3.素晴らしき32 Battalion
1.歴史には山も落ちもない?
「向こうが殴ってくるから身を守っただけです」
「いやいや、それを言うなら!」
どちらが先かを言っても不毛だ。お互いの主張するもっと昔に戦争は始まっていた。
白人の植民地支配は結果として悪だが、帝国主義の時代には西欧諸国が行っていた国際社会の常識で、現代人の感覚で批評する事はあっても一方的批判をする事は卑怯だ。日韓併合を延々と半世紀以上も問題にする事と同じだ。
南アフリカは第二次世界大戦終結後も、半世紀近く戦う事になると予想したのだろうか? 答えは否だ。彼らの論理では当初はテロとの戦いであり、その後は共産主義者の支援を受けた叛乱だった。兵器水準や部隊編成を考えれば理解できる。軍事侵攻を本格的に行うには動員された兵力が限定された物だった。では、いつ南アフリカは本気になったのか? これは、キューバの正規軍派兵がきっかけだと考えられる。
1974年4月、ポルトガル本国リスボンでカエターノ政権に対してクーデターを実施。カーネーション革命である。
アントニオ・デ・スピノラ将軍を長とする救国評議会が発足。大統領に就任したスピノラ将軍は、ギニアビサウ、アンゴラ、モザンビークに自治権を与え、本国と連邦を構成する構想であった。
スピノラ将軍が担がれただけだったのかはともかく、アンゴラの天然資源はポルトガル経済にとって死活問題だった。一方で旧植民地では、将来の見通しが掴めない事から、インフラ維持や産業の発展必要な白人の流出が続いた。
9月、スピノラ大統領が辞任し、左派の支持によって軍参謀長であったコスタ・ゴメスが大統領に代わり一気に独立が決定し、ポルトガルは海外州を失った。
アンゴラでは暫定政権発足後、対立が表面化。独立の為に戦ったAgostinho NetoのMPLA、Holden RobertoのFNLA、Jonas SavimbiのUNITAによる権力闘争だ。
3月13日にはMPLAとFNLAの間で衝突が発生し、MPLAが優勢になるとUNITAはFNLAと連合して対抗した。
社会主義路線のMPLAが政権を握ると不味い。25日にはFNLAを支援してザイールが軍事介入した。
南アフリカは反共産主義の路線からUNITAやFNLAを支援した。これは南アフリカの統治する南西アフリカ(ナミビア)のゲリラがアンゴラを拠点にしてると言う理由もあった。
ナミビア独立をSWAPOが本当に求めていたのか、社会主義国に扇動されていたのか定かではないがSWAPO(South West African People's Organization)の実戦部隊であるPLANは、アンゴラを拠点に武力闘争に出た。PLANはソ連、中国、キューバから武器援助を受けていた。小火器は骨董品なPPSh 41短機関銃から新しいAK突撃銃、SA 7携帯地対空ミサイル、迫撃砲に地雷と、平和的とはかけ離れていた。ナミビア独立が達成された現在でこそ、独立の義士や烈士と呼べるが当時は反政府テロリストのゲリラでしかなかった。
※日本の公安調査庁はUNITAを国際テロ組織として扱っている。
治安情勢の悪い社会において、武装ゲリラと化したテロリストと戦う警察と軍の境目は曖昧だ。南アフリカに限らず警察特殊部隊は准軍事組織としての色合いも濃く、軍や情報機関の影響下で活動した。
例えば、ポルトガルのFlechas(矢)はPIDE (International and State Defence Police)海外州警察に作られた。Koevoetも南西アフリカ警察の対叛乱鎮圧作戦部隊だし、ローデシアのセルーススカウツも元は警察だ。さらに南アフリカ警察は、第二次世界大戦で警察大隊を編成して、北アフリカ戦線に投入された。戦闘の形態が正規軍との戦争と叛乱鎮圧で違いはあるが、実戦経験は積んでいた。それでも、警察と軍隊では継戦能力が決定的に違う。
警察力だけでは対処不能なこの事態に、南アフリカも黙っていた訳ではない。
1974年9月以降、キャンプ・アルファー(後のオメガ基地)でアンゴラから亡命してきたポルトガル軍や選ばれたブッシュマン、FNLAのゲリラを兵士として教育し直した。これらの人員がサバンナ作戦(Operation Sqvannah)でズール任務部隊(Task Force Zulu)の母体となった。
1975年9月24日、FNLAとUNITAを支援する4段階に作戦を南アフリカ政府は立案した。
10月14日1400時、ズール任務部隊司令部とA戦闘団が移動開始。2200時、B戦闘団が移動開始。サバンナ作戦の開始である。亡命ポルトガル人の小部隊が待機するカトヴィヴィ(katwitwi)を車列が通過する時、兵士らは歓声で迎えられた。
ポルトガル人の期待通り、南アフリカは全てにけりをつけるべく軍事行動を開始したのだった。方針は明確だった。敵対するテロリスト(SWAPO)と支援国家であるアンゴラに裁きの鉄槌を下すのもあったが、11月11日までにアンゴラに於けるFNLAの影響力を拡大する為、訓練と軍事援助をする事にあった。
この作戦に参加したB戦闘団(Battle Group Bravo)が、その後に第32大隊になった。
B戦闘団が第32大隊に改編された時、指揮官のJan D Bretenbachは大隊長として1977年まで在任した。
Bretenbachの軍歴は1950年、機甲部隊から始まる。1961年、南アフリカ軍特殊部隊の初期メンバーに選抜をされ、ローデシアに派遣された。ローデシアから帰国したBretenbachは「my boss」と敬愛を込めて呼ぶFritz Loots将軍の元で1Reconnaissance Commandoを指揮した。筋金入りの特殊部隊指揮官だった。
初期編成はJack Dippenaar大尉のA中隊、Conne van Wyk中尉のB中隊の2個歩兵中隊を基幹に、機関銃小隊、迫撃砲小隊、対戦車隊で構成されていた。
第32大隊は創設メンバーにFNLAの部隊が混ざっていた事からSADFの外人部隊"Foreign Legion"とも呼ばれていたらしいが、当初の規律や練度は低く、訓練と指導で実戦に耐える精兵となった。
SADFの越境作戦は、第73自動車化旅団のHeerden大佐の指揮下でズール任務部隊(Task Force Zulu)が編成された。当時、陸軍は第7歩兵師団と第8機甲師団を基幹とする第1軍団の再編成中であり、第72旅団が最も準備の整った部隊であった。機甲部隊はEland装甲車が主力で、戦車を装備して居なかった。旅団砲兵はWW2の頃の25ポンド砲、師団砲兵で140mm(5.5インチ)砲だった。
Z任務部隊はA戦闘団(Battle Group Alpha)とB戦闘団(Battle Group Bravo)から構成されており、当初の投入された戦力はズール任務部隊だけだが、後にフォックスバット戦闘団(Battle Group Foxbat)が追加され、さらにズール任務部隊から戦力を抽出して第101任務部隊(101Task Force)が編成された。他にもエクスレイ戦闘団(Battle Group X-ray)の行動記録が11月25日にあったと記録されている。
※英語版wikiでは、FoxbatとX-rayがTask Forceとなっているが、向こうの参考文献より新しい2008年、2010年の書籍を資料にしているので表記に従いBattle Groupとした。
※2010年に発行された「A Military History of SOUTH AFRICA From the Dutch-Khoi to the End of Apartheid」もFoxbat とX-RayがTask Forceとなっているが、Chapter6の参考文献が2007年以前の物である為、部隊の表記はBattle Groupとする。
史実で南アフリカ国防軍は人員2500名、車輛600輌からなるTask Force Zuluが33日間でアンゴラ領内へ3159㎞進出した。初戦の殺害戦果210名、捕虜96名。アンゴラ南部を席巻した。B戦闘団については第32大隊の前身である為、腐るほど記録に残っている。
