4.ローデシア概略
1.ローデシア紛争って何?
ローデシアは、英国の植民地で南ローデシアと呼ばれた地域だ。
1965年11月11日、一方的独立宣言(UDI)を行ったローデシアだが、ローデシア人は過去幾度も英国の為に血を流して来た。WW1はもとより、WW2では後の首相であるIan Smithも含めて白人約6650人、黒人1730人を海外派兵して英国に貢献していた。
1965年~1980年にかけて、隣国のモザンビーク、ザンビア、ボツワナを拠点に、中国やソ連の支援を受けたゲリラがローデシアに侵攻してきた。もっとも、英国からローデシアとして独立する以前の、南ローデシア時代から既に戦いは始まっていた。
ポルトガルがモザンビークから撤退した事でBeiraとLourenzo Maquesの2つの重要な港が失われ、東側側面が大きく開かれ敵に都合良く利用された。
南アフリカからの経済的、軍事的援助に頼っていたスミス政権は、南アフリカの政策に左右された。
敵が越境して攻めてくる以上、ローデシア軍も敵の巣穴を徹底的に叩き潰そうと越境作戦を展開していく。
最終的には英国領に復帰し、1980年4月18日にジンバブエとして独立する。
ジンバブエとして独立後は、白人と共存をうたっていたが、土地を取り上げたり住めなくした。現在は、0の桁数が多いお札を発行したハイパーインフレや他国への派兵、ロバート・ムガベ(Robert Mugabe)の長期独裁であれやこれやと国内が混沌として、世界でも最貧国の一つに数えられる。歴史的に俯瞰すればムガベ政権発足に、南アフリカ外務大臣Pik BothaとローデシアCIO長官Ken Flowerが大きく貢献したと言えた。
2.ローデシア軍ってどんなの?
まず重要な点が、外国人だろうが『傭兵』では無くローデシアの『正規軍』として雇用されており、フランス外人部隊やスペイン外人部隊と同様の正規軍であると言う事だ。「ローデシア=傭兵」と言う図式はどこから来たのだろう? 確かにローデシア軍には外国人も大勢居た。主な国名をあげるとアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ。
元傭兵は参加しているが正規軍対ゲリラの戦いで、ビアフラやコンゴのような、ロマンを感じる「傭兵の戦場」ではなかった。「Soldier of Fortune」の誌面で扱われていた事が印象を強くしているのかも知れない。
J.R.Woodの「Counter-Strike from the Sky The Rhodesian All-Arms Fireforce in the War in the Bush 1974-1980」の本文で繰り返されているが、UDIの後、国際的経済制裁によってローデシアの治安部隊は1日に1500人以上の戦闘員を配備する能力が制限されていた。この為、限られた戦力を有効活用する必要があった。
ローデシア軍はRhodesian Security Forcesと呼ばれており、常備軍は陸軍、空軍の他に、警察が戦力に組み込まれている。ローデシア軍の基本戦略は策敵と撃滅であり、敵の根拠地の偵察と巡回を行っていた。基本編成は4人編成のStick(半個班)で、FN MAG機関銃、無線機及びFN FAL小銃装備の小銃手3名で構成されていた。
軍の母体は、遡ればイギリスの関わった2度の世界大戦とマラヤの戦闘を経験している。
戦場は国土全体であり、その指揮はJoint Operations Commands(JOCs)の下で幾つかの軍管区に分かれていた。
1976年には、北東部がOperation Hurricane、東部がOperation Thrasher、南東部がOperation Repulseと作戦区域が指定された。1977年には、西部がOperation Tangent、Kariba湖がOperation Splinter、中部と首都がOperation Grappleと追加される。
1979年の時点で、JOC Tangentは第1旅団、JOC Grappleは第2旅団、JOC Thrasherは第3旅団、JOC Repulse第4旅団をそれぞれ指揮下に納めていた。
ローデシアの警察はBritish South Africa Police(BSAP)と呼ばれており、前身はBritish South Africa Company(BSAC)だ。2000名の白人と6000名の黒人警察官で構成されていた。
ローデシアは少数の白人が黒人を支配したとされてるが、統治を支えたのが縁の下の力持ちであるBSAPお巡りさん達であった。
「AFRICAN POLICE AND SOLDIERS IN COLONIAL ZIMBABWE 1923-80」では以下の様に記載されている。
植民地時代の大半において、アフリカの警察官と兵士は男性のみだった。
WW2期間中、BSAPは、海外での任務の為に軍に転属したヨーロッパ系男性兵士の代わりとして、ヨーロッパ系の女性警察官を募集した。
アフリカ系女性がBSAPに初めて入隊したのは1960年代半ばで、1980年の独立後まで軍務への参加は認められ無かっ。
1930年代初頭、BSAP当局は、アフリカ系警察官の妻と子供を居住させる事で、彼らをより長く留まらせようとした。一夫多妻制の場合、一度にキャンプに留まれるのは一人の妻のみであり、その妻の同伴には善行が条件とされた。
妻が滞在する事は、BSAPにとって有益であると広く認識されていた。妻の不在はアフリカ系警察官の早期退職につながることが多かったという。この理由で、妻の居住を認める規則が変更された。
1945年、BSAPは全隊員に対し、妻の居住許可を取得するよう強く求めた。
警察と軍隊がアフリカ社会に与えた最も大きな影響の一つは、元隊員である退役軍人の民間生活への統合であった。
第二次世界大戦などの武力紛争におけるアフリカ退役軍人の運命は、欧州とアフリカの一般市民によって広く議論される重要な問題となった。多くの元警察官や兵士は、植民地国家の他の組織や民間警備会社で雇用を継続することに最も関心があるようであった。
治安部隊に従事する主な動機は、退職後の年金と、より良いセカンドキャリアの可能性であった。
多くのアフリカ人の元警察官や兵士は、以前の所属組織への強い個人的帰属意識を維持していたが、公式組織が介入するまでは、大規模に組織化することはなかった。
WW1の東アフリカ戦線後、1919年に英帝国政府はRNR(Rhodesia Native Regiment)の費用を負担せず解散させた。
