1.RecceとかEOについて
1.はじめに
小説やTV、ゲームの主人公は危機に陥っても最後には勝つ。シュワルツェネッガー主演の「コマンドー」では、元コマンドー隊員のメイトリックス大佐が単身、敵地に乗り込み暴れまわった。難しい事は考えずに、分かり易い勧善懲悪で楽しめる。
そんなヒーローの活躍に、幼い頃の誰しもが憧れるだろう。「地獄のヒーロー」や「デルタ・フォース」で著名なチャック・ノリス、「沈黙シリーズ」のスティーブン・セガールも分かり易いヒーロー像と言える。
日本には自称元グリンベレー大尉の作家がいる。彼の経歴ではコンゴ動乱に参加したと言う。彼の作品の影響でアフリカの紛争や内戦の影に傭兵のロマンを感じ、精強な男たちに幻想を抱いた。しかし大人になると夢も覚める。グリンベレー云々は、広告戦略であり経歴詐称なのかもしれない。
彼の経歴の真偽はともかく、一騎当千の男たちがアフリカには実在した。
ローデシアSASやセルース・スカウツの伝説はやり過ぎだとしても南アフリカには本物が存在した。Recceや第32大隊、南西アフリカのKoevoetがそれだ。
COIN作戦で戦果をあげた彼らは、政治的な敗北により歴史の表舞台から姿を消した。しかし彼らのあげた戦果が消えるわけではない。歴史に刻まれ、映像や書籍媒体などで後世に語り継がれている。
第一歩としてネット検索をしてみたが、ネットの資料は話半分として見た方が良い。
「南部アフリカ解放運動の歴史年表」と言うものがあった。これはローデシアと南アフリカの行った越境作戦にも記述されていた。
ベトナム戦争や第二次世界大戦と言った日本人にとって身近な戦争と違い、アフリカは遠く離れた世界。その為に日本語資料は少ない。そう言う意味では、流れを分かりやすくまとめているのは素晴らしいと思う。内容に関してだが、特に特殊部隊関連の活動は合致しており素晴らしい。
大きな所でミスはないが、翻訳の仕方に疑問を感じる箇所が幾つかあった。「ズル」軍と言う表記は残念に思う。任務部隊を軍って凄まじい翻訳の仕方だ。
ローデシア関連では日本語版wikipediaのソース元になっている「Institute of Rhodesian Army - ローデシア問題とローデシア軍に関する資料」が日本語の資料としては比較的詳しい。※2025年現在閲覧不可
最近はローデシア関連の書籍も多数出ているので、これ以上に詳しく個々の作戦を知りたい人はAmazonなど洋書を取り扱っている店舗で取り寄せするのも手だ。
本作は南アフリカをメインに、これらネットや日本語で記載されていない事を、補完する隙間エッセイとなる。
旧日本軍では編制(平時の区分)、戦時編制(戦時の区分)、建制、編組(作戦の必要に応じて編合する)、編成(任務の為に臨時派遣される隊)等と色々区分はあるが、こちらでは基本的に編成で和訳を統一する。
2.背景
南アフリカ国防軍は実際、20年前までSouth African Border Warでソ連・中国・東ドイツ・キューバ・ブルガリア・ルーマニアが周辺諸国に軍事顧問団を送り込み、それを相手に30年近く戦争していたので精強と言えた。だがその不正規特殊作戦は、人道的にも問題点が多く単純に戦果を絶賛する事は出来ない。RENAMOへの支援も例としてあげられる。
South African Border Warとはなにか? 1966年から1989年まで、ポルトガル植民地戦争とその延長でアンゴラと、南西アフリカを舞台に複数の国家・団体が入り乱れれて戦った戦争の事で、ポルトガルの脱落が大きく影響を与えている。全般的には低強度紛争(Low-Intensity Conflict)で、現在のイラクやアフガニスタンで行われている叛乱鎮圧(counter-insurgency)に近い。
1951年、ポルトガルは植民地を海外州に昇格させ本国との差を無くした事で、植民地は存在しないとしたが、戦争が勃発しポルトガル領だったギニアビサウ・アンゴラ・モザンビークで展開された。
