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5.Counterinsurgency in Modern Warfare

1.Black Operation な越境作戦


 越境作戦と言えば、映画やFPSのゲームで胸を熱くさせる特殊部隊の活躍を思い描く。実際はどうか?

 南アフリカが南部アフリカ諸国で行った越境作戦は大胆で、特殊部隊の隠密作戦だけでなく空爆や大規模な地上軍の進攻を伴う作戦だった。

 COIN作戦で排除する物は3つある。兵力、拠点、物資。これらの1つが欠けてもゲリラ戦はできない。

 国外に逃げた敵をどうするか。逃走先が自国と敵対している場合、協力は望めない。政府の決断が求められる。

 1965年、コンゴで破壊と殺戮の嵐が吹き荒れていた内戦時期、コンゴ政府も同様の問題を抱えていた。

 3月、コンゴ政府軍(ANC)はOperation kingfisher(かわせみ作戦)を発動する。作戦目的は、コンゴ北東部を叛乱軍から回復する事と、ウガンダ・スーダンから侵入する敵勢力の排除。自分の庭先で隣近所の子供が暴れていたら叩き出し誰の地所か教える。

 投入された兵力は傭兵部隊である第5コマンドー(8個小銃小隊、1個迫撃砲小隊:人員300名)、第14コマンドー(人員700名)。コンゴ動乱では、米国・ベルギーが航空機搭乗員の派遣などで支援していた。南アフリカとローデシア出身の傭兵も参加していた事から西側陣営は共産ゲリラの脅威を認識していたと窺える。

 結果としてANCはOperation white giantを経て、北東部から敵を一掃した。ANCは目的を達成したが、ウガンダに逃げ込んだ敵は国境越しに砲撃を行ってきた。

 国家支援テロ(state-supported terrorism)であるのは明白だが、コンゴ政府は国際問題を怖れるあまり越境作戦を許可しなかった。前線で戦う兵士達には歯痒い状況だった。


 南アフリカは違った。手加減はしない。ポルトガル植民地戦争から積極的に周辺国へ介入しており、自国の脅威となる支援国は叩き潰す姿勢を見せた。

 大規模な物ではローデシア軍と共同で行ったモザンビークへの越境作戦で、これらも含めた不安定化工作だ。


 1978年5月、Op Grocer。6月、Op Extend。10~12月、Op Lark 1、Lark 2。

 1979年1月、Op Bargain。3月、Op Dairy。5月、Op Density。9月、Op Boxer

 1980年1月、Op Trample。2月~3月、Op Artist。6月、Op Ginger。8月、Op Amazon。

 1981年5月~6月、Op Habit。8月、Op Autumn。10月、Op Force 1。11月、Op Force 2、Op Circuit、Op Kerslig。

 Project Corst (1981-1993) 生物・化学兵器の研究と運用(CBW Program)を実施。

 1982年5月、Op Secundus/Asiti。11月、Op Keg/Simple。11月~12月、Op Katiso。

 Operation Skerwe(splinter) 1982年5月23日、モザンビーク首都マプトのANCをSAAFが空爆。

 Operation Katiso 1982年、特殊部隊作戦命令第3/82号、特殊部隊司令部A.J.Liebenberg少将の指揮下でCTF82として作戦参加部隊は集められた。主役であるCTG 82.1は1 RRのE.Olckers大佐が指揮をする。海軍司令部はStrike craft「Owald Pirow」「Jim Fouche」からなるCTE82.1.1と支援任務を帯びたCTG82.2の「Tafelberg」を編成した。

 襲撃計画は6段階から成り、11月9~10日の夜半、ポンプステーションとタンクを襲撃、その後Durbanに帰還と計画されていた。SAMSや海軍の支援を受けて1 RRと4 RRがモザンビークのBeira襲撃を行った。

 Operation Labanta 1982年12月9日、レソト首都マセル、ANC拠点12箇所(政治、軍事、偵察、情報、訓練などの各部門)をRecce(1RR・5RR)が襲撃。

