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8.アンゴラ内戦時の南アフリカ国防軍

1.アンゴラについて


 在日アンゴラ大使館ホームページの記述を見ると、ポルトガル植民地戦争やアンゴラ内戦での記述は少ない。日本語訳にも疑問を感じた。

 アンゴラ内戦は朝鮮戦争やベトナム戦争に比べると日本での知名度が圧倒的に低いが、東西冷戦時代の典型的な代理戦争である。

 植民地からの独立を求めたアンゴラの戦いは、1974年にポルトガル本国で起きたカーネーション革命によって終結した。

 ポルトガルとの独立交渉はUNITA 、MPLA、FNLAの3者代表による協同統治を経て選挙を実施すると言う結論が出た。しかし、革命後の権力闘争で抗争が起きた。

 1975年、東側陣営の援助を受けたMPLAは首都ルワンダを制圧し正統な政権として独立を宣言。UNITAやFNLAは納得しない。アンゴラ内戦の始まりであった。


 1483. 初めてヨーロッパ人が来訪

 1483-1579 ンドンゴ王国(Ndongo Kingdom)とヨーロッパ人の戦争

 1641-1648 The Dutch Interregnum

 1822 ブラジル独立で植民地の独立機運に拍車がかかる

 1858 the abolition of slave trade in angola

 1887 scramble for africa

 1929 ANL誕生

 1953 PLUA及びFLEC誕生

 1956 MPLA誕生

 1958 UPNAはUPAに名称変更

 1966 UNITA誕生

 1974 ポルトガルのアンゴラ統治終了。

 1975 MPLAが首都を制圧しアンゴラの独立宣言を行う。MPLAの政権を認めないFNLA、UNITAと内戦に突入。

 1974-1976 ソ連によるアンゴラ支援は$450million。以降、軍事顧問の派遣や、資金援助が拡大する。

 1975-1976 ザイール軍の支援でFNLAが北部から南進、UNITAも南アフリカの支援で北進。MPLA政権はキューバ軍の戦闘参加で崩壊を免れる。

※國本義郎の翻訳した「アフリカの雇い兵」は1976年、ルアンダで裁かれた白人傭兵を中心に描かれている。本作は南アフリカやローデシアに対して否定的な視点からの描写として興味深い。軍事用語はSASを特殊航空隊員と翻訳したり疑問を感じるが、1978年の出版として考えれば妥協できる。

 注目したのは南アフリカの軍事行動に関する記述。

 19ページには『1975年8月の初め、南アフリカ軍はナミビア国境から50㎞にあるカレケ、同国境から40㎞のペレイラ・デ・エサの2つの街を占拠した』とある。これはCaluequeとPereira de Eçaの事だと思う。

 また、『南アフリカ軍の北進作戦(10月13日に始まった)』とあるが作戦開始の時期から、サバンナ作戦と考察できる。この当時から南アフリカの軍事干渉が国際的に周知の事実であったと窺い知れる。

『第1目標ウィル州の州都サ・ダ・バンディエラ(ルバンゴ)』と記載されているが、ズール任務部隊の進攻を見れば納得できるし妥当な表現と言える。Sá da Bandeira(Lubango)はフイラ州(Hula province)の西部に位置する。ここを起点に、モサメデス州(Moçâmedes province)のMocamedes(Porto Namibe)とベンゲラ州(Benguela province)のBenguelaに向かって前進した。

※北村文夫の翻訳した「隠された戦争」1987年の発行で、南アフリカの不安定化工作を主題にしている。和訳されている作品としては資料価値が高いと思う。本書も批判的観点だが、軍事行動に関しては比較的事実のみをあげている。

 25ページ『1975年11月9日には、FNLA・ザイールの連合軍とCIA・南アフリカ軍の先遣隊はルアンダの20㎞地点に到達した』とある。

 事実、FNLAとザイールの連合軍は、大西洋沿岸部を南下しMPLAの迎撃を受けた。

『アンゴラが独立を宣言れた日には、700㎞も北方に進撃し、首都から200㎞の地点に迫っていた』とある。サバンナ作戦全体のまとめとしては、アンゴラ領内深く3000㎞に進攻した。

