16・精神汚濁 後編
私たちがフェリテの転送魔法で送られた先。
そこは、紫色の空が広がる白い大地。岩のようなごつごつとした地面に、雪が降り積ったような白が混濁している。その上、異様な寒さ。
周囲を見回してみると、あちこちに広がる青い魔法陣。
ここはどうやら治癒術師フォンハのいた場所。彼女の隠れ家。治療施設。
ああ、フェリテは実に気が利いている。消耗したブルータには、確かにフォンハの力が必要だ。
私はレイティの記憶で見たとおり、背後の洞穴は無視して歩き出した。
すぐに、倒れている人々の姿が見えてくる。下級悪魔がふらふらと、患者の間を忙しく飛び回っているようだ。その中には結構な美貌をもった女性の悪魔もいる。どちらかといえば、中級悪魔のユエに似ていた。倒れているときに介護をしてもらえるのなら、ああいう優しそうな女性のほうがいいとは思う。
そうしたものを横目にしつつ、私はブルータとともに奥にある洞穴へ急いだ。奥のほうから、死霊の気配がする。
童女の姿をした死霊の悪魔。
「ほう、よくきたな。わしに会いに来てくれたのなら嬉しいが、どうもそうではないらしいな」
以前、レイティの記憶で見たときには腐りかかっていたフォンハ。しかし、今の彼女は綺麗な容姿を保っている。髪もすっきりとまっすぐに腰まで伸び、その肌も白々としたものになっていた。
たったいま心臓の病で亡くなった童女と言われても信じられるくらいに、新鮮な身体。
「そうです。治療をお願いしにまいりました。対価は、いかがいたしましょう」
ブルータは血を流す両手をフォンハに見せて、軽く頭を下げた。
治癒術師のフォンハはニヤリと笑い、上機嫌に言い放つ。
「なになに、お前さんから料金をとろうなんてことは言わぬ。ルークスの傷も治って、追加の報酬まで人間からたんまりいただいたところじゃ。懐は暖かいし、その上お前さんのような可愛らしいのがお客さんともあれば、タダでも結構じゃ!」
なんとも気前のいいことだ。無償でブルータの傷を診てくれるというのである。
それだけブルータを気に入っているということだろう。以前、彼女の愚痴にブルータが延々と付き合ってあげたことを、忘れていないのかもしれない。
「恩に着ます、フォンハさま」
「うむうむ。たっぷり恩に着てくれ。まあ、さすがに本当にタダにすると弟子どもがうるさいからの。その怪我をした理由をきかせてくれたら、それで対価ということでよいじゃろう」
そのくらいなら、別に構わないだろう。私たちはもう魔王軍でもなんでもないのだから。
しかし彼女の口調からすると、外で働いている悪魔たちはどうやらフォンハの弟子であるらしい。考えてみれば、魔王軍にも知れ渡るくらいの治癒術師なのだから弟子くらいいて当然か。
まあとにかくブルータの治療はこれでできるだろう。安心する私に、フォンハが目を向けてきた。
「それで、そこにいる妖精は。わたしへの貢物か?」
「そんなわけないでしょう!」
私は思わず、叫んでいた。
初対面でのフォンハの印象は最悪だったが、とりあえず貢物にはされずにすんだ。ブルータが「私の大切な友人です」と言ってくれなかったらどうなっていたかわからないが。
とりあえず、洞穴の奥へ移動して事情を説明することになった。
奥のほうは広間になっていて、何かの魔法で清潔に保たれているようだ。壁も直面に切り取られていて、きれいな真四角。洞穴の広間というよりも、部屋。
見事なものだ。これも魔法で作ったのだろうか?