 1983年3月、Op Bristol。4月~5月、Op Afflux。8月、Op Nike。10月、Op Vine

 1984年1月、Op Alfred。6月、Op Bougainvilla。7月、Op Nobilis。9月、Op Equator、Op Legaro。11月、Op Marimba。12月、Op Electrode。

 1985年3月、Op Magic。

 Operation Argon 1985年5月21日、アンゴラのCabindaの石油施設襲撃。(同施設はGulf Oil Corporationが経営。1日170,000~200,000バレルの産出量を誇る)4RRのWynand du Toit大尉以下7名はAKM47、スターリング・パチェット消音短機関銃、9mmマカロフ拳銃等で武装し、ゾディアックF470で潜入。FAPLAと交戦。

 Operation Plwxi 1985年6月14日、ボツワナ・ガボローネ、ANC拠点10箇所を襲撃。

 1986年2月~3月、Op Cide。5月~6月、Op Drosdy。12月、Op Cursor。

 1987年5月~6月、Op Carnaby、Op Appliance。8月、Op Radcol。11月、Op Bagdon/Virato。

 Operation Rolio 1987年4月25日、ザンビア・リビングストンのANC拠点を1RRが襲撃。


 COIN作戦は国外の巣穴を叩く越境作戦だけではない。

 自国が戦時下であると言う意味では、自分の膝元である国内の反動分子を放置する事は出来ない。SAPがANCとその実戦部隊、民族の槍やSACP(Southe African Communist Party)を狩り出そうと闘っていた。

 死の部隊として悪名高いCCB(Civil Cooperation Bureau)もそうした国内情勢から誕生した。Eeben Barlowの「Executive Outcomes Against all Odds」によるとCCBは不正規作戦を遂行していた。Region 1はボツワナ、Region 2はモザンビークとスワジランド、Region 3はレソト、Region 4はアンゴラ、ザンビア、タンザニアで、Region 5はイギリス、欧州、中東で、Region 6は南アフリカ、Region 7はジンバブエ、Region 8は南西アフリカ、Region 9とRegion 10は全般支援で活動していたと分かる。


 一方ベトナムで破れた米国は、共産主義勢力の間接侵略に脅かされている諸国への援助を打ち切った。ソ連軍のアフガニスタン侵攻まで惰眠を貪り偽りの平和に逃避したのだった。

 この間も南アフリカは戦い続けた。越境作戦の有効性はローデシアでも実証されている。敵の作戦遂行能力を破壊でき意図を砕けるのだ。

 1985年1月のレーガン大統領による議会演説で、米国はソ連の勢力拡大を阻止すべく動き出した。反政府勢力を支援して親ソ政権を打倒する目的で、クラーク修正法が撤回されUNITAへの援助も再開した。

 南アフリカがモザンビークやアンゴラで行っていた作戦と目的は合致している。軍事力の行使は断固とした意思を持つ敵への抑止にはならないが、直接的効果が十分ある。

 論より証拠に、現在の米国が実例だ。相手を怒らせたら何をされるかわからない。そう思わせる事ができれば良い。


※コマンドーと言う名称で部隊編成や規模を測れない。

 コンゴ正規軍であるANCの前身、Force Publique(FP)は1959年の時点で、ベルギー人士官・下士官11.000名、Garrison Troops13.000名、憲兵10.000名となっていた。

 FPはE Janssens中将の指揮下で第1~第3コマンドーと独立旅団が存在した。各コマンドーは、Garrison Troops(歩兵大隊、偵察中隊、重迫撃砲小隊、輸送中隊、通信中隊、憲兵中隊、後方支援部隊)と憲兵大隊からなる。

 時代や国によって編成は大きく変わるので、固定観念を持たない方が良い。



2.欧米諸国の場合


 欧州の植民地獲得競争は第二次世界大戦後、植民地解放へと一転する。これまで欧州諸国は長い植民地統治で独立運動の目を摘んできた。冷戦の只中で、共産主義は勢力を拡大し、民族主義に影響を与えていた。非支配者は、中国やソ連の支援を受けて直接的行動に移った。武力闘争への拡大である。