A戦闘団やフォックスバット戦闘団の活動はどうか? B戦闘団の活躍の影に隠れているが戦果をあげている。Delville Linford麾下のA戦闘団は元Flechasであったブッシュマン2個中隊を基幹としており後に、1976年9月9日に第31大隊とされ、その後1981年1月からSWATF第201大隊になった部隊で、第32大隊同様に活躍した。
今回の作戦でも「無人の広野を駆ける」と言う表現が似合う快進撃だった。
フォックスバット戦闘団は、中央戦線(Central Front)においてUNITAを支援して攻撃目標に向けて前進した。
11月15日に発生したエボの戦い(Battle of Ebo)では、SADFは初めてキューバ軍と交戦したと記録されている。この戦いでキューバ軍は特殊部隊70名、FAPLA砲兵(対空機銃)、BM21で立ち塞がった。11月16日、G1(25ポンド:88㎜砲)装備の砲兵中隊が展開。キューバ軍は火力で圧倒され敗退する。12月12日には、エボから北東にあるブリッジ14(Brige14)で会敵する。敵兵力は3500から4000名。
「南アフリカが遂にキレたそうだよ」
「え?」
南アフリカの強硬手段は、共産圏の国々だけではなく、西側諸国にも不安を与えた。
結果、国連は南アフリカへの制裁を決定する。
だからと言って、南アフリカは決断を変えなかった。連日、国内で善良な市民がテロの被害に晒されている。敵の攻撃はすでに始まっている。それなのに、黙って耐えれるのか? 名誉ある孤立を選んだ南アフリカは、アンゴラへの全面介入を加速させていく。
一方のアンゴラ政府も焦っていた。まさか、南アフリカがここまで本気になるとは考えてもいなかった。
東側の盟主であるソ連に泣きつき、キューバ軍が代わりに送り込まれる事となった。
当初、南アフリカは限定攻勢による制裁を目的としていた。しかし、キューバ軍の参戦により、本格的戦争へと突入する。相手側が正規軍を投入してきた。軍事顧問と言うレヴェルではなく完全な実戦部隊だ。戦いは加速していく。
歴史としてオチだけ語ると、南アフリカはナミビアを切り離す事で自らの生存を図った。黒人との融和や政権交代、軍の再編、あれやこれやで現在は白人への差別や治安問題を抱える状況に至っている。
ザイールやジンバブエの現状を考えると、南アフリカはまだましな方かもしれない。戦後半世紀の間、内戦もなく飢えた経験もない日本人は恵まれていると思えた。
2.第32大隊の戦歴。
第32大隊の歴史は、南アフリカ国防軍がアンゴラで展開した越境作戦の歴史と言っても良い。個別な作戦の詳細については後述するが、具体的に主要な作戦名をあげるとこれだけある。
Operation Savannah(1975)★
最初の作戦。1975年10月5日から翌年3月27日まで実施された。
Operation Bdgie(1976)◎
1976年2月末までにSADF全部隊がサバンナ作戦から引き揚げ、FNLA兵の部隊を基幹とするBreytenbachのB戦闘団のみが、FAPLAの侵攻を阻止すべくOperation Budgieで、Cuando Cubango州の防衛に当たり、クイット川東西を起点に1月から10月にかけて行われた作戦。
Danny Roxo軍曹とRobbie Ribeiro軍曹の指揮する部隊は、Vila Novada Armadaに展開。Sybie Van der Spuy中佐がSavateの部隊を指揮した。
Willy Ward准尉の部隊は、13人のフランス人傭兵を含むUNITA先遣隊を包囲、武装解除し、ランドローバー5輛、ウニモグ数輛、その他車輛、82mm迫撃砲、RPG7、SA7、AK47やG3、R1小銃を鹵獲。Vila Novada Armadaに運んだ。捕虜はBaixa Longaに送られ、多くはB戦闘団に加わった。
Baixa Longa北9kmに展開したWard准尉の部隊は、RPG7、B10無反動砲、82mm迫撃砲を装備していたが、TK×2、BRDM×4、トラック×1の有力な敵と交戦。RPG3発で敵戦車1輛を撃破しているが、スズキジムニーを破壊されたり負傷者を出しBaixa Longaに撤退している。
BreytenbachはBaixa Longaから撤退を指示、道路には地雷が仕掛けられFAPLAに損害を与えた。
3月24日には、TF101はB戦闘団へPica Pauへ撤退を命じている。
興味深い事に、FAPLAの装備としてT34戦車が現役で戦場に登場していた。
Operation Tambotie(1976)◎
4月28日、FAPLAのMpupa及びCalai南部の侵攻を阻止すべく作戦命令が下達された。
4月29日、SWAPOとFAPLAの工作員がTuniとXamaveraに潜伏しているとの情報から、5月3日までに逮捕すべく行われた作戦。
Sybie Van der Spuy中佐の指揮で、A中隊、B中隊から2個分隊、迫撃砲ティームで戦闘部隊が構成された。1 Recceから4名が参加した。FN小銃、AK-47、弾倉10個、9mm拳銃を携行。
結局、Mpupaに敵は進んで居なかった。5月1日19時、PicaPauに帰還した。
Operation Cobra(1976)
TF101司令官Constad Viljoen少将は、5月10日、SWAPOの拠点を探し叩く事で、南西アフリカ国境北部の安定を目的にコブラ作戦を発動した。
B戦闘団、1 Recce、2 Recceの混成部隊が参加。B戦闘団はウニモグが与えられており、50口径2連装の水冷式ブロウニング機関銃、106mm対戦車砲、迫撃砲等で武装していた。
北に向かい迂回する事でFAPLAに偽装していたが敵にはバレていた。5月15日、Hangadima近くの敵拠点に向かうがSWAPOは撤退していた。5月17日、Sybie Van der Spuy中佐の部隊は、大規模なSWAPOの襲撃を受けるが撃退。6月10日、PicaPauに帰還した。
※1976年、32大隊の戦死者6名
Operation Bucksaw (1977) ◎
第101任務部隊作戦指令第21号。1977年3月28日に発令され、32大隊が初めてSADFの部隊と協同した作戦。
第101任務部隊を構成していた即応部隊の第1落下傘大隊から60名(Hennie Blaauw中尉指揮下)と第8大隊も投入された。即応部隊は味方の近接航空支援(ガンシップ:Alouette2機、セスナ軽飛行機)を受けながらヘリコプター(Super Frelon2機とPuma3機)で展開した。
3月30日、第32大隊はSWAPOの捜索を開始。4月6日に敵の攻撃を誘引し、殺害戦果2名、大隊の損害は戦死1、負傷1名。
4月9日、敵の夜襲を撃退。翌日に敵の塹壕を発見した。SWAPOが待ち伏せに用意した物だが放棄されていた。4月12日にも放棄された陣地を発見。4月13日には巡回とSWAPOが遭遇戦を展開し、大隊は10人が負傷する損害を受けた。
Operation Seiljag1(1977)
第32大隊に公式に名称が替わってからの作戦。5月21日より7月22日まで実施。5月27日1800頃、パトロール中の小隊がSWAPO遭遇した。その結果、敵の拠点を確認する。
Operation Seiljag2(1977)
5月17日、Operation Bucksawの後にA、D、F中隊は国境の北側に展開した。5月27日にSWAPOを発見、
殺害戦果1名。敵の食糧庫を破壊した。
7月28日、Eloff伍長の巡回チームがSWAPOと交戦。道の沿って敵はL字型に待ち伏せていた。敵は戦死者負傷者を回収して撤退した。
同日12時5分、Burman中尉の小隊がSWAPOと交戦。殺害戦果7名。14時半には敵の半包囲を受け弾を使い果たし、鹵獲品を使用して応戦した。8名が負傷する中で、応援の到着により敵を殲滅した。
