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暗殺の青  作者: zan
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9・怨憎会苦 後編

 逃げ延びろ、と命令したところでブルータの足は進まない。

 血に染まった侍女服を引き摺り、のろのろと歩くだけだ。息を整える暇もなく、血のついた手を壁について必死に身体を支えている。

 これでは逃げろと言ったところで不可能ごとだ。

 しかしブルータは歩みを止めない。最後まで、任務を遂行することだけを考える人形ならではだ。

 兵士達が集まってくる。すぐにも囲まれてしまうだろう。

 俺はブルータを見捨てることを決めているので、兵士に囲まれようともなんともない。勇者ラインさえ来なければ、いくらでも逃げおおせる。

「逃げられそうか」

 俺は、無理とわかっていながらもブルータに訊いてやった。

「厳しいです」

 と言いながら、ブルータは出口に向かわない。階段を無視して、窓に向かっている。飛び降りるつもりか。

「そこの者、止まれ!」

 そうこうしている間に、兵士の一人がブルータに追いついた。槍を突き出してくる。

 すでに重傷を負っているブルータはそれを避けることができない。まともに受けた。

 その一瞬で、俺は開いていた窓をくぐって逃げる。

 あとのことは知ったことではない。自分だけが逃げて、俺は城塞都市の外へ向かう。小さな俺を、誰も気に留めなかった。

 このまま逃げられるだろうと俺は思っていたし、誰が見てもそうだったはずだ。


「逃がすと思うか?」

 都市の外壁に向かっていた俺に、そんな声が吐きかけられた。

 明らかに俺に向かってぶつけられたその台詞に振り返ってみると、土色のマントを翻した若者。

 剣を抜いた勇者。

 こちらに向けて今まさに剣を振り下ろそうとしているところだった。

 俺は息を飲んで、咄嗟に右に逃げた。瞬間、悪寒を感じて地面を転がる。唸る風が頭上を通り過ぎ、勇者の剣が俺の耳を僅かに裂いた。

 ほんの少し頭を上げていたら、首が飛んでいたに違いない。

 勇者ラインはどうやら、俺のほうをブルータよりも脅威に感じたらしい。それは光栄ではあるが、このようなかたちでの歓迎はごめんこうむる。

 俺は恐怖で全身の毛が逆立つのを感じながら、この場を逃げ出そうと必死になる。

 思念会話でブルータを呼び寄せようと考えるが、奴の体に突き刺さった槍のことを思い出す。生きていたとしても恐らく動けまい。こんなことになるのなら見捨てなければよかったか。

 今さら言っても仕方のないことではあるが、俺はそう思わずにいられない。舌打ちをする余裕も無いほど繰り返し突き出される勇者の剣をどうにかこうにかしのぎながら、俺は思考をフル回転だ。一撃でも食らったら終わりである。

 かなり絶望的な状況だ。最有力の勇者が相手で、俺が生き残れるとは思えない。

 俺は動き回りながらも魔力をなんとか集めて、勇者を指差す。同時に全力で逃走を試みた。

 発動した魔法は『黒色の魔法』だ。勇者はそれを受けて吹き飛ぶ、かと思えば両膝を踏ん張って地面に傷跡をつける。奴のブーツが地面を数歩ぶん抉った後、その場に留まった。

 俺は振り返ってそれを確認した後、逃げる足を速めた。とんでもない化け物だ。下級魔法とはいえ、俺の放つ『黒色の魔法』はブルータのものと比較しても遜色ない威力があるはずだ。常人なら壁にたたきつけられて内臓を吐き出すほどの、だ。

 それをちょっと地面に踏ん張っただけで耐えるというのはおかしい。そもそも人を浮き上がらせるほどの衝撃を受けて平然としているのはどういうことなのか、説明してもらいたいくらいだった。

 心中に悪態を吐きながら逃げる俺の背中に、強い衝撃。重量の軽い俺はそれだけで、吹き飛ばされる。吹き飛ばされるというよりも、矢のように飛ぶ。突然の衝撃で思考がまわらない。浮揚に使っている魔力を調整して体勢を立て直すということなどできるはずもなく、そのままの勢いで俺は都市の外壁に叩きつけられた。

