2・暗殺指令 前編
砂漠都市に入ったとき、ブルータのローブはすでに汚れていた。ホウの部下に洗ってもらったばかりだというのに、砂にまみれてしまっている。それが気になるのか、彼女はローブを叩いて砂を落とそうとしていた。
それが一通り終わると、都市の中を見回して歩みを進める。俺はブルータの胸ポケットから顔を覗かせて、周囲の様子を見ていた。とりあえずブルータには街の中を一通り見てまわるように言ってある。行き先は特に指示していないが、何か異変があれば即座に俺を呼ぶように言っておいた。俺は自分の目でも街中を見回しつつ、リンからの指令を思い返していた。
「この砂漠都市にいるという男、タゼルの暗殺」
これが今回の指令だ。俺たちに下された最初の指令であり、最初の暗殺指令。ブルータの性能もまだ定かでないうちから、大層なご使命だといえる。ともあれ、やるしかない。リンの命令を無視したら、死ぬより恐ろしい目に遭うだろう。途中でタゼルの暗殺が不可能ごとだとわかっても、逃げ出すことは許されそうにない。俺も、ブルータも、魔王軍にとって不可欠の存在などではないからだ。代用品はいくらでもある、それが現実。逃げ出せば処分されるだろう。
砂漠都市に、異変は見られない。平和だ。魔王軍がそこまで迫ってきているという緊張からくるものはあるだろうが、それ以外はきわめて平和。町の入り口に衛兵が立ってはいたが、ハーフダークであるブルータにとって、その目をかいくぐることはたやすかった。ここに到着したときに、すでに日が暮れていたことは好都合でもあり、夜陰に紛れて都市の中に転がり込んだわけである。
そうしたことが可能なのだから、大した警備はされていないともいえる。
「ブルータ、とりあえず酒場でも探せ。情報はそこにありそうな気がする」
定番だが、酒場で情報収集。こんなときに旅行者や旅人はそうそういないと思うが、勇者に関する情報や、人々の精神状態を探るにはそこがいいだろうと判断した。
俺の命令をブルータは承知。近くに見える看板に向かって歩き出した。とはいえ、ブルータの姿はまだまだ幼い少女のものだ。そのまま入って大丈夫なのかという疑念はある。が、ブルータの声はかすれているので年齢がわかりづらいだろうし、フードを深く被っていれば顔も見づらいだろう。そもそも酒場は酒しか提供しないってこともない。宿も兼ねている店なら余計だ。そもそも、戦争が始まろうとしているこの世の中で、身寄りのない女が一人で旅をしているなんて話は珍しいものではない。その身体を売りながら生計をたてて、寄るべきところを探す儚い旅をしている女なんてのは腐るほどいる。ブルータもそういう類に見られることだろう。そんな連中に、子供が酒を飲んではいけないなどという理屈は通用しない。
そうした次第で、ブルータは酒場に入った。
酒場の中は広かったが、そこに置かれたテーブルの七割ほどは、埋まっている。テーブルを埋めているのは酒飲み達だ。中年以上の男性が多く、酒をあおって料理をつまんでいる。入り口の近くにいる酒飲み達はやや周囲に迷惑なほどの声で談笑しているが、奥のほうにいる連中は陰気で、こちらをこそこそと観察している。
「らっしゃい、お一人かい」
酒場の店主が、ブルータをそんな声で迎えた。俺はブルータの胸ポケットに隠れる。ブルータは小さく頷いてカウンターに近づいた。
「人を、探しているのですが」
探してるのは、暗殺の標的となるタゼルである。俺たちは彼がどういう人物なのかも知らない。どういう人間であれ、命令である以上は殺すしかない。
「そうかい、どんな人だかしらねえが。今は世の中が荒れちまいそうなときだ。魔王軍が近くにいるんだ、お嬢さん。とっととお家に帰ったほうがいいじゃんねえかい」
応えたのは店主ではなく、カウンターに座っていた男だった。彼は若いながらも口ひげをたくわえている。
「第一、こんな世の中だってのに連れの一人もなしに女が一人旅か? そんなんじゃ危なくてしょうがないだろう」
「心配無用です」
男がブルータの顔をのぞきこもうとしているが、ブルータはそれを相手にしなかった。
「どんな奴を探しているのか、言ってみな。ひょっとしたら知っているかもなあ」
お呼びでないということがわからないのか、彼は尚も食い下がる。こちらとしては迷惑だが、確かに情報を持っていない可能性がゼロというわけでもない。
「タゼルという、この地にいる賢者を探しています。彼に会うように言われて私はここに来ました」
「そんなやつはここにはいないよ。いるのは傭兵にもなりそこなったごろつきか、飲んだくれだけだ。あとのまともな人間はこんな魔王軍の迫ってきているこの町にいるわけないだろう」
