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10.Battle of Cuito Cuanavaleの概要

1.はじめに

 社会主義陣営である現政権MPLAの目的はアンゴラ全域の支配にあり、反共産主義を題目にあげて西側陣営の支援を受けているUNITAも同様の目的を持っていた。

 当時の共産勢力による不正規戦の技能は高く「南アフリカはUNITAの反乱を扇動する悪、MPLAは善」と言う印象を国際社会に与え、西側諸国に不和の種を蒔いた情報操作の心理戦は見事だった。

 お互い相容れない訳で、戦いの予兆は1月から始まっていた。南西アフリカでは1月8日から4日間の戦闘で殺害戦果56名(SWATFの損害:6名)、22日に殺害戦果100名等、小競り合いを繰り広げられていた。

 南西アフリカを荒らしても南アフリカの圧力は取り除けず、結果としてUNITAの勢力圏であるアンゴラ南東部に対する攻勢がかけられた。南アフリカは例年通りUNITAの支援で部隊を展開させる事になった。アンゴラ南部で1987年から1988年にかけて行われたOperation Moduler、Operation Hooper、Operation Packerが一連の戦いと言える。



2.Operation Moduler(1987年8月-12月)


 1987年8月、第1段階としてMavingaの手前で両軍激突する。

 FAPLAは第16、21、47、59旅団の4個旅団を攻勢に投入。対してUNITA支援として南アフリカが投入した兵力は第61機械化大隊(koos Lindenberg中佐)、第32大隊(Jan Hougaard中佐)を基幹に127mmMRL(P中隊)、155㎜榴弾砲G5(Q中隊)等を加えたA、B、Cの3個戦闘団と寡兵だったが、この程度の戦力で支えられると言う自信も窺える。

 1987年9月、第20旅団として南アフリカからの応援が到着した。第20旅団は3個戦闘団(Battle GroupA、B、C)を中核に構成される。この戦闘団は例によって各大隊から引き抜いた臨時編成の混成部隊だった。新たに加わったのは第101大隊と第4歩兵大隊、155㎜自走榴弾砲G6(J小隊)。G6は、Mavingaの北で第4歩兵大隊戦闘団(Jan Malan中佐)の支援で初陣を飾る。

 FAPLAはT-54/55、PT-76などトータル160輌の戦車を投入。9月9~10日、Lomba川南岸を西進していたB戦闘団は渡河して来たFAPLA第21旅団と交戦した。

 SADF最初の損害は8月11日、第1偵察連隊に戦死1名が出た。その後9月3日、Richard Giynn中尉のBosbox偵察機(機体No934)がLomba川南においてSA-8に撃墜され戦死した。地上戦が激しくなってきた9月6日、第1落下傘大隊に戦死1名、9月12日、第4歩兵大隊に戦死1名、9月13日、第32大隊に戦死3名、9月26日、第101大隊に戦死1名と損害が増え始める。

 続けて西進した第61機械化大隊戦闘団は10月3日、FAPLA第47旅団と交戦した。戦闘隊形はLomba川が右側面をカバーしてくれているので、尖兵をC中隊、その後方にA中隊、迫撃砲、大隊本部、UNITA、補給部隊と続き左側面をB中隊が固めた。この戦闘で第61機械化大隊は10月3日に戦死1名、10月8日に戦死1名が出ている。この他に10月8日、第4歩兵大隊に戦死1名、10月16日、砲兵に戦死1名が出ている。


 第61機械化大隊C中隊(Charlie Squadron)は中隊本部 30(Three Zero)と第1小隊 31(Three One)、第2小隊 32(Three Two)、第3小隊 33(Three Three)の3個Troopsで構成されていた。各小隊は装甲車4両で、第1小隊の場合31、31A、31B、31Cとなっている。※車体側面に描かれているので既存の写真からも確認できる。


 11月の損害は第4歩兵大隊に集中した。11月9日に4名、11月11日に1名、11月12日に1名、11月20日1名戦死している。

 彼我の戦力比と戦果から言えば、UNITA/SADF側の圧勝でありFAPLA側は大きく戦力を消耗する事となった。



3.Operation Hooper(1988年1月13日-1988年2月26日)

 前年にFAPLAはこれ迄で最大規模の機甲部隊を含む部隊を投入して攻勢をかけたが、結果として頑強な抵抗に遇い攻勢は失敗した。そして、ここで戦闘は終わらなかった。

 第4歩兵大隊(Jan Malan中佐)、第61機械化大隊(Koos Libenberg中佐)、第32大隊(Jan Hougaard大佐)がUNITAと肩を並べて戦った。


 1月19日、第1歩兵大隊に戦死1名の損害が出た事を皮切りに、第61機械化大隊は2月3日に1名、2月14日に3名、2月25日に1名、第101大隊は2月4日に1名、2月21日に1名戦死の損害を出している。この他に2月22日、第1落下傘大隊に1名戦死の損害が出ている。


4.Operation Packer (1988年2月26日-1988年4月30日)

 Paul Fouche大佐の指揮する第82旅団の対機甲戦力は限られた物で、第61機械化大隊のオリファント戦車は20輛。それ以外は装甲車となる。G2やG5の他に、第44落下傘旅団は120㎜迫撃砲、第19ロケット連隊はMRLsで火力支援を行った。

 4月20日、Ed Every少佐のミラージュF1AZ(機体No245)がCuito CuanavaleにおいてSA-13に撃墜され戦死した。本作戦中、SAAFが損失した航空機は本件のみとなっている。同日、落下傘大隊に1名戦死の損害が出ている。


 一連の戦闘でFAPLAは第47旅団が戦死4768名、戦車98輌(捕獲を含む)、Mig-23×8、Mig-21×4の損害を受けた。

 防衛側のUNITAは戦死1000名、SADFは戦死31名、戦車3輌、装甲車11輌、Mirage×1。

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