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7.5 Koevoetの補足

はじめに


 南西アフリカ警察対テロ部隊のKoevoetはユニークな歴史を持つ部隊であった。Koevoetの創設者は後に中将となるHans Dreyer大佐。南アフリカ国防軍Magnus Malan将軍、特殊部隊司令官(Commanding General of the Reconnaissance Commando)Friz Loots少将、BSAP公安のMac McGuinness警視正もKoevoet誕生に関わっている。ローデシアの終焉で南アフリカにやって来たSelous Scouts、ローデシアSASは5-Reconnaissance Commandoに配属された。南アフリカは南西アフリカでSWAPOの反乱問題を抱えておりSelous Scoutsの様な部隊を必要としていた。彼らはRecceとProject K(Operation K)にアドバイスを行った。



1.Koevoetに至る系譜


 1)Selous Scouts


 Koevoet編成に直接影響を与えたのはローデシアのSelous Scoutsである。

 ポルトガル植民地戦争の波及により、FRELIMOはワニが生息するザンベジ川渡河し越境して来る事があり、ローデシアはポルトガルに協力し、モザンビークで活動した。

 1970年4月27日にはRLIの車両がMkumburaで地雷により損害を受け、初めての戦死者をだしている。

 1972年12月にZANLAがモザンビークより大規模な侵入を開始した。

 ローデシアCIOと警察(BSAP)の公安(SB)は、ZANLAがタンザニアやその他外国の場所で訓練され、送り込まれている事実を確認していた。

 敵は拷問、強姦、放火、その他テロ行為で白人農民を土地から追い出した。

 そしてカーネーション革命の結果、モザンビークはFRELIMOが支配し、ゲリラの策源地と化した事でローデシアの約1000kmの東部国境が危機に瀕した。

 純粋な軍事的手段では勝てない。マラヤやケニアのCOIN作戦の戦訓から、敵のゲリラ部隊に偽装し接触させる役割を担う部隊が求められた。

 公安のテロリスト対策を担当していたMac McGuinness巡査部長が中央情報機構=CIOの指揮下で編成に動いた。特殊部隊編成には、ローデシアSASのアドバイスを受けた。

 警視になったMcGuinnessは、ローデシアSASのBert Sachse大尉(後にブロンズクロス勲章を授与される)等と仕事を進め1973年にSelous Scoutsは誕生する。部隊の指揮官にはRLIでRSMだったRon Reid Daly大尉が任命された。

 部隊の士官・下士官はRAR連隊、SAS、RLIから選ばれ、全ての兵士に降下訓練が行われた。John Murphy少佐はベトナム戦争を経験した元米海兵隊員だった。

 殆どがローデシア人で構成されていたローデシアSASでは黒人の受入を拒否したのに対して、偽装ゲリラ部隊と言う任務の性質上、当初は白人6人、転向した黒人18名でティームは構成された。

 白人は髭を生やし、靴墨で鼻や肌を黒く偽装した。将来的にはZIPRA及ZANLA、それにFRELIMOさえ引き込む計画だっ事もあって、最盛期には80%が黒人で1000名以上が所属した。

 偵察部隊を形作る上で活躍したのがChris (Schulie)Schollenbergで、1975年9月26日、モザンビークとザンビアの偵察任務遂行によって中尉の時にSilver Cross of Rhodesia(S.C.R.)を授与、1978年3月24日、大尉の時にローデシア軍初のGrand Cross of Valour(G.C.V.)を授与されている。Schollenbergの偵察のパートナーにSteven Mpofuと言う黒人兵士が従事していた。Operation HurricaneのJOC司令官であったJohn Hickman中将はSchollenbergを評価していた。

※同一人物ながら、複数の書籍を見比べた所、異なる表記が見られるのでRon Reid Dalyの著述を優先した。Schulenberg「Rhodesia Medal Roll」、Schulenburg「Rhodesia Medal Roll」「Assignment Selous Scout Inside story of a Rhodesian Special Branch Officer」「Selous Scout Rhodesian Counter-Insurgency Specialists」、Schollenberg「Selous Scout Top Secret War」、「THE ELITE The Story of the Rhodesian Special Air Service」、「The Bush War in Rhodesia The Extraordinary Combat Memoir of a Rhodesia Reconnaissance Specialist」