復員した兵士には給与から差し引かれた数ポンドが支給され、部分的または重度の障害を持つ兵士には、それぞれ5ポンドと10ポンドの一時金が支給された。
黒人退役軍人の多くは北ローデシアやニヤサランドといった近隣地域出身であったが、多くが鉱山への出稼ぎ労働に戻ったため、植民地とその周辺地域に散らばっていった。
中には、陸軍への出向先であったBSAPに再入隊した者、植民地政府で職を得た者、あるいは農村生活に戻った。
南ローデシアでは、特にゴールドコーストのような地域と比べると、元戦闘員の数は比較的少なかった。
戦後、南ローデシアの労働者階級の闘争において、元軍人が主導的な役割を果たしたという証拠はない。
戦後の抗議活動に退役軍人があまり関与しなかった理由は、その少なさに加え、RARの退役軍人の多くがWW1時代の先人たちと同様に、数百人が新設のRARに再入隊したこと、そして一部は国営または民間の警備隊に加わった事が挙げられる。
実際、WW2の黒人退役軍人は、南ローデシアの植民地国家の維持に重要な役割を果たした。
1970年、ローデシアの上院議員で元先住民主任委員のStan Morrisは、新たに訓練を受けたアフリカ系警察官の卒業生たちに向けて、「元アフリカ系警察官の中には、ビジネスマン、交通機関のオペレーター、通訳、裁判所や内務省の事務員として活躍した者を数多く知っている」と述べた。この発言は正確だった。なぜなら、長年にわたり、アフリカ系元警察官は植民地国家のために何らかの形で働き続けたからだ。
WW2前後も、アフリカ系元警察官がNAD(内務省)で働くことは一般的だった。アフリカ系元警察官にとってそれらは魅力的な仕事だった。なぜなら安定した給与が支払われたからである。
BSACは准軍事組織で、BSAPも同様の側面を持っていた。警察対テロ部隊(Police Anti-Terrorist Unit)のPATUに、支援部隊のBlack Boots。公安部(Special Branch)のSB-Scouts、SWAT(Special Weapons and Tactics)などだ。
PATUはDerek Humberstone警視正、元LRDG、SASのBill Bailey、元SASのReg Seekings等が所属するBSAP予備役から構成され、追跡と偵察を行う部隊だった。4名1組のStickは警察でも使われた。SWATはウジー短機関銃や、P1拳銃を装備していた。
ローデシアは多数派の黒人を少数派の白人が抑圧してると言う事だが、BSAP Support Unitは黒人で構成されており、笑顔の写真も残っている。他にもBSAPの白人と黒人が仲良く自転車に三人乗りしている写真もあり、一概に全員がレイシストだったとは言えない。
内陸部にあるローデシアの主役は当然陸軍(Army)であり、COIN作戦に特化した部隊が産み出された。戦争が長期化してくると、予備役も召集され規模が拡大する。
装甲戦闘車輛、火砲の数は限られており、南アフリカの支援を受けていた。小火器はFN FAL、R1、ヘッケラー&コッホG3、エンフィールド303と言った小銃に混ざって、敵から入手したAK-47、RPD、PKM、PPShk、12.7㎜DSHK重機関銃、RPG-2、RPG-7と言った東側兵器も使用された。中には第二次世界大戦でドイツ軍に装備されたMG-34、英軍ブレン軽機関銃もある。他にもAK-47の中華コピー製品56式、米軍で採用されたM-16もあったとされる。
1979年5月27日、ローデシア東部国境地帯でZANLAに対してフェレシェット弾を使用している。
装甲戦闘車輛は、南アフリカがダーバンに停泊していたフランス船籍「アストロ」の積荷から、リビアからウガンダに送られたT-55戦車を手に入れて、1979年ローデシア軍に8輌供与していた。この戦車はローデシア装甲車連隊(Rhodesian Armoured Car Regiment)E中隊(E Squadron)に配備された。
他にSADFから派遣されていたEland90(AML-90の南アフリカ仕様)、ウニモグなどと共におおよそ20両のフェレット装甲車があった。RLIでもUDI直後はWW2の骨董品であるスタッグハウンド装甲車、1973年には偵察隊でフェレット装甲車等が運用されていた。
部隊の移動にはランドローバーやベッドフォードのRL/RMトラック、フォードピックアップトラック(迫撃砲の輸送)等が運用された。
砲兵はSADFと同様に第二次世界大戦の骨董品である25ポンド砲を装備していた。その後、105㎜榴弾砲、140㎜砲、155㎜榴弾砲を装備する。
著名な部隊で、Rhodesian Light Infantry(RLI)、Selouse Scouts 、全員白人のRhodesian SAS連隊などがある。
Rhodesian African Rifles(RAR)連隊は黒人が大半を締める部隊で、RLIと共に1977年以降、ファイアーフォース戦術の一環として落下傘降下の教育が行われた。RARに関しては他の白人部隊と異なり、1980年にジンバブエ陸軍第1落下傘大隊に組み込まれた。
ローデシアSASは、LRDGから続く本家イギリスのSASの系譜に連なる。
マラヤで騒乱が発生した時、Briggs計画を実行する為に21 SASと連携するマラヤ斥候隊(22 SAS)がJ.M.Calvert少佐に編成され、ローデシア人によるC中隊が誕生した。部隊はマラヤの名称が消えて、A〜Dの4個中隊と連隊本部で22 SASへと改称される。
極東に派遣されたメンバーにはPeter Walls、Ron Reid Daly等、ローデシア紛争で著名になる人物も居た。マラヤ派遣中は3名の戦死者を出している。
ローデシアに帰国後、C中隊は解散したが、アフリカでの民族主義運動の高まりから英国は連邦の解体を進めていた。北ローデシアはザンビアとなり、ニャサランドはマラウイとなる予定だった。
ローデシアに白人の常備軍は存在せず、現地の白人部隊の拡充が求められたのも当然だった。1961年にはC中隊と名付けられた落下傘部隊が構想され、Courtenay Welch少佐の指揮下で落下傘評価分遣隊が編成された。
1962年、主要国境検問所にSASが配置され、コンゴ軍のザンビア侵入を阻止した。
1963年11月、連邦の解体が迫る中、南ローデシアのNdolaにDUdley Coventry少佐を指揮官とするSASが移動した。
UDIの数カ月後にZANUがザンビアから影響し、襲撃を行っていた。
