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暗殺の青  作者: zan
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4・愛別離苦 後編

 ブルータの策は結果的に失敗だった。『腐敗の呪文』で周囲から精霊の力をほとんど枯渇させることには成功したものの、それはいまや自分たちを追い詰める結果となっている。

 その上、一時は優位に立っていたはずの偽バロックに止めを刺すことさえできず、圧倒的に不利な状況下に追い込まれた。どうすればいいのかと頭を痛める。頭痛くらいですめばいいが、このまま何の手も打たずにいれば、おそらくは殺されるだろう。まず間違いない。次の策を何か考えなければならなかった。

 精霊使いのバロック、それに妖精のルメルが敵となる。こちらはハーフダークのブルータに下級悪魔のレイティ、つまり俺。二対二といいたいところだが、対等ではない。あちらは精霊使いが二人いるも同然。こっちは魔法使いが二人だ。その上、本物のバロック以外はあたり一面腐敗した汚泥の上。魔力を集めることが出来ない。

 ブルータが破壊した世界有数の魔法武器であるバロックの杖に触れてみる俺だが、魔力などカスも残っていない。期待はずれだ。どうやら妖精のルメルが最後の一滴までも使い果たしたらしい。希少な武器になんてことをしやがる。

「ルメル、こっちへ」

 バロックの指示で、ルメルは退避していく。逃したくはない。ブルータはルメルを追うように動いた。

 恐らく、ルメルを盾にするつもりだ。こうして動けば、バロックは同士討ちを恐れて俺たちを攻撃することができない。人形のクセに、最近のブルータは知恵がまわる。

 と、思っていたのだが、バロックは次の一手を繰り出した。奴が振り上げた杖から、何か魔法が飛び出す。

 俺がよく知っている魔法だった、というかこの間習得したばかりの上級魔法。

「『黒矢の呪文』か!」

 弧を描いて飛ぶ暗黒の矢だ。ブルータの魔法障壁はまだ持続しているが、さすがにこの魔法を耐えることが出来るだろうか。『零度の呪文』にも耐えるほどではあるが、さすがにもう魔力が続かないのではないか。そう俺が思ったときには、ブルータの左腕が吹き飛んでいた。

 直撃を避けるために左腕で魔法の矢を払ったのだ。当然、素手で魔法の矢を迎撃できるわけがない。たとえそれがハーフダークの強靭な肉体であってもだ。ブルータの左腕は、ものの見事に粉砕されている。少なくとも肘から先は跡形もなく吹き飛び、切断面から赤い血が噴き出していた。

 本物の精霊使いが放つ『黒矢の呪文』の破壊力はさすがといえた。魔法障壁など打ち抜いて、ブルータから左腕をもぎとってしまう威力。俺が放った同じ魔法よりも多分優れているだろう。

 こいつはマジで、やばいかもしれない。俺の心を、さすがに死の恐怖がちらりとなめる。

 だがブルータもそこで黙っていなかった。素早く右手を負傷箇所に押し当てて、『黒矢の呪文』の過剰魔力を引き抜く。それを素早く魔法に練り、ルメルに向けて放つ。

 この一連の動作があまりにも素早く行われたため、ルメルも、またこのときは俺も、全く反応できなかった。

 ブルータの血染めの右腕から放射された魔法は、正しくルメルをとらえる。

 瞬間、妖精のルメルは驚きに目を見開き、ブルータを凝視した。何が起きたのかわからない、説明できないといった表情で手足を伸ばし、わずかに空中でもがいてから地面に落ちる。無力化されたと言ってよい。

 ブルータが放った魔法は、おそらく『魔力拡散の呪文』だと思われた。特定箇所の魔力を霧散させる魔法だ。『精霊のうねり』のようなじわじわとした奪取ではなく、即座に霧散させる魔法なので、長々と魔力を魔法に練っているような相手に特に有効とされる。

 妖精の場合、精霊と近しい性質のため、魔力がそのまま生命力となっている。これに『魔力拡散の呪文』を打ち込んだのであるから、一挙に生命力が奪われたのだ。枯葉妖精のルメルはおそらく死んではいないだろうが、しばらく回復するまい。回復するにはバロックが回復魔法でもかけてやるしかないだろうが、それでも即座に戦線復帰というわけにはいかない。それに、そんな暇も存在しないだろう。