 敵に偽装する作戦の成果としては、1974年1月にSelous ScoutsがBindura農場キャンプに展開して以来、Dale Collettの試験ティームがKandeya族の信託地(TTL)(Tribal Trust Lands)に向かい短期間で信頼を得たが、「治安部隊が味方に偽装している」との情報が敵に広まっていると判明した。尋問の結果、FAF4(Forward Airfield)の展開しているDarwin山のRLIに連絡。Daleのティームに誘導されキャンプを襲撃。殺害戦果6名を確認されている。最も大きな戦果は敵の装備で、部隊の偽装に役立った。更に回収された文章類の分析結果から戦果拡張し、ハリケーン作戦区域での治安は向上し、民政の安定に貢献した。

 5月4日、Daleのティームは引き続きMadziwaTTLに派遣され、2日後の5月6日0300時、敵のキャンプ発見を報告。RLIとRhAFが出動。殺害戦果2名、捕虜1名を得る。

 更にKandeyaTTLに向かい、情報から5月16日にZANLAの会合を確認。FAF3のCentenary基地からヘリコプターが送られ、RLIが出動。殺害戦果19名、捕虜7名を得ている。Selous Scoutsは1974年末までに殺害又は捕虜221名の戦果をあげている。

 1976年にはモザンビークのMyadzonyaキャンプを襲撃、殺害戦果300以上で、同年だけで殺害戦果1257名をあげている。

 ローデシア軍の行った標準的な戦術がFireforceで、基本的な流れとしてはG-Car(Aluette MkⅢに.連装の303ブロウニング機関銃を搭載)とK-Kar(Hispano-Suiza 20㎜機関砲搭載)の連携で行われる空中機動と考えれば良い。ホーカーハンターFGA9、キャンベラ爆撃機が37㎜SNEBロケット、460㎏ゴルフ爆弾、300Alpha爆弾、500lb・1000lb爆弾等で対地攻撃を行っている。兵員輸送には後にベル206ヘリコプターやDC-3も加わっている。この際、敵拠点を探し出すのが偽装ゲリラのSelous Scoutsの役割だった。

 ローデシア軍が戦争中、敵に与えた戦果の68%がSelous Scoutsによる物とされている。この過程で部隊の損害は40人未満しか無かった。

 ローデシアの消滅後、Selous ScoutsやローデシアSASがSADFのRecceに迎えられ、元公安のメンバーはCSIに統合された。


 2)Recce


 南アフリカ特殊部隊、Recceが1972年に創設されるまでの極秘作戦としては1966年8月26日、Jan Breytenbach当時大尉は、SWAPO訓練キャンプ襲撃のOperation Blue Wildeestに参加した。1967年からJan Breytenbach大尉と12人の落下傘隊員は、6ヶ月間、ローデシアSAS C中隊で訓練を受け、3人の士官と4人の下士官が残り、ローデシアSASでの訓練終了後、1969年、ビアフラ軍の後方支援を行っている。

 1973年に退役したF.W.Loots少将は、適切な特殊部隊運営の為、復職を命じられた。1974年8月に復職し、2度目の退役に至るまで特殊部隊の発展に貢献した。

 1974年、ローデシアSAS C中隊に2個ティームが6ヶ月間参加。1976年3月、1 Recceの隊員15名がSelousScoutsに派遣され訓練を学んだ。5月1日には偵察コマンド学校(後の特殊部隊学校)が設立される。

 1977年、1 Recceと5 Recceが交代でC中隊の支援に派遣された。この隠れ蓑として10月にD中隊が編制された。

 Recceはモザンビークやザンビアでの越境作戦に参加する事で戦闘経験を積み、アンゴラ等フロントライン諸国相手の不正規特殊作戦で活躍した。

 ローデシアの白人政権が選挙で否定され、ムガベ政権の発足後、ローデシア軍はローデシアSASやSelous Scoutsの様に部隊で、あるいは個人で亡命し、SADFやSAPに移った。祖国を失ったローデシア人は、忠誠と言う面で南アフリカへの帰化を求められた。

 ローデシアSASやSelous Scoutsは待遇面で恵まれた方で、SAS D中隊の頃から戦友として協力関係にあった1 Recceが、SADFへの同化に全面協力した。