Operation Seiljag3(1977)
大隊の全中隊がowambolandに展開し、国境の浅瀬で実施された作戦。9月27日には夜間哨戒中、敵を発見し猛烈に追跡した。Griessel中尉、Daan de la Ray中尉の率いる巡回ティームは、SWAPOを待ち伏せし、殺害戦果2名、その他を捕虜にした。この時、初めて折り畳み式のAK47を鹵獲した。
Operation Kropduif(Operation Pouter Pigeon)(1977)◎
Bucksawの結果、主要なSWAPO拠点を確認した結果、第101任務部隊指揮官Ian Gleeson少将の命令により、鳩作戦として行われたSWAPO拠点への攻撃作戦。
第32大隊の他にRecceも参加。参加兵力は第32大隊から3個歩兵中隊(12個小銃小隊)、81㎜迫撃砲。第1、第2偵察コマンドーから90名。RecceはEheke 1を、第32大隊はEheke 2を攻撃した。
10月21日、32大隊はOmauniからChana Nundaに移動。Elunduに指揮所が開設され、大隊長Gert Nel中佐が指揮した。10月23日0515時、Eddie Viljoen少佐率いる5個小隊がアンゴラに入り、0600時にChana TofimaのSWAPO拠点を攻撃した。敵は北西のMamuandiに撤退、これを追撃中、放棄された陣地を発見、RPG7を鹵獲した。
10月24日、指揮所はEenhanaに前進。10月26日、Viljoen少佐の指揮で12個小隊と迫撃砲は攻撃前進開始した。6個小隊が東から叩き、5個小隊がNamuidiの北2kmに展開した。しかし敵は1週間前に撤退していた。
10月27日1615時、指揮所よりRecceにEheke 1、32大隊にEheke 2攻撃許可が出た。しかし10月28日0410、火力優勢なSWAPOは先制攻撃に出た。敵の砲撃で大隊は戦死1名、負傷7名の損害を受けた。1630時、Eheke 1を攻撃したRecceは7名戦死の損害を出している。
2145時、撤収開始。10月29日0645時には国境越えた。
大隊長は、32大隊に140mmG2の火力増強、年末までにEhekeの再攻撃。1978年内にMulemboとAnime攻撃を求めた。
※1977年、32大隊の戦死者11名。
Operation Seiljag4(Operation Yacht)(1978)
Operation Seiljag5
Operation Reindeer(1978)★
4月22日から5月10日にかけて行われた作戦。第44落下傘旅団と共に第32大隊は投入された。アンゴラ領内250㎞に進出し、SWAPOゲリラの訓練所及び兵站施設を襲撃した。いわゆるKassingaの戦い。
殺害戦果はSWAPO1000名、ロシア人6名。捕虜がSWAPO200名。
なお、この作戦に参加したJuliet戦闘団を母隊として第61機械化大隊が編成される。
※1978年、32大隊の戦死者19名。
作戦名不明:1979年1月23日、UNITAはCuangarのFAPLA基地を攻撃。第32大隊は迫撃砲による火力支援を実施した。
Operation Seiljag 6
Operation Seiljag 7(1979)
1979年1月4日から2月24日にかけて実施された作戦。
Operation Seiljag 8(1979)
1979年2月28日から4月3日にかけて実施された作戦。
Operation Seiljag 9(1979)
1979年4月4日から6月12日にかけて実施された作戦。
Operation Seiljag 10(1979)
1979年6月12日から8月14日にかけて実施された作戦。
Operation Seiljag 11(1979)
1979年8月14日から9月9日にかけて実施された作戦。
Operation Seiljag 12(1979)
1979年9月9日から10月17日にかけて実施された作戦。
Operation Velskoen
Operation Seiljag 13(1979)
1979年10月17日から12月4日にかけて実施された作戦。
※1979年、32大隊の戦死者4名。
Operation Driehoek(triangle)(1980)◎
SWAPOがEenhana又はElundu攻撃に備えて物資を蓄備蓄している事が判明した結果、32大隊E、F中隊は、1980年2月4日、アンゴラに進出した。
同日、E中隊第1、第4小隊は殺害戦果2名を確認している。2月6日には、SWAPOの食糧庫を破壊、偵察ティームが待ち伏せ攻撃を行うが、逆に2月7日にF中隊第1小隊が敵の待ち伏せ攻撃を受けている。
Operation Makalani◎
作戦指令第2/80号により、2月20日から3月25日にかけて行われた。第32大隊(B・E・G中隊から抽出した6個小隊171名、2個偵察ティーム10名)及び第52大隊(3個中隊277名)、第25工兵中隊が投入された。32大隊の参加部隊は22日にOndangwaを前進した。52大隊は3月1日、国境の北20KmでSWAPOを捕らえた。3月10日0730に、32大隊B中隊がSWAPO遭遇。82mm迫撃砲2門、弾薬40発、AK-47、ドラグノフ狙撃銃を鹵獲した。
Operation Loodvoet(Lead Foot)◎
本作戦に於いて第32大隊A・C・F中隊はパトロールの一環として、アンゴラ領内50㎞に進出した。又第37大隊の小隊が評価の為にF中隊に配属された他、第1落下傘大隊が敵の足止めに投入された。
3月25日の夜、A中隊はアンゴラ領内に侵入。翌日、午前11時頃、SWAPOと遭遇し殺害戦果2名。
Operation Ferrelra◎
4月30日から5月23日にかけて行われた作戦。4月30日の夜、D・G中隊から抽出した5個小隊がアンゴラ領内4㎞に進出してパトロールを実行した。
Operation Tiro-a-Tiro(Battle of Savate)(1980)◎
5月15日から5月24日にかけて砲兵や航空支援無しに行われた作戦。5月15日、第32大隊の強襲部隊(270名)をSWAからアンゴラ領内に75Km入ったSavateにあるSWAPO拠点へBuffel装甲車で送り込んだ。ここにはFAPLAの旅団が駐屯していた。5月17/18日、Willem Ratte中尉の率いる偵察ティーム(AK-47、60mm迫撃砲、RPD機関銃、M72LAW装備)はUNITAの先導で前進する。5月21日、A中隊、F中隊が正面より攻撃を敢行、E中隊が南から、C中隊が北から挟み込んだ。
Operation Sceptic (Smokeshell)(1980)★
5月30日から6月29日にかけてアンゴラ南東部のSWAPO拠点「Smokeshell」を目標にしていたが、その地域に他の拠点を発見し、作戦規模は拡大された。
SADFは第61機械化大隊、第1落下傘大隊、第32大隊、第1大隊から抽出した4個戦闘団を投入した。
編成の内訳は、第61戦闘団(第61機械化大隊基幹、第1落下傘大隊から1個中隊、第1歩兵大隊から1個機械化中隊、第25野戦中隊から2個工兵分隊)、第10戦闘団(第1落下傘大隊から2個中隊、第61機械化大隊から装甲車中隊(Eland90)、第25野戦中隊から1個工兵分隊、陸軍司令部から81㎜迫撃砲グループ)、第53戦闘団(第32大隊B中隊、2個装甲車隊、第25野戦中隊から2個工兵分隊、陸軍司令部から81㎜迫撃砲グループ)、第54大隊(第32大隊D・E中隊と81㎜迫撃砲小隊、第1落下傘大隊から1個中隊、第25野戦中隊から2個工兵分隊)となる。ご覧の通り、単純な大隊戦闘団ではない。増強大隊と混成大隊が見て取れる。
敵であるPLAN陣地は中隊規模の場合、四隅に82mm迫撃砲を配置し、Strella 2やZU-23で防空能力が強化されていた。各小隊はRPG-7、SKSの他にB-10無反動砲、12.7mm機関銃、60mm迫撃砲も確認された。
