第15話
ヴォルフの攻撃は驚くほど見事だった。一分の隙もないとはこの事だろう。ユーリィは肉片と化していく魔物を眺めていた。出来ればトドメも自分で刺したかったなと思う。だから最後に頭部を突かれた魔物の姿に、ユーリィは少々ガッカリした。
ヴォルフがこちらを睨んでいる。
(ちぇ、来なくても大丈夫だったのに……)
幻想玉に自分の姿を移し、それを囮にしたまでは良かったが、まさかこんなに早くヴォルフが来るとは思わなかった。
とりあえず数歩退いてみる。まるで闘牛のような表情の相手に、思わず苦笑いを浮かべて誤魔化してみる。“こっちに来くるなよ”と心で懇願をしてみる。しかしヴォルフはそんなユーリィのお願いなど知る由もない。ボロボロになった外套をはためかせつつ一歩一歩と近付いてくる相手に、ユーリィは微かな恐怖を感じた。
いつの間にか雨は止んでいた。霧も晴れている。もし視線を上げれば、枝の間に濃淡が折り重なるグレーの雲が見えることだろう。
しかし残念ながら今は、ヴォルフから目が離せなかった。その象牙の瞳は、遠目からもハッキリ判るほど怒りに燃えている。これで益々嫌われただろうが、まさか殺しはしないだろう。それともあの槍で串刺しにでもするつもりだろうか。
「逃げても無駄……?!」
ヴォルフがそう言いかけた瞬間だった。
急速に体中の力が抜けていくのを感じ、ユーリィは思わずその場に崩れ落ちてしまった。いったい自分の体に何が起こったのか分からないが、動く事すらままならないほどに手足が重くなっていく。疲れたのだろうか? それとも毒でも盛られたのだろうか? そんな事を考えていると背後から首筋に冷たい感触があった。
「この少年は連れて行く」
聞こえてきたのは抑揚のない男の声。聞き覚えのないその声の主を見ようと、ユーリィは顔を上げようとしたが、剣らしき物が邪魔をして影すら見る事が出来なかった。
「どういうことだ?!」と言いながら、ヴォルフが困惑の表情を見せる。
「説明する理由などない」
「まて!」
「それ以上、近付くな」
焦ったヴォルフが槍を持って詰め寄ろうとする。それを制止するように、ユーリィの首に剣が食い込んだ。大剣の切れ味など大したことはないので傷付きはしなかったが、あまりいい気はしない。ユーリィが思わず文句を言おうとしたその瞬間、新たな声がヴォルフの後方から聞こえてきた。
「私はこのゲームから降りてもいいでしょうか?」
その言葉とともに木陰から姿を現したのは、例の身代わり男だ。リュートを片手に例の冷笑を口の端に浮かべた彼は、ゆっくりとヴォルフの横に並ぶと、にこやかに旧友に話しかけた。
「久しぶりですね、ヴォルフ・グラハンス」
「……アルフ……、どうしてここに……?」
「再会の抱擁は、この状況を打破してからにしましょう」
そう言って、リュートの男は改めて旧友の顔を見返し、困ったように首を振る。それが本心によるものなのか、それとも演技なのかユーリィには判断が付かなかった。
「その少年を解放して下さい」
「裏切るつもりか?」
「私は知り合いに会ってしまったので、これ以上は続けられないと思います」
ユーリィはそんな二人のやりとりを聞きながら、何やらムカついてきた。何がどうなってるのか知らないが、本当に何でこんなことになっているのか、ぜひともその理由を聞いてみたい。
「あのさ、話の途中で悪いんだけど、何で僕は捕まってるわけ?」
「君の父親なら分かるはずだ」
「えぇ?!」
話が見えない上に、父親の事を持ち出されてユーリィは戸惑った。まさかイワノフ家と関連のある事なのだろうか?
「もしかして、家の関係?」
「さあな」
するといきなりヴォルフが叫び始めた。
「貴様、何のつもりか知らないが、子供を人質にするな!」
随分と熱い……暑苦しい男だとユーリィはつくづく思った。
「子供? 僕が子供? それ、失礼すぎ」
こんな場面だがムッとするではないか。
ユーリィがすかさず混ぜっ返し、その言葉にヴォルフは一瞬たじろぐ。
「た、たとえ話だ」
「たとえ? どこが? どこからどこまでがたとえ? 子供の部分? それとも人質まで?」
「ええい、煩い奴だな。人質は人質らしく大人しく捕まってろ」
「捕まってろって、助けようとしてるんじゃないの?」
「ああ言えばこう言う。本当に君は……」
どうやら二人の会話は背後の男のお気に召さなかったらしい。怒った顔でグッと力を込めユーリィの首に剣を押し付けてきた。切れ味はなくても刃物であることに変わりはなく、傷を付けられた首元から血が滲んで胸元へと流れていった。裂けた皮膚の痛みにユーリィは思わず唇を噛む。何だか知らないが、男は本気らしい。
「クソ、止めろ!」
それを見たヴォルフが何故かいきり立つ。槍を強く握りしめ今にも突進してきそうな様子に、背後の男よりも先にユーリィの方が眉を顰めた。
(僕が斬られたんだけど、アイツ、何をそんなに興奮してるんだ?)