双方共に戦争期間中、多くの越境作戦を行ったが、SAS側も当初はつまずきも見せている。
1966年、DUdley Coventry少佐が指揮するティームは、ザンビアの首都ルサカのZANU本部を襲撃後、引き続いて10月12日、Chirunduに近いKafue川の橋梁を破壊準備中、爆発事故によって下士官3名戦死の損害を出している。
その結果、SASの選抜に対してBrian Robinsonは世界的な特殊部隊としての技能を隊員に求めた。
1969年、ポルトガルの為にローデシアはFRELIMOを追跡すべくSASを派遣した。SASはマラウィ、ザンビア、モザンビーク国境付近で活動した。1970年、FRELIMOが大規模な攻勢をかける中で、自国に波及する事を阻止すべくローデシア軍はポルトガル軍に協力した。
1973年1月19日、第2旅団長John Hickmanの指導により、雨季のモザンビークで越境作戦を実施。これはローデシアSASにとってマラヤ以来、海外で初の空挺降下と自由落下で、Chris Schollenberg中尉は4名の部下からなる降下誘導ティームの指揮していた。
作戦は一ヶ月続き、FRELIMOとZANLAが協力している証拠と敵のキャンプの痕跡を掴み、多くの敵を倒した。
1984年に初版が発行された「THE ELITE the story of the Rhodesian special Air Service」ではボブ・マッケンジー大尉に並んで顔を隠された人物のツーショット写真が掲載されている。写真の記述ではマッケンジー(Bob Mckennaとなっている)がSCR、BCR、WOCの叙勲者。もう一人は唯一GCV、SCR、BCRを授与されPhantom Major(幻の少佐)と讃えられる人物となっているが、ローデシアが過去の歴史となって40年近くも経てば秘密も糞もへったくれも関係無い。叙勲者の一覧やSASどころかRecceの作戦行動も明るみに出ている。
Grahame Alexander Willson大尉は視力が悪くても優秀な指揮官で、1980年6月30日にGrand Cross of Valour(G.C.V.)を授与されている。GCV、SCR、BCR、WOCの叙勲者で幻の少佐の正体だ。
ローデシア紛争中、SASの損害は1966年に3名、1968年に1名、1973年に3名、1974年に4名、1975年に2名、1976年に5名、1977年に4名、1978年に7名、1979年に9名戦死となっている。
その後1980年、ローデシアSAS指揮官であったGarth J Barrett中佐(1978年1月にBrian Robinsonより引き継いだ)は106名の部下と共にSADFに移籍し、6 Reconnaissance commando(6 RC)に所属した。1981年、6 RCは1 RCを改編した1 Reconnaissance Regiment(1 RR)に吸収された。
※79年6月26日にOperation Carpet参加中に戦死したM.F.Pearse大尉はローデシアSAS戦死者の中で最高位で、同月1日にSCRを叙勲したばかりであった。
※2014年、ノルマンディー上陸70周年に先立つ6月5日、元ローデシアSASのRSMジョック・ハットン氏が89歳の高齢で降下し英国皇太子と握手したニュースが日本にも伝わっている。同氏は45年~48年までパレスチナ、49年~52年までキプロス及びエジプト、その後、シンガポール、ローデシアと赴任してローデシアSASではRSMを勤めている。
RLIは1961年2月1日に初代指揮官J. S. Saltが着任、コマンドと呼ばれる大隊(実質、中隊規模)で連隊を構成していた。実際の構成人数は極めて少なく大隊規模なのに連隊と言うのは、南アフリカも同様だった。戦争の長期化はRLIにも影響を与え、当初14週間の教育期間が16~19週間へと増えて行った。
行軍、持久走の体育では上半身真っ裸と言うのもあった。Pokey drillではFN小銃片手に短パン、上半身真っ裸で体操すると言う気色の悪い物であった。
RLIは第1~第3コマンド(各Cdoは約120名、24名のTroope4~5個の編成)と支援コマンドの戦闘部隊、Base Group、教育隊、通信隊で構成される。
1 Commando(1 TROOP~4 TROOP):黒の下地に豹の部隊章
2 Commando(6 TROOP~8 TROOP、10 TROOP):白の下地に青いダイヤ、ダガーナイフの部隊章
3 Commando(11 TROOP~14 TROOP):緑の下地にバナナの部隊章
SUPPORT Commando(Recce TROOP、Mortar TROOP、Assault Pioneer TROOP、Anti-Tank TROOP):黄色の下地に黒い鳥の部隊章
個人携行の火器はFN小銃、南アフリカ製M962、英国製No.36手榴弾、小銃擲弾。分隊支援火器としてFN MAGや.303ブレン軽機関銃が運用されていた。
支援コマンドのMortar TROOPは60㎜と81㎜迫撃砲、Anti-Tank TROOPは106mm無反動砲、88㎜ロケットランチャーを装備していた。Assault Pioneer TROOPは見慣れない言葉だが戦闘工兵だ。偵察隊はフェレット装甲車4両と指揮車両を保有していた。
服装に関しては当初、ダークグリーンのデニム作業服にフロッピー・ブッシュハットであったが、ポケット4つの標準的迷彩服上下、半長靴、弾帯、サスペンダー、水筒、弾納、作業帽が標準で、迷彩服下の裾を半長靴の中に入れない場合もある。
3 CdoのBruce Kidd伍長の写真では、FN小銃の弾倉を上下逆にした物をダブルにして使用している事が分かる。BedfordshireのHatfield Houseに移転したRLIの像'The Trooper'のモデルとなったWayne Hannkekomの場合は、Tシャツ、短パンと言うラフな服装にチェストウェディング等の装備を身に付けている。
DC-3に乗り込む2 Cdoの著名な写真では全員、鉄帽を着用している。一方、ヘリコプターから飛び出すstickの場合は頭は頭髪剥き出しで何も被らず、短パンに長袖の腕捲りした姿も見受けられる。
RLIはDC-3とアルエットⅢにより空中機動と空挺降下を行うFireforceと言う戦術で、ZANLA及びZIPRAの敵ゲリラに対して12000名の損害を与える戦果をあげた。連隊の人的損害は135名と言うことで、敵に大損害を与えたと過大な評価を受けるが、対地航空支援など総合的な部隊運用の効果も大きい。なお1976年、FireforceのKill rateは80:1とされている。