この作戦でSWAPO380名を殺害又は捕虜にした。今回もロシア人17名の死亡が確認されている。
Operation Vastrap(Stand Firm) (1980)☆
7月28日から3月16日にかけて行われた作戦。
Operation Butterely(1980)◎
9月2日から2月12日にかけて北東戦線で行われた第32大隊の作戦。SAAFの支援でA・C・F中隊が、SWAPO攻撃と掃討を行った。
※1980年、32大隊の戦死者32名。
Operation Zulu(1981)◎
1月4日から2月17日にかけて行われた作戦。SWAPO北部戦線司令部を撃滅すべく、第1落下傘大隊からの中隊と、第32大隊A・B・C中隊から統合された部隊が投入された。
Operation Hammerhead
32大隊偵察ティームの作戦。
Operation Vastrap 5
Operation Butterfly 2
Operation Spiderweb
Operation Vastrap 6
Operation Houtpaal(Wooden Pole)◎
4月14日から5月27日にかけて行われた作戦。SWAPO北西戦線司令部を撃滅すべく、第32大隊と第44落下傘旅団が投入された。この作戦は、SAAFと第25野戦中隊が支援した
Operation Domino
1981年初頭からSWAPOに対する攻撃は激化し、5月26日/27日に第32大隊、第44落下傘旅団、Recceの合同作戦が実施された。RuacanaのHurricane基地に本作戦の指揮所が置かれた。
第32大隊は2機のPumaで移動。CahamaからXangongoに下る道で待ち伏せを行った。装備はAKM、PKM機関銃、M79、RPG-7、TM46地雷、白鱗手榴弾。第44降下誘導中隊は2個ティームが車輛(Sabre)6輌で移動。XagongoからOndjivaに至る道でFAPLA、SWAPOのトラックを襲撃した。Recceはヘリコプターで移動。ChibaからChibembaにいたる道で襲撃を行った。
Operation Carnation(1981)☆
6月20日から8月のプロテア作戦の開始までに行われた作戦。Cuvelaiの北にあるSWAPOの兵站線と拠点を破壊する事を目的に、第32大隊と第44落下傘旅団を主力に第3大隊、第6大隊、第101大隊、第201大隊、第701大隊、第5偵察連隊も投入された。
SWAPOは3〜5日事に拠点を変える事で発見される事を避けており、地域に食糧や装備を隠匿していた。
6月22日、Omupandaの東6kmの敵拠点を叩き、殺害戦果2名。7月1日、G中隊はChana Paleに進出し殺害戦果17名、捕虜3名の戦果を得た。
7月5日に殺害戦果3名、7月7日は殺害戦果7名。7月11日にA中隊が、Ongivaの北東2kmの拠点を襲撃。殺害戦果4名と大量の装備を鹵獲する事に成功した。F中隊も4000kgの缶詰を発見、13日にはG中隊が整備拠点を襲撃し、殺害戦果2名、燃料、大量の車輛部品を破壊した。
Operation Protea(1981)★
アンゴラ中部の要地を確保し、FAPLAによるSWAPOの支援を遮断すべく8月24日から9月6日にかけて実施された。
SAAFが投入した航空兵力は、航空攻撃、近接航空支援、防空任務にMirage(F1AZ×12、F1CZ×8)、MirageⅢ(CZ×7、D2Z×6)、インパラ×16、バッカニア×5、キャンベラ×5。写真偵察(Photo-reconnaissance)にキャンベラ×1、MirageⅢRZとR2Z×3、インパラ×2。落下傘部隊の空輸などにDCダコタ×7、C160とC130×3。
Wiktop Badenhorst准将の指揮する地上軍は、4個任務部隊に分かれて行動した。
A任務部隊(Joep Joubert大佐)は、第10戦闘団(第61機械化大隊基幹)、第20戦闘団、第30戦闘団、第40戦闘団(Deon Ferreira大佐:第32大隊A・G・C中隊)で構成されており、B任務部隊(Task Force Bravo)は第50戦闘団、第60戦闘団(James Hill中佐:第32大隊D・E・F中隊、迫撃砲小隊)で構成されていた。
第40戦闘団を構成する中隊だが、A中隊は第41戦闘群(Combat Team41)、G中隊は第42戦闘群として運用された。
FAPLA旅団はT-34戦車、PT-76戦車、BRDM装甲車、BM-21、AU-23-2対空機関砲、M55 20mm AAAなど装備していた。この作戦でSADFはSWAPO 1000名を殺害又は捕虜にし、ロシア人10名を殺害した。
Operation Konyn (rabbit)(1981) ☆
プロテア作戦の前段階として、8月21日にOshikongoの部隊が集結し、23日にCahama空爆が実施された。
Operation Dahlia◎
作戦指令19/18号。10月2日から11月3日にかけて行われた作戦。10月2日、第32大隊(B・C・D中隊、81㎜迫撃砲、偵察ティーム)は、西部戦線のSWAPOとFAPLAに対応した。
Operation Handsak(Hand Bag)(1981)◎
10月12日から5月30日にかけて行われた作戦。この作戦も2号以下、6号まで続いた。
1982年2月1日、第201大隊の2個中隊と第32大隊はFAPLAを待ち伏せ攻撃した。2月23日、第32大隊G中隊第2小隊はTechipaの東7㎞にあるSWAPO拠点を攻撃。殺害戦果11名。3月23日0100時、第32大隊E中隊第2小隊はCahamaの南東30㎞にある基地を攻撃。
Operation Daisy(1981)★
11月1日から20日にかけて実施された作戦。第32大隊の他に第61機械化大隊、第201大隊、第1落下傘大隊、第5偵察連隊も参加した。SAAFが投入した航空兵力は、対地支援にインパラ×15他。空輸にDC-3ダコタ×4、C-160とC130×6、DC-4×4。写真偵察にMirageⅢRZ×2が参加した。
11月4日、第61機械化大隊はBambiを攻撃。
※1981年、32大隊の戦死者8名。
Operation Olyfhout(Olive Wood)(1982)◎
2月17日から2月27日にかけて行われた作戦。
Operation Super (1982)★
3月13日、アンゴラ南西部で実施された作戦。第32大隊の他に第5偵察連隊も参加した。
殺害戦果はSWAPO200名、ロシア人3名。
Operation Boomslag(Tree Snake)◎
5月13日1800時から5月15日1030時にかけて行われた作戦。
※1982年、32大隊の戦死10名。
The Spiderweb Project◎
Operation Fakkel(Torch)(1983)◎
3月23日に実施された。
Operation Kwartel(Quail)◎
Operation Snoek(1983)◎
4月3日1910時、第32大隊A中隊の第1・第4小隊がVinteseteの北東4㎞でSWAPOに対する待ち伏せ行動を開始した。82㎜迫撃砲と第3小隊が支援する。
Operation Dolfyn(Dolphin)(1983)◎
4月25日から6月3日にかけて行われた作戦。第32大隊の他に第44落下傘旅団も参加した。
5月4日1445時、第32大隊E・G中隊攻撃位置に前進。5月5日、SWAPOを待ち伏せ攻撃。
6月5日、B戦闘団(呼び出し符号:30)は2名殺害、1名捕虜の戦果を得る。11日には2名殺害、1名捕虜の戦果。
7月3日、A中隊第2小隊はDovaの北20㎞でSWAPOを攻撃。殺害戦果1名。
Operation Askari (1983)★
