第1話
BLを目的として書いていませんが、BLが苦手な方は自己責任でご閲覧下さい。
細い雨の落ちる午後だ。今のところ寒さは感じないが、このまま湿った服を着ていたら、いずれ風邪を引きそうな気がした。ユーリィ・セルゲイ・ルイーザ・クリストフ・イワノフは雲に覆われた空を見上げ、溜息を一つ吐いた。
まだ次の街まで距離がある。今夜は森の中で野宿になりそうだ。それも洞穴か巨木が見つかればの話であり、見つかるか見つからないかは五分五分。ここ半年あまりの経験で、見つからなかった時の悲惨さは身に染みている。
本当は先ほど通り過ぎた村に引き返し、強引に一夜の宿を頼んだほうがいいのかもしれない。あまり人を当てにするのは好きではないけれど。
つい三日前、十五歳の誕生日だった。祝ってくれたのは、道中で休憩をした時に頭上で鳴いたホオジロだけ。ギルドに行けば父親から何かが届いているかも知れないけれど、そんなものはありがた迷惑。
両親は一度も一緒に暮らしたことはなかった。実母はジプシーの娘で、たまたま訪れた街で父に会い、そして恋に落ちた。しかし父はソフィニア一円を領地に持つ貴族の息子であり、その父との恋は正しく“許されぬ恋”。それが故に母は身を引き、父は貴族の娘と結婚をし、全てが全ての場所に落ち着くはずだった。
だが両親は再会をしてしまったのだ。その一夜の間違いで生まれたユーリィは、一度も母に抱かれることはなく、父の元へと引き取られた。イワノフの血がこの身に流れているという、ただそれだけの理由で。この長い名前は、イワノフ家の人間だという飾りだ。ただし継母も兄弟達もそして親族も、彼をイワノフの人間だとは認めてはいなかった。ただ血の為に、それだけの理由でイワノフの飾りを付けられている。
異母兄は幼い頃から病弱だった。五歳までは生きられないと言われ、十歳の誕生日は迎えられないと言われ、それでも生き続けたのは、もしかしたら自分への憎しみではないかとユーリィは思う。誰もが兄の死を想定し、ジプシーの血が流れる自分を嫌々ながらも引き取ったのだから。
しかし彼は生き続けた。ユーリィに絶えず攻撃を仕掛け、命を長らえてきたのだ。だがユーリィが十歳の時に弟が生まれた瞬間、兄の中の憎しみは、あらゆる感情とともに消えてしまったように見えた。残ったのは気力を失った廃人。その時兄が何を思ったのかは想像するしかないが、たぶんユーリィを攻撃したところで、自分の存在価値は永遠に失われたと思ったことだろう。同情する気にはなれなかったが、少しだけ哀れに思える。
そんな兄も最近は、新たなる野望を燃やし始めているらしい。“陰謀ごっこ”という名の新しい玩具を手に入れたのだ。兄がどんな事をしようと、自分に関わりがないのなら構わないとユーリィは思った。哀れな人間の慰め物にならなければ、それでいいと。
父はずっと自分を庇い続けてはいた。それは己の間違いに対する償いか、それとも母に似た自分への妙な執着か。いずれにしても鬱陶しいことに変わりはない。憎しみは感じなかったが軽蔑は絶えずしている。
とにかく、弟が出来たおかげでユーリィは晴れてお役御免となった。十三歳になったその日、彼が実母のところへ戻ると言いだした時も、誰も反対はせず、いや逆に厄介払いが出来ると喜んだかもしれない。
父の城を出たユーリィは実母の元に身を寄せた。だがそれも半年だけの生活で終わってしまう。要するに半身だけの血はどちらの一族も受け入れられないという事なのだ。
一人で生きていこう。幸いと言うべきか、実母からは剣舞を習い、剣舞用の魔法剣も譲り受けた。父からは生活費の送金がある。どちらもあまり当てにしたくはなかったが、本当に自分の足で歩いていけるまでのこれは借りだ。もっとも彼らにはそれだけの責任があると開き直っても別に間違っているとは思わないけれど。