 残念な事に、多くのローデシア人にとって南アフリカは安住の地ではなく、南アフリカの共通語であるアフリカーンス語と言う言語の壁もあった。

 6 Recceは1980年3月14日、Garth.J.Barrett大佐の下で、Bob Mackenzie大尉のA中隊とJohnson少佐のB中隊の2個中隊で編成されたが、特殊部隊の統合により1980年12月31日、ローデシアSASは解散。1981年1月1日に6 Recceと1 Recceは1 RR(偵察コマンドーから偵察連隊)に統合されたが書類上であり、6 Recceは1月30日にR.L.Hutchinson軍曹等3名の戦死者を出している。

 3 Recceは1976年5月1日編成されたが紙面上存在だった。1980年4月、Selous Scoutsと家族が到着すると、3 Recceと5 Recceが受け入れた。

 5 Recceは1976年12月5日、黒人兵士による偽装ゲリラ部隊を編成すべく1 RecceからP.J.Verster少佐等15名が選ばれた事に始まる。1977年3月7日から4月7日にかけて46人の黒人兵士を対象に3週間選抜コースが行われた。

 1981年1月1日、3 Recceと5 Recceは5 RR統合された。


 3)32 Battalion

 前身となったのは南アフリカ軍に鍛えられ1975年のサバンナ作戦でアンゴラ南部を席巻したブラボー戦闘団である。特殊部隊指揮官としての経歴を生かしてJan Breytenbach大佐は精力的に部隊を組織化した。構成する兵士の多くはアンゴラのUNITA、FNLAの兵士、南西アフリカのブッシュマンと言った黒人で、共産主義者と戦う事を選んだ。設立当初、部隊のコアとなる各指揮官は派遣されて来た2 Recce隊員や元ポルトガル軍の経験者が占めていた。

 彼らポルトガル語を話すアンゴラの黒人兵士は、南アフリカに忠実に仕え、1976年10月、32大隊に拡充後もアンゴラに平和をもたらすべく多くの作戦に従事しFAPLA、SWAPO、キューバ軍を撃退し有名となった。現地人の登用と言う面から考えると成功例といえるが、戦後は解隊されている。



2.Koevoet:South West African Police Counterinsurgency Unit(SWAPOLCOIN)


 Koevoetの創設前、SAPはローデシア送られ、COINの訓練の必要性を痛感した。

 1968年、Pretiria郊外のPrelindabaにCOIN訓練学校が開校された。まもなくSAPはTransvaalのGroblersdal郊外のMaleoskop農場で、ローデシアと南西アフリカに派遣される隊員の訓練が行われた。後にプレトリア警察学校で基礎教育を終えた新入隊員は、警察署に配属される前に農場で訓練に送られた。

 1978年の半ば、SAPのSterk Hans Dreyer大佐は警察長官Johan Coetzee将軍に呼び出された。そこにはSADF司令官Magnus Malan将軍、Recce司令官Fritz Loots少将が居て、アンゴラ/南西アフリカの情勢は南アフリカに不利な物となっている為、Selous Scoutsの様な偽装ゲリラの情報収集部隊の創設についてが議題だった。

 確かに軍事的、対外的にはSADF優勢は揺るがない。しかし南西アフリカではSWAPOの反乱に警察だけでは対処できずSADFも投入されていた。

 しかし2、3ヵ月の基礎訓練受けた後、見知らぬ土地で敵の真ん中に放り込まれて戦える訳が無い。Recceと32大隊は例外だが。

 戦力の強化は当然の帰結だった。

 ローデシアのSelous Scoutsに倣った部隊を作る必要があると、5 RecceとSAPが協力され、Dreyer大佐は3ヶ月ローデシアに派遣され、Mac McGuinness警視の下で勤務した。

 プレトリアに戻ったDreyer大佐は、元公安でBOSSを経てSAPに戻ったVic Verster少将と会談。K計画について幾つかの合意に至った。

 4人の部下を与えられ南西アフリカに赴いたDreyer大佐は、70年代のローデシアとモザンビークでの経験から、南西アフリカではローデシアで上手く行った様に行くと限らないと気付いた。