1983年初頭、SWAPOをXangongoとOngiva地区から追い出したプロテア作戦の効果は薄れ、FAPLA庇護でゲリラは戻って来た。この為、膠着状態の戦況打破と、SADFは何時でも望む所を攻撃する事が出来ると内外に示す事を目的として、11月26日から翌年6月20日にかけて行われた作戦。
当初、作戦期間は11月9日から12月9日の予定であったが、政治的都合で効果的奇襲の機会が失われた。
フェイズ1はxangongoへの攻撃。フェイズ2はHumbe とQuiteveへの攻撃。フェイズ3はChamaへ前進。フェイズ4はCahamaへ攻撃。
参加部隊は幾つかの任務部隊に別れていた。
Task Force Echo Victor(Eddie Viljoen大佐):第32大隊からA、C、D、E中隊が参加。Cassinga、Tetchamutete攻撃。
Task Force Victor(Fann Greyling中佐:D戦闘団基幹):第82機械化旅団司令部、第1歩兵大隊から1個中隊、第4歩兵大隊からMRL、第5衛生大隊から1個小隊、装甲車1個中隊。Cuvelai攻撃。
Task Force X-Ray(Ep van Lill中佐):第61機械化大隊基幹、装甲車1個中隊、第4歩兵大隊から2個中隊、第8歩兵大隊から1個中隊、第10砲兵旅団からMRL、Recceも参加。Cahama、Quiteve、Mulondo攻撃。
Combat Group Delta Foxtrot(Deon Ferreira大佐:Joint Sector 20 force)
1月6日、第32大隊の北西9㎞にT-54/55戦車が現れた。これに対してインパラ攻撃機の航空支援を要請。1月7日、SAAFの対地攻撃でT-54戦車4両を撃破。
1月10日、15名殺害・2名捕虜の戦果を得る。
FAPLA第2旅団と第61機械化大隊が対峙。交戦したSADFは殺害戦果FAPLA324名、ロシア人21名。T-54戦車鹵獲11輌。自軍の損害は人員21名。
Operation Opsaal(Saddle Up)◎
6月20日から3月19日にかけて行われた作戦。
※1983年、32大隊の戦死者6名。
Operation Screla(1984)◎
2月19日から3月20日にかけて行われた作戦。第32大隊F中隊によるSWAPO掃討作戦。
Operation Forte◎
8日から4月29日にかけてアンゴラ領内Cassinga近郊で実施された作戦。8月26日、E中隊(Neil Walker中尉)、F中隊(Buttons Heyns中尉)、G中隊(Fred Turner中尉)+支援部隊が動員された。
Operation Bolson◎
8月4日、32大隊が指令を受けて南西アフリカのカプリビ回廊からボツワナ北部領内で行った越境作戦。
※1984年、32大隊の戦死者3名。
Operation Calutz◎ 作戦指令第1/85号。
Operation Egret(1985)◎
9月15日から22日にかけて実施された。
Operation Wallpeper(1985)★
1985年後半、FAPLAはJambaにあるUNITAの主要拠点を叩く為に、アンゴラ東部と南東部に部隊を展開し、CazomboのLuauを占領、Mavingaを脅かした。
作戦は9月4日までにUNITAによりLuau奪還を支援する事が目的であるmり、砲兵と対空部隊で支援する計画だった。
8月、FAPLAはLuau及びLucanoから第6、第14、第21旅団が出撃。Cazombo突出部を占領し、攻勢を開始した。
9月11日から10月8日にかけてLomba川周辺で実施された。アンゴラ政府軍の攻勢に対して、劣性なUNITAからの救援要請によりRecceと第32大隊が動いた。
FAPLA/FAPAの1985年10月1日公式記録によると、地上軍が戦死2326名、ソ連軍事顧問戦死3名、T54/55撃破3輛、PT76撃破1輛、BTR60撃破17輛、BRDM2撃破11輛、BM21/14撃破17輛。FAPAはMl8×1、Ml17×5、Ml25×6、MiG21×3、MiG23×2、AN26×1を損失したとのこと。
Operation Jerry(1985)◎
12月2日から27日にかけて実施された。作戦指令第1/12/85号。
※1985年、32大隊の戦死者15名。
Operation Gomma◎
作戦指令1/86号、1986年3月18日に発令されたUNITA支援の作戦。FAPLA第1大隊の徴候を偵察した。偵察ティームは4つ、ティーム1は13名、ティーム2は8名、ティーム3と4がそれぞれ8名。
Operation Southern Cross(1986)◎
3月18日から第32大隊偵察ティームが、あれこれと動いている。
Operation Alpha Centauri (1986)★
7月28日から8月5日にかけてクイットクアナバレー周辺で実施された。
Operation Fullstop (1986)◎
Operation Kakebeen (1986)◎
12月18日から4月12日にかけて実施された。12月18日、UNITAからの9名と第32大隊325名(対戦車小隊、対空、81㎜迫撃砲)からなる部隊が、クヴァンゴ河を基点とした地域でSWAPOと交戦する。同地域に展開するFAPLAは、BM21やZU23といった有力な装備を保有していた。
※1986年、32大隊の戦死者は無し。
Operation Radbraak(Mangle)◎
6月21日、第32大隊(B・D・F中隊から抽出した291名、81㎜迫撃砲、14.5㎜対空小隊)と、衛生など後方支援119名、2個偵察ティームが任務に当たった。
Operation Modular (1987) ★
Operation Alpha Centauriの結果、FAPLAは1987年3月になってCuito Cuanavale地域の戦力再編を開始した。これはMavingaとJambaに対する新たな攻勢準備を示唆していた。
8月、FAPLAはLomba川の北岸を陣地占領、Cuzizi川及Lomba川の合流地点に前進し、MavingaとJambaを指向した。
これに対してUNITAを支援すべく限定的なSADFの投入が決定され、
この時期、敵の航空兵力はMiG-23戦闘機、MiG-21、SU-22戦闘爆撃機。Mi-24強襲ヘリコプター等と充実していた。地上軍もまたT-54戦車を初め、BTR60、BMP-1、BRDM-2、PT-76、SA-14、ZSU-23-4等を装備していた。61機械化大隊、32大隊、砲兵2個中隊が投入された。
戦いの流れはLomba川を基点にFAPLA第16旅団(歩兵3個大隊基幹、戦車大隊、砲兵大隊、対戦車ミサイル中隊他)が行動開始。これに対して、第32大隊は第61機械化大隊、第101大隊と共にUNITAの支援に当たる。この時期、第32大隊偵察ティームはランドローバータイプの車輛を装備していた。主力はBuffelやRatelと言った装甲車で、対戦車能力は低かった。
9月9日、第20旅団B戦闘団はFAPLA第21旅団と交戦、引き続き北上し10月3日にはFAPLA第47旅団と交戦した。
T-55戦車を有する敵に対して第61機械化大隊のRatel-90、ラテルZT3等で防戦。味方砲兵も、Quebec中隊が保有する8門の155㎜榴弾砲G5でFAPLA第21旅団のD30、BM21を潰そうと動いていた。
9月末、敵は全面撤退しChambinga川とChambinga高地の確保に目的を変更した。
11月9日、北上したA戦闘団、C戦闘団はJuliet Troop(G6装備)とR Battery(120mm)の支援でFAPLA第16旅団を挟撃した。同じ頃、B戦闘団はFAPLA第16旅団の大隊を攻撃した。
25日、B・C戦闘団は北上し、UNITAと共に、Chambinga橋のFAPLA第25旅団、第66旅団を挟撃した。
殺害戦果はFAPLA382名、ロシア人6名。