 なぜなら、俺がそのような時間を与えないからだ。ここしかない。俺は、ブルータから離れて、単独行動を開始。急いで腐敗していない地域に逃げ出す。

 離れていく俺を横目に、ブルータは手を下ろす。

「これで、対等ですね」

 平然とした顔でバロックを見つめる。精霊使いはそれに殆ど反応せずにツカツカと歩み寄ってくる。

 俺は、それに衝撃を覚えた。奴は、自分から有利な状況を捨てたのだ。何のために、わざわざ精霊の力の少ない場所へ踏み入ってくるのだろうか。

 それに応じるためか、ブルータも動いた。前に出て、屈む。手を伸ばして、妖精のルメルを拾い上げる。

「返してもらいたい」

 応じて、バロックは右手を差し出した。妖精のルメルの体を返せ、ということらしい。俺には理解できない。そんなものは、勝負が終わってから回収すればいいことだ。まったく甘いと言わざるを得なかった。

 その証拠に、俺はそのような奴の姿を尻目に、無事、精霊の働きがある場所へ移動を完了だ。腐敗の呪文の範囲外にでれば、魔力を集めることができるはずだった。今なら精霊使いの影響も軽微。

「お断りします。これは、私の任務に支障をきたす存在です。貴方に返すことはできません」

 泥をかぶったルメルの身体を簡単に払い、ブルータはポケットに仕舞う。水筒が入っていたポケットに押し込まれたルメルは、うんともすんとも言わない。完全に気絶しているようだ。

「しかし、それは私の相棒で、かけがえない仲間だ。悪いが、君を倒してでもそうさせてもらう」

「どちらにしても、貴方とは戦わなければなりません」

「そのとおり」

 バロックは、少年の風貌に似合わず冷めた口調で言い放ち、すぐさま杖を振り回した。ほとんど魔力を集める手間もなく、杖の先から炎がほとばしってブルータを丸焼きにしようとする。

 杖の先から伸びる炎を、ブルータは横っ飛びで回避する。魔法が使えないのだから、フットワークと拳でなんとかするしかなかった。

 俺はブルータがバロックの注意を全力でひきつけている間に、ゆっくりと魔力を溜めて強烈な魔法を練るだけだ。さっきは冷や汗をかかされたが、今度こそ手柄は俺のものである。精霊使いを倒すのは、俺の魔法だ。精霊の力は、先程ブルータが『腐敗の呪文』のために集めた魔力の影響で多少弱まっているが、腐敗の影響を免れたここならさほどの影響はない。この速度で魔力を溜めるのなら、何も問題なかった。俺の魔法で精霊使いを倒しうる。

 とはいえバロックが持っている杖は、繰り返しになるが世界に有数の魔法武器。こんな戦いの最中に、込められた魔力が使い果たされて役に立たなくなるような、お粗末なことにはならない。奴はほぼ無限に魔力をそこから取り出すことができる。対するブルータはほぼ徒手空拳状態ときている。魔法が最大の武器であるのに、魔力を集められないのだ。羽をもがれた鳥のように無力。

 ハーフダークの身体能力を駆使して立ち回るブルータであるが、先手を打って繰り出されるバロックの魔法によって翻弄されているような格好だ。現に、攻撃の間隙をついてブルータが接近をかけたが、攻撃が相手にとどくことはなかった。蹴りが防御障壁の魔法によって、呆気なくかわされる。

 何も言わずにブルータが下がる。バロックも無言で杖を振るった。その先から冷気が噴き出し、ハーフダークを追尾。ブルータは素早く地面に落ちている樫の杖を拾い上げて、氷結魔法を受ける。魔法障壁の呪文はまだ持続しているが、それでも樫の杖はたちどころに凍結し、粉砕されてしまう。

 砕けた杖の破片をブルータはバロックに投げ込んだが、無駄なことだ。防御障壁の呪文は完全にブルータの攻撃を防ぐ。ブルータの抵抗は攻撃というよりもただの足掻きに近いものだ、あの魔法の前では。やはり、強力な魔法を撃ち込むしかない。

 バロックに決定的な隙を見つけられず、まだ静観を続けている俺。確かにこの位置なら魔力を集めることはできるが、そうすると殆んど確実に精霊使いの知るところとなる。防御障壁を貫くための魔法は、『黒矢の呪文』があるものの、そう簡単に上級魔法は練りあがらない。しかし、奇襲でなくては意味がない。できるだけ静かに、魔力を集中。この俺も悪魔の中では努力家なほうだ。砂漠都市の中でブルータの回復を待つ間にもそれなりに修練している。覚えたてのこの魔法も反復練習を行った。以前よりも練り上げる速度は、あがったはずだ。