 1977 Operation Kropduif

 1978 Operation Reindeer

 1979年に実施されたOperation SafranとRekstokは一つの作戦であり、3月7日に実施した。

 Safranは、東カプリピを目的にザンビア南西部に集結していたSWAPOに対する作戦で、ザンビアからSWAPOを撤退させカプリピでの活動を完全に終了させた。

 Rekstokは3月6日から15日、アンゴラ南部のSWAPO拠点を空爆、ヘリボーン部隊が投入された作戦だが、Safran同様敵は拠点を放棄した。

 1980 Operation Savate/Operation Tiro-a-Tiro

 1981-1983 アンゴラ南部からナミビアに侵攻してくるSWAPOを撃退する為、公式にSADFが行動開始。

※自称元グリンベレー大尉でコンゴ動乱にも参加したと言う柘植久慶の「ドキュメント南アフリカ共和国」では南アフリカを肯定的な見地から執筆されている。本書では、SAPとSADFを見学したと言う。写真の警察訓練学校はSAP COIN TRGと書かれておりCOIN作戦の訓練施設と理解できる。気になったのは1990年の著作にも関わらず、SADFの功績としてあげられているのは1981年のプロティア作戦と言う古い物であったこと、32大隊の部隊名は32㎏の背納を背負って32㎞行軍する所から来てると言う事の2点。

※自称元傭兵、テレンス・リーの著作「おれは戦争下請け屋」では第32大隊に関して以下のように記載されている。

「赤道ギニアのクーデターが、80年代にアフリカ諸国で猛威をふるった、南アフリカの特殊部隊「32部隊(通称、影の部隊)」の元隊員であったことが発覚した」

 バッファロー大隊ならともかく、その通称は無い。32大隊はアフリカ諸国ではなく、アンゴラと南アフリカで活動した。影の部隊と言うならRecceの方だ。会社設立の資金源が中東の富豪となっているが事実確認ではなく噂でしかない。そも真実のように書くのは危険だ。さらには「南アフリカ国内のANG(アフリカ民族会議)を弾圧していた」とあるが、ANGではなくANC(African National Congress)だ。

 1981 Operation Protia/Operation Meebos

 1982 Operation Super/Operation Forte

 1983 Operation Askari

 1983年、SADFの32大隊、第1落下傘大隊はXangongo、Mongua、Evale、Anhanca、Nehone、Dovaの各地域で常時活動し、32大隊はMupaやCuvelai東方でも活動しており、SADFにとってCunene河の北側(Xangongoの北)が国境であった。SAAFは更に北側で、FAPLA/SWAPOの軍事拠点を空爆していた。

 Operation Fox( Askari作戦の一部)

 12月23日、Cahama西方2kmでUAV(当時はRPV:Remotely piloted vehicle Gharra)にSA-8地対空ミサイルが発射された。25日、Recceティームが射撃陣地を確認。Ebivaを北西から攻撃開始、敵の砲迫は優勢で、南西から攻撃するが此方でも激しい砲火を浴びた。

 12月27日、SADFにとってCahamaは第一目標ではなくなった。

 SWAPO7個中隊が南西アフリカ侵入の兆しを確認。いかなる犠牲を払ってもCuvelaiを攻略せよとの指示で、D戦闘団(V任務部隊)は、Q中隊を伴ってCuvelaiに転進した。61機械化大隊とS中隊はD戦闘団に合流し、Cuvelaiの戦闘に参加した。

 31日1600時、随伴歩兵を伴うT-55戦車5乃至6輛の逆襲を受けるが、2輛を被弾させた。敵T-54/55戦車12輛、車輛50輛が南に撤退した。

 1984年、アスカリ作戦の終了までにSWAPOは壊滅寸前に追い込まれていたが、アンゴラで再編成する事が出来た。

 1985年4月15日、Operation Dikmelkが開始され、JMMKの失敗を受けてSADFはアンゴラから撤退、FAPLAのUNITAに対する攻勢激化した。