Selous Scoutsは1974年の編成以来、公安の管理下で作戦を実施し、1977年、ComOpsの指揮下に入った。
前提として、マラヤとケニアに於ける叛乱鎮圧で、英国は、ゲリラを転向させて情報収集を行う部隊を結成し、警察の指揮下で大きな成功を収めた。同様にアンゴラでポルトガル軍は、1964年からブッシュマンを使い、テロリストの封じ込めに成功していた。
テロリストは主として国外から侵入し隠れる。ローデシアの治安部隊は、作戦地域を巡回し敵を追跡して来たが対応出来ていない。そこで、Gweloの歩兵学校でTracker Combat Unit(TCU)も創設された。
ローデシア中央情報機構(CIO)のKen Flower長官は、ZANLAとFRELIMOに対抗するため、ポルトガルのFlechaの様な部隊を創設した。部隊はMNR(モザンビーク国民抵抗組織)の基盤となった。MNRはローデシアSASの支援と訓練を受けた強力なゲリラ部隊で、1980年のローデシア崩壊後、SADFのRecceに引き継がれ、後にRENAMOとして知られる。
1966年の半ば、Bill Crabtreeの提唱により、公安はローデシアで初の偽装ゲリラに着手した。最初の訓練は10月24日から11月4日にかけて、Sabi川とLundi川の合流点付近で行われた。Allan Savory中尉が教官を務めた。この訓練に参加した12名は、SAS、公安、CIDから選抜された。
3回の訓練を修了した後、部隊は実験的な作戦を実行したが、ほとんど成果はなかった。
1971 年と1972 年、ローデシアSASのBert Sachse中尉は、公安テロリスト課の刑事Jack Berryと2名の黒人警官と転向した元ゲリラ1名の部隊を率いた。ザンビアでの作戦を指揮し、容疑者の捜索にあたった。
当時、McGuinness警視、Sachse大尉とMick Grahame中尉は、他の偽装作戦を試行していた。
ローデシア北東部でハリケーン作戦が開始されると、Chiweshe部族信託地(Tribal Trust Land)で、Peter Dewe等捜査班の指揮下で、偽装ゲリラ作戦が開始された。彼らの任務は地元住民を騙し、敵の動向と所在の情報を入手し、確認する事だった。SAS隊員達はドーランで体を黒く塗り偽装した。
1972年3月、後にSelous Scoutsとなる刑事課のPets Stantonは、モザンビーク国境のMatimbeのFRELIMOの拠点に、ZANLAがいるという情報を得た。Bert SachseとSASは、敵拠点の発見と攻撃に派遣され、FRELIMOの制服を着た多数のテロリストを排除。回収された文書の調査から、死亡したテロリストがZANLAである事を決定的に証明した。
1973年、ローデシア北東部に於ける戦闘の激化に伴い、偽装ゲリラの需要が益々高まり、陸軍の人員増員が決定された。首相からの指示により、CIOの管轄下にあった既存の人員に加え、黒人兵と白人兵による新部隊の編成が命じられ、警察長官Peter Allumと陸軍司令官から人員と装備の確保について全面的な協力を約束されたが、警察長官はSelous Scoutsに否定的だった。
Ken Flowerは引き続き作戦の統括する立場を務め、陸軍司令官のPeter Walls中将が新部隊の兵站及び人員管理を担当する事になった。
公安の連絡将校は、Mac McGuinnessの指揮の下、CIOに配属されたが、後に組織(部隊)への忠誠心から公安支部(Special Branch Selous Scouts)は明確に公安と対立しCIO長官への報告を行わず、McGuinnessにのみ報告を上げた。
McGuinness警視は、初期の偽装ゲリラ作戦で陸軍と協力していたWinston Hart警部に助言を求め、Ron Reid Daly大尉を推薦された。彼は退役を待つ休暇中で、ギリシャ諸島へ向かっている途中だったが、結果としてSelous Scoutsとして知られる新部隊の指揮官に就任した。
彼と連携する公安支部(Special Branch Selous Scouts)の責任者がMac McGuinness警視であったが、これは陸軍にとって問題を引き起こした。McGuinness警視は大尉よりも階級が上だったため、直ぐに少佐に昇進した。後にMcGuinnessが警視正に昇進すると、陸軍もそれに倣い、Ron Reid Dalyを中佐に昇進させた。
Ron Reid DalyとMac McGuinnessの役割、現場における指揮統制、明確な責任分担が規定され、その後2年間、Selous ScoutsはCIOの直接指揮下で素晴らしい成果を上げた。
部隊の結成にあたり、RLIとSASから白軍の将校と下士官が採用され、RARからは黒人兵士も参加した。偽装ゲリラ作戦で捕らえたゲリラも公安によって懐柔され政府側に転向、部隊に吸収された。
当初の提案では120名の中隊規模とされていたが拡大され、最終的には部族信託地に赴き、民間人を募集し、通常の標準的な陸軍新兵訓練に加えて、主にSASとRLIから生まれた選抜コースで6ヶ月間の訓練を受けた。
兵士は最終的に全員が、落下傘降下訓練を受けた。
Selous Scoutsによる偵察は当初、4~5人の隊員からなる斥候班によって行われていたが、1976年8月、Chris Schollenberg大尉の提案が採用され2名が標準となった。
ゲリラ集団を発見した場合に備えて、常に数機のガンシップヘリコプターを待機させていた。これがFireforceの概念の誕生に繋がった。
ゲリラ部隊が食事中か休息中の静止した位置を特定すると、監視所から後方基地へ無線連絡を送り、空軍はFireforceを待機させた。
大規模な標的の場合、HunterまたはCanberra爆撃機がFireforceの到着前に叩いている。
この部隊から叙勲者としてG.C.V.×1、C.L.M.×1、O.L.M.×7、S.C.R.×9、B.C.R.×29、M.L.M.×10、D.M.M.×5、M.F.C.×18、M.C.M×4、M.M.S×1を輩出している。最初の選抜コースでは白人40名、黒人200名が選ばれた。
他にもGrey's Scoutsや独立中隊が数個存在した。部隊名の頭にローデシアが来るのは、南アフリカと同様に英軍の伝統だろうか?
