23・五蘊盛苦 中編
彼女は重傷だった。息も絶え絶えという状態なので、瓦礫をどけても移動しづらい。たぶん、両足を骨折している。
背負っていくしかないだろう。ここでの治療は無理だ。私の回復魔法程度くらいでは痛み止めくらいにしかならないし、わずかな時間も惜しい。すぐにでもここを立ち去る必要がある。
谷のほうでは魔王軍海軍と勇者の激しい戦闘が続いている。巻き込まれてはたまらないと思っていたのだが、そちらの方向から何か魔法がとんでくる。
あっ、と私が思ったときにはもうほとんど回避不可能なところに迫っていた。これは「黒色の魔法」だ。思わず衝撃に備えるが、私と違ってブルータはしっかりと警戒していたらしく、障壁魔法でこれを防ぐ。
あまりにも激しい戦いなので、魔法が流れて飛んできたのかとも思えるが、違った。不意打ちをかけてきたのは、魔王軍海軍の一員らしい。
「おい、お前ら。逃がすと思ってるのか」
声がかかる。彼は自分から名乗り出るようだ。
ブルータよりもかなり大きい悪魔で、ローブを着込んでいる。彼はこちらをねめつけ、指差す。
「主人殺しに脱獄、挙句にガイを殺ったらしいな。ここで引導渡してやるぜ」
「そんなことをしている暇が今、あなたにありますか」
ウェイトレスをその場に横たえ、冷静にブルータが言い返した。彼らの軍はたった今、勇者たちへ突撃しているところなのだ。いくら海軍が統制のとれない無法者の集まりとはいえ、この態度はない。命令無視、敵前逃亡に等しいのではないか。命令に背いてまで私たちを攻撃する必要なんて。
「ある」
敵はそう言い切った。私には理解しがたいけれど。
「あだ討ちするなら今しかない。お前もそれくらいは覚悟の上のはずだぜ」
もちろん、そんなことをいっているのは彼一人だけだ。他の者たちは全て勇者たちのところへ向かっている。
私たちとしてはこんなのに構っているわけにはいかない。逃げ出したいところだが、この重傷の女の子を連れては逃げられないだろう。やはり、倒すしかなさそうだ。
「四天王を倒した実力を見せてみろよ、それがまぐれでないっていうんなら」
大きな悪魔がそう言い放って、身体強化を始める。彼は身体強化以外にまるで魔力を用いる気配をみせなかった。それだけで十分だと思っているのか、それ以外に魔法を習得していないのか、切り札として温存しているのかはわからないが。
この悪魔がブルータを侮り、倒そうとしていることは確かなようだ。そういう考えがそもそも私にはわからない。
たしかに四天王のガイを倒したにしては、あまりにもブルータは若い。それに、半魔族である。純粋な悪魔たちに比べてはかなり劣る。強大な四天王の一角を打ち破ったのもただのフロックであろうと考えるのは無理のないことだといえる。
何しろ彼女の味方である私ですら、あれが順当な勝利であるとは全く考えていないくらいだ。思い出すのも少しつらいくらいの、数多の犠牲。そしてガイの増長と油断、ブルータの策略。それらが噛み合う幸運があり、辛くも勝利したのである。正面からガイの強さを打ち負かしたわけはない。フェリテという中級悪魔が本当に、文字通りに身を犠牲にしてくれたからこそ勝てたのだ。
だからといって、その弱い私たちを倒そうというのはあんまりにも短絡的だ。本当に四天王のガイに恩義を感じていて、彼の敵をとろうというのならまだしも、この悪魔はどう見ても「ガイを倒した奴を倒した」ということで名をあげたいだけだ。それならこんなフロックで勝っただけの半魔族をいじめて、どうするというのか。むしろ名を落とすだけだとは考えないのだろうか。
とはいえ、彼は悪魔であって、それも海軍の本体に選ばれるような豪傑だ。その実力はおそらく確かなものだろう。
ブルータもそのあたりはわかっているだろうが、あまり焦ってはいないようだ。このあたりはまだ『魔力の干渉』が有効なので、転送の魔法で逃げるのは無理。戦うしかないというのに。
「それほど私を殺したいのですか。見逃しては、くれませんか」
彼女は魔力を集めて、身体強化を行った。砂漠都市のタゼルから盗み取ったその技術は、確かな効力を発揮する。しかし相手との膂力の差はまだ歴然としている。純粋な悪魔である敵の悪魔は、恐ろしく強靭で頑健なのだ。幼さすら残した体躯の半魔族とでは、とても比較にならない。
「そうだ、死ねっ」
敵が地を蹴った。獰猛な動きでブルータに襲い掛かる。
やはりというか、話し合いの余地なんてなかった。雄たけびを上げ、彼はブルータの顔面を殴りつけようと手を伸ばす。これを食らったらたぶん、首の骨が折れる。半魔族でも。