 KoevoetはOperation Kの秘匿名称で1979年1月11日に誕生したが、着任した時は400ランドしか予算が無かった。

 1979年2月から始動したOperation Kは、1980年まで、OndangwaのFort Rev(セクター10)と南カプリピFort Doppies(セクター70)に駐屯していた。

 1979年部隊に加わったFrans Conradie伍長はRecceで、ローデシアSAS D中隊の経験者だった。

 Koevoetの立ち上げに携わっていたMac McGuinness警視正は助言を行っていたが、1980年にKoevoetはDoppiesの1 Recce GOCと遣り方を巡り対立した。

 創立当初は精鋭特殊部隊等では無く、住民と言語の壁も大きく、Recceや32大隊とは別物で、警察官としても捜査や逮捕の訓練が出来ていなかった。

 Koevoetの収集した情報はSADFに共有され、活動を支援した。


 1)装備

 敵は地雷を埋設しておりCasspirやHippo等の対地雷装甲車、Blesbok suppiy truckを編成当初から与えれた。車輛には14.5㎜重機関銃、20㎜機関砲、FN-MAG等が車載されていた。

 Casspirは後部の兵員室で左右6名の計12名が乗車出来たが、車内は狭く膝を突き合わせて座れば拳一つ分ほどしかスペースは無かった。

 標準装備としてR5からロシア製PKM、ベルギー製FN MAGまで揃えられており、基本的に車輛や火器はSADF、迷彩服はSAPと同じだった。

 当初、支給されていた小銃はG3やR1だったが、鹵獲品のAK47の方が取り扱いしやすく導入し、RPD軽機関銃や60mm迫撃砲で火力が増強された。


 2)編成

 Koevoetの本部は、第10軍管区の司令部があるOshakatiに置かれていた。

 部隊の士官、下士官は公安の職員が務めた。各ティームはCasspir×4、またはBlesbokを装備しておりオバンボ族の隊員40~50名と白人警官2名で構成された。この白人警官がティームの指揮をした。

「Koevoet: Experiencing South Africa's Deadly Bush War」から例に出すとZulu Alphaはteam leaderであるMarius Brand准尉の指揮下で、car commander(車長)が存在した。ティームの通信系では各車の呼出符号が、ZA-1がMarius Brand准尉でZA-4まで存在した。

「Shadows in the Sand: A Koevoet Tracker's Story of an Insurgency War」によると42のティームが存在し、OvambolandのOshakatiにZuluの呼出符号を持つ30個ティームが所属した。残りのティームが所属したのは以下の場所。