寝台や椅子もしっかり整えられている。そこらの町にある施療院よりも設備が充実していた。
「まあかけてくれ」
フォンハが椅子に座り、机の上に置かれた酒瓶を開ける。そのまま瓶に口をつけ、中身をぐいぐいと飲む。
幼い姿でそういうことをするのはよくないと私は思うが、注意するのは面倒くさかった。
ブルータも置かれていた椅子に腰を下ろし、息を吐く。疲弊しきっているようだ。説明はどうやら、私がしたほうがいいだろう。私は寝台に行くようにブルータに言う。
「フォンハ、事情の説明は私がするから。疲れてるブルータは休ませてあげてよ」
そうしないと容態が悪化するかもしれない。
「わしを呼び捨てにするか、妖精のお嬢ちゃん。まあいい。あんたも可愛らしいからなあ、許してやる。話はま、そういうことなら治癒術をかけながらきいてやろう。外へ行って助手を呼んで来い、女の悪魔だ」
酒瓶を空にしたフォンハは、やおら立ち上がってそんなことを言った。どうやら、提案は聞き入れてくれたらしい。
私はその要求にしたがって、外にいる女性の悪魔を呼びに飛んでいった。
「そういうことかい。まあわしには関係ないが」
今までの事情を説明したら、フォンハはそんなことを言ったのである。
関係ないわけがない。魔王軍だってフォンハにはいろいろと報酬を支払っているし、ホウとはかなり懇意な関係であるはずだ。そのホウの片腕、第一の側近であるフェリテがあんなことになっているのに、フォンハは平然としているのだ。
こんなことはひどすぎる。
「あのねえ、フェリテがガイに捕まってるのよ! なんとかしなきゃまずいじゃないの」
「なんとかって、どうする気なんじゃ。わしは治癒術と結界術が専門で、戦闘なんぞできんぞ。まあ護身の魔法くらいは心得てるがな。ガイに正面から勝てるとは思えんな」
「そうだけど」
「ブルータにしても。ふん、処置は終わったぞ。こんな怪我は二時間もあれば完治する。そこからあとはどうするつもりなのかわしは知らんぞ? まあわしの治癒術を学びたいというんならここにおいてやってもいいが」
「うー……」
私はうなった。どうするべきなんだろうか。
状況的には、かなりまずい。ブルータの、母親に会うという目標。こんなもの、達成しようがない。母親はとっくに死んでいるのだから。
私とブルータは、こうして治癒術師フォンハの拠点にいる。フォンハは人間も悪魔も平等に治療する死霊悪魔で、中立を保っている。この拠点にいる限り、魔王軍と人間軍の争いに巻き込まれることはないはずだ。
母親はすでに死んでいるが、では父親は誰なのか。わからない。
レイティは、死んだ母親は育ての親に過ぎず、ホウがブルータの実の母親ではないかと睨んでいたこともあったようだ。しかし、ホウ本人がそれを否定している。となると、手がかりはない。
四天王の、ガイを除いては。
ガイはブルータを人里から拉致してきた張本人。広陵都市で暮らしていたブルータの母親を殺した悪魔でもある。
死んだ母親が育ての親であるとするなら、まあ確かにホウが実の母親である可能性はある。あの異常なほどのブルータへの気遣いもそれなら納得できるというものだ。想像に過ぎないが。
やはり、手がかりとなるような人物はガイ以外にはいないだろう。広陵都市のラビル司祭が亡くなっている以上、もはやどうにもしようがない。
レイティのようにラビル司祭の記憶結晶も作れればいいのだが、ホウ以外にあんな器用な真似ができるのはリンくらいだろう。
「四天王の、ガイに会いに行こうと思います」
「ブルータ」
少し前から目を閉じていたブルータがそんな声をあげる。私はしかめっ面で振り返った。
「今のあなたじゃ絶対に、ガイには勝てないと思うんだけど」
「フォンハさま」
私の忠告に首を振り、フォンハを呼ぶ。
「怪我のほかにも、診ていただきたいところがあるのですが」