男は、笑いを浮かべた。
俺はこの男の相手をする必要性をまるで感じなかったのだが、ブルータは律儀に反論する。
「いえ、ここにいるはずです。私は彼を探さなければなりません」
「いねえよ、賢者さまってんなら、それこそとっくに、いの一番でこっから出てっているはずさ。見捨てられてンのさ、この砂漠都市はな!」
男が吼える。確かに、人間達の感覚からいえばそうなるだろう。現実に魔王軍の、それも四天王のリン自らが率いる大軍が攻めてきているわけである。にもかかわらず大した防衛策もとられていないわけであるから、砂漠都市は見捨てられている。
都市の自衛軍のみの防衛が、うまくいくはずもないのだ。となれば、懸命な人間はとうに、この都市から脱出をしている。残っているのは経済的にそれが不可能なものたちだけ、ということになる。
しかしながら、現実には今のところそうなっていない。砂漠都市の中は比較的平穏であり、人口もさほど変動していない。なぜなら、砂漠都市の人々は間もなくリンの率いる大群が攻めてくることを全く分かっていないからだ。
「けっ、何言ってやがる。魔王軍っつったって、いつものとおりわずかばかりの寡兵だろう。自衛軍と小競り合いして終わりさ」
入り口近くにいた男が、吼えたぎった男に向けて冷ややかな声を発した。
つまり、彼の声が砂漠都市にいる人間の一般的な認識なのだ。現実はそうでないにもかかわらず、そう思って安心しているのだ。
「まあそうかもしれんがな」
見捨てられている、と発言した男もどうやら本気でそう思っているわけではないらしく、ただの冗談だったらしい。すぐに笑みを戻して酒を流し込む。
勿論、彼らのその幻想はすぐに潰えることになるのだが、その瞬間まで彼らはその幻想を疑いもしないだろう。かかっている。彼らは、魔王軍がしかけた策略にひっかかっているのである。
魔王軍は、寡兵で何度もこの砂漠都市を攻め、小競り合いを幾度も繰り返した。その度に大した被害も出さずに引き上げていったのだ。最初のうちは本気で迎撃し次こそは奴らを壊滅させると憤り策を講じていた砂漠都市であったが、幾度も繰り返される大したことのない攻撃に、やがて緊張の糸を完全に切ってしまったのである。何もしなくても都市は防衛されているので問題ない、という考えに行き着いてしまったのだ。その結果がこの油断だ。当然、この後は攻め込んできたリンの大軍によって踏み潰される。
この策を考え付いたのはシャンである。卑怯とは誰も言わない、計略だ。その計略に人間達がかかっただけのことだ。
「それで、彼の居場所を誰もご存じないのですか」
ブルータは相変わらずのかすれた声で問いかける。
しかし、最初にブルータに絡んできた男も首を振る。どうやら彼も知らないということらしいが、それにしてはブルータから離れようとしない。顔はかなり緩み、ニヤニヤとだらしなかった。
「教えてやらんこともないんだがな、お嬢さん」
「何ですか」
男は、ブルータの肩に手をかけた。随分と馴れ馴れしい。俺からしてみれば鬱陶しいくらいだ。
「へへ、ちょっとここじゃ言えねえんだよ。外で話そうじゃないか」
どうやらこの男は、ブルータを誘っているらしい。お外で大人のお付き合いをする代わりに、情報のいくらかは教えてやれるかもしれないと言っているのだ。しかし俺はともかく、ブルータはそうしたことをわかるほど鋭敏でない。
「外に出れば話してくれるのですか」
「ああ」
言葉どおりに受け取ったブルータは、頷いてから銀貨を店主に放った。そのまま店を出る。男もブルータに続いて店を出た。
このままいけば、この男はブルータの身体を毒牙にかけるかもしれない。が、俺としては、別に情報が得られればどうでもいいことだった。ブルータが男に何をされようが、別に俺の身体は痛まないし、汚れもしない。邪魔はすまいと考えて、静観を決め込む。
外に出れば、薄暗い夜。男はそのまま、ブルータを裏路地に誘った。迷いのない行動だが、ブルータの体躯から幼いということはわかっているはずだ。全くこの男の趣味は俺には理解できそうにない。未熟な、幼少の女を偏愛する輩がいるということは聞き及んでいるが、実際こうしてみると気持ちが悪い。まあ俺には関係がないが。
「お嬢さん、こっちの知ってることを話す前に、報酬のほうをもらいたいもんだが」
「金銭的な報酬であるなら、ある程度はお出しします」
ブルータはフードで角を隠したままだった。バカ正直な受け答えをする。しかし男の方はそれで納得するはずもなく、ブルータの服を脱がせようとフードに手をかけた。
