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1.5 ポルトガル植民地戦争の補足

1.ポルトガル植民地戦争概要:独立戦争も統治者側から見れば反乱


 アントニオ・サラザール統治の第二共和政ポルトガルは広大な植民地を保有していた。ポルトガル本国にギニアビサウ(ポルトガル領ギニア)、モザンビーク(ポルトガル領東アフリカ)、アンゴラ(ポルトガル領西アフリカ)を加えれば欧州の大半を占める面積となった。

 時は米ソ二大国の陣営による冷戦時代。第二次世界大戦終結後、民族自決に基づいた植民地独立が英米を中心に行われた。これは植民地解放後も影響力を残せる国ならまだしも、ライフラインの整備等の初期投資を回収していない国には手痛い損失だった。

 ソ連は西側陣営の切り崩しを計り、各地の紛争や内戦に介入し社会主義陣営を拡大しようとしていた。そして資本主義陣営も一枚岩とはいかず、自国の国益の為に反政府勢力を支援すらしていた。オランダはインドネシアで、フランスはインドシナとアルジェリアで、ベルギーはコンゴで共産ゲリラ相手に戦う事になった。ポルトガルもまた、サラザールの後任であるマルセロ・カエターノもエスタード・ノヴォ体制を維持し植民地支配を継続した。

 1959年4月、陸軍は特殊作戦教育センター(CIOE)を開設。9月までに最初の特殊部隊、特殊猟兵中隊(CCE)3個中隊が編成され、1960年4月までに教育修了した。6月、さらに1個中隊の教育が修了。4個中隊全てがアンゴラに派遣された。

 1961年2月4日、黒人集団数百人が棍棒やナイフで武装し、ルアンダのスラム街から警察署、刑務所、ラジオ局等を襲撃した。暴徒は死者40名、負傷40名、捕虜7名を出し襲撃は失敗した。2月10日、再度刑務所を襲撃するが暴徒は死者7名、負傷17名を出している。

 3月15日、アンゴラにおいて本格的な戦いが始まった。UPAはコンゴから越境しアンゴラ北部を席巻、集落や農園を襲撃し、Luandaに迫った。

 呪術師の支援を受けていたり、麻薬の影響か1週間後には白人約100人、黒人約6000人が殺されていた。

 アルジェリア解放戦線(FLN)の援助を受けたテロリストの首魁Holden Robertoは6万の兵を擁し、300km四方の地域を支配してると主張した。

 しかし下衆なUPAによるアンゴラ北部への敵対結果、20万人の黒人が旧ベルギー領に逃亡し、UPAの支持基盤を失った。

 ゆっくり出来ない粗末な計画から、義勇兵の自警団を組織した入植者の抵抗を受けて首都への侵攻は阻害され、攻勢も長くは続かなかった。

 ポルトガルでは国防予算の拡大により、特別防衛税が徴収された。軍事作戦とは別に、飴と鞭の使い分けで、ポルトガルの主権を損なわない範囲で平和的解決も模索されていた。

 UPAは6月に強制徴用で頭数を揃えアンゴラ民族解放軍(exército de libertação nacional de angola:ELNA)を組織している。コンゴ軍やガーナ派遣部隊から装備が供給されていた。

 Dembosの北部国境地帯奪還は4〜10ヵ月と予想され、コマンド部隊、空挺部隊、海兵隊、現地特殊部隊も含めたポルトガル治安部隊による反攻は、5月13日から10月7日まで続いた。

 6月13日、Lucinga奪還が転機となった。6月19日には、Carmona地区で最大規模の敵集団と遭遇した。23日にBembe、24日にCuimbaを奪還。6月末、敵は撃退されつつあった。

 6月17日、Deslandes総督は就任式で「テロ集団に選択肢は無い。降伏するか殲滅されるかだ」と述べている。

 8月には空挺作戦を伴うポルトガル軍の猛烈な反攻が始まり各所で撃破されていく。

 ポルトガル軍の反撃速度は速く8月9日にNam-buangongoのUPAが包囲殲滅され、8月11日にQuipedro、8月25日にCanda、9月8日から15日にかけてSacandicaに空挺作戦が行われた。