 ベトナム戦争はゲリラ戦の代名詞だが、それ以前にも数多くの戦いがあった。

 米国はフィリピンでゲリラに悩まされ、インドシナでフランスを支援していたにもかかわらず反乱鎮圧の技術蓄積と研究が甘かった。ベトナムでの戦訓は、WW2の延長のような大規模戦闘を想定した冷戦型の部隊運用では戦えないう事実だ。

 フランスはインドシナ戦争、アルジェリア戦争を経験し、イギリスはマラヤ動乱を経験した。2つの植民地帝国は異なる結果を産み出した。


 フランスは第1次インドシナ戦争を局地的な反乱と捉えていた節がある。動員された兵力は少なくないが、非白人の植民地部隊が戦力の過半数を占めていた。

 フランス極東派遣軍団(CEFEO)は1947年の時点で115,000名の兵員を保有していた。1951年から1954年にかけて地上軍は150,000名へと拡大している。内訳はフランス人54,000名、西アフリカ人18,000名、北アフリカ人30,000名、外人部隊20,000名、ベトナム人53,000名。アフリカから送られたのはアルジェリア、モロッコ、セネガルの兵力。本国の人的損害を抑えようと言う姿勢が丸見えだ。

 例えば初っ端の1947年11月に実施されたOperation Ceintureには第1落下傘軽歩兵連隊(RCP)第Ⅰ・第Ⅲ大隊、第5・第6モロッコ・ライフル連隊(RTM)、第3外人歩兵連隊(REI)第Ⅰ大隊などが投入された。フランス軍の殺害戦果793名。自軍の損害は108名。

 世間的に著名なディエン・ビィエン・フーの戦いでは1953年11月20~23日、Operation Castorの一環として第1落下傘軽歩兵連隊第Ⅱ大隊、第1・第6・第8植民地落下傘大隊(BPC)、第1外人落下傘大隊(BEP)、第5ベトナム落下傘大隊(BPVN)が降下している。

 インドシナでの戦いは叛乱程度と考えていた為に、ベトミン相手にフランスが本格派兵していなかったのも無理がない。兵力の逐次投入、敵情認識の誤りなど敗因を挙げればきりが無い。


 1954年11月アルジェリアで最初の襲撃が行われた。アルジェリア民族解放戦線(FLN)の戦闘部門であるアルジェリア国民解放軍(ALN)は、11人で分隊、110人で小隊、350人で大隊と組織化されていた。当時の写真を見ると、WW2のkar98、MP40、MG34なども装備に混ざっている。

 対するフランス・アルジェリア第10軍管区に配備された戦力は、1956年の時点で西からオラン、アルジェ、コンスタンティンの各県に分かれていた。

 映画LOST COMMANDや小説の中では、アルジェリアには外人部隊と落下傘部隊しかいなかったイメージがある。勿論それだけで戦える訳がない。

 オランには第12・第13・第29歩兵師団(DI)、第5装甲師団(5e DB)、アルジェには第9・第20・27歩兵師団、コンスタンティンには第2自動車化歩兵師団(2e DIMot)、第14・第19歩兵師団、第25空挺歩兵師団(25e DIAP)が駐屯。予備戦力として第7自動車化歩兵師団、第10落下傘師団(10e DP)を展開させた。後に第4自動車化歩兵師団、第11・第21歩兵師団、第25落下傘師団などが加わる。

 アルジェリアに展開するフランス軍は1954年11月、5万名だった兵員は1955年2月に84,000名、5月に10万名、7月1に1万5000名、9月に14万名、11月に23万名と随時増強された。1956年から1962年には400,000名にまで拡大している。今度は勝つつもりだった。

 戦闘の基幹となったのは歩兵大隊で、標準的なフランス軍歩兵大隊は4個歩兵中隊(中隊本部、歩兵小隊4個の合計150名)と1個支援中隊(81㎜迫撃砲、57㎜無反動砲の重火器、衛生兵など)の合計800名で構成された。