ブルータはそれをかわそうともせず、軽く右手を持ち上げて掌を彼に向けた。『低温の呪文』だ。
《ちょっとブルータ、避けて!》
敵の攻撃を回避する気がまるでなさそうなので、私は思わず思念を飛ばす。が、彼女は動かない。
「うお…」
直後に敵の呻き声。敵は前のめって倒れこむ。地面に着いた時にはもう、凍りついて固まってしまっていた。
「えっ?」
私は思わず目を見開く。
「死んだの」
「いえ。ですが、しばらくは動けないと思います。まともに受けましたから」
ひどい。なんでこんなにあっけないのか。彼は、明らかにブルータよりも強大な力をもっていたはずなのに。
それがいまや、全身を凍結させられて指先一つ満足に動かせないでいる。なんといっていいのか、身も蓋もない言い方をすると、あまりにも弱い。格好悪いにも限度があるだろうというような、情けないやられ方だ。
さっさとそれに背を向け、ブルータはウェイトレスを抱きかかえる。
「彼は肉体的な攻撃強化と、使いやすい『黒色の魔法』だけしか覚えていなかったようです」
「あ、それって」
私は顔を上げた。
レイティの記憶では確かに、そういう悪魔が多いとか言っていた気がする。『大半の悪魔は怠惰で、魔法なんて二つ三つ覚えて満足している』とか何とか。つまり、この悪魔は防御面に関する魔法をまるで考えておらず、習得していないということになる。
その結果がこの氷像というわけなのだった。
油断しきってたというか、なんというか。あの攻撃が私たちに決まっていれば、倒れていたのはこちらだったろうに。何の警戒もなしで突っ込んできたこいつがバカだっただけ、ということなんだけど。
たぶん、リンのいる陸軍はもっと手ごわいのがたくさんいるからこんな風なことはない。こいつ一人があっけなく倒せたからといって調子に乗ってはいけないだろう。
「こふ」
ウェイトレスが血を吐いている。非常に苦しそうに、それでも必死に呼吸をしていた。
「行きましょう、勇者の戦いも激しさを増しています」
「そうね」
と私は応じる。
確かに、魔王軍海軍と勇者、全力の衝突は激しい。すさまじい戦いだった。下手をしたら私まで、魔力として取り込まれそうになるくらいに。
「急がないと」
そうして私たちは、ロナの最後の戦いに背を向けた。瞬間、何かが私たちの背後に出現する。
本来脇目もふらずに走って逃げるべきだったが、私はブルータのポケットに入っているだけなので目をやる。落ちてきた何かは、不定形の塊だった。ロナか。
彼女はずるりと凍り付いている先ほどの悪魔にとびかかり、全身で飲み込む。たちどころにして彼は魔力として取り込まれてしまった。ロナは戦えなくなった魔物をエサとして認識し、取り込みに来たということだろうか。
ロナは小さかった。たぶん、これは本体でない気がする。この魔物を食べるためだけ一部だけを分裂したか。相変わらずの不定形で、元の女性らしい面影はなくなってしまっていたけれど。
そのロナを追いかけてきたのか、細い人影がその場に降りてきた。女勇者のクレナ!
私は思わず息をのんだ。ひゅう、となさけない声が出る。悲鳴にすらなりはしない。
「逃がすもんか」
クレナはいうなり、鋭くロナを指さす。地面を這いずる不定形はそれに見合わぬ機敏さでクレナの魔法を回避、一部を鋭く伸ばして敵を刈り取ろうとした。
これに対してクレナは一歩下がって回避、障壁魔法には頼らない。なぜか、というとおそらくそうするだけの魔力も惜しいから。クレナは次々と攻撃魔法を練り上げて、ロナを攻撃しつづけている。そうして敵を追い込もうとしているのだろう。
ブルータ、もっと速度を上げて。これじゃ逃げ切れない、怖い。
そうだ、威力を弱めにした『黒色の呪文』を『地臥の呪文』に仕込んで、自分に当てればいいのだ。そうすればレイティとブルータが砂漠都市でやったみたいに、人間一人くらいはすごい速度で吹き飛ばすことができる。空高く飛んでも私がある程度はどうにかできるし、まずはこの場を脱出することができる。
私は思いついたその作戦を伝えようとしたが、その前にクレナが反応した。
「おっと!」
彼女が右手を軽く一振りするだけで、ブルータの目前に炎でできた壁が立ちふさがる。まさか、『炎壁の呪文』! それもほとんど一瞬で。
「逃がさないわ、青の暗殺者」
「驚いてないってことは、ばれてたわけね」
私はほとんど諦めたようにつぶやくが、ブルータも返事をしてくれない。
「ほらっ」