「ほう」
「魔力の集中が、うまくいかなくなりました」
「ふむ?」
たった今、ブルータの怪我を診て終わったばかりで手を洗っていたフォンハ。彼女はニヤリと笑いながら振り返った。
治癒術に多少の魔力を使ったらしく、肌つやが少し落ちている。それでもあどけない顔はまったく変わらないが、邪悪な笑みがすべてを台無しにしていた。
「おぬし、そいつはいつから? つい最近か」
「はい」
「おそらく、リンの悪戯じゃな。どら、ちょいと診てやろう」
言うなり、フォンハは右手に魔力を集中し、そのままブルータの手をとった。
診察しているのだろうか。ブルータの体の中の、魔力の流れを診ているのかもしれない。
「ほう、こいつは難儀なこっちゃな」
「どうだってのよ」
もったいぶった言い回しをするフォンハを、私はせっついてやる。
「だいぶ、痛い思いをしたようじゃな、ブルータ。かわいそうに。お前の心は、ひび割れたのじゃ」
「と、いうと」
「魔力を集めて、集中させるのに必要な器じゃ。そいつにひびが入ったと考えてみればよい。集中させている先から、漏れ出てしまう。そういう感じではないかな、今の症状は」
「はー、なるほど。それで、それは治るわけ?」
確かに、フォンハのいうとおりである。私もブルータの魔力集中を手伝ったので大体、わかる。幻影剣の射程が半分程度しかなかったのも、これが原因だといわれればそうだという気がする。
「まあ治るといえば治るがな」
「何か必要なの」
「大量の魔力が必要じゃな。途方もない量の。何かものすごく珍重するような、希少種の精霊の、処女性の高いアレがあればいいのじゃがなあ」
こ、こいつ。
私はまたしてもうなってしまう。私は妖精で、かなり若い部類に入る。
処女性の高いアレ、というのはアレのことだ。ああ、こんなことになるならもっと早く、バロックにささげておくべきだった!
「それって要するに、私がアレすればそれだけの魔力をまかなえるってこと?」
「そうです」
と、今まで淡々と作業に従事していた女性の助手悪魔が答えた。私は思わずドキリとしてしまう。
今まで無言だったので、まさか口がきけるとは思わなかったのである。
「フォンハにすればいいわけ?」
「うむ。本来ならたんまりとカネをいただくところじゃがな。ふふ、それだけの魔力があれば必要十分以上。おぬしらの治療は今後十年タダでもよいぞ」
当たり前である。妖精種のアレだ。国家予算級のカネをわたされても、嫌いな人間にはあげたくないものだ。
しかし今回はブルータのためだから仕方ない。
「うぅ、仕方ないなあ」
そういうわけで、私の初めてのキスは死霊のフォンハにささげることになった。後悔はしないけど、つらい。
神聖なその行為から引っ張り出した魔力の総量たるや、抑制魔法をかけていなければ洞穴が吹き飛ぶことさえ懸念されるくらいだった。これで媒介にしたのが死霊のフォンハだからよかったものの、生物であったなら一瞬で疲労困憊して微動だにできなくなったことだろう。
フォンハの肌つやは一瞬で赤子のようなきめ細かなものに変わり、髪も光沢を放つほどに整い、それでも足らずに全身から淡い輝きを放ったくらいだ。あふれかえる魔力、ホウが与えたものの何百倍というほどのもの。
もちろん、その魔力を使った治癒術によってブルータは、一瞬で全快した。
そうでなくちゃ困る。私という妖精が、一生に一度しか使えないものをささげたのだ。このくらいでなければならないに決まっていた。
悔やみはしない。しないけど、がっかりはする。ああ、バロック。
ブルータは治った途端、私に向かって必死に謝ったりお礼を言ったりと急がしそうだ。私がしたくてしたことなので、ブルータにどうこうと言われてもなんともいいようがない。そもそもブルータのことをかわいそうだと思って行動した、私の責任なのだ。