 一時は敵の組織的活動を壊滅寸前まで追い込んだが、「背後からの一突き」で白紙に戻った。政治的判断によるアルジェリア放棄だ。アルジェリアに住むフランス人や血を流した軍には納得できない。

 フランスが一枚岩でない証拠に、アルジェリア独立に反対する落下傘部隊が反乱を起こしアルジェを制圧すると言う事件も発生している。今回も負けたのだ。


 イギリスはマラヤ、北アイルランド、オマーンなどでCOIN作戦を経験した。今回取り上げるマラヤでは現地の独立を認めながら共産勢力の一掃を図った。

 1948年6月16日から1960年7月31日の12年間でマラヤに展開したSecurity Forcesの兵力は、イギリス連邦を構成する各国の部隊を含む物だ。シンガポール(第1歩兵連隊、王立シンガポール砲兵連隊)、オーストラリア(第1・第2・第3オーストラリア連隊、王立第100・第101・第105オーストラリア砲兵大隊、王立オーストラリア空軍第1・第2・第3・第38・第77飛行隊)、フィジー(第1フィジー歩兵連隊)、ニュージーランド(第1・第2ニュージーランド連隊)、ローデシア(北ローデシア連隊、第1ローデシアン・アフリカン・ライフルズ)。当然、マラヤの部隊(第1・第2・第3・第4・第5・第6・第7マラヤ連隊、RAF連隊第91・第92・第93・第94・第95・第96飛行隊)も存在する。この辺りはインドシナのフランス軍と似通っている。

 イギリス軍は第1マンチェスト連隊、ゴールデン・ハイランダーズ、王立槍騎兵、キング・ワン・ヨークシャー軽歩兵と言った日本人から見れば変わった名称を持つ部隊が多数投入されていた。他に第2・第25・第26・第48砲兵連隊、王立海兵隊第40・第42・第45コマンド、第22SAS連隊、王立空軍(第28・第33・第45・第48・第52・第57・第60・第81・第84・第88・第97・第110・第155・第194・第205・第209・第267・第656飛行隊)を投入した。

 1951年にOperation Starvation、1953年にOperation Eagle(1月27日)、Operation Cato(3月16日)、1954年にOperation Asp、Operation Latimer South、Operation Latimer North(12月5日)、Operation Nassau(12月21日)、1955年にOperation Beehive(11月27日)など実施している。

 ちなみに1956年、ニュージーランドSASの偵察ティームがブローニングのショットガン、M1カービンなどを装備している姿が確認できる。


 COIN作戦の黎明期として、この時期の戦いは興味深い。特殊部隊も単独での作戦行動ではなく、一般部隊との共同作戦の過程で役割を与えられていた。彼らは超人ではない。御膳立てされた状況で成果をあげる。闘いの主役は、その他多数の一般部隊だ。

 1953年1月27日に実地されたOperation Eagleでは、第22SAS連隊B中隊はフィジー第1歩兵連隊B中隊、第1カメラニアン(Cameronian)B中隊と共に参加。

 ローデシアSASの原形を作り上げ、Recceの祖先と言えるSASは、1950年にはこの地でCOIN作戦を始めていた。

 イギリスのCOIN作戦では、宣撫工作で行われた「Hearts and Minds」が大きな部分を占めている。


※COIN作戦として扱われる戦い。時代順に並べれば解るが、共産勢力の拡大は激しく世界は戦火に見舞われていた。


 朝鮮半島では南朝鮮労働党の非合法化、シンパの武装蜂起等が続き、仁川上陸後に釜山橋頭堡からの反撃と合わせて撃破されたNKA(北朝鮮軍)敗残兵が合流し数万と言う大規模なゲリラが後方に取り残された。この鎮圧にROK(韓国軍)、警察、米軍は貴重な兵力を拘束された。朝鮮戦争開戦前に韓国軍の策定した防御計画によると、後方警戒は警察及び青年防衛隊、大韓青年団等によって行われるとされていた。共匪(共産ゲリラ)討伐である。韓国警察ではKoevoetの様に戦闘警察22個大隊が編成された。