 それでも奴に通じるかはわからない。しかしこれが俺に考えられる、最も奴に有効な攻撃手段だ。これでバロックを仕留められなければ、負けだ。タゼルのときのように、ブルータが俺にも告げないで何かを仕込んでいるなどと期待するわけにはいかない。そもそも、今回はそのようなことができる状況ではない。

 粉砕された樫の杖を投げつけたブルータ。それを弾くバロック。次の瞬間で、俺はブルータが魔力を集中させるのを感じた。

 どこから魔力を得た。俺は思わず顔をあげて奴を凝視してしまう。

 まさか、生命力を削ったのか。既に負傷しているブルータがその方法を使うと、不利な状況に拍車をかけるのではないかと思えた。

 戦いが長引いて疲労した状態ではそうした選択肢すらも望めない、という擁護はできるものの、俺がこうしてバロックを狙撃する体勢になっているというのに、信用していないのではないかと思える。手柄をとられると思って逸ったのかもしれない。人形のクセに、なんたることを。作戦がおじゃんになったらどうするつもりだ。

「『幻影剣の呪文』か! そいつの話は聞いている」

 バロックはそう叫ぶや否や、ブルータに向けて跳躍する。同時に、杖を振る。そこから打ち出されたのは『黒矢の呪文』だ。大きく半円を描くような軌道で、黒い魔法の矢がブルータに襲い掛かる。

 ブルータはそれを回避することができなかった。『幻影剣の呪文』は練り上げるのに時間がかかるし、魔力もそれなりの量が必要だ。一撃必殺の威力はあるが、準備に時間がかかる。その隙を突かれた。

 ブルータの身体は敵の魔法を受けて、鮮血を吐いた。魔法の矢を受けた右肩は強く抉られ、腱が破壊されている。腕の切断こそされていないが、すさまじい出血だ。もう右腕は動くまい。これで、両腕が封じられたことになった。これは奴がほぼ無力化されたことを意味する。

 魔法使いの使う破壊魔法の大半は、破壊対象を指し示すことで発動するものが大半だからだ。指先や杖の先で、破壊するものを示すことで魔力を放射する。両腕がなければそれができない。『低温の魔法』もそうだし、腕に幻影の刃をつくる『幻影剣の呪文』もそうだ。奴の得意とする魔法は、これで封じられた。また、肉体の損傷という意味だけでも、深刻な段階にある。

 しかし、それほどの攻撃を受けながらブルータは倒れなかった。その場に踏みとどまり、バロックに顔を向ける。戦闘を継続するつもりであるらしい。さすがに命令されたことを守るだけの人形は格が違う。諦めるという言葉を知らない。

 足を踏みしめて倒れない。ブルータはそれでも魔力の集中を止めない。両腕を潰されても、圧倒的に不利な状況に追い込まれても、命令を遂行するために足掻く。それこそ、これこそ奴が人形の証。徹底的に、心の底まで魔法で支配されたハーフダークの末路。使い潰されるために、全力を出して命令をこなす。

 しかしそんな健気な抵抗も、バロックの前には無意味きわまる。愛用の杖から次々と魔力を引き出してくる精霊使いの次なる魔法がそう言っている。奴が杖を掲げて練りだしているその魔法は『凍嵐の呪文』。低温・氷結系最強といわれる上級魔法だった。空気を液化するとまで形容される、極端な低温を作り出し、周囲の生命活動の一切を停止させる死の世界を生み出す魔法だ。おそらく、今腐敗している範囲くらいは軽く効果範囲に含まれる。あの魔法が放たれれば、俺も急いで逃げなければかなりまずい。

 ブルータは恐らく真っ白に固まってしまうだろう。『魔法障壁の呪文』くらいで押しとどめられる魔法ではない。

 背筋に悪寒が走る。俺は自分の毛皮を抱くようにしてふるえた。

 やばすぎる。精霊使いって連中は、化け物だ。

 いくら杖から魔力を取り出せるといっても、上級魔法の連発などしたら、それに必要な魔力が身体を相当に疲労させるはずだ。奴が実体をもつ生物である以上、それはどうしても避けられない。それが絶対的な宿命のはずなのに、意にも介さない。平然として魔法をぶちかましている。