「そんなことより、これからどうするつもりなの」
「それなのですが、やはり広陵都市に戻るべきだと思っています」
ああ、やはりそういうことになるわけね。
しかしあそこには四天王のガイがいるし、危険だ。戻るにしてもあそこ以外の場所だろう。私としては何か作戦を立てないことには戻れないと思う。
「四天王のガイに、勝つつもりなのね」
「魔力の集中は、すでに戻っています」
言いながらブルータは両腕に魔力を溜めてみせる。すばやく、力強い集中だった。
確かに、以前の力は戻っているようだ。
しかしそれでも、ガイに勝てるかどうかというのは微妙な話ではないだろうか。幻影剣の呪文さえ当てれば勝ち、には違いないが。相手は四天王のガイだ。フェリテやロナより強いことは確実で、ホウやリンにももしかしたら匹敵するのだ。
本当に勝てるのか、という気になる。
「勝てるかどうかではなく、彼しかもう手かがりがありません」
まあ確かにそうなんだけど。
「しかしお前たち、そんなに急いで戻る必要があるのか? フェリテを助けたいのならまだしも、そのような状況ではもはや助かるまいよ」
「うっ」
そういわれてみれば。
しかし、私はまだ死んでいない可能性のほうが高い気がする。フェリテだ。あの、フェリテなのだ。
まして相手はあのガイ。いたぶって、殺す寸前まで追い込んでまだいたぶる。悪魔のような悪魔というのも表現がおかしいが、とにかく外道だ。だからこそ、生かされている可能性がある。
おそらく死ぬよりつらい苦痛を受けているに違いないが、まだ生きていればなんとかなるのだ。ここには世界最高の治癒術師であるフォンハがいる。
「世界最高かどうかは知らんがな。まあフェリテが生きているならできるかぎりのことはしてやろう」
「それ、約束だからね」
フォンハの言質もとった。後は、生きてさえいてくれれば。
「いきましょう、ルメル」
ブルータは身なりを整えている。霧の衣装も着ている。そうとも、フェリテを助けに行こう。
正直、ガイがいるので怖い。つかまったら本当に、ブルータも死ぬよりつらいめに遭うに決まっている。それでも、彼とぶつからないと前には進めない。
ブルータにはもうこんな人間と悪魔の戦争のことなんか忘れて、どこかの山奥でひっそりとでもいいから、平穏な暮らしをしてもらいたい。私の本音はそれ。
けれども、それでは彼女は生きていけない。
お母さんに会いたいという彼女の希望にしがみついて、確かに能動的に生きるということを、していかないといけない。
「よろしい」
二本目の酒瓶を空にして、フォンハが蕩けた目で私たちを見やった。
「準備ができたなら、転送の魔法で送って差し上げよう。このくらいはサービスだ」
体調は万全だ。私も、ブルータも。
既に、日は落ちていた。私たちがフェリテの転送魔法でここを去ってから、およそ半日が経過している。
私たちはフォンハの転送魔法で、広陵都市に戻ってきた。夜空が広がっている。星が見える。
なのに、街は明るかった。燃えていたからだ。
ガイの部隊が、都市に火を放ったらしい。アービィの暴走で確かにドラゴンブレスは町中に振りまかれたが、ここまで火勢が大きくなるとは思われなかった。
確実に、ガイかその部下が火を放ったのだ。
ブルータはすぐに隠遁の魔法を使ったが、そらこじゅうから悲鳴と悲鳴交じりの嬌声が聞こえる。
強奪、強姦、虐殺が戦争のすべてだ。なんてことを昔、バロックから聞いたことがある。それはどうやら事実のようだと、私はあらためて思う。
足元には血だまりが広がっていた。誰のものかもわからない。
「この虐殺には、ガイは参加していないようですね」
ブルータは、冷淡な声でそう言った。この惨状を前にしても、何も思うところはないのだろうか。
思わず私は彼女の顔を見やる。そこには何の感情もあらわさない、無表情でたたずむブルータがいた。