 Zulu 1:Ongwediva、8個ティームが所属。

 Zulu 2:EenhanaのCommunications centret。

 Zulu 3:Zulu 1に隣接するinvestigation Centre。

 Zulu 4:KavangoのRundu基地。8個ティームが所属。

 Zulu 5:KaokoveldのOpuwa基地。4個ティームが所属。


 3)呼出符号

 呼出符号の数だけティームは存在した。ZA、Z1D、Z4J等と戦闘服の部隊章に表記されていたので、呼出符号=部隊名を兼ねていたと理解出来る。

 作戦従事者と時期とを記載した。士官に関してはティームリーダーと考えて良い。


 Zulu Alpha:1981年1月、Andre du Erwee中尉。

 Zulu Bravo1987年12月、Gavin Manning。

 Zulu Charlie

 Zulu Delta:1979年、Eugene du Kok中尉。

 Zulu Echo:前身はZulu Eight。1981年11月、Joost Engelbrecht大尉。

 Zulu Foxtrot

 Zulu Golf

 Zulu Hotel

 Zulu India:1981年1月、Sakkie du Plessis中尉。

 Zulu Juliet:1987年12月、J.C.Lesch。

 Zulu Kilo

 Zulu Lima:1981年1月、Johan van Zyl中尉。1982年6月、Eric Winter大尉。

 Zulu Mike:1981年9月、Roelf Maritz大尉。

 Zulu November:1984年6月、Boesman Pretorius軍曹。

 Zulu Oscar:1981年12月、Dave Bakor准尉。

 Zulu Papa:1981年11月、Dimpie du Plessis大尉。

 Zulu Quebec:1986年1月、Stephaans du Toit軍曹。1987年1月、François du Toit軍曹。

 Zulu Sierra:1979年、Pete Stassen軍曹。1984年6月、Callie Calitz軍曹。

 Zulu Tango:1986年12月、Jack Bouwer。

 Zulu Uniform:1986年11月、Attie Hattingh准尉。

 Zulu Victor:1981年9月、Johan van Zyl中尉。1989年、Doepie du Plessis軍曹。

 Zulu Whisky:1979年、Chris de Wit軍曹。

 Zulu X-Ray

 Zulu Yankee


 Zulu One Delta

 Zulu One Hotel

 Zulu One India

 Zulu One Juliet:1986年6月、Chris Ronne中尉。

 Zulu One Mike

 Zulu One Sierra


 Zulu Four Bravo

 Zulu Four Charlie

 Zulu Four Delta:1983年、Dimpie du Plessis大尉。

 Zulu Four Echo

 Zulu Four Foxtrot:1984年8月、Johnny Naude中尉。

 Zulu Four Hotel

 Zulu Four Juliet:1984年7月、Jumbo de Villiers准尉。1985年2月、Soutie Lewis軍曹。

 Zulu Four November

 Zulu Four Quebec

 Zulu Four Sierra:1988年、Herman Havenga。

 Zulu Four Whisky:1984年8月、Wille Roux軍曹。


 Zulu Five Echo:1985年1月、Leon Lotz軍曹。

 Zulu Five Juliet:1984年4月、Southie軍曹。

 Zulu Five Sierra:1985年1月、Reima Redlinghuys軍曹。

 Zulu Five Tango



 4)戦果

 SAAFのAlouetteに20㎜機関砲を搭載したガンシップがKoevoetの作戦を支援した。車輛による急襲でSWAPOの戦闘部隊であるPLANに損害を与えた。その戦果は無視できない物だった。

 細かい活動を記載すれば、1981年1月4日、Eugene de Kock中尉率いるZulu DeltaがOwamboland西部に於いて巡回中、Hippo2輛の内、1輛が呼称した。もう1輛で巡回継続中、テロリスト5名の襲撃受けたが撃退、殺害戦果1名。

 de Kockはガンシップの支援を受けて追跡した。

 敵は当初、降伏を偽装し、Zulu Deltaに所属するSAP Special Task ForceのA Schreuder巡査が射殺され、J Herman軍曹、Brand巡査、Festus Mutunda特別巡査は負傷した。ティームに損害が発生したが、更に3名を殺害した。

 Johan van Zyl中尉は1980年末、Koevoetに加わり、戦闘部隊の指揮を執った。その部隊は、数週間前、Louw van Niekerk巡査(SAP Special Task Forceの元隊員)とCassie Kruger巡査は、新たな部隊編成を命じられていた。約60名の特別巡査を選抜し、Zulu Limaの呼出符号が与えられていた。

 部隊は数カ月後さらに拡大され、Louw van NiekerkとCassie Krugerがそれぞれのチームに選出され、Van NiekerkはZulu Lima、KurugerhaのZulu Carlie、Johan van Zyl中尉の部隊はZulu Victorと改称された。

 Johan van Zyl中尉は独り立ちをする前に、部隊に配属されて経験を積む事を求め、1月20日に元Recce隊員のFrans Conradie准尉のZulu Foxtrotに参加した。

 テロリストの足跡を追跡中、野糞のやり方を覚えた。警官が砂を一掴みして尻を拭いていたのだ。

 追跡対象は頻繁に方向を変え、木の葉の茂った枝で足跡を軽く拭いていた。

 追跡する側は、引き返して周囲を180度捜索し、足跡を探す必要があった。

 ある場所でゲリラが分裂し、別々に逃走した事が明らかになった。

  Oshakariには政府機関の事務所他にSADFの第10軍管区の司令部、SAP COIN本部があり、第10軍管区司令官Witkop Bandenhorst准将の下で、各部隊は情報を共有し議論した。

 一般住民の居住地、商業地域から離れた軍の区画には、40mm機関砲を備えた高さ10メートルの監視塔が4つあり、24時間体制で警備員が配置されていた。意外な事に、一般住民の家屋では窓が昼夜を問わず開け放たれ、扉は施錠されていないのが常だった。

