られたちょうどその頃、私は母とともにあの城に居たのです」
「……なんだって?!」
目が点になる状況とはこんなことを言うだろう。ユーリィはアルフの顔を穴が開くほど見つめ、浮かんでくる疑問を尋ねようと口を開きかける。だがアルフはそれを遮り、
「十五年前、私がまだ十歳の頃、母と私はイワノフ家で暮らしていました。期間にすればたった二年ですが。その間に貴方が城に連れてこられ、赤ん坊の貴方をあやしたこともあるんですよ」
十歳のアルフも想像出来なければ、その彼にあやされる自分も全く思い浮かばない。ユーリィは何を言ったらいいのか判らず、ただアルフを眺めていた。
「貴方は宿代帳にイワノフ名で書き込んでありましたね?」
「だから?」
「貴方はもっと身辺に気を付けて行動した方が身の為です」
「別に興味がないね。殺したければ、さっさと殺しに来ればいいんだ」
「殺して欲しいんですか?」
ユーリィはあからさまに不機嫌な顔をして黙り込み、アルフを睨む。するとアルフは例の涼しげな微笑みを浮かべながら立ち上がり、ユーリィに素早く近付き左腕を掴んだ。
逃げ切れず、その手を振り解こうと必死に藻掻くユーリィを、アルフはいつになく寂しげな瞳でジッと見返すと、
「何もしないですよ」
「う、嘘つけ!」
服の袖を捲られる。何をされるのかとビクリとすると、肘のすぐ上にある古傷を指で撫でられた。
「まだ残ってるんですね、この傷は……」
何故かアルフの言葉には悲哀の色が含まれていた。
記憶にない傷だ。あとで知ったことだが、継母が赤ん坊の自分に初めて刃を向けた傷だという。だが物心つく前からずっと、“躾”と称された傷が絶えることはないのだから、最初の傷が残っていようと、ユーリィにはどうでもいい話だった。
「いいから、放せよ!」
ユーリィは力任せに腕を引き戻し、アルフから数歩退く。
「さて、私は部屋に行って少し休みます。今日は本当に疲れましたから」
そう言いながら扉まで行ったアルフは、ふと思い出したように振り返る。
「私が自分のことをここまで話したのは、貴方が初めてですよ。ヴォルフにすら何も喋ってはいませんから」
「お前ら、仲間だったんじゃないのか?」
「そんなこともありました。いえ、今でも彼は仲間です。だからこそ見せなくない感情がある。判りますか?」
「さっぱり判らない」
「こう見えても、私も優しい人間ですから」
それはどういう意味なんだろうか。仲間や友人など一度も持ったことのないユーリィには、考えてたところで答えなど出るはずもない。そんなものを持ちたいと思ったこともないけれど……。
最後にアルフは、意味深な表情でこう付け加えた。
「そう言えばヴォルフ・グラハンスも、イワノフ家とちょっとした関わりのある人間ですよ」
ユーリィが何のことだと尋ねる前に、アルフは部屋から出て行ってしまった。