 国連軍が北へ向かい38度線を越えた後の1950年11月、米第3師団の警備区域ではゲリラによる攻撃が109件存在した。この当時、米軍は歩兵連隊を骨幹に砲兵、戦車、工兵等が支援する連隊戦闘団を編成する事が多かった。


 インドネシア独立戦争(1945年~1949年):オランダ軍鎮圧に失敗。

 ギリシャ内戦(1946年~1949年):共産ゲリラを鎮圧成功。

 第一次インドシナ戦争(1946年~1954年):フランス軍鎮圧に失敗。ベトナム民主共和国成立。

 マラヤ動乱(1948年~1960年):共産ゲリラを鎮圧成功。

 アルジェリア戦争(1954年~1962年):軍事的的優性にも関わらず、アルジェリア独立。

 ベトナム戦争(1960~1975年):隣国の支援を受けた共産勢力が南ベトナム政権を武力で打倒。COIN作戦や兵器開発で多くの戦訓を残した。南部アフリカでのCOIN作戦と比較する上で、幾つかの作戦を抜粋してみた。


①ジャンクション・シティ作戦(1967年)

(1)準備段階として鉄の三角地帯攻撃

 1967年1月8日、Operation Cedar Falls発動。この作戦は翌月に実施されたJunction Cityの前段階で、C戦闘地域の南に存在した鉄の三角地帯(Iron Triangle)に潜むVC掃討を目的とした物だった。Ben Sucに第2旅団が、北東の樹海に第3旅団と第173空挺旅団がヘリボーンで襲撃をかけた。その南では第11機甲騎兵連隊も動いていた。

(2)包囲してぶち殺す

 2月22日に発動されたOperation Junction City(ジャンクション・シティ作戦)では典型的な空中急襲作戦が行われた。

 ジャンクション・シティ作戦はサイゴンの北、カンボジア国境沿い国道13号線の西側、C戦闘地域(80×50Km)を舞台に3段階の計画で実行された。作戦実働部隊である主力は第1歩兵師団(Jhon Hay少将:第1、第3旅団、第173空挺旅団、TF Wallace)と第25歩兵師団(Jhon Tillson少将:第2、3旅団、第196軽歩兵旅団、第11機甲騎兵連隊(-)、TF Alpha)で、22個大隊、14個砲兵大隊、南ベトナム3個大隊の25,000名が動員された。

 同地域にはVC第9師団(第271、272連隊)とNVC(第273連隊、第70警備連隊)が展開しており、AK47や7.62mm機関銃、80mm、120mm迫撃砲、各種榴弾砲と装備も充実していた。

 空挺降下の4時間前にB-52が爆撃し、30分前にTACのF-4戦闘機が叩き、1分前にAH-1攻撃ヘリコプターが叩き、H時にC戦闘地域深く第173空挺歩兵旅団の2/503歩兵任務部隊が降下した。30分後には重量物の投下が行われ、降下は終了する。

 この空挺降下は包囲網の一翼を形成する為で冒険的な物では無かった。増強され空挺降下した第2大隊の右翼を第4大隊、左翼を第1大隊が固めており、第173空挺旅団の両翼には友軍が展開していた。本作戦で、ヘリボーンとしての空中機動作戦は左翼第196軽歩兵旅団、中央第1旅団、右翼第173空挺旅団の各大隊が行っている。

 フェイズ1では地上部隊が包囲を形成し、主攻の第2旅団と第11機甲騎兵連隊が内側に突進し押し潰すと言う作戦で、M48A3C戦車100両、M113装甲車各種400両を装備しており贅沢な攻撃だった。

 この戦闘で米軍は戦死218名、負傷1,576名と車両全損:戦車3、APC14、ACAV7、各種トラック11の損害を出している。殺害戦果はVC2,728名、捕虜34名を獲得。NVCについては14,000名、戦車及び装甲車801、その他車両200に損害を与えた。

 なおこの戦闘で第173空挺旅団の殺害戦果VC266名を遺体で確認、捕虜4名。


②ハンバーガーヒルの戦い(1969年)