予備役として、Territorial Battalionが存在する。警察の補助任務を行う郷土防衛隊と呼ぶべき物だ。
ローデシア空軍(Rhodesian Air Force:RAF)の前身は1936年に編成されたSouthern Rhodesia Air Force(SRAF)である。RAFはホーカーハンターFGA9戦闘爆撃機、キャンベラB2とT4軽爆撃機、ヴァンパイアRB9、セスナ0-2、SF260攻撃機を保有していた。
Thornhill基地に第1、2、4、6飛行隊が、New Sarum基地に第3、5、7飛行隊が配備されていた。
ファイアーフォース(Fire Force)作戦を支えた空軍だが、輸送に当たった第7飛行隊のヘリコプターはSAAFから派遣されたもので、SAPのAlouetesをZ-Carと呼ぶ事から、指揮ガンシップをK-Car、兵員輸送用をG-Karと呼称した。K-CarのKはCannon-armedから、G-KarのGはGeneral Dutiesから来ている。
輸送機はDC-3と骨董品だった。ゲリラ側が航空戦力を投入してこなかった為、行えた作戦だと言える。
1974年、フランス製Matra MG151 20mm機関砲が購入され、1976年に軽攻撃機が購入され火力支援能力は強化された。
1978年、イタリアのAgusta-Bell205A11機が購入され、より強力なAB214が2機購入されている。
南アフリカは表面上、ローデシアから引き揚げた後も、ローデシア軍を支援し続けた。下記の4を見ればわかる様に、SAAFの航空支援は作戦上欠く事の出来ない物だった。
COIN作戦の観点から見ると、ローデシア軍は情報収集が優れており迅速にゲリラを叩いた。機動打撃戦力であるRLIやその他、予備兵力の存在も大きい。
部隊は1977年3月、Peter Walls中将がComOpsとして統括する立場にあったが、陸軍のJohn Hickman中将より上位ではなく、BSAPも独自の計画を決定し実行しており、指揮系統が統一されてはいなかった。
「THE ELITE The Story of the Rhodesian Special Air Service」によると1977年、ローデシア軍(SF:security forces)とテロリストのキルレシオ(Kill ratio)は1:10~1:7であったとの事。
一方で、ComOps HQ内部にスパイやダブルスパイが居たとされており、ムガベ政権後も要職に残ったローデシアCIO長官のKen Flowerも名指しで裏切り者扱いされている。
3.敵は?
ZANU:Zimbabwe African National Union 戦闘部門にZANLA(Zimbabwe African National Liberation Army)を保有する。ロバート・ムガベの支持母体。中国の援助を受け、主にザンビアとモザンビークを拠点に活動した。
ZAPU:Zimbabwe African People's Union 戦闘部門にZIPRA(Zimbabwe People's Revolutionary Army)を保有する。1975年3月19日、指導者のHerbert Chitepoが、ローデシアCIOのJack Berry大佐の指示で雇われた工作員Alan BriceとHugh Hind(共に元英SAS)によって車両爆弾で死亡。対立目的の工作は成功し、ザンビア領内のZANLAは粛清された。
ZIPRAはソ連の援助を受け、ザンビア、ボツワナから攻撃を行っていた。
東西陣営の思惑が絡み、ローデシア白人政権打倒を目指すゲリラは、東側陣営の援助により当初の散発的なテロ組織から軍事組織へと成長した。
ゲリラを鍛える訓練キャンプは隣国に散らばっていたが、ローデシア軍の越境作戦で攻撃を受け聖域とはならなかった。
標準的な火器として、SKS、AK-47、RPD軽機関銃、DShk12.7㎜機関銃、RPG-2、RPG-7、60mm迫撃砲、75mm、82mm無反動砲と言った装備を保有していた。
SAM-7ミサイルや防空火器も供与され、ローデシア軍の航空優勢も脅かし始める。地上でもT-34/85戦車、BTR-152装甲車や火砲の増強を受けていた。
4.ローデシア軍の行った作戦
Operation Pagoda Ⅰ(1966)
4月~7月。ローデシアを北から東に横断する様に描かれた斜線上でZANUと交戦。
Operation Pagoda Ⅱ(1966)
7月~9月に北部国境から首都にかけての直線上でZAPUと交戦。
Operation Grampus(1966)
8月1日~18日にかけてローデシア北西部の湖岸周辺で行われた。1RAR、BSAPも参加している。
Operation Yodel(1966)
9月20日~25日にかけて、ローデシア北西部のKariba及び、その北部周辺で行われた。
Operation Vermin(1966)
1月~12月にかけて、ローデシア北西部でZAPUと交戦。
Operation Husk(1967)
1月16日~23日にかけてローデシア北西部Karibaの北部周辺でZANUと交戦。
Operation Isotope Ⅰ(1967)
1月~9月にかけてローデシア北部国境周辺でZANUと交戦。
Operation Isotope Ⅱ(1967)
8月~9月にかけてローデシア北部国境周辺でZAPUと交戦。
Operation Nikel(1967)
8月10日~9月8日にかけてローデシア西部、Bulawaygの北西部国境周辺でZAPUと交戦。
Operation Cauidron(1968)
ZIPRAによる大規模な侵攻が行われ、ザンビアとモザンビークに挟まれた国境周辺で行った掃討作戦。SAS、1RLI、PATU、1RARが動員され6週間に渡った。
Operation Flotilla(1968)
5月~7月にかけて、モザンビーク国境沿いに行った。
Operation Griffin(1968)
7月16日~26日にかけてローデシア北西部Kariba周辺でZAPUと交戦。
Operation Mansion(1968)
7月16日~31日にかけてローデシア北部国境、ザンベージ河沿いにザンビアから侵入するZAPRAを襲撃、ZAPUと交戦。