「やめてください」
フードを極力とらないように俺から命令されているブルータは、男の手を払った。
「いや、やめねえよ。これが俺の欲しい報酬だからな」
「私があなたに身体を許せば、私の欲しい情報をくれるというのですか」
「そうだ」
ようやくブルータはことの次第に気付いたらしい。しかし、今さら遅い。俺は全てを見届ける気もなかったので、ブルータのポケットの中で眠ってしまおうかと考えている。外をのぞくこともやめて、身体を丸めた。あとは「きゃー」でも「わー」でも、勝手に泣き叫ぶがいい。俺は痛まないし、どうでもいい。ハーフダークのブルータは、多少乱暴されたくらいでは死ぬこともないだろう。後には何も残らない。
しかし、ここでブルータは俺に思念を飛ばした。魔法による思念会話だ。相手が寝ていても絶対に届く、魔力を帯びた思念を相手の精神に直接ぶつける通話の魔法である。周囲に絶対に漏れ聞こえることのない会話方法だ。このことから、思念会話のことを密談の魔法、などと呼ぶ者もいる。
《すみません》
最初の思念はそんなものだった。助けてくれと言いたいのだろうが、俺は無視することに決めている。
しかし、続けて送られたブルータの思念は、俺の予想とは違っていた。
《この人物は、我々に敵対しようとしています。私自身の戦闘能力を実戦で試すため、手ごろな相手と思われます》
《なんだと?》
俺は思わず返答をしていた。
《以前指摘を受けたとおり、私には実戦経験があまりありません。タゼルと比べれば恐らく実力の格段に劣る相手と思われますが、交戦する価値がある相手と思われます。交戦の許可をいただけますか》
なるほど、納得できる。俺は、身を起こして外を覗き見た。ブルータは男の接近を華麗なステップでかわしているところだった。
「おい、なぜ逃げる。俺にもお前にも得な話だろうが」
《許可を》
ブルータは男の言葉を無視して俺に思念を送ってくる。
彼女の提案に、俺は納得していた。この提案を蹴る意味は薄い。
《交戦しろ、許可する》
俺がそう思念を送ると同時に、素早く伸びた男の手がブルータのフードを払った。色の薄い彼女の肌と頭部に生える折れ曲がった角があらわとなり、ブルータがハーフダークであることが男にも知れた。
「なっ! お前、悪魔どもの仲間か」
男は呆気に取られたようだった。彼が呆けている一瞬に、ブルータは地霊から魔力を集める。
しかしまずい。街の中に魔族がすでに侵入していることが知られれば警戒は強化される。町からの脱出に手間取ることになるだろうし、リンが率いる本隊の行動にも影響を及ぼしかねない。
《ブルータ、そいつは絶対に取り逃がすな。ここで始末しろ》
《抹殺指令、了解》
ブルータは右手に集中した魔力を冷気に変換させながら思念で返答をした。
ここで男がこの場からの退却を考えているとしたなら、間に合わない可能性がある。ブルータの放つ低温の魔法は相当に素早いが、それでもその射程はそれほど長大ではない。ハーフダークの身体能力なら彼に追いつくくらいはたやすいが、その咽喉まで封じるには時間がかかる。それまでの間に彼は助けを求めて叫ぶことができるだろう。そうなれば、いくらなんでも俺たちの正体がバレてしまう。
だが、男は腰に下げていた剣を抜いた。しかも、恐るべきことに我々に向かって斬りかかってくる。
彼は、実力差というものをまるで認識していなかったのだ。
全く拍子抜けだ。
《逃走するかと思ったが、向かってくるとは。自殺志願者か!》
人形相手に言っても無駄だとは思いながら、俺はそう思念を飛ばさずにはいられなかった。
《彼は私たちに勝てると思っているのかもしれません。あるいは、わずかな可能性で私たちを倒し、自分の名声を高めるつもりかもしれません》
路地裏の中は黒一色の闇だが、闇の眷属であるブルータには敵である男の姿が見えている。これだけでも有利だが、さらにここが路地裏の狭いところだという点でも我々は優位であった。敵の剣はこのようなところで思うように振るえないことが確実だ。
俺でもそのように考えられるというのに、敵の初撃は、壁に剣を弾かれるという結末に終わった。広場と同じように剣を振るった敵は、周囲を囲む壁によって剣を止められたのだ。
《こいつ、バカか》
俺の念話に答えず、ブルータが躊躇なく低温の魔法を放つ。敵は隙だらけであった。ほんの、数秒間の戦闘であった。
《抹殺指令、完了しました》
体中から熱を奪われ、文字通りがちがちに凍りついた酒場の男は、バランスを崩してその場に倒れこんだ。その衝撃だけで頭部が半壊し、二度と彼の生命は戻らなくなる。