 俺が悪魔でなかったら、その衝撃だけで脳髄を吐き出すことになっていただろう。現実、俺の目の前に火花が散って視界が赤く染まった。何がなんだかわからないが、脳天から出血して目に血が入ったらしい。

 今のは恐らく、ラインが放った『地脈の呪文』か何かだ。ブルータが食らったときはこんな威力ではなかった気もするが、そういうことにしておこう。

 それにしたってこれはない。こいつは本気でやばい。

 両目をこすって血を払う。俺の毛皮が赤黒い。勇者は俺をまだ逃がさないつもりでいるようだ。こちらに向かって走ってきている。

 俺は、その勢いに殺気を強く感じた。タゼルのときとは桁違いの、強烈なものだ。

 剣がこちらに突きこまれるまで、わずかな間しかないだろう。俺は、それを避けるような余力がない。決まった。

 俺は死んだ。

 何を後悔する暇もなかった。


 そのはずであったが、俺の耳に何かが聞こえる。

「なんて状況だ、お前は疫病神だな」

 女の声だ。

 女の悪魔の声。俺はそれで、自分がまだ生きていると確信した。目を開いて、それを見る。翻るマント、大きく開いた背中の翼。

「フェリテ!」

 驚き叫んだつもりだったが、まるでブルータのようなかすれた声しかでなかった。目の前にいた女は、フェリテだったのだ。

 ラインの剣を、必死の表情でフェリテが食い止めている。

「話は後だ、来い」

 来いと言いながらフェリテは俺の返事など聞かず、俺を鷲掴みにして飛び上がった。

 苦しいぐらいに力一杯掴んでくれているが、俺はそれに文句を言う気力もない。

 フェリテは背中の翼を開いて飛ぶ。勇者ラインは剣を構えて飛び掛ってきた。逃がすつもりはないらしい。

「この場を引くと言っている。逃がしてはくれないのか、勇者」

 フェリテは俺を握っている手と逆の手に槍を抜いて勇者の剣に応じながら、器用に会話を試みている。その表情を見る限り決して余裕があるわけではなさそうだが。

「お前はともかく、その手の小悪魔は逃がせないな。そいつは災厄の種となりそうだから」

 狙いは俺なのか。

 だが災厄の種とは言ってくれる。確かに今まで色々と悪さはしてきたが、俺はただの下級悪魔だ。

 フェリテは俺を握っているのも難しくなったのか、俺を乱暴に腰のベルトにねじ込んだ。これがまた俺の身体に配慮など全くなかったので滅茶苦茶痛い。とはいえ俺にそれを言う気力は既にないのであって、フェリテに文句は言えない。

 両手に槍を構えて、フェリテは勇者を睨んだ。ただ飛び上がっただけでは逃がしてくれそうに無い。しかし既に、周囲に兵士が集まる気配もしている。

 そういえばブルータはどうなったのか、俺は今頃になって気になる。だがまあ、死んだだろう。あの状況からでは助からない。

 俺だってフェリテが来なければ終わっていた。このあたりは持って生まれた運気の違いというやつか。

 今の俺の状況も安心してみていられるようなものではないが、一人だけで勇者に追われている先程の状況に比べればましだ。

 フェリテは魔力を集めながら勇者に打ちかかった。先手必勝か。

 あの恐ろしい化け物勇者に打ちかかる勇気は賞賛されるべきだ。追われただけで身の毛もよだつ恐怖なのだから。

 ラインはフェリテの槍と剣を合わせた。

 悪魔と打ち合っても、ラインの剣は弾き飛ばされたりしない。正面からがっちりと打ち合い、平然としていた。

 こいつは本当に人間か。いや、勇者というものを普通の人間と同じにしてはいけないのかもしれないが。

 それどころか、フェリテの方がむしろ劣勢になりつつある。槍と剣の打ち合いは、次第に槍が押されていく。

 数合の後、ついにラインの振り上げた剣がフェリテの槍を跳ね上げた。

 だが、フェリテはその瞬間にラインを指差す。集めていた魔力の解放だ。

 なるほどつまり、槍を弾かせたのはわざとだったのだ。その瞬間に魔法を打ち込むことが最初からの狙いだったに違いない。さすがに、ホウの右腕である。リンの評価が高かったのも頷ける。