Operation Excess(1968)
7月28日~8月12日にかけてローデシア北部国境周辺でZAPUと交戦。1RLI(1・2・3 Commando)、1RAR(E中隊)、BSAP(PATU、支援部隊)が投入された。
Operation Gravel(1968)
8月1日~12日にかけて、ローデシア北西部Kamativi周辺でZANUと交戦。1RAR(B・C・D中隊、自動車化小隊)、BSAP(公安、PATU)が投入された。
Operation Birch(1969-1970)
12月11日~3月5日にかけてローデシア東部国境付近でZANUと交戦。
Operation Teak(1970)
1月1日~2月13日にかけてローデシア西部国境、Wankie National Parkの北側、ザンビア国境周辺でZAPUと交戦。
Operation Chestnut(1970)
2月9日~3月5日にかけてローデシア西部国境、Wankie National Parkの東側、鉄道網に沿ってZAPUと交戦。1RAR(C・D中隊)、RLI(3 Commando)、BSAP(公安、PATU、支援部隊)が参加している。
Operation Pluto(1970)
3月1日~24日にかけてローデシア北西部Kariba周辺でZAPUと交戦。警察犬も参加している。
Operation Granite(1970)
6月にローデシア西部でZAPUと交戦。1RAR A中隊とPATUのスティックが、軽飛行機とヘリコプターの支援でZAPUの宿営地を襲撃。AK-47×2、RPG-2×1、トカレフ拳銃×2、RGD5手榴弾×5、TNTなどを鹵獲した。作戦全体としては、1RAR E中隊も参加していた。
Operation Big Bang(1974)
ZIPRAはMatabeland TTLに武器を集積する計画を立てていた。ザンビア領内のZIPRAに対して8月~10月にかけて実施された作戦。8月9日、Chris Schollenberg中尉のティームが行動開始。10月3日、Garth Barrettの指揮するSAS43名の主力が行動開始。慎重な偵察結果、敵の拠点を襲撃した。敵宿営地の南側で阻止グループが包囲の袋を作り、北から急襲グループが攻撃し追い込んでいくと言う単純な計画だった。敵はAK47、SKS、RPG-7、75mm無反動砲、12.7mm機関銃等の装備を保有していた。
作戦名不明(1975)
9月、ローデシアSASは4名のティームでFrelimoのグループを襲撃。この戦闘でKevin Storie伍長が戦死、1名が負傷した。
Operation Underdog(1976)
1月17日、Selous Scouts(Tim Baxter中尉指揮、白人6名・黒人8名)がモザンビーク、ChicombidziのZANLA拠点を襲撃。同拠点はFRELIMOの管理下にあった。
Operation Traveller(1976)
4月から5月にかけて、Selous ScoutsがCapondaのZANLA拠点を襲撃。
Operation Detachment(1976)
5月にButch Duncan少佐の全般指揮下で、Selous Scoutsがローデシア国境から約170Km、モザンビーク領内に入ったChigamaneとChitangのZANLA拠点を車両移動で襲撃。FRELIMOの塗装をしたウニモグ兵員輸送車に迫撃砲ティーム、地雷敷設と爆破のティーム等が分乗していた。
Operation Long John(1976)
6月に、Selous Scoutsがモザンビーク領内165Km浸透し、Pafuriから55KmのMapaiと110KmのChicualacualaのZANLA拠点を襲撃。Butch Duncan少佐指揮でFRELIMOの戦闘服を着用して行動した。
Operation Eland(1976)
8月9日、Selous Scoute84名とSASがモザンビーク、NyadzonyaとPungweのZANLA拠点を襲撃。1028名殺害の戦果をあげた。
Operation Prawn(1976)
8月、モザンビーク領内でSelous Scouts は、北西国境沿いのMalverniaからBarragem鉄道を攻撃。
Operation Mardon(1976)
10月30日から11月5日かけてモザンビーク領内100KmのJorge Do LimpopoとMassangenaにあるZANLAの兵站を支える拠点の襲撃が実施され、SAS、Grey Scouts、RLI、2 RAR、火力支援の砲兵連隊と騎兵隊(馬だけではなく自動車化もされている)であるGrey's Scoutsが投入された。ZANLAゲリラ、FRELIMO兵士を殺害。
Operation Ignition(1976)
11月18日にボツワナ、FrancistownのZIPRA拠点を襲撃する。
Operation Cockleshell Heroes(1977)
1月、モザンビークのカボラ・バッサ湖でローデシアSAS C中隊は6週間の作戦行動を実施した。目的はモザンビークからの侵入阻止。FRELIMOに損害を与え、作戦は成功する。
Operation Manyatela(1977)
公安の情報によると、FRELIMOの連絡網からZANLAの集結を察知した。1月、Madulo Panの偵察と攻撃がSelous Scoutsに命じらた。
Operation Kodak(1977)
1月から3月にかけて行われた。
Operation Aztec(1977)
5月から6月にかけてSelous ScoutsはモザンビークのJorge Do Limpopo、Mapai、Madulo Panの3箇所へ攻撃に参加する。
Operation Dingo(1977)
11月23日、モザンビーク・シモイオのZANLA拠点への強襲作戦。同時にモザンビークの空軍基地も攻撃を受けている。1 RLI、SASが地上軍として投入され、空軍のハンター×7、ヴァンパイア×4、ダコタ×7、DC8×1、DC7×1、Lynx×4(セスナ337G)、キャンベラ×4、ヘリコプター×31が支援した。公安のティームも加わっている。
地上部隊の指揮官はBrian Robinson少佐、航空部隊の指揮官はNorman Walsh大尉。