 9月10日、Pedra Verdeを攻撃、20日に陥落させた。

 緒戦で出鼻を挫かれたゲリラは幾度も蜂起するが、鍛えられた正規軍相手だと武が悪い。ポルトガル軍は勝利に至る努力を怠らなかった。新しい兵器、ヘリコプターも使いこなし、1962年10月、第21落下傘大隊と第345騎兵大隊がUPA拠点に対して行った攻撃はポルトガル軍にとって初めてのヘリボーン作戦となった。

 1961年の叛乱は軍事的にはUPA側の敗北だが、ポルトガルの国際的地位と関係性に悪影響を与えた。1962年からテロリストに対する外国の援助が明確な形となった。

 1961年から1965年にかけてUPAは、アンゴラの叛乱で主導的立ち位置であり、1961年末には世情不安コンゴのレオポルドヴィルに拠点を築き、Marcos Kassangaを長とする参謀本部を開設していた。またUPAの指揮官は、チュニジアでアルジェリアのFLNから教育訓練されており、ELNA司令官Joao Baptistaはアンゴラ北部を40の地区に分け、10〜12人の部隊を編成した。

 1962年3月、コンゴ軍司令官モブツの要請により、UPAは組織名をFNLA(アンゴラ解放国民戦線)と改名し、GRAE(アンゴラ共和国亡命政府)と言うインチキなエセ亡命政府を立ち上げたが、実質的成果は無かった。1964年7月、サビンビはロベルトを「腐敗した」と批難し、インチキなFNLAと決別し、UNITAを結成した。アンゴラ北部でFNLAは、MPLAを待ち伏せ攻撃し、ポルトガル軍は内ゲバ現場にしばしば遭遇した。

 1963年11月、南アフリカ軍事代表として、SADFの将校が外務省に出向し、総領事館に副総領事として赴任した。ポルトガル軍は、南アフリカからの物資援助を求めロビー活動を始めた。アンゴラの治安状況が悪化し、南西アフリカに脅威を与えるまで南アフリカからの実質的な援助は実現しなかった。

 1967年、アンゴラ東部に対応する為、PIDE/DGSの指揮下で現地補助部隊Flechasが編成された。Flechasは1966年の時点でブッシュマンの老人8名であったが、優れた追跡能力と忠誠心で貢献し、終戦時には1000名以上に拡大した。

 1971年、アンゴラに隣接するザイールとザンビアにゲリラの拠点が存在した。ザイールからFNLAが、ザンビアからMPLAが攻勢を開始した。この状況を見れば、国を守る為には敵地攻撃能力も必要だと言う事が実感できる。

 この当時、UNITAの勢力はそれ程大きくは無かった。


 ポルトガル軍は学校を建設したり、病人に医薬品を届けたり親しい会話、スポーツを通して地域住民と交流を深め不利な噂を打ち消したが、歴史は勝者が作る。

 独立戦争とされているが結果としてドミノ理論は正しかった。1974年4月25日に蜂起した左派将校らによるカーネーション革命はアンゴラ、モザンビークを赤色に変えてソ連側に利を与えた。



2.ポルトガル植民地戦争時のポルトガル軍:箱庭の戦争


 反乱は治安維持の失敗で発生する。PIDE(国家秘密警察)には荷が重く正規軍がCOIN作戦の主導権を持つ。

 第二次世界大戦以降のCOIN作戦と言えば朝鮮戦争の戦訓が大きい。浸透して来るゲリラの脅威をまざまざと見せつけた。黎明期の韓国軍は過剰な反応を起こし、非戦闘員に対しての殺戮と言う問題を引き起こした。最近ではアフガニスタンやイラクでの武装勢力(ゲリラ)掃討でCOIN作戦も珍しくないが、いわゆるミリタリーオタク以外の一般人にとって対ゲリラ戦とはベトナム戦争を指す言葉と言える。ポルトガル植民地戦争もベトナム戦争に引けを取らず、昔ながらの徒歩移動による追跡、空挺やヘリボーンと言った新しい技術も使われたし、住民をゲリラから分離・保護する為に戦略村(aldemento)を設立している。