Operation Hooper (1987-1988) ★
11月27日から3月13日にかけてクイットクアナバレー周辺で実施された。
1月13日、第4歩兵大隊、第61機械化大隊、UNITAがFAPLA第21旅団と交戦。
2月6日、第32大隊はMenongueを攻撃。キューバ兵7名を殺害。
1987年11月~1988年2月に編成されたB戦闘団(Battle Group Bravo)は第32大隊を基幹にしているが、第32大隊に対する増強大隊ではない。「○○戦闘団=増強○○」ではないと言う事だ。
指揮は第32大隊のジャン・ハガードが統括した。戦闘団本部と情報収集、随行のSAAFがそれぞれRatel×1、電子戦がCasspir×2を装備していた。構成する部隊は第101大隊から自動車化歩兵中隊、第32大隊からUnimog車載の81㎜迫撃砲、対戦車(106mm)小隊、対空(SA-3)の各部隊、Cive Wilsworth少佐指揮のP中隊(127㎜MRL)、2個衛生班の他に、第5通信連隊と第2野戦工兵連隊から支援部隊が送り込まれていた。
このように所属大隊が異なる部隊が集まり、運用される事が多かった。
A、C戦闘団はCuito Cuanavaleに迫り前回、FAPLAが侵攻して来たルートを逆走する形となった。B戦闘団はLongaの後背に迫り敵輸送部隊を砲撃した。
キューバ、FAPLA部隊に対して殺害戦果はFAPLA525名、ロシア人16名。
Operation Arno
Operation Packer (1988)★
キューバ、FAPLA部隊の攻撃に対して3月14日から5月12日にかけて実施された。第32大隊の他に第44落下傘旅団、第19ロケット連隊(MRLs)、第4偵察連隊、UNITA(第3、第4、第5大隊)も参加した。
Operation Kroniek
それは、ただの「襲撃」ではなかった。戦争の様式そのものを、密やかに、そして冷徹に変質させる導火線であった。
1983年、Recceと32大隊が中心となったこの作戦は、名目こそ「国境地域の治安維持」であったが、実態はまごうことなき越境攻撃、そして情報戦の幕開けであった。標的はCunene州に展開するFAPLAとSWAPO拠点。だが、この作戦において注目すべきは、戦術的勝利ではない。それは「戦略的錯覚」の創出である
すなわち、SADFはUNITAの名を借りて奇襲を仕掛けることで、敵の注意を徹底的に分散させた。南アフリカは戦っているのではない、ただ「武器を売り」、そして「情報を供給」しているだけなのだと、あえて信じさせたのである。「謀略の外套を纏った軍靴の音」であった。
戦闘推移は局地制圧から電撃襲撃への転換だった。
敵は自らの領土で戦っていると信じていた。だが、真に支配していたのは地図ではなく、奇襲と浸透であった。
作戦は1983年8月、PLANとFAPLAが国境近くで集結しつつあるという情報に基づいて開始された。先鋒を担ったのは、32 BattalionとRecce。これに空挺降下支援を行う形で44 Para Brigadeが配置についた。
フェイズ1:浸透と標的照準
Recceは、事前に数週間かけて国境を越え、標的となるゲリラの移動拠点、FAPLAの補給集積所、通信中継点を把握。地元住民との接触を避けるため、夜間移動と音波反応式の地雷を利用した封鎖作戦が同時展開。
フェイズ2:多点奇襲
8月10日未明、同時多発的な襲撃が始まる。32大隊は北方から、空挺部隊は南西から展開。FAPLAの小規模中隊は、明らかに不意を突かれ、20分以内に壊走。
フェイズ3:追撃と撤収
奇襲後、捕虜を取ることなく、すべての戦果を撮影・記録。ヘリによる空中回収が行われ、地上部隊は痕跡を消して撤収。国境線を超えた瞬間、存在そのものが抹消される。
それは「情報の刃」による作戦だった。実行したのは、南アフリカが誇る“幻影の軍勢”。
参加部隊
32 Battalion(主攻)
Special Forces (Recce Regiment)(偵察・標的指定)
44 Parachute Brigade(空挺支援予備)
SAAF(Pumaヘリ、Alouette IIIによる回収、Mirage III / BuccaneerによるCAS(限定)
戦果
PLAN(SWAPO)基地 6箇所壊滅
FAPLA陣地2拠点制圧・破壊(Lubango周辺)
敵戦死推定:120〜150名
捕虜:なし(命令により捕縛は行わず)
SADF損害:死者1名・負傷3名
32大隊の前進は、まるで煙と影の軍団のようであった。彼らが通った場所には、ただ沈黙と瓦礫のみが残された。
作戦全体の死傷者はSADF側でわずか数名。「見えざる刃」という異名を持つこの作戦は、以後のアンゴラ戦線においてFAPLAの戦術を根底から変えさせた。
Operation Kind
撤退である。だが、それは逃亡ではない。あるいは「沈黙する刃」の再配置と呼ぶべきものであろう。
1983年末から1984年にかけて実施されたこの作戦は、表面上、SADFのアンゴラからの段階的撤収とされていた。しかし真実は、撤収の影に隠れて、より精緻な奇襲体制を再構築するための周到な布石であった。
撤退部隊の後に残されたのは、補給網の撹乱、通信線の封殺、そして夜陰に紛れた特殊部隊の浸透であった。
あたかも“失われた作戦”に見せかけることで、西側メディアの注意を逸らし、実際の作戦空間を拡大する。戦わずして戦線を支配する――これぞ、SADF流の戦争芸術である。
戦闘推移は段階的撤退と局地反撃の繰り返しであた。
退却の中に潜む刃。それは「消える軍勢」が残す最も致命的な贈り物だった。
表向きには「政治的合意に基づく撤収」であったが、実際には支配地域の再配置と伏撃拠点の設置が目的。
フェイズ1:兵站線の再構築
SADFは駐留拠点の縮小を開始するが、同時に後方兵站線を再編し、移動式野戦補給ユニットを展開。これにより、迅速な再出撃が可能となる。
フェイズ2:UNITAの影を使った攻撃
撤退中、FAPLAが空白地帯に進出する瞬間を狙って、UNITAの偽装をしたRecceが伏撃を実施。これにより、敵は実際の勢力図を把握できず、戦線は混乱状態に。
フェイズ3:限定的再侵攻
1984年初頭、Cahama、Lubango周辺にてFAPLAが前進拠点を設置したことにより、再び32大隊が奇襲。2時間で前哨基地を壊滅させ、再び国境外へ退去。
南アの軍靴は退いた。だが、戦場そのものは後退しなかった。
参加部隊
32 Battalion(伏撃と遅滞行動)
44 Parachute Brigade(再投入準備)
Recce Regiment(偽装作戦・陽動)
SADF Mechanised Infantry(局地的な機動反撃)
UNITA兵力(協調支援)
戦果
FAPLA進出拠点への伏撃作戦成功:7件
敵損害(推定):戦死約200名以上
UNITA側による「攻勢」に見せかけた偽装戦闘:複数実施
SADF損害:死者6名・負傷20名
この作戦は「撤退」の仮面を被った反攻」であり、政治家を欺き、敵を惑わせた。まさに“佐官級参謀の技芸”が光る作戦であった。
この作戦を通じて、SADFは「撤退しながら制圧を行う」という軍事的矛盾の具現化を成功させた。まさに、「存在しない戦線による圧倒的支配」であった。
Operation Hilti/Hxite
6月3日から12月31日にかけて実施された。第32大隊(6個歩兵中隊と支援部隊)の他に第61機械化大隊(2個機械化歩兵中隊、装甲車中隊、戦車中隊、2個81㎜迫撃砲ティーム(8門)、対戦車小隊(Ratel90)、戦車駆逐隊(RatelZT3)、SWATF(第101大隊、第102大隊(2個歩兵中隊)、第201大隊、第911大隊)も参加した。戦況の推移を見ると対峙した敵との戦力差に驚く。
第10砲兵連隊は分散して各部隊の火力支援に運用された。S中隊(155㎜G5)は第61機械化大隊、K中隊(140㎜G2)は第51大隊、A小隊(127㎜MRL)とB小隊(120㎜迫撃砲)は第32大隊の支援に当てられた。