足元で雑草の葉が雨水に揺れている。朽木が道に倒れ、乗り越えようと靴で踏むと生えたコケに滑りそうになった。森を通る街道に白いもやが立ち込め、両脇の樹木が黒く見える。近くに滝でもあるのか、絶え間なくザァーという音が聞こえる。頭上から時折聞こえるキィキィという鳥の奇声と、遠くで鳴き叫ぶ獣の声は、全てを不気味に感じさせた。
ユーリィはふと、前方に人影があることに気付き立ち止まった。霧の中、男とも女とも分からない人物は、森の奥をずっと見つめているようだ。
野盗かなにかだろうかと一瞬の緊張が走る。素早く腰のシミターに手をかけたが、実際問題あまり役には立たない。剣舞に使う為の剣であり、殺傷能力は恐ろしく低い上に、自分の腕も大したことはなかった。つまりこれは“脅し”用の剣なのだ。
足音を顰め、そろそろと近付く。相手の出方次第では周り右をして逃げられる準備はしておこう。
その人物の姿が確認できる位置までやって来た。とは言っても、昼間ではあるが雨の森では、はっきりと見えるというわけではなかったが。
背の高い男だ。珍しいブルーグレーの長い髪に、濃紺の上着とライトグレーのズボン。右手に長い槍を携え、値の張りそうなガードブーツを履いている。線は細く見えるが、肩の盛り上がり方からすれば、鍛え上げられた肉体の持主だろう。背後から見る限り野盗の類には見えなかったが、人は見かけだけでは判断は出来ない。ユーリィは戸惑いながらその場に立ち止まった。
相手に気付かせるべきか、それとも無視して通り過ぎるべきか。通り過ぎるとしたら挨拶の一つでもすべきなのだろうか。しかしにこやかに“やあ、ご苦労様”などと声をかけたら、相手も笑顔で“いやいや、どうも”と答えてくれるとも思えない。そもそもこんな森の中で何が“ご苦労様”なのかも分からないし、“いやいや、どうも”にしても完全に意味不明だ。そんなことを考えながらシミターの柄を掴んだところで、相手がゆっくりと振り向いた。
振り向いた人物は別に驚くわけでもなく、頭二つ分低いユーリィを見下ろすと静かに笑いかける。どうやらずっと前に気付かれていたらしい。わけの分からない挨拶を口にしなくて良かったと心の中で苦笑いを浮かべながら、ユーリィは男の顔を見上げた。
見上げたその顔は恐ろしく端正だった。切れ長の茶色い瞳、通った鼻筋、そしてやや薄いが形の良い唇は世の女達を魅了して止まないだろう。年は二十代後半と言ったところだろうか。たぶん北方系だと思うが、これはただの印象に過ぎないかもしれない。
男は栗色をした瞳の動きで背後を示しながら、こう言った。
「魔物だよ、君」
答えに窮し、男と背後の森を交互に眺める。
「ま・も・の」
「大丈夫、発音は正しいから。訛りもないから、安心して良いよ」
ユーリィの返事に男は一瞬鼻白んだ顔をしたが、やがて両肩を上げて“そうか”と苦笑混じりに呟いた。
「で?」
ユーリィは小首を傾げてそう尋ねた。
「つまりこの先は危険だと言うこと。君は行かない方がいいな」
「危険かどうかは僕が判断することであって、貴方には関係ないと思うけど」
相手は再び苦笑する。
喧嘩腰だと思われたかもしれないが、確かに喧嘩腰なので致し方がない。それに知らない人間の言葉は信じないと決めている。だからと言って、知っている人間を信用しているかと尋ねられれば、否と答えるだろう。つまり世の中の人間全てが、ユーリィは大嫌いなのだ。
「じゃあ、そう言うことで」
そう言いながら男の横を通り過ぎる。“おい、待て”と言われたが、命令されることも嫌いなので無視を決め込んだ。意味もなく力足になる。不愉快な気分になったのは、もしかしたら不安が混じっている為かもしれない。けれど他人の言葉など金輪際聞きたくないので、胸を張って歩き続ける。背後をチラリと伺ったら、何故か男がついてきていた。まさか守ってやるなどと思っているとは思わないが、もしそうだったら本当に鬱陶しい。ユーリィは、顔に張り付いた金髪を払いながら、小雨降る森の中を歩いていった。
作画:チルデ様