あまりにもあっけなかった。こんなものが初の抹殺指令だとは、情けなくなる。俺の第一仕事にふさわしくもない。このことは、リンやシャンの耳には入れないでおこう。あまりにもカッコ悪い。
俺からの抹殺指令を果たしたブルータは、フードを被りなおしている。一仕事終えた気分なのかもしれないが、目的は達せられていない。タゼルの居場所がまだ見当もつかない状態だからだ。情報収集を続行しなければならない。酒場に戻るべきだろう。
凍結した男の死体がその場にまだ倒れている。俺は幻惑をみせる魔法を用いて、それを隠した。普通の人間なら、一晩は彼を発見できない。そのようにしておいて、ブルータに酒場へ戻るように言った。
「了解しました」
酒場に戻ったブルータは、店主にやや怪訝な顔で見られながらも再度の情報収集を行う。
「あの男はどうしたんだ?」
「気分がすぐれなくなったようなので、そこで別れました」
ブルータは店主の問いに答え、カウンターにある席に腰を下ろした。
「何か飲むかい、お嬢さん」
「ホットミルク」
淡々と答えるブルータだが、酒場に入ってホットミルクである。からかうような者はおらず、店主は黙ってホットミルクを出した。
「賢者と呼ばれる、『タゼル』という男のことについて知っていることはありませんか」
「さあね」
生返事をする店主に、ブルータは銀貨を差し出す。どこでも情報には対価が必要であるらしい。
「チップです」
「ああ、そういやあそいつかどうかはわからんが、このへんでは高名な奴が来たらしい。裏通りのボロ屋に住み着いてるって話だ」
最初からこうしていればよかったのだ。結局、情報を持っていたのは酒場の店主。拍子抜け、というのはこのことだが今日だけで一体何度この言葉を使ったことやら。最初の任務だからか、予想外に簡単だ。何もかもがうまくいきすぎているようにさえ感じる。誰かが裏で手を回しているのではないだろうかとさえ疑ってしまいそうだ。
ともあれ、情報が手に入ったことには違いない。早速その場に行ってみることにしよう。折角頼んだのだからと、ブルータはホットミルクを飲んでいる。うまくないのか、奴の表情にまるで変化はなかった。飲み干して、ようやく店を出る。
酒場を出ると同時に、何かが背後で動いた。俺はそれに気付いたが、ブルータに何も言わない。
裏通りに出るためにしばらく歩いたところで、背後の気配にブルータも気付いたらしい。らしい、というのは奴の反応が薄く、本当にそのときに気付いたのか、それとも前から気付いていたのか不明だからだ。
《何者かが我々を尾行しています》
そんなことは、いちいち思念を飛ばしてこなくてもわかっている。
《彼らを、排除するべきでしょうか》
先ほどから俺は彼らを観察していた。もちろん、酒場にいた連中であって、それなりに腕の立つ傭兵たちだ。恐らくは自警団の一員であり、見慣れぬ旅人である俺たちをそれとなく監視するつもりでいるのだろう。何しろブルータは街の外壁を飛び越えて入ってきたから、警備の人間達には見られていない。流入していないはずの人間を、警戒するのは当然のことだろう。
《排除だけでは足らない、抹消しろ》
殺せ、ではない。消せ、である。
先程は俺の魔法で死体を隠蔽したが、ブルータは死体を跡形もなく消し去ることが可能なほどの魔力はもっているはずだった。今回、尾行してきている人間は数名、少なくとも三人はいる。さすがにそれを魔法で隠してもダメだろう。目立つ。
となれば、最初から魔法で消し去る方が効率的であった。
《抹消指令、了解しました》
ブルータは、それまでと変わらない調子で歩きながら地霊を集めて、魔力を溜めていく。
尾行している人間達はそれに気付いたらしく、剣に手をかけた。魔力に気付くだけで、それなりの場数を踏んだ戦士だと認識できる。どうやら、先程の男とは違ってブルータの実力を十分に見極めることが出来そうだ。
《地臥の魔法を使います》
ブルータは歩きながら右腕を強く振り払った。魔力が地面に振りまかれていく。
『地臥の魔法』は、主に地面を対象とする魔法だ。たいていの場合踏まれればその場で、術者に仕込まれた魔法を発動させる。ブルータの場合、得意の低温の魔法だろう。要するに、凍結罠。
場数を踏んだ相手なら通じないかもしれない。地面に振りまかれた魔力に気付けば、すぐにこの『地臥の魔法』に思い当たる。それをわざわざ踏み抜くような歴戦の戦士はいない。
だが、ブルータは走った。あたかも今、敵の追跡に気付いたように走り出したのだ。