クレナが私たちと同時に、ロナも巻き込むように攻撃を仕掛けてくる。今度は『炸裂の呪文』だ。強力な魔法の矢を次々と打ち出す魔法だが、その一発に当たっただけでこちらの防御障壁は打ち貫かれる威力。
これはさすがにかわせず、ロナの分身はまともに食らってしまい、爆散した。私たちはどうにかかわしきるが、クレナは躊躇なく次の魔法を準備している。ウェイトレスに当たったらどうするつもりなのだろうか。
いや、ここは小なる犠牲に目をつぶってでも私たちを倒す必要があるとふんでいるのかもしれない。
「攻撃しないと」
ただ避けているだけではいずれ狙いを定めた攻撃を受けて死んでしまう。少しでも隙があれば相手に牽制のための攻撃をしておくべきなのだ。それも、すぐさま撃てるような弱い攻撃では何の意味もなさない。生半可な攻撃では相手の障壁魔法に防がれるだけだからだ。
「凍結矢ね」
ブルータが中級魔法を放つが、敵は軽く左の手のひらを向けるだけでそれをいなしてしまった。同時に、右手を払うように動かすとこちらには『地脈の呪文』が飛び込んでくる。わざと食らって、吹き飛べば逃げられそうだと一瞬考えたけれど、ブルータは即座にこれを回避した。
《どうして避けたの》
《冗談抜きで食らったら、彼女も私たちも、無事ではすみません》
確かにそれは否定できない。『地脈の呪文』を食らった大木が根元から折れて吹き飛び、別の木々を薙ぎ払いながら飛んでいくのを見た私は下手な指示をださなくてよかったと思った。
「ちょろちょろと。少しだけ本気だしてあげようかな」
逃げ回る私たちに対して苛立ったのか、クレナは両手を軽く持ち上げた。何をするつもりだろうか。
普通、魔法を使うときは片手に魔力を集中させるものだ。魔力を同時に二か所で溜めることは難しいし、したとしても意味がない。四天王のリンみたいに、同時に魔法を三つも使えるなんてなんていうのなら別だけれど。
ひょっとしてクレナも本気を出すといっているから、『束ね撃ち』に似たことをするのかもしれない。そうだとしたらどうあがいても私たちは一巻の終わりだ。そうならないようにしなければならないが、どうしたらそんな反則技を防げるのか?
《何あれ! 魔力の練り方が違う!》
私は驚きとともにブルータに報告をあげる。クレナは集めた魔力を二つとも、同時に魔法へ練りだしたのだ。こんなことは、従来不可能とされてきたことだ。それを超えたのは四天王のリンだけだったはずなのに、クレナはたやすく真似をしてのけている。しかも、練り上げている魔法は異なるものだったのだ。
「こういうこともできるってこと。いい冥途の土産話でしょ、とっておきなよ」
少しばかり微笑みながら、クレナは両手の異なる魔法を練った。どれほど繊細な魔力の操作が必要になるのか、私にはもう想像もつかない。そんなことを軽く話しながらこなしている女勇者は、もういったいどれほどの高みにいるというのだろうか。
「それっ」
最後まで軽い調子で、彼女は気軽に両の掌を合わせる。その先には魔法に練られた魔力が。
つまり二つの魔法が、一つに。
その輝きを彼女は私たちに向けて、放った。二つの魔法を、同時に。
私たちは完全に死んだ。命運尽きた。どうしてあきらめたのかというと、私たちの力じゃ、どうにもならない攻撃をされたということがその一瞬でわかってしまったからだ。
覚悟を決めるヒマもない。
もう駄目だ、と私は無意味にも防御姿勢をとったのだが、その二つの魔法は私たちを傷つけなかった。誰かが私たちとクレナの間に割って入ったのだ。
「あれ」
クレナは困ったような声を出して、首を傾げた。そのかわいらしげな仕草とは裏腹に、表情は笑みのひとつもない真顔だったが。
一撃を受け止めたのは、勇者ライン。彼は恐ろしい速度で飛び込んできて、クレナの魔法を防いだのだ。
「何をやっている、あの子を殺す気か」
ラインがいうあの子というのはブルータのことではないだろう。私たちが抱えているウェイトレスのことだ。
「女の子一人のために、そいつを逃がしていいの? 青の暗殺者を逃がしたら、またどこかで勇者が殺されるかもしれないっていうのに」
勇者が私たちの前に立ちふさがっているので、クレナはそれ以上の攻撃ができずにいる。彼女は正論を吐いた。まったくそのとおりである。私たちがまだ魔王軍にいるのなら、逃がしてもらったらまた暗殺を繰り返すだろう。指令はいくらでもあったのだから。
「早く、そこをどいて。さもなきゃそいつを殺して」
女勇者クレナの魔王軍への怒りはかなりのものらしい。ラインが立ちふさがる理由も聞かず、私たちを仕留めようとする。