 しかし、同時にラインもフェリテを指差していた。お互いに、同じタイミングで魔法を発動したことになる。

 フェリテが放った魔法は『炎壁の呪文』だ。その対象は、ライン。

 この魔法は通常は地面や床を指定するものだ。そこから炎の壁が吹き上がる。王妃もそのように使っていた。だが、フェリテのような熟練した魔法使いともなれば生物の身体を指定することも可能のようだ。この場合、生物の身体から炎が吹き上がることになる。その熱はもちろん、対象となった生物自身にも襲い掛かるわけである。

 かけられた魔法を解除するか、効果時間が切れるまで高熱がラインを責めつづけるのだ。

 これは成功していた。ラインの身体に炎がまとわり、離れない。

 一方ラインが放った魔法は『放電の魔法』だった。扱いの難しさで有名な雷撃・暴風系統の中級呪文。ラインの指先から微弱な電撃が放たれ、フェリテを痺れさせている。

 ラインは炎に纏わりつかれてその魔法を解除するのに忙しい。さすがに最有力の勇者だけあってその程度の熱では行動不能とはならないらしいが、それでも時間を食う。

 一方フェリテと彼女にくっついている俺自身も、電撃で痺れた。すぐにも飛び上がって逃げ出したいフェリテだろうが、翼もうまく動かないようだ。

 互いに相手の足止めを狙って魔法を繰り出した結果、こうなってしまったようだ。もちろん、俺たちが劣勢だ。

 ラインが動けなくなったところで、俺たちが逃げ出せなければ何の意味も無い。

 意味もない、どころか時間を稼がれてはそれだけ兵士たちが集まる。現に、もう俺の目に見えるだけで両手の指に余るほどの数が集まっていた。

 フェリテは痺れを強引に握りつぶし、周囲をねめつけた。

 別に俺が死んでもこいつには何の影響もないはずであるが、わざわざ助けに来てくれるとは。俺が思っているよりも俺は重宝されているらしい。あるいは、知らないうちにフェリテに好かれていたのか。

 フェリテが痺れを振り払うと同時に、ラインも自分にかけられた魔法を解除し終わった。

 弾かれたようにラインが剣を繰り出してくる。フェリテはそれを回避するが、槍を弾かれているために攻撃を受けられない。回避するしかなかった。

 フェリテの槍は少し離れた位置に落ちている。穂先から地面に突き刺さっていた。とりにいくような余裕はなさそうである。

 勇者の剣はまっすぐにフェリテの胸に向いている。咄嗟の判断で、フェリテは両腕を胸の前に交差させた。心臓を守るために両腕を犠牲にする覚悟だ。

 ブルータの右腕の骨すら切れなかったラインの剣が、フェリテの両腕を砕ける道理がなかった。フェリテとしては、敵の剣をあわよくば奪い取るか、使用不能にする目論見もあったに違いない。

 だが結果は予想に反した。実に、悪い方向にだ。

 フェリテの両腕はあっけなく千切り飛ばされ、胸のふくらみのあいだにラインの剣が突き刺さった。

 どういう仕組みか、ラインの剣はありえないほどの切れ味を発揮していた。両手を切断されたフェリテは、自分の胸に食い込む刃を見下ろす。激痛に耐えるように食いしばった口元から血が流れ落ちる。