全くわけの分からない奴だ。それとも正義感の強い熱血野郎なのか。一見穏やかな二枚目だが、人は見かけに依らないものだ。
「近付くなと言っただろ!」
睨み合いのような状態がしばらく続く。連れていくのはいいが、動けない自分をどうするつもりなんだろう。もしかして小脇に抱えていくのかな、それは嫌だななどとまるで他人事のように考えていると、とうとう業を煮やしたヴォルフは動き出した。
懐から何やら取り出した彼は、それを地面へと叩き付ける。剥き出した岩に投げられた赤い玉のようなものがぶつかり、パリンと割れた。小さな破片が湿った下草と泥の上に散り、雨の中で紅く光る。いったい何をしようというのだろうか。
その瞬間、周囲からもの凄い音が聞こえてきた。驚いて見渡せば、火柱が次々と立ち上るのが見える。猛火は木々を焦がし、枝を燃え落とし、あっと言う間に遙か上まで伸び、湿っていた空気がその熱風に乾いていくのを感じた。
驚いたのはユーリィだけではなかった。その証拠にユーリィの首から剣が離れている。それに見逃さなかったヴォルフは二人の方に走り寄ってくると、ユーリィの頭上に向かって槍を突き出した。敵はどうやら飛び退いてかわしたらしく、ヴォルフは着地した足音と同時に更に槍を振り回す。
いったい何が起こってるのかとユーリィは茫然としつつも体を動かすと、すぐそばには例の“身代わり男”が立っていた。
どれくらい経っただろう。全身の力は戻りつつある。手の先にやや気怠さは残っているが、気のせいだと思えば大したことはない。目の前では激しい戦闘が繰り広げられている。戦っているのはヴォルフと例の中年男だ。
「ずいぶん熱くなってますね、ヴォルフ・グラハンスは?」
こんな状況でも身代わり男の涼しげな態度に、ユーリィは呆れ顔で隣に立つ彼を仰ぎ見た。
「まるで人ごとだね。あの男はあんたの同行者だったんじゃないのか?」
「昨日まではね」
「あんたは敵なのか、味方なのか?」
「敵でも味方でもないですよ」
男はクスクスと笑って、未だ決着が付かない二人の戦いに視線を戻した。ヴォルフの腕は決して悪くはない。悪くはないどころか、並大抵の奴なら一刀両断に倒されるだろう。だが彼が対峙している男は、彼と互角か、それ以上の腕を持っているようだった。
「いったいどうなってるんだ?」
「分かりませんか? ユーリィ・イワノフ君」
唐突に姓を告げられ、ユーリィはハッとなった。やはり今回の件はイワノフ家絡みの事なのだろうか。尋ねようと口を開きかけた途端、「その話はあとでして差し上げましょう」と遮られてしまった。
探るように相手を見る。だがその飄々とした表情からは何も読みとる事が出来ず、ユーリィは諦めて話題を変える事にした。
「そういえば、ヴォルフがあんたを“アルフ”って呼んだよな?」
「記憶力が良いですね。ええ、そうです。私の名前はアルフ・エヴァンス。以後お見知りおきを」
何ともいけ好かない野郎だ。一見穏やかそうに見えるが、心では何を考えているのか。こう言う奴が案外大悪人だったりするんだろうなと思いながら、目の端で睨み付けていた。
「で、どうするの? あの二人、日が暮れるまでやってそうだけど……」
火柱は既に消えていた。周辺の木々はすっかり姿を変貌し、四、五本は炭のようになっている。もしも雨が降っていなかったら、大火事は否めなかっただろう。
「そうですね。何か良い方法があればいいんでしょうけど……。例えばあの男を追い払えるような不意打ちが?」
「無いことはないけど、その場合、みんな危ないけどそれでも良い?」
「どうぞ」
アルフ・エヴァンスは再びクスクスと笑った。
静かな森の中、剣と槍がぶつかる金属音が響き渡る。その音をかき消すように、突然リュートの旋律がかき鳴らされた。しかしそれは、戦っている者達には全く聞こえてはいないらしい。ユーリィはシミターを握り直し、グッと顎を引いた。
弦が爪弾かれ、一定のリズムが繰り返される。ユーリィは靴先で調子を合わせ、両腕を広げた。
構えた両手を、斜め下へ伸ばす。中指と薬指を折り、小指と人差し指は伸ばしたまま、リズムに乗って腕を頭上に振り上げ、両足で複雑なステップを踏みながら、シミターを回す。その場で一度大きく飛び跳ね、右足を左に踏み出し腰を捻りながら、シミターで空を切る。
旋律はユーリィの動きに合わせ、更に激しくなった。
躍りの型は完璧とは言い難い。俄仕込みの危うさは、爪先と指先の微妙な角度に表れている。ユーリィは小さな失敗に顔を顰めた。果たして上手くいくか、自分でもよく判らなかった。
最後に大きく回転し、シミターを持った手首を左右に振る。肩で息をしながら動きを止めれば、やがてシミターの先から数百の刃の如く、目に見えない小さな風が次々と撃ち出された。
どうやら『鎌鼬の舞』は成功したらしい。飛び散った刃は、木々の幹を傷付け、木の葉を散らしていく。戦闘を続けている者達にも容赦なく襲いかかり、ユーリィは少々不安になった。別に誰かを心配しているわけではないけれど。
ヴォルフが危険を察知したのは偶然か、それとも必然だろうか。男の大剣を受け止めていた彼は、一度強く敵を押し戻すと、ハッとしながら飛んできた“風の刃”を槍で防ぐ。刺客の男も剣を振り回したが、彼の方は一瞬遅く、服が切り裂かれ、腕が傷付いた。
「また、いきなりかよ!」
ヴォルフが怒鳴る。それでも何とか木の陰に隠れたようだが、傷の一つ二つは付いたかもしれない。中年男の方は頬や腕に血を滴らせ、とうとう森の奥へと逃げていってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、ユーリィは溜息を吐き、シミターを腰に収めた。戦いはようやく終わりを告げたらしい。