ラインが私たちをかばう理由も、ただこのウェイトレスの命を重くみてのことだ。彼にこの女の子を取り返されるようなことがあれば、即座に魔法が飛んできて、私たちは塵になってしまうだろう。
ブルータが必死に口を開いた。
「いえ、もう」
かすれた声で何か弁解しようとしているが、聞く耳を持たれそうにない。彼女の声はもともと通るようなものではないし、聞こえていないかもしれない。
聞こえていて、無視されている可能性も高かった。それはそうだ、誰が半魔族の勇者殺しを信用するというのだろうか。ラインはこちらをちらりと振り返ったが、すぐに興味を失ったようだ。クレナは最初から聞いていない。
だから、私が叫ぶしかなかった。
「聞いて! この子はもう暗殺者じゃない!」
喉をひらいて、私は突き刺さるような声を発する。もう姿を隠している場合ではないので、ブルータのポケットからは飛び出している。堂々と姿を見せて、私は訴えた。
「二度と勇者たちを暗殺しないし、人間たちに危害を加えることもしない! それでもあなたたちはこの子を殺すの、見逃してあげられないの!」
勇者ラインと女勇者のクレナは、私を見た。目を丸くしている。かなり驚いたようだ。
《ルメル、隠れていなければ》
《そんなこと言ってる場合じゃないわ》
ブルータの心配をはねのけて、勇者たちとにらみ合う。
彼らが少しでもスキを見せたのなら、すぐにも逃げなければ。
「妖精、妖精ね。あなたは」
クレナは少しだけ手を下げる。完全に構えは解いていないが、警戒度が幾分か下がったらしい。
続いてラインも何か言おうとしたが、その前に彼らの背後にロナがやってきた。分身体を倒されてご立腹らしい不定形が、襲い掛かる。
その動きには敵も味方もなかった。この場にいる全員を飲み込もうと、巨体をうねらせたのだ。そのままでは私たちやウェイトレスも間違いなく巻き込まれる。ブルータは素早く飛びのいた。
勇者たちも素早く退避し、ロナの攻撃は空ぶりにおわる。
今しか逃げる機会はないだろう。勇者たちはロナに対処しなければならない。幸い、炎の壁も少しその威力を弱めている。霧の衣装ならおそらくほとんど熱さを感じずに抜けられるだろう。
「ライン! 逃がすつもりなの。あいつは」
「ほっとけ、目の前の敵に集中しろ。逃げるものを追って、迫るものを無視するなんて器用なことは無理だ」
クレナが何か叫んだが、ラインがそれを押しとどめた。そうして二人の勇者は、暴れ狂うロナに立ち向かっていった。二人は尋常ならざる魔法と剣術で攻撃を繰り返すが、膨大な不定形の悪魔はたやすくやられはしない。
「あの四天王と合流する気か?」
走り出したブルータの背後で、ぽつりと呟くようにラインがこぼす。ブルータの足が止まりかかったが、彼女はどうにかそれを振り切って走った。それでいい。
四天王という言葉が、勇者たちの口から出るなんて。
確かに気になるけれどとにかく走って逃げなきゃいけない。
結局魔道具は半分しか手に入らず、結界を突破する方法も見つけられなかったというのに。私たちは勇者がロナと戦っている間に走って逃げた。ウェイトレスを抱えたままでもどうにか逃れられたのは、ロナが頑張ってくれたおかげだろう。
知性を捨てたロナにはもう、たぶん会うこともないのだけれど。
勇者たちに追撃されることもなく、どうやら無事に逃げ出せた私たちは、再び森の中に入っていた。ここから南側の都市は、そのほとんどが魔王軍の支配下にはいってしまっている。どこの町に行っても捕縛されてしまう運命であり、補給をほとんどあきらめて野宿を続けるしかなかった。
どうしても補給したいなら比較的リスクの少ない人間側の町で休むしかないが、それだと魔王軍本部から大きく離れることになってしまい、本来の目的から遠ざかることになる。
「この子を、どうしましょうか」
放っておくわけにもいかずにつれてきたものの、両足を骨折したウェイトレスの容態はよくない。あれから何度か話をして、本人から名前くらいは聞き出しているけれど、今後のことを考えられるような状態にはなかった。
ウェイトレスこと、フーナはすっかり憔悴してしまっている。意識が戻っているときは泣いてばかりで、そのほかはぐっすり寝ている。あんなことになってしまったのだから無理もないけれど。
「それに、四天王というのも気になりますし」
うん、そうだ。私はブルータにうなづく。
勇者たちからぽろりと出た「あの四天王」という言葉については考えなければならない。