 当初、RMA(軍管区)はZML(東部軍管区)、ZMN(北部軍管区)、ZMC(中央軍管区)、ZMS(南部軍管区)の4つに分かれていたが、RMⅠ(第1軍管区)からRMⅥ(第6軍管区)に細分化された。

 1955年空軍に導入された落下傘部隊は、COIN作戦に最適であり、1959年のOperation Himbaでポルトガル軍はナパーム弾による爆撃と第21落下傘大隊による空挺降下を行った。落下傘大隊(BCP)の有効性に気付いたポルトガル軍はBCP12をギニア、BCP31、BCP32をモザンビークに送り込む。

 ポルトガル軍は当初、お粗末な黄色い作業服であり戦場にあった迷彩が求められ、幹部の戦術能力は不十分であり実戦経験は無かった。

 1961年5月〜12月にかけて兵力は、6500人から33477人に増強された。1962年には4万人で、1967年には6万人に拡大している。これに少数のPIDG隊員、1万人の制服警官、約8000人の義勇兵、多くの黒人兵が加わった。

 戦場の主役はいつの時代も地に足をつけて戦う歩兵。標準的なポルトガル歩兵師団は3個歩兵連隊、3個砲兵群(M101A1 105㎜砲)、対空部隊(40㎜機関砲)、対戦車(3個中隊)、偵察中隊、工兵、通信、衛生大隊からなる。それぞれの歩兵連隊は連隊本部、本部管理中隊の他に重迫撃砲中隊(M-2 107㎜迫撃砲3個小隊)と3個歩兵大隊で編成されていた。

 歩兵の戦う術である小銃はボルトアクションからアサルトライフルへの過渡期であった。その為、様々な小火器が使用された。

 ドイツの名銃モーゼルM1898は世界的ヒット商品であった。その派生系であるKar.98はm/937としてポルトガル軍でも使用されていた。世界的に見ても7.92㎜弾は淘汰されて行き、ポルトガル軍も7.62㎜NATO弾使用のH&K G3、AR-15に試用された.223弾(5.56㎜NATO弾)を使用するH&K HK33へと装備を代えて行く。

 歩兵大隊は基本的に本部管理中隊と3個歩兵中隊、重火器中隊(80㎜迫撃砲、106㎜無反動砲、75㎜RR)で構成されていた。歩兵中隊も火力面で充実していた。根幹戦力である3個歩兵小隊の他に重火器小隊(M-2 60㎜迫撃砲、57㎜RR、MG42機関銃)を編成に加えていた。ポルトガル軍の使用した7.92㎜機関銃もm/938はMG34、m/944はMG42とされている。※資料にはMG42と表記される事が多い。しかし7.62㎜NATO弾仕様のMG1A2がポルトガルに輸出されていたので外観が似てるMG42と混同されている可能性が高い。

 鹵獲した敵の装備も使用しており、複数の書籍でRPGを携行したポルトガル軍兵士の姿が確認できる。

 機甲・偵察部隊もそれなりの装備が充実しておりM-24戦車、M-47戦車、M-48戦車、AML-90装甲車、EBR-75装甲車、M3兵員輸送車等を装備していたが馬も多用された。

 1959年ポルトガル軍は、特殊作戦訓練センター(CIOE)を開設していたが、それとは別に1962年、軍参謀のロドリゲス大佐は戦術的指導に重要な役割を果たし、ルアンダから80マイルのZembalに新しい部隊と訓練センターの開設許可を得た。1963年には世界最高峰のコマンドグループは誕生し、Gilberto Suntos e Castro中佐の指揮する第1コマンドー中隊が、北部Belo Horizonteから作戦開始した。