 A Shaw峡谷、国道548号線の東にある937高地(937mのAp Bia山)は激戦地に数えられる。Operation Apache Snowはラオス国境沿いのゲリラ掃討を目的に発動され、第101空挺師団(Melvin Zais少将)から第187歩兵連隊第3大隊が投入された。1969年5月10日、937高地の北西にヘリボーンで展開した3-187大隊はNVC第29連隊と戦闘に突入、映画「ハンバーガーヒル」でも有名なアシャウバレーの戦いが始まった。16日、南から1-506空挺大隊が参戦し挟撃を図るが頑強な抵抗に遭い、19日、北東から2-501空挺大隊、南東からARVN2-3大隊が投入され四方を囲み、21日にようやく制圧を完了した。第101空挺師団と言えば精鋭で名高いが、単独では苦戦し、空軍や砲兵、南ベトナムの協力無くして勝利を得る事は出来なかった。なお殺害戦果は630名。


 ベトナム戦争で米国に次ぐ規模の派兵を行っていたROKは戦果をあげると同時に非戦闘員殺戮の汚点を残した。色々と世間では批判されているが、軍事作戦としては興味深い。


 Operation Hyesanjin 6:1969年1月20~2月8日、第26連隊は殺害107名の戦果をあげた。

 Operation Biho 23:1969年6月7~21日、殺害186名の戦果をあげた。

 Operation Hwangryong 7:1970年9月9日~19日、米海兵隊1個中隊が包囲の南を、西側をRF1個中隊が固める中、ROK第2海兵旅団が主役となってNVAを掃討した。包囲の戦区は3つに分けられていた。右翼に海兵隊第2旅団第3大隊のTACが置かれていおり、第2大隊第11中隊が担当し2個歩兵中隊を撃破した。右翼は北から第2大隊第10中隊が、南から第2大隊第9中隊が掃討を行い、殺害70名、捕虜1名の戦果をあげた。自軍の損害は戦死1名、負傷14名。

 Operation Dokebi 19:1970年10月14~21日、ROK第28連隊がCai峡谷とCa山でNVAとVCを掃討した。包囲の戦区は3つに分けられていた。右翼は北から第3大隊が2個中隊の敵を、南では第1大隊が工兵中隊を含む敵を撃破した。左翼は第2大隊第6・第5中隊が掃討を行い、殺害55名、捕虜23名の戦果をあげた。自軍の損害は戦死5名、負傷8名。

 Operation Dokebi 21:1971年8月10日~24日、ROK第28連隊がTuy Hoa北西のOng Nom峡谷とDac山地区でNVA第5師団第18連隊とVCを掃討した。

包囲の戦区は3つに分けられていた。右翼では第28連隊第3大隊の第10・第12・第11・第9中隊が中隊規模の敵を撃破した。右翼は北から第1大隊(第1~第4中隊)及び連隊の偵察中隊が、南から第2大隊(第5~第8中隊)が掃討を行った。連隊のTACは第2大隊に置かれていた。殺害298名、捕虜28名の戦果をあげた。自軍の損害は戦死3名、負傷14名。

 Operation Dongbo 19:1972年7月10日~17日、ROK白馬師団は第2軍管区、Cam Ranh北西23KmのBa Coum地区でVCを掃討し、殺害100名、捕虜35名の戦果をあげた。