「いい勝負だったな」

 剣を握ったまま、ラインが告げた。やつは、フェリテを強敵だったと認めたらしい。

 何がいい勝負だっただ、一方的だったではないか。奴の言ういい勝負というのは、少々逃げ惑って手を焼かせたくらいのことをいうらしい。

 畜生フェリテ、がんばれ。お前がやられたら俺まで死ぬことに。

 俺はそんなことを思念会話でフェリテに送ってやったが、その甲斐もない。必死に死んでいく自分の命を現世につなぎとめようと気合をこめるだけが精一杯だ。

 ラインはフェリテにとどめを刺すために一度剣を抜こうと力をこめる。

 だが、その一瞬をフェリテは見逃さなかった。

 口の中に溜まった血を、ラインの両目に向けて噴出した。命中はしなかったがラインはそれを避けるために、剣を抜きながらも大きく体勢を崩す。

 フェリテは反転、ラインに対して完全に背を向けた。走って逃げるつもりだ。胸と両腕から血を流しながら、逃亡に全力。

「いまさら逃げるのか!」

 その背に向かってラインが飛び掛る。フェリテの背中を割ろうとする。

「『黒翼の呪文』!」

 決死の形相のフェリテは叫ぶように言い放ち、同時に背中から魔力の翼が燃え上がった。元来彼女がもっている翼よりも大きく、凶暴な翼が開く。その威力でラインは押し戻される。

 集まりつつある兵士たちは、フェリテが逃亡しようとしていることに気づいていた。

「射落とせ!」

 その場にいた指揮官の判断か、そんな命令が飛んだ。

 兵士たちの中には弓を持った者も何人かいた。彼らが即座に構えていた矢を放つ。

 今のフェリテにそれを避けるほどの余裕はない。飛来した矢のうち、何本かは頑丈なマントやローブに弾かれた。しかし狙い済まされた一本の矢が腕のない悪魔の身体を突き破った。

 それは瀕死とはいえフェリテにとっては些細な攻撃であったが、彼女の動きを止めるには十分な攻撃だった。

 俺はその攻撃が行われている間に、ラインが体勢を立て直して魔力を集めるのを見る。

 出血のためか、あるいは頭を打ったためかまわらない思考に鞭打ち、俺はねじこまれたベルトから叫んだ。

「よけ、ろ!」

「必要ない!」

 力強い声がどこからか飛んでくる。悪魔の声だ。それも、聞いたことのある声。

 その直後にラインの身体から魔力が消失した。せっかく集めていた魔力が、横からの介入で霧散させられたのだ。ラインの攻撃は失敗に終わる。

 フェリテは命をつないだ。俺はなんとか治癒魔法を奴にかけようと魔力を集めようとしつつ、声の方向に目を向ける。

 弓を構えていた兵士たちが倒れている。そればかりか、集まってこようとしていた兵士たちが皆その場に沈んでいた。

「お前は」

 ラインは、その場にあらわれた悪魔を見て驚愕の混じった声を出す。

 俺だって驚きの声をあげたかった。その場にいたのは、四天王の一人だったからだ。


 諜報部の長、ホウだ。

 両の翼は曲げられて、何かをその胸に抱きかかえている。よく見なくても、俺がたったさっき見捨てたハーフダークのブルータだ。どこもかしこも血まみれで、呼吸も弱弱しくまるで感じられないくらいだ。正直言って生きているのかわからない。

「魔王軍の四天王の一人だったか」

 ラインは剣を構えなおした。

「たしかに、四天王に数えられている。よくご存知だ」

 ホウはさすがに余裕をもって勇者と相対している。女勇者と戦って傷を負ったばかりだというのに。

「私とも戦うつもりか?」

「そうせざるをえない」

 勇者はそう言いながらツカツカと歩みを進めるホウを凝視している。斬りかかりはしなかった。

「なら、勝手にかかってくるんだな。こちらには今この場でお前の相手をしている余裕はない」

 ホウはブルータを抱えたまま、立っているだけで精一杯という具合のフェリテに歩み寄ってくる。何があったのかと思ったが、その表情からは窺い知れない。冷静、あるいは冷徹とも見える表情でホウは片方の翼を伸ばしてフェリテに触れた。

「本当に逃げるのか」

 ラインはうめくような声でいう。ホウは応じなかった。

「帰るぞ、フェリテ」

 こめられていた魔力が解放される。ホウが『転移の魔法』を使ったのだ。

 魔王軍本部に戻るのであろう事は間違いない。ルークスがどうなったのかは不明だが、俺たち自身の手ではその死を確認できていない。

 つまりこれが俺たちにとって、最初の任務失敗となった。

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