 戦闘を行うに当たって地元の人間と余所者ではどちらが地の理があるかは言うまでもない。米軍がベトナムで山岳民族を雇用した様にポルトガル軍も現地の者を採用した。PIDE(国家秘密警察)の指揮下でアンゴラ東部のブッシュマンを中核とした現地人特殊部隊Frechasを編成した。これはいわゆる戦闘トラッカーの特殊部隊(GGEPC)だった。初期装備はlee-Enfield.303だったがFN-FAL、鹵獲武器のAk-47、ポルトガル軍正式装備のH&K G3を装備するようになる。

 また、ポルトガルは元敵兵社会復帰という大胆な計画を実施していた。転向者を使って戦うと言う術は後に、南西アフリカ警察のKoevoetやSADFの第32大隊採用され成果をあげた。

 1960年代、ポルトガル空軍は21000名の人員をアフリカに送り込み、地上部隊に対する支援任務に従事した。

 おおよそ150機の作戦機の機種内訳はDO-27偵察機11機、T-6Harvard攻撃機15機、B-26、PV-2爆撃機10機、F-84戦闘機17機、F-86戦闘機、G-91戦闘機、DC-3輸送機、SA330 Pumaヘリコプター、Alouette Ⅲヘリコプター。


ギニアビサウ:第12飛行隊

アンゴラ:第2、第3、第4、第9飛行隊

モザンビーク:第5、第6、第7、第8、第10飛行隊


 この他に海軍も1964年当時、フリゲート艦2隻、沿岸哨戒艦2隻、河川哨戒艇10隻によるパトロールを行っており海兵隊1個中隊が地上戦に参加していた。


3.ゲリラ勢力の動き:朱に交われば赤くなる


 例に漏れず植民地戦争の影に社会主義陣営の影があった。ゲリラを中心的に支援したのは中ソである。

 1961年、アンゴラではHolden Robertの指揮するUPA(FNLA)とMPLAが活動していた。1965年、MPLAをソ連、キューバ、東ドイツが支援しソ連製TM-46、TM-47対戦車地雷、対人地雷、中国製箱型地雷等が多用され、ポルトガル軍は地雷除去作業に手を焼いた。

 1966年、Jonas SavimbiがFNLAから分派してUNITAを組織する。

 MPLAにAK-47を抱えた女性兵士の写真が確認できる。

 1974年、ソ連はMPLAへ$200millionの武器援助を、キューバは12000名の派兵を行った。


 ギニアビサウでは1956年からPAIGCが活動を開始、PAIGCの戦闘部門であるFARPは東側諸国の他にアルジェリア、セネガル、ギニアと言った周辺国の支援を受けていた。


 モザンビークでも1970年からFRELIMOの戦闘部門であるFPLMが、75㎜無反動砲、82㎜迫撃砲、129㎜迫撃砲、56式(RPG-2の盗作)、69式(RPG-7の盗作)と言った中ソの武器援助を受けていた。なお中国による過度な権利侵害、盗作に対してソ連の運営がどの様に対処したかは、その後の中ソ関係が如実に語っている。


4.南アフリカ国防軍の参加:負けるとは考えていなかった


 南アフリカはアンゴラとモザンビークが国境に接していた。ゲリラの存在は看過できない。

 ポルトガル植民地戦争において南アフリカはSADF及びSAPがSWAPO対策の一環としてアンゴラに派遣されてポルトガル軍を支援した。長い戦争の始まりだった。



5.カーネーション革命の結果とその後


 アンゴラの広範囲な道路網は、ゲリラの無制限な移動を阻止する役割を果たし、経済的に重要ではない国境地域へのアクセスと行動に影響を与え、1974年4月のポルトガル内乱前夜、アンゴラの軍事情勢はほぼ改善していた。

 COIN作戦は事実上、勝利をも収め鎮圧されていたが、皮肉な事にその直後にクーデターが起こった。

 MFAが臨時政権を握ったポルトガル本国はPIDGが廃止されたり民主化が進む一方で、権力闘争が始まったが1976年には社会党が政権を握り、鉛の時代(Anni di piombo)のイタリアに比べて安定していた。

 ポルトガルが責任を放棄し、独立を達成したアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウは引き続き内戦に突入し丸く収まらなかった。

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