 UNITAの敗北は南西アフリカ、南アフリカ不安定化に繋がるSADFはUNITAの支援に徹する以上、UNITAの支援を引き続き行った。

 ソ連のアンゴラに対する支援は、前年度$800millionだった物が、遂に$2.0billionに達する。

※『Striking Inside Angola with 32 Battalion』では84年となっているが、『A Political History of the Civil War in Angola: 1974-1990』では表記が異なっていた。資料は概算的な物である為、資料的価値が低下する物ではない。

 1985 Operation Wallpaper

 1986 Operation Alpha Centauri

 1987 アンゴラに展開する東側陣営の兵力は、キューバ37000名、SWAPO7000名、北朝鮮3000名、東ドイツ2800名、ソ連2500名、元カタンガ傭兵1400名、ANC1200名。

 1987-1988 Operation Modular

 1987年8月17日、FAPLAはMavingaとJamba侵攻を企図した攻勢に出た。SADFはUNITAを支援し、Cuito河以西に撃退すべく投入された。

 1988 SADF、キューバ軍がアンゴラから撤退。ソ連の資金援助も削減され本年度1.5billionが翌年には800millionとなる。



2.アンゴラ内戦に参加した主要組織


 MPLA(アンゴラ解放人民運動):指導者アゴスティニョ・ネト。ソ連を中心とした共産圏・社会主義国の支援を受けており軍事顧問団が送り込まれていた。

 実戦部隊の援助で最大の物はキューバ軍の参戦で、1975年10月に軍事顧問480名が到着、キューバの援助が本格化するとMPLAと有利に戦況は進み、1986年の時点で戦闘部隊、軍事顧問団を合わせて35000名であった。この他に東ドイツは2800名を派遣、落下傘部隊の訓練や治安維持の助言を行い、北朝鮮は1500名の戦闘部隊を送り込んでいた。北ベトナムが同時期に150名を派遣しているが、詳細は不明。

 FAPLAはMPLAの戦闘部門。東側装備で、標準的歩兵旅団は人員1,260名、車輌75両、火砲(60mm迫撃砲、82mm迫撃砲、B-10 82mm無反動砲、122mm砲)27門。内訳は偵察中隊(35名、RPG×3、BRDM2×3、BTR152×3)、通信小隊、工兵、整備、補給、衛生等の他に、主力である3個歩兵大隊(各大隊は3個歩兵中隊、迫撃砲小隊、機関銃小隊、対空ミサイル)と砲兵中隊、高射中隊、対戦車小隊の戦闘職種で構成されていた。

※1981年版ミリタリーバランスによるとFAPLAの兵力は3万。自動車化歩兵旅団2(戦車大隊1、歩兵大隊2基幹)、歩兵旅団17、防空砲兵旅団4を有しており、T-34戦車85輛、T-54戦車150輛、PT-76約50輛、BRDM-2装甲車200輛等を装備している。


 UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟):指導者ジョナス・サヴィンビ将軍(Jonas Malheiro Savimbi)。南アフリカと米国の援助を受けMPLAと対決。東西両陣営の冷戦時代終焉は援助を打ち切らせ、国際的にも孤立を深めた。FALAはUNITAの戦闘部門。1980年6月末の時点でFALA1個中隊はAK-47×180、81mm迫撃砲×2、75mm無反動砲×1を装備していた。大隊はこの他にRPG-7、40mmグレネードランチャー、60mm迫撃砲を与えられていた。


 FNLA(アンゴラ民族解放戦線):指導者ホールデン・ロベルト。中国とザイールの援助を受けMPLAと対決した。ELNAはFNLAの戦闘部門。

 SADF:軍事教練の援助から本格的派兵の参戦となる。

 SWAPO(南西アフリカ人民機構):活動はMPLAの支援を受けており、アンゴラから越境して南西アフリカで破壊活動を行った。PLANはSWAPOの戦闘部門。

 ポルトガル:独立を認めアンゴラに駐留するポルトガル軍の撤退作業が行われていた。内戦の勃発により、アルジェリアにあったOASの様にポルトガル解放民主運動(MDLP)とポルトガル解放軍(ELP)が組織され、反共活動としてFNLAとUNITAを支援。MPLA政権と対決した。