Operation Prone
最も大規模で、最も政治的で、そして最も制限された作戦。それは勝利のための戦いではなかった。「敗北しないための戦争」だった。
1988年、Cuito Cuanavaleの戦以後、冷戦末期の決定的局面。作戦名の"Prone"──伏せる、あるいは臥せるというその言葉の通り、この作戦は「突撃」ではなかった。「撃たれず、撃たせ、撃ち返す」ための態勢構築であった。
SADFはCuito Cuanavaleを直接攻め落とすことは避け、FAPLAとキューバ軍を消耗戦の泥沼に誘導した。戦車は進まず、空爆は限定的に。そしてなによりも、32大隊とRecceが仕掛けた地雷と伏撃によって、敵の戦意を地の底に沈めた。
「戦わずして戦場を封鎖する」この作戦は、冷戦の論理が頂点に達した瞬間の、南部アフリカの縮図であった。
戦闘推移はCuito Cuanavaleを巡る持久戦と地雷戦であった。
鋼鉄が進まず、泥と血だけが広がる。これはもう作戦ではない、「戦場の凍結」だ。
この作戦の焦点は明確で、Cuito Cuanavaleを孤立させ、FAPLAとキューバ軍をその場に釘付けにすること。
フェイズ1:Lomba川での撃退戦(Operation Moduler)
1987年末、UNITAとSADF連携部隊がFAPLAの進軍を撃退。SADFは地雷帯と長距離火砲で補給線を封鎖、敵の前進を事実上凍結。
フェイズ2:火砲優位の消耗戦
Cuito川の東岸に布陣したFAPLAに対し、SADFはG5/G6榴弾砲による間断なき砲撃を実施。航空支援は制限されていたため、地上の火力集中が鍵となる。
フェイズ3:渡河失敗と戦術転換
SADFは一度渡河作戦を試みるが、キューバ軍の装甲支援により失敗。以降は「渡らずに封じ込める」戦術へ移行。機動部隊が補給ルートを分断し、包囲網を維持。
史上最大のアンゴラ戦。戦車、砲、航空機、すべてが動員された。だが最も重要なのは「地雷」と「意図」だった。
参加部隊
61 Mechanised Battalion Group(装甲主力)
32 Battalion(歩兵+奇襲)
4 and 10 Artillery Regiment(G5/G6 榴弾砲)
SADF Engineers(地雷設置・爆破工作)
SAAF
Buccaneer爆撃機、Cheetah戦闘機、空中補給(C-130、Transall)
戦果
FAPLA第21、第25、第59旅団の進撃阻止(Lomba川)
敵戦車破壊:約80両(T-55、T-62)
歩兵損失:推定1,000名以上
Cuito Cuanavaleの東進封鎖に成功
SADF損害:死者31名・負傷約70名
「勝利ではない、だが敵の戦略的敗北は確定した」SADFはこの戦場で、“主動権”という名の兵器を使ったのである。
作戦の結末は、勝利でも敗北でもない。ただし、FAPLAの攻勢は完全に頓挫し、南部アンゴラの主導権はSADFの手に落ちた。
Operation Linger
名の通り、これは「残滓」であり、「残響」であり、「影のような戦争」であった。
1988年、南西アフリカにおける治安作戦の一環として行われたこの作戦は、正式にはSWAPOゲリラへの掃討を目的とするものであった。これは“存在の証明”を巡る戦争である。
国際社会から非難を浴びつつも、南アフリカは独自の「安全保障構想」を南西アフリカに押しつけた。あらゆる正規軍的要素を隠蔽し、32大隊とKoevoetが前面に出る。いわば「顔なき国家」が行う、「声なき戦争」である。
この作戦が成功したか否かは問うまい。問うべきは、歴史の陰で誰がその「存在」を選び取ったかということである。
戦闘推移は、ナミビア境界線の粛清戦であった。
敵は国家ではなかった。だが、それでも軍は戦わねばならなかった。
この作戦は、実際の戦闘よりもKoevoetと32大隊による「掃討」と「威圧」によって支配された。
フェイズ1:国境線の無人地帯化
SADFはナミビア北部を完全に封鎖。村落を監視し、ゲリラ支援の痕跡を根絶。ここでもRecceによる夜間潜入が主力。
フェイズ2:短期局地戦の連鎖
SWAPOが浸透すると、即座にKoevoetが追撃。最大の戦闘でも50名規模で、火力の集中により即時鎮圧。
フェイズ3:国際世論対策
作戦中、国連監視団が現地入り。南アフリカは、正規軍でなく「治安部隊」が戦っていると主張し、政治的正統性を確保し続けた。
表には出ない“影の作戦”。だが、最も多くの「恐怖」と「秩序」をもたらしたのはこの作戦だった。
参加部隊
32 Battalion、Koevoet、South West Africa Territorial Force (SWATF)
SADF Special Forces(監視・電子戦)
SAAF(空中監視とヘリ支援)
戦果
SWAPO浸透作戦:80%以上阻止
ゲリラ拠点壊滅:約50箇所
戦死者(敵推定):300〜400名
SADF損害:死者10名以下(Koevoet含む)
SADFが使用したのは銃ではない“疑念”と“沈黙”こそが最大の武器だった。
戦闘としては小規模だが、「存在の正当性」と「実力行使」を両立させた点で、南アフリカ戦争史における極致であった。
Operation Merlyn
最終章である。だが、それは終焉ではない。「語られざる戦争」の最後の火花が、ナミブ砂漠に消えたに過ぎない。
1989年3月、国連監視のもとでナミビアの独立プロセスが始まろうとしていた矢先、SWAPOが武装したまま国境を越えてきた。それに対しSADFが即応したのがこの作戦である。
UNは黙認し、世界は目を逸らした。だがSADFは逸らさなかった。
即座に動員された32大隊とKoevoetが、規則を破ったSWAPO部隊を待ち伏せ・殲滅。その速度、精度、そして容赦のなさは、まさにプロの戦争であった。だが皮肉なことに、この作戦が「成功」したがゆえに、南アフリカの「戦争という存在理由」は失われていく。
戦いに勝ち、歴史に敗れる――それが、マーリン作戦の真実である。
戦闘推移は、最後の伏撃、そして終焉である。
歴史の幕が降りるその瞬間、戦士たちはまだ銃を握っていた。
SWAPOが一方的に国境を越えたことにより、SADFが緊急反応。これは計画された作戦ではない、条件反射的な即応戦であった。
フェイズ1:即応展開
情報が入った直後、32大隊・Koevoet・SADF正規部隊が即座に展開。ナミビア北部に10か所以上の伏撃拠点を設置。
フェイズ2:短期火力集中戦
4月1日からの1週間、交戦は100件以上。だがそのほとんどが南アフリカ側の一方的な勝利。夜間視力装備と無線傍受能力が決定的差を生んだ。
フェイズ3:国連による停戦介入
最終的にSWAPOは北へ後退、UNTAG(国連ナミビア移行支援グループ)が介入し、停戦が成立。
南アフリカ共和国、最後の実戦作戦。だが、それは栄光ではなく、「国家の喪失」を告げる鐘音であった。
参加部隊
32 Battalion、Koevoet、SWATF
SADF機械化部隊(応急展開)
SAAF(哨戒およびヘリコプター移送)
戦果
SWAPO戦闘部隊撃滅:300名以上
ゲリラ侵攻阻止成功(戦術的圧勝)
捕虜:約50名(UNTAGに引き渡し)
SADF損害:死者12名・負傷約40名(激戦のため)
「最後の戦闘が終わり、勝者なき戦争もまた終わった。だが兵士たちの心に残ったのは、勝利ではなく“終わり”そのものだった」
この作戦は、南アフリカが「戦争で国家を守る時代」の最後の証しであった。
※1988年、32大隊の戦死者1名。
第32大隊の戦歴は、これだけでも戦闘を繰り広げていた事が理解できる。
アンゴラ介入当初は、第32大隊単独で作戦を行う事が多かったが、SADFの本格的派兵によって他のSADFやSWATFと共同作戦に参加する機会が増えた。SADF全体に言える事だが、作戦に応じて大隊や中隊の枠組みを越えて柔軟な編成が行われた。