空爆の2分後、0747時にSAS96名と1RLI第3大隊(3 Commando)48名がダコタ輸送機で降下。L字に展開する。0750時に10機のG-Carsで1RLI第2大隊40名が降下、Paratroopers Boxと呼ばれるコの字を完成させ敵を追い込む。同地の敵兵力は9000名~11000名。ZANLAの他にFPLM、ソ連軍事顧問、タンザニア軍も駐屯していた。ローデシア軍の殺害戦果は5000名。
STOP 1は1 RLIのTroop 11(John Norman軍曹)、Troop 12(Mark Adams中尉)。STOP 2は1 RLIのTroop 13(John Cronin中尉)、Troop 14。STOP 3の指揮官はSASのColin Willis大尉。STOP 4の指揮官はSASのRobert Mackenzie大尉(通称がBob)、自分の死体が将来食われるとは考えなかっただろう。STOP 5の指揮官はSASのKenneth Roberts中尉。STOP 6の指揮官はSASのGrahame Alexander Willson大尉。
Operation virile(1977)
11月27日から30日にかけてOperation Dingoの延長として実施された。Selous Scoutsがモザンビーク領内のBuzi River、Mevumdzi River、Lucito River、Mechenele Riverに架かる橋梁破壊を実施した。尖兵としてJohn Murphy少佐と13名兵士が先行。続いてBert Sachse少佐と66名が続いた。
敵勢力圏内と言う事もあってFRELIMOとの交戦を想定しており、作戦に投入された2両のPig(装甲兵員輸送車)は20㎜ Hispano-Suiza Cannonを装備していた。ウニモグには2連装のMAG軽機関銃、81㎜迫撃砲、75㎜無反動砲、20㎜機関砲など多彩な装備をしていた。
Operation Turmoil(1978)
公安は、ザンビア領内にZIPRAの宿営地を発見。2月から3月にかけて、Selous ScoutsはRLI、SAS、RARと共にザンビア南東部のkavalamanjaのZIPRAを襲撃する。
Operation Abduction 1(1978)
6月にSelous Scoutsが参加した。
Operation Elbow(1978)
6月24日1115時、SASはザンビア国内で、移動中のZIPRAを襲撃。殺害戦果69名。
Operation Abduction 2(1978)
7月、公安の情報でSelous Scoutsが参加した。
Operation Mascot(1978)
7月から8月にかけてSelous ScoutsはTembueのZANLAへ2回目の攻撃を行う。
Operation Snoopy(1978)
9月20日、SASとRLIはモザンビーク・シモイオ近郊のZANLA拠点を襲撃。SAS D中隊(Recce)は、Connie van Wyk大尉の指揮で20名が作戦に参加。1名が戦死した。
Operation Gatling(1978)
10月19日、ザンビア領内のZIPRA拠点3箇所をローデシアSAS、RLIが襲撃。第1目標のルサカを空爆、ルサカの北東125Kmにある第2目標のMkushiのテロリストキャンプ(1,000名規模)を爆撃しSAS(約160名、81mm迫撃砲を装備)が襲撃。ルサカの東100Kmにある第3目標のCGT 2(4,000名規模の共産ゲリラ訓練所)を爆撃しRLIが襲撃した。
Operation Vodka(1978)
11月、Selous Scoutsはローデシア国境の北6㎞、ザンビア領内にあるMboromaのZIPRA宿営地を襲撃する。
Operation Shovel(1978)
12月、SAS C中隊はモザンビーク領内の鉄道網を寸断する為、潜入した。
Operation Dinky(1979)
4月、ザンビアからボツワナにZIPRAの物資を輸送していたフェリーを破壊すべく、SAS B中隊が投入される。他に、支援としてD中隊も参加していた。目標は完全に破壊した。
Operation Capet(1979)
6月26日、ザンビア領内深く198㎞にSAS C中隊が潜入。ZIPRA拠点から敵諜報網の書類を入手する。
Operation Chicory(1979)
ザンビア首都ルサカの近郊にZIPRAの物資集積所があると情報を入手したローデシア軍。7月1日1245時、SASが襲撃。
Operation Norah(1979)
9月12日、モザンビークのシルヴォ山にあるFRELIMOの通信施設をSASとMNRが襲撃、爆薬で破壊した。Renamoの支援としてSAS12名がヘリコプターで送り込まれた。
Operation Uric(1979)
9月にSADFの支援で行われたモザンビーク領内の大規模な越境作戦。
Operation Enclosure(1979)
9月、ボツワナでZIPRAとSelous Scoutsが交戦。
Operation Tepid(1979)
10月、ザンビアのルサカの南にあるZIPRA拠点を、SASとRLI第2、第3大隊が襲撃。作戦に先立ち、SAS C中隊は偵察任務についた。この時の個人携行品は、TR48HF無線機(+予備電池)、VHF無線機(+予備電池)、戦闘糧食(10日分)、水(5日分)、対人地雷、手榴弾、救急品、寝具、小銃。
キャンプの北側に迫撃砲グループ、RLI(72名)、SASが展開し、敵の退路にはRLIの一部が待ち伏せで配置されていた。敵は122mm、75mmの野砲、14.5mm、12.7mmの対空機関銃で武装しており断じて難民キャンプでは無かった。
この作戦中の10月19日、D.Mclaurin伍長が戦死。ローデシア紛争に於けるローデシアSAS最後の戦死者となった。この戦いにはベル205が投入された。
Operation Cheese(1979)
10月8日、ローデシアSASがザンビア領内の橋梁を破壊。
Operation Dice(1979)