 こんな奴を、どうやって暗殺するというのか。リンは無茶振り。ガイもそうだ、精霊使いって連中をろくに理解していなかったに違いない。でなきゃ正気の沙汰ではない。それとも、俺たちは捨石なのか。

 フェリテ、俺たちを監視しているのなら傍観していないでさっさと救援に入ってくれ。

 俺は急いで『黒矢の呪文』を作り上げる。『凍嵐の呪文』は練り上げるのにまだ時間がかかるはずだ。その前に奴の集中を阻害すればまだ助かる見込みはある、というかそれしか可能性がない。

 こんな真夜中だというのに、俺たちが集中させる魔力から放たれる青白い光がその場を照らす。そのおかげでバロックが魔法を作り上げていく様子がよくわかるが、俺にとっては死への秒読みに等しい。頼りない光によって闇の中に浮かび上がるブルータのささやかな抵抗など、何の意味もない。両腕を使えないまま、魔力の集中が間に合わないと諦めたのか、精霊使いに蹴りかかっている。

 魔法の練り上げを続けたままで、バロックはブルータの抵抗をあっさりとかわす。それだけでブルータは泥に足をとられてその場に倒れこむ。手首から先のない左手で受身をとろうと無駄なことをしながらも、ブルータは身体で泥をはねあげる。その跳ね上がった泥でさえ、ほとんど何の意味も持たない。

「畜生、どうしろっていうんだ」

 それでも俺はブルータの蹴りを回避するバロックの動き、そこにわずかな希望をかけて、そこが奴の最後のわずかな隙だと思って、右手で精霊使いを鋭く指差す。俺の指先から『黒矢の呪文』、魔法の黒い矢が飛び出す。最後の望みをかけた、俺の全力を絞った攻撃だ。これが奴の集中を阻害することにならなければ、これで終わりだ。

 黒い矢は弧を描いてバロックを突き刺す。

 障壁に阻まれたか、それとも奴を仕留めたか?

 俺はいつでも逃げ出せる用意をしながらもバロックの動きを見つめた。が、次の動きは予想外のところから起こる。ブルータが身を起こしたのだ。

 また奴が、何か策を用意していたのか。これこそバロックの仕掛けた罠ではないかとも疑えるが、『凍嵐の呪文』が発動しないところをみると、どうやら俺の命は助かったらしい。今のところは。しかし実際、どうなった。バロックは健在なのか。

 そう思っていると、ブルータが鋭い蹴りを放った。その一撃はバロックの足を払い、彼はその場に倒れこんだ。

 僅かな間も置かず、泥の中に受身も取れずに崩れ落ちた奴の首元をブルータが踏みしめる。枝を踏み抜いたような音とともに、精霊使いバロックは果てた。

 『凍嵐の呪文』が霧散していくのが感じられる。確かに、バロックは死んだらしい。

 死んだ、ということを見てから俺はバロックとブルータの近くに戻る。ブルータは荒い息をつきながらもその場に立っている。泥で汚れた顔や服を、払うことも出来ずにいる。奴は、その背に何かを生やしている。それは、黒い魔力の翼だった。翼はブルータが両手を広げたよりも大きく、フェリテやホウがもっている翼よりも長大だった。

 『黒翼の呪文』だ。背中に魔力の翼を作り出す変り種の魔法。『幻影剣の呪文』と並ぶほど使い手の少ない魔法なのだが、中級魔法であることもあり、威力はそれなりだ。『防御障壁の呪文』を押し破るには十分な破壊力がある。

 つまり、ブルータはバロックの足元にうつぶせに倒れこみ、その直後にこの『黒翼の呪文』を発動したのだ。このようなことはさすがのバロックも予想していなかったに違いない。魔力の翼で襲われたバロックは意識をこれに向けてしまい、その結果俺の『黒矢の呪文』が刺さった、と解釈するしかない。

 ひょっとすると逆に、俺の『黒矢の呪文』に気をとられた隙にブルータの『黒翼の呪文』がバロックを打ったのかもしれないし、俺の魔法が単独で奴の障壁を打ち破って倒したとも考えられなくはない。ブルータが単独で奴を打倒した可能性もあるといえばあるが、俺はそれを考えないことにした。バロックの身体をあらためればその傷の具合から真実はわかるだろうが、俺はすぐさまバロックの持っている杖に触れ、敵の身体を焼却にかかった。燃やし尽くしてしまえばもう調べようがない。