3.具体的にSADFとは

 SADF――南アフリカ国防軍(South African Defence Force)は陸軍(Army)、空軍(Air Force)、海軍(Navy)、医療任務部隊(Medical Service (SAMS) の4軍からなる。司令部はプレトリアに置かれていた。 

 前身となったのはUnion Defence Force。1957年にSADFに呼称が変更された。南アフリカは、2度の世界大戦を経験したがイギリスにとっての予備兵力的組織であった為、平時の戦力は小規模な編成でCitizen Forceで増強される形であった。

 1979年、South African Medical CorpsはSouth African Medical Serviceに呼称が変更された。 

 国家の敵であったANCの合法化、アパルトヘイトの終焉と共に多くの部隊が縮小・解散され、1994年にSouth African National Defence Force(SANDF)に変わった。Medical ServiceもSouth African Military Health Service(SAMHS)と変わっている。

 この他にも、名目上は独立国であった各ホームランドの防衛部門がSADFの影響下で整備されていた。トランスカイ国防軍(TDF)、ボプタツワナ国防軍(BDF)、シスカイ国防軍(CDF)、ヴェンダ国防軍(VDF)等である。



4.戦争の主役、南アフリカ陸軍(South African Army)について:時代と共に軍隊の規模・組織は変化する。日本に比べて小規模な兵力のSADFも常に進化し続けた。

 SANDFの公式HPではフロントライン諸国と戦ったSouth Affrican Border Warの記述が少ない。当時の白人政権を悪として評価する立場では、白人政権下で活躍したSADFの戦果を誇示する事はできないのかもしれない。

 当初存在した戦力は限定的な物で、第1南アフリカ軍団は英軍を補完する予備部隊でしかなかった。部隊は第7南アフリカ歩兵師団(第71、72、73自動車化旅団)、第8南アフリカ機甲師団(第81機甲旅団、第82機械化旅団、第84自動車化旅団)から構成さていた。戦争の長期化に伴い第44落下傘旅団など戦力が拡充されていった。

 戦争の全期間を通じて、SADFは状況に合わせた部隊編成を行い、行動するだけの柔軟性を見せた。

 1987年、アンゴラ南東部でFAPLA4個旅団の攻勢に対応したOperation Modularでは第20旅団が編成された。

 部隊は旅団司令部、3個戦闘団(A戦闘団:第61機械化大隊基幹、B戦闘団:第32大隊F・D中隊と第101大隊A・C中隊基幹、C戦闘団:第61機械化大隊基幹)、第20砲兵連隊(こちらも臨時編成のQuebec、Papa、Sierra中隊)と例によって混成部隊だ。

 SANDFに再編時にこれらの部隊も縮小された。

挿絵(By みてみん)

 South African Infantry Corps:南アフリカ陸軍の根幹戦力である歩兵。近代歩兵は自動車化、又は機械化(APC)されている。各国の例に漏れず空挺部隊は軍の精鋭であり南アフリカでも同様だ。

 南西アフリカとアンゴラのCOIN作戦に投入された歩兵は大いに活躍した。

 南アフリカ歩兵の標準的個人装備は基本的に7.62x51mmNATO弾使用で統一されていた。小銃はR-1、R-2、R-3を経てR-4(5.56x45mmNATO弾使用)と改良が続けられた。

 他の火器は9mm短機関銃や37mm、40mmグレネードランチャー、標準的な汎用機関銃として7.62mmSS-77軽機関銃、旧式のFN機関銃が装備され、60mmM-l、M-4迫撃砲、81mmM-3迫撃砲、RPG-7Vが敵機甲戦力の対抗手段として活用された。他にも大量に鹵獲された東側武器がSADFのみならず、SAP(South African Police)やSWATF、SWAPOL(South West African Police)で使用された。

 アンゴラでの戦いはSADFの装備に大きな影響を与えた。地雷である。

 地雷の被害からmine protected vehicle (MPV)の開発が行われた。Casspir装甲兵員輸送車は集大成と言える。戦闘車輛の派生系は20mm機関砲、60mm、81mm迫撃砲や対戦車戦闘に特化した90mm砲を搭載した物が産み出された。この技術はイラク駐留軍でも反映され、IED対策のMRAPとして採用された。