11月、ザンビアからローデシア侵攻を企図するZIPRAに対して、ボブ・マッケンジー大尉指揮するSASとRLIがKufueの南東にある橋梁を破壊。移動手段を奪い、兵力の集結を阻止した。ザンビア政府もZIPRAに交渉に応じるよう動きかけた。Selous Scoutsや1Recce Aグループも参加している。※Selous Scouts Top Secret War(Ron Reid Daly as told to Peter Stiff)ではUH-1の機影が確認できる。
Mike Rich中尉はB中隊のオペレーター15名を率いてKafue~Chirunduの道路で待ち伏せを行った。
5.ローデシアで行われた南アフリカの軍事支援
1967年半ばからローデシアにSADFとSAP2個中隊が駐屯していた。南アフリカのANCの戦闘部隊、MKがローデシアのZAPUと協力関係を結んでおり、武器調達や訓練、侵入の策源地に使っていたからだ。
1974年4月のポルトガルのカーネーション革命後、南アフリカは日和った。ローデシアからSAPを撤退させ、弾薬と物資の供給を中断し、和平に応じる様圧力をかけた。
偽りの停戦期間、ZAPUとZANU相手に実りのない交渉が行われ、1976年には戦争が激化し、南アフリカも手のひらくるくるでローデシアを支援するが遅過ぎた。
作戦名不明
1968年、Zambezi ValleyにおいてSAAFのAlouette ⅢとSAPのスティックが行動していた。
Operation Junction
1972年6月26日から9月8日にかけて実施された。
Operation Blanket
1974年8月14日~27日に実施された。
Operation Virile
1977年11月、ローデシア軍はモザンビーク領内に侵入。橋梁を破壊した。この戦いにHennie Blaauw少佐の1RecceがローデシアSAS D中隊として参加した。
Operation Vanity
1979年2月25~26日に実施された。アンゴラ領内にあるZIPRAの拠点をローデシア空軍のキャンベラ爆撃機が攻撃。SAAF第12飛行隊が支援した。
Operation Mulungushi
1979年3月6~13日に実施された。
Operation Cucumber
1979年7月7~8日に実施された。
Operation PlacidⅠ
1979年8月22日に実施されたザンビアでの越境作戦。
Operation Sponge
1979年8月22日に実施された。
Operation PlacidⅡ
1979年8月22日に実施された。
Operation MotelⅠ
1979年8月23日に実施された。
Operation MotelⅡ
1979年8月23日に実施された。
Operation Bootlace(Uric)
1979年9月1~8日に実施された。モザンビーク領内に地上部隊は、Garth Berrett中佐のローデシアSASからDarryl Watt中尉のA中隊、Grahame Wilson少佐のB中隊、Bob Warren-Codrington大尉のC中隊112名とPat Armstrong少佐のRLIからPiet Farndell少佐の1 Commando(1Cdo)、Najor Nigel Henson少佐のSupport Commando、Joe du Plooy大尉のMining trrops、合計192名、SADFからJake Swart中佐の1 Recce72名が投入され、橋梁の破壊、FPLM第2旅団司令部襲撃なども行った。
作戦を支援した航空戦力は、RhAFが第1飛行隊・第3飛行隊(DC-47)・第4飛行隊(セスナ337)・第5飛行隊・第7飛行隊(アルエットⅢ)・第8飛行隊(ベル205ヒューイ)、SAAFが第12飛行隊・第15飛行隊・第19飛行隊となる。
具体的な一例をあげると9月2日、目標25(ブリッジ16)にピューマ4機でSAS B中隊48名が、目標26(ブリッジ14)にセスナ6機で1Recce24名が、目標27(ブリッジ15)にピューマ2機で1Recce24名が、目標28(ブリッジ13)にピューマ機で1Recce24名が、目標29(ブリッジ18)にピューマ4機でRLIと工兵48名が空輸され攻撃に当たった。
Operation Miracle
1979年9月27日に実施された。モザンビークのZANLAとFRELIMOに対して、ローデシア軍とSAAFの攻撃。ローデシア軍はSelous Scout、RLIをシモイオ攻撃に投入した。
Operation Tepid
1979年10月18日に実施された。ザンビアのルサカにいたZIPRAへの攻撃。
Operation Capsule
1979年11月23~26日と、12月8~12日に実施された。
6.世間で著名なの?
ローデシアは、ブラッド・ピット主演の映画「ブラッドダイヤモンド」を見るまで聞いたこともなかった。
ローデシアで検索すれば、ミリタリー・マニア向けの軍装品取扱店や、ネット・オークションでは商品が宣伝されており、これらが引っかかる。検索の邪魔です!
冷戦時代のアフリカを扱った日本語文献は幾つか出版されている。80~90年代には、ローデシア関連の記事を掲載した雑誌が、2000年代初頭には書籍が出版されていたが、現在では入手困難。
多くは政治史の観点であり、軍事史としては数えるほどしか存在しない。資料的価値は低く入門書には不適切だが、古書で入手できる機会があれば購入しておくべきだ。
「SAS大事典」:和訳された書籍では、ローデシアSASの軍事作戦が一番詳しく描かれている。
「傭兵部隊」:落合信彦の作品で、ローデシア軍の山岳歩兵であるグレイス・スカウツの副司令官であったマイク・ウィリアムズのインタビュー、略歴、写真が掲載されていた。
「南アフリカ独立戦争史」:アパルトヘイト時代の南アフリカ軍事史をまとめた作品。出版社に問題があるのか誤字、脱字が激しい。軍事用語の翻訳にも甘い箇所がある。ある程度、南アフリカ軍事史を知っていても、時系列が前後する記述で混乱する。個人的には参考文献の洋書が気になった。ローデシアの記述が数ページあるが、こちらも資料的価値はない。
現在でも、洋書では新刊が続々と出版されており古書は高額で取引されている。さらに知識を求めたい人は洋書の購入をお薦めする。
他にも、ストライダーのナイフも宣伝が上手かった。経歴詐欺の自称ローデシアSASを利用して商品の宣伝していたそうだ。