 真実は永遠に闇の中だ。事実として残されるのは俺が精霊使いを倒したということだけでいいのだ。

 何はともあれ、精霊使いを倒した。俺が、だ。くれぐれも間違えてはいけない。

 苦労して習得した俺の上級魔法が、難敵である精霊使いのバロックを討ったと。これである。見たか、俺にもこれくらいはできるのだ。

 しかも、妖精のルメルを捕らえるというオマケつきでだ。こいつはリンも認めざるを得ないだろう、俺たちのことを。

 燃えていくバロックを見ながら俺は、先程まで命の心配をしていたことを忘れるためにも、今後俺たちに与えられるであろう栄誉を思い描いていた。安堵のため息がでるが、それを早く勝利の哄笑に変えてしまいたかった。

 こんなギリギリで勝ったというのでは、名声もいささか落ちるからな。都合の悪い事実は無理してでも隠蔽だ。ましてやそれが俺の心情であるなら、強引にもねじ伏せておく。

 口を開く気力もないのか、ブルータはそこで立ちすくんでいる。なんとか息を整えようとしているが、その傷では無理だろう。タゼルのときほどではないが、かなりの重傷だ。今回は出血がひどいせいか、目がかすんでいるらしい。焦点が合っていない。

「帰るぞ、ブルータ。それに、ガイの言ってたこともあるしな」

 俺の声に奴は頷いて応えたが、すぐに行動を起こせないようだ。なんとか泥の中を、足を引き摺るようにして歩き出したのはそれから十秒以上経ってからで、しかも相当にのろい歩みだった。

 傷だらけの上泥だらけなのだ。何の処置もしなければ、人間なら死ぬところだろう。ハーフダークであるブルータにとっても辛い傷であり、深手だ。とはいえ、俺は治癒魔法を得意としていないし、頼れそうな存在も近くに感知できない。


 フェリテの奴、今回は俺たちの監視をしていないと言っていたが本当だったらしい。なんてこった。

 泥の中を抜けるのにしばらくかかったが、ようやく精霊から魔力を集められるようになった。

 俺はバロックの杖を持ってきている。尚、ルメルが化けていた偽バロックが体中につけていた魔法道具はほとんどが『精霊使い』を演じるための小道具だったようで、少し調べたところでほとんど全て役立たずのガラクタだということが判明している。こちらはバロックと一緒に焼却してしまった。無駄なことをさせやがって。

 ブルータの左腕は砕け散ってしまったので、単純な治癒魔法では直せそうにない。おそらく、リンやホウ並みの使い手、あるいはこいつをつくったシャンでなければ単独で回復させることは難しいだろう。ホウはともかくリンは破壊魔法専門なので実際に治療できるかどうかはわからないが。ともかく、現実的には魔王軍本部に戻って施療する必要があった。四天王がいなくとも、本部なら優秀な治癒術師が複数いるだろうから、おそらく回復可能だ。

 それに比べ、右肩は傷を洗って止血しておけば大丈夫な範囲。ハーフダークの生命力なら問題なく治癒する。だが、放置だと時間がかかることは明白なのでこれもやはりついでに治療しておいてもらいたい。

 問題は、転移魔法も使えない現状でどうやって本部まで戻るかという一点だ。徒歩で戻るのはさすがに厳しい。フェリテ、こういうときになぜ監視しておいてくれなかった。

 くそ、人形の管理も俺も仕事ってことか。俺はため息をつきながらブルータの右肩を見た。未だに出血は完全に止まっていない上に泥だらけだ。これを何とかしろってのは、小さな俺にはしんどいことだ。

《この先に川があると思われます、そこで少し休み、傷の処置をすべきと考えます》

 ブルータが思念を飛ばしてくる。それは丁度いい。川の流れにさらせばブルータの傷口を洗う手間が省ける。それに、腐った泥にまみれている今のままはいくらなんでもまずい。衛生的に問題だというより、正直臭いがひどいのだ。

 俺の地獄耳にも水の流れる音が聞こえているので、確かに川がありそうだ。俺はブルータの考えに承諾の返答をして、一足先に川に向かった。俺もちょっと、水浴びでもして体の泥を払っておくべきだと思う。と言い訳しながら、実のところ汚れているブルータの近くにいるのがつらかっただけだ。

 俺はさっさと、水の流れる音に向かって飛び去っていく。

 振り返ってみるとブルータは来るときの半分以下の速度でのろい歩みをすすめている。表情もなく、命令に従うだけの人形だった。

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