第32大隊の隊員には元UNITA、ELNA、FALAの経歴を持つ兵士も所属していた。Andrew Jeremy Falcus伍長の場合は、元RLIで1980年4月24日、第32大隊に配属されたが5月21日に戦死している。
※記号の意味
☆:英語版wikiに作戦名のみ記載している物。資料的価値はない。他の書籍で調べる事を奨める。
★:英語版wikiに記載されいる物。参考資料にはなる。これだけではなく、自分で調べる事も必要。
◎:英語版wikiに記載されていない物。書籍には記載されていた。
※SADFの軍事作戦としては、1989年にもOperation Wedge、Operation CoronationⅡ&Ⅲ、Operation Merlynと実施されており1988年で終了した訳ではない。
3.第32大隊の訓練計画
第1週目:持続走や行軍、体力錬成。
第2週目~第16週目:基礎訓練、通信機器の取り扱い、野外衛生。
第17週目~第19週目:小隊火器の取り扱い。7.62㎜LMG、60㎜迫撃砲、RPG-7、手榴弾、対人地雷など。
第20週目~第25週目:小隊・中隊の攻撃訓練。
第26週目~第30週目:COIN訓練。パトロールの戦術・隊形、待ち伏せなど。
4.32Battalion Reconnaissance Wing
第32大隊にはRecceの系譜に列なる偵察部隊(Recce Wing)が存在する。この部隊にはEO社CEOのイーベン・バーロウも所属していた。大隊の作戦行動範囲と重なり、アンゴラ領内250㎞まで浸透しFAPLA、SWAPOの情報を集めた。
偵察ティームは3~5名で構成される。標準的編成は、指揮官(士官又は下士官)、無線手、機関銃手×2。装備は暗視眼鏡、AK-47、予備弾倉12個、M-79グレネードランチャー、RPD、B-25無線機、ガーバー製のナイフ、救急品、水筒、寝具、戦闘糧食。(3人編成の場合も火力重視でRPD、PPKを持っていく)白人の顔には黒人の様に黒く偽装が施されていた。
5.第32大隊各中隊のシンボル
Alpha:空を飛ぶ鷲
Blavo:豹
Chalie:サイ
Delta:竜
Echo:象
Foxtrot:ライオン
Golf:ベレー帽を被った頭蓋骨
6.あれこれ
大隊の被服交付は、SADFの標準的作業服一式(作業服上下、弾帯、ブッシュハット)で、アンゴラ領内の極秘作戦の為に1977年にブッシュジャケット、4月にSAPの迷彩服、ポルトガル軍の迷彩服が90着が受領された。
「The Buffalo Soldiers The Story of South Africa's 32-Battalion 1975-1983」ではサバンナ作戦時、OD作業服を着た兵士の姿が散見される。白人はポルトガル軍のリザードパターン迷彩服を着た姿が多く、Eeben Barlowはウッドランドパターン迷彩服に似た姿をしている。「The Terrible ones a complete history of 32 battalion」には明るい夏季迷彩服と冬季迷彩服が掲載されている。
※迷彩服=特殊部隊ではない。即応部隊の軽歩兵である為に、万能な便利屋として使われていた事が伺える。
1978年にAK47弾倉の、いわゆるチェストリグ(AK magazine chest webbing)が採用されたがR1小銃には合わなかった。1979年、深緑のUNITA、緑のキューバ、黄土色のSWAPO、中国のご飯型迷彩等様々な物が使われた。※2010年に発行された「Recce」によるとBattle jacketやChest webbingが特殊部隊で採用されており、戦訓が反映されたと考えられる。
1986年まで小火器、軽機関銃、RPG、40mm擲弾筒、60mm及び80mm迫撃砲しか装備して無かったが、FAPLAは大隊の敵ではなかった。
初代大隊長のヤン・ブレインバッハは1975年から1977年まで就任していた。1993年に大隊が解散されるまで輩出された大隊長は合計で6人となる。
大隊長(1976~1977):Jan Bretenbach大佐(「The Buffalo Soldiers」の作者、初代大隊長)
(1977~1978):Gert Nel
(1978~1982):Deon Ferreira大佐
(1982~1987):Edward(Eddie )Viljoen大佐(1977~1980年まで2IC当時は少佐)
(1987):Jack Harris大佐
(1988~1993):Michau Delport大佐
※その他、幕僚、中隊長、小隊長、先任下士官など。当然ながら時期によって違う。
作戦幕僚:Jan Hougaard少佐
補給幹部:Ken Greef少佐
訓練幹部:Daan'Jumbo'Lotter大尉
通信幹部:Justin Taylor少尉(1983年、M.Scheepers少尉:「Striking inside angola with 32 battalion」の作者)
RSM(1976~1979):Petrus 'Pep'van Zyl准尉
(1979~1982):J.P.'Lckes'Ueckermann准尉
(1982~1983):P.W. van Heerden准尉
(1983~1984):Faan Joubert准尉
(1984~1986):Piet Nortje准尉(「32 battalion」「The Terrible Ones」の作者)
(1986~1991):Williams'Tallie' Botha准尉
(1991~1993):Tienie Geldenhuys准尉
Alpha中隊:中隊長Connie van Wyk中尉(1980年、C.de.J.Muller中佐/1983年、B.G.Oliver中尉)
1小隊:小隊長A.du Plessis少尉、C.J.Moolman伍長
2小隊:小隊長M.Lourence少尉、J.P.A.Marais伍長
3小隊:小隊長M.D.Claasen少尉、A.J.Nel少尉、G.H.du Randt軍曹(83年4月3日戦死)、D.Lucus伍長
4小隊:小隊長G.W.Roos少尉(83年4月3日負傷)、C.F.Meyer伍長、P.G.Slabbert伍長
Bravo中隊:中隊長Kith Evans中尉、CSM:Prins van der Merwe軍曹
2小隊:小隊長Alan Marais少尉、Peet Williams軍曹
3小隊:小隊長Koos Groef少尉、Swannie Swanepoel軍曹
4小隊:小隊長Roeks Griesel少尉(Operation Seiljag:William Mutlow少尉、John Botha軍曹)
6小隊:小隊長Peter Bowles少尉、2IC:Les Hearn軍曹
Charlie中隊:中隊長1980年、S.Heap中尉
9小隊:2IC:Jaco'Biebab'Malan伍長
Delta中隊:中隊長Harry Ferreira中尉
12小隊:Peter Williams軍曹
13小隊:小隊長Gert Kruger少尉、2IC:Johan Janse van Vuuren伍長他19名。
Echo中隊:中隊長1980年、D.Thompson中尉
Foxtrot中隊:中隊長1980年、J.Ross中尉
Golf中隊
1972年に小隊長の一人だったCharl de Jongh Mullerは1980年5月21日にA中隊長として参加したOperation Tiro-Tiroで戦死。
Recce Wing:1980年、W.Ratte中尉 2CI Eeben Barlow中尉、'Tabo'Maree軍曹、Mike Kiley軍曹、Dirk Laubsher伍長
第32大隊のBuffalo Baseは、現在のBagani空港からクバンゴ川を挟んで東側の対岸に位置する。最後の地は南アフリカ北部、ボツワナとの国境に近いポムフレット(Pomfret)である。