 グアテマラ内戦(1960年~1996年):共産ゲリラと親米政権の戦い。冷戦終結後、双方の援助が打ち切られ和平合意。

 ポルトガル植民地戦争(1961年~1974年):軍事的的優性にも関わらず、アンゴラ、ギニアビサウ、モザンビーク独立。

 ローデシア紛争(1965年~1979年):軍事的的優性にも関わらず、ジンバブエ独立。

 南アフリカ境界戦争(1966年~1989年):軍事的的優性にも関わらず、ナミビア独立。

 ビアフラ戦争(1967年~1970年):ナイジェリア軍鎮圧に成功。ビアフラ共和国独立失敗。

 ラオス内戦(1962年~1975年):共産ゲリラを叩く為、米軍も直接介入する。結果的に、反米から社会主義国となる。

 カンボジア内戦(1970年~1991年):共産ゲリラを叩く為、米軍も直接介入する。結果的に、反米から社会主義国となる。

 モザンビーク内戦(1975年~1992年):ローデシア、南アフリカが介入。社会主義国の不安定化を成功させる。

 アンゴラ内戦(1975年~2002年):南アフリカが反共勢力を支援。社会主義国の不安定化を成功させる。

 ニカラグア内戦(1979年~1990年):共産政権と反共勢力の戦い。冷戦終結後、双方の援助が打ち切られ和平合意。



3.歴史に名前を残した偉人達


Robert Callen(Bob) MacKenzie

 サンディエゴ出身、17歳でベトナム戦争を米軍に所属しジャングルの戦闘を経験した。ローデシアSAS・C中隊で武勲を上げローデシア・ファンの間では知られた英雄。

 モザンビーク側のCabora Bassa湖では不穏な兆候が確認でき、1977年1月17日の夜、ローデシア北東のMusengezi川を出発した。Operation Cockleshell Heroesである。本作戦ではFRELIMOのランドローバーに偽装した移動や、ブービートラップの設置、ボートの破壊等でこれぞ特殊部隊と言った活動をした。

 ローデシア紛争後、トランスカイ国防軍に勤め、米国に帰国するが根っからの戦士で再び戦場に戻る。

 エルサルバドル、ボスニアと転戦し、人生の最後はシェラレオネで終える。

 最後の所属は、Gurkha Security Guards(GSG)の社員。戦場で死んで敵に喰われるという小説の登場人物のような壮絶な最後。


Ronald "Ron" Francis Reid-Daly

 マラヤ動乱にローデシアSAS・C中隊の一員として参加。その後、ローデシア・ライト・インファントリーを経てセルース・スカウツ初代指揮官に就任する。RLIでは初代RSM(Regimental Sergeant Mojor)として1961年2月1日から1965年8月20日まで勤めた。ローデシア紛争後はトランスカイ国防軍に勤める。セルース・スカウツに関する著作が数冊ある。


Eeben Barlow

 最終階級SADF中佐。SAEC(South African Engineea Corps)第16野戦中隊の一員として1977年、101任務部隊を支援。1979年、第53歩兵大隊のSapper Commanderとして地雷に携わった。SAECから第32大隊偵察ティーム(2012年に発行された「The Terrible ones a complete history of 32 battalion」の1176頁に民間軍事会社のエグゼクティブ・アウトカムズを作ったイーベン・バーロウは「32 Battalion Recce Wing officer」だったと記載されている。偵察ティームのofficerで大隊の2ICではない)、1985年に初めて軍情報部の不正規作戦に参加。Civil Cooperation Bureau(CCB)のRegion 5を経てエグゼクティブ・アウトカムズを設立。歴史的にもPMCのパイオニアとして功績は大きい。



Michael Hoare

 WW2対日戦に英陸軍として参加。コンゴ動乱で第4、第5コマンドーを指揮。コンゴ動乱後の史実を無視して「マイク・ホアーがいなければ、近隣諸国は共産化されていた」「アフリカの共産化を阻止した」と過大評価されている。(実際には周辺が社会主義国になった。また、ホアーは自身の著作Congo WarriorsでSADFの将官をバカにしているが、アフリカで最後まで戦ったのは南アフリカだった)

 第5コマンドーはホアーの厳正な規律で統率されていたと言われるが、戦争犯罪も行っている。1965年9月に実施されたOperation Banziでは、所属する装甲車が頭蓋骨2つで飾られ、写真として事実の記録が残されている。倫理的な面からも死体損壊は忌むべき行為だ。

 ホアーの評価はセイシェルの任務失敗で地に落ちる。この作戦はSADFが支援しておりRecceとローデシア軍、コンゴ傭兵の経験者が参加していた。質的には充実しており失敗するとは考えられなかった。その為、本人は陰謀だと述べている。

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