 少なくとも1983年末まで、SWAPOは白人居住地域への侵入を試みなかった。またOwamboland全体の作戦地域に適用されていた夜間外出禁止令は、Oshakariの白人警備地域には適用されなかった。

 1月31日午前4時頃、SWAPOソ連から供与された122mmロケットランチャーによる攻撃を実施した。幸いに負傷者はいなかった。

 Andre Erwee中尉のZulu Alpha、Sakkie du Plessi中尉のZulu India、Johan van Zyl中尉のZulu Limaが初動捜査に出発した。

 彼らは町から約8キロ離れた射撃位置を特定した。SWAPOはピンポンダッシュの様に北へ向かって逃走していた。

 Johan van Zyl中尉は、部隊に割り当てられた3輛のCasspirの内の1輛、Hippo、Albatross輸送車を装備していた。

 追跡を続けたが結局、敵は国境を越えてアンゴラに逃げ果せていた。

 3月4日、Zulu Alphaは、CasspirとHippo地雷防護車両を装備したZulu Indiaと共に、Oshakariの北15キロに位置するEndola地域で9人のテロリストが活動しているという情報を調査していた。

 Zulu IndiaにはDicks Dietrichsen大尉とWillam Botha准尉が同行していた。正午、不審な点から尋問を行いPLANメンバーを確保した。

 3月6日、Eric Winter大尉はOshakariから部隊を派遣した。指揮官のHippo、Pete Stassen中尉のCasspir、Dietrichsen大尉、Special Task Forceのdu Prisoner中尉、そして特別巡査が搭乗する。Ribbokが最後尾を追った。

 尋問の結果、Ondangwa空軍基地付近に大量の122mmロケット弾が事前集積で隠匿されていた事が発覚する。

 この集積場所に向かう途中のテロリストを襲撃、殺害戦果18名、捕虜1名を得ている。

 襲撃犯を捕らえ、次の襲撃を阻止したKoevoetの成果は自分の地位を脅かすとBandenhorst准将は考え、3月1日にWindhoekのSWATF司令官Charles Lloyd少将に「私の知らない内に実行された」とご注進した。

 これは陸軍司令官からMike Geldenhuys警察長官に渡され、SAP CPINにコピーが渡されているが、成果は正当に評価され、なんか言ってるわ程度の対応でスルーされた。

 後にZulu FoxtrotにCasspirが装備完了すると、Frans ConradieはRecce時代の敬愛する上司、第44落下傘旅団のJan Breytenbach大佐と交渉し、Unimogに装備されていた20mm機関砲を入手した。Bandenhorst准将は入手経路を追求し、Breytenbach大佐とやり合ったが、空軍の余剰兵器を右から左に流しただけで第10軍管区の管理下には無い物だった。

 Bandenhorst准将が異動になると副司令官のJoep Joubert大佐が准将に昇進し、その地位を引き継いだ。

 その後、警察と軍の関係と協力は飛躍的に改善された。

 テロリストの追跡は国境で停止し、陸軍部隊に引き継がなければならなかったが、Dreyer准将との協議の結果、Koevoetはアンゴラへ追跡を許可された。

 Koevoet活動の10年間で1615回の戦闘を行い、PLAN6個大隊に相当する損害を敵に与えた。一方で警察官10名戦死、負傷949名の損害を受けている。


3.Koevoetの終焉


 1) 時代の変化

 南西アフリカが独立すとKoevoetは1990年1月12日に解隊された。


 2) その後のKoevoet

 Executive Outcomesやその他民間軍事会社に移る者も多かった。


4.Koevoetの総合的な考察

 ローデシア紛争で培われたCOIN作戦の戦術は南西アフリカで最終的な進化を遂げた。

 ローデシア軍が伝説になり根拠のない尾ひれがつく中で、Koevoetは正確にその情報が伝えられていた。「戦うお巡りさん」である。



終わりに


 Koevoetは秘密のヴェールに包まれた部隊では無いが資料は少ない。購買層を考えれば売上が望めない為に出版されないと言う事だろうか。証言者の高齢化や鬼籍に入る中で日本では注目される事もなく、Koevoetも歴史に埋もれていくだろう。そのうちに加筆したいと思う。

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