 South African Armoured Corps(SAAC):南アフリカ陸軍の保有する戦車、オリファントMk1Aはセンチュリオン戦車をベースにした旧世代の物だが、改修が重ねられ今日でも現役運用されている。主武装として105mm砲を塔載している。

 アンゴラの戦いで貧弱な機甲戦力を支えたのは標準的偵察車であるEland(90mm砲を塔載したEland-90、60mm 迫撃砲を塔載したEland-60など派生系多数)、装甲兵員輸送車のBuffelなどの各種装甲車。76mm砲を塔載したRooikat装甲車が後継車輛として配備されるようになる。

 South African Army Artillery:他国の砲兵と同様に南アフリア砲兵の任務は、近接戦闘部隊の作戦を火力支援する事にある。G-5 155mm榴弾砲が登場するまで第2次世界大戦の骨董品であるG-l 80mm砲(25ポンド砲)、G-2 140mm砲(5.5インチ砲)、G-4 155mm榴弾砲で南アフリカ砲兵は任務遂行してきた。G-5をベースに装輪の自走砲G-6(40km/h)が登場する。

 この他に2トントラックに搭載された127mmMRL(Multiple Rocket Launcher)も配備されるようになる。

※1981年版ミリタリーバランスでは、機甲旅団1、機械化旅団2、自動車化旅団4、空挺旅団1を中核としている。



5.南アフリカ空軍(South African Air Force(SAAF)について


 SAAFの前身は王立空軍(Royal Air Force:RAF)である。1945年の時点で、RAF予備として28個飛行隊(394機)を保有していた。SAAF搭乗員は、1948~49年のベルリン空輸、1950~53年の朝鮮戦争を経験しており、ポルトガル植民地戦争、ローデシア紛争、アンゴラ内戦と休む事無く戦ってきた。

 1950年、SAAFはキャンベラ×9、バンパイア×40、アロエテ×56を保有していた。

 1966年2月から3月、SWAPOの大部隊がザンビアからアンゴラに侵入する兆候を現していた。8月26日、南西アフリカ警察とSADF/SAAF合同のOperation Blouwildebeesが発動された。敵の装備は旧式のPPSh-41や弓矢であり、ヘリコプター7機のヘリボン作戦の前に敗れた。

 ローデシア紛争からアンゴラ内戦での編成は以下の通り。


第1飛行隊(Mirage F1AZ)

第2飛行隊(Mirage ⅡRZ、Mirage ⅢCZ、BZ、R2Z)

第3飛行隊(Mirage F1CZ)

第4飛行隊(インパラ Mk Ⅱ)

第8飛行隊インパラ

第11飛行隊(セスナ185)

第12飛行隊キャンベラ

第15飛行隊(SA-321L、SA326 シュペル・フルロン)

第17飛行隊(SA 316 アロエテⅢ)

第19飛行隊(SA 330 アエロスパシアル・ピューマ)

第21飛行隊(特別要人輸送機)

第24飛行隊バッカニア

第25飛行隊(DC-3)

第28飛行隊(C-130、C-160)

第41飛行隊(セスナ185、Altas C-4M )

第44飛行隊(DC-3、DC-4)

第60飛行隊(ボーイング707)

第85飛行隊(インパラ、Mirage Ⅲ)



ネタ的捕捉:Operation Silver Diamond(1989)


 1989年5月7日1345時。南アフリカ海軍のフリゲート艦が、ケープタウン方面から内陸部に向かう国籍不明機を発見。SAAFのミラージュ戦闘機が出撃。ボツワナと南アフリカの国境近くで撃墜し、機体はカラハリ砂漠に墜落した。

 現場に機体回収に向かったSADFは乗員二名を捕らえる。機体の直径は18m。調査は米国に引き継がれ、オハイオ州にあるライトパターソン空軍基地からやって来たC-5輸送機2機で空輸された……と、言うUFOネタのお話。

 日本でもTV特番で放送され、海外でも「Kalahari Crash」として知られている。ちなみにミラージュは、レーザー砲を搭載していたそうだ。凄まじい火葬戦記な設定だ。

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