アンゴラの戦い:1961年3月15日と5月31日、UPAがコンゴからアンゴラ領内に侵攻した。ポルトガル軍は5月~9月にかけての反攻でアンゴラ領内から完全に掃討。支配地域を回復する。
10年後の1971年3月の戦況を見ると、北部のザイールからFNLA、東部のザンビアからMPLA、UNITAが侵攻している。1972年にはポルトガル軍が押し戻し始めていた。1974年3月には掃討完了が目前であった。
モザンビークの戦い:FRELIMOはモザンビークの北部を支配しており、ポルトガル軍は競合地域で戦闘を繰り広げた。
ポルトガル植民地戦争で南アフリカは、ポルトガルを支援してSAAFを投入。1971年にOperation Mexer(1月21日~29日)、Operation Anniversaria(2月3日~10日)、Operation Dragon(6月25日~7月1日)、1972年にOperation Nacala(5月5日~9月8日)、1973年にOperation Zorro(1月25日~7月3日)、Operation Zurzir(7月12日~31日)、Operation Zorba(8月20日~9月2日)、Operation Speedway(9月22日~29日)が実施された。
戦争はポルトガル軍優勢で終わろうとしていたが、1974年4月にポルトガル首都リスボンで発生したカーネーション革命によって、左派政権が誕生し終結した。かくして海外州からアンゴラやモザンビークとして独立していく。日本で言うなら、共産党や民主党が政権を取って沖縄や対馬の領有権を放棄した様な物だ。
南アフリカにとっては危機だった。今まではポルトガルが緩衝地帯になっていたが、いきなり敵性国家と隣接する事になったからだ。
1974年9月以来、SADFはアンゴラのポルトガル軍と亡命してきたブッシュマン(現地住民)の選ばれた数百名に、拠点の提供と訓練を極秘に行った。
モザンビークと隣接するローデシアも危機感を覚えて、RENAMOを組織してモザンビーク領内で破壊活動を実施する。ローデシアがジンバブエとして独立後は、南アフリカがスポンサーとなる。1981年2月にSADFは10000名を訓練し、Operation AltarとOperation MilaでRecceがRENAMOの支援を行った。
このRENAMOだが、子供を誘拐して兵士として育て上げるなど非人道的行為を行っていた。Recceの指導が悪かったとも言え、特殊部隊は格好が良いと全てを肯定するわけにはいかない。
独立後のアンゴラは、独立戦争を戦った3つの勢力が存在した。FNLA、UNITA、MPLAである。政治闘争は安直な武力闘争となり、アンゴラ内戦へと突入する。そして南アフリカはUNITAを支援してアンゴラへ派兵していく。内戦は諸外国が資金や武器援助をする事で、混沌として長期化していく。
冷戦時代、米国は反共を条件に軍事独裁政権を支援した。対ソ戦略であるトルーマン・ドクトリンの流れを汲むもので、アパルトヘイトを掲げる南アフリカやローデシアへの対外援助政策もその一つだ。アンゴラでのUNITAへの支援活動も反共からの活動だ。
アンゴラで米国は、UNITAに軍事顧問と言う形でCIA職員を派遣した。契約社員の形で傭兵もいた。一方のMPLAにもコンゴを追われたカタンガ憲兵隊の残党が参加していた。待遇はアンゴラに雇われた傭兵と言え、国共内戦で敗れて東南アジアに潜伏し犯罪組織化した国民党軍残党と同様の運命を辿っている。(カタンガ憲兵隊の残党はコンゴ民族解放戦線を組織しシャバ紛争でも暴れる。もはや大義はなかった)
東西融和のデタント時代以降には世界情勢も大きく変動し、南アフリカ、UNITAは援助も打ち切られる事となる。大国の都合に翻弄された戦争を長引かせられた彼らも被害者である。
3.Recce:南アフリカの誇る精強たる特殊部隊。
南アフリカ国防軍の行った最初の特殊作戦は1968年のビアフラだ。アンゴラを訪れた軍事情報局局長のLoots少将はビアフラから予期せぬ援助要請を受けたからだ。
当時の実戦部隊として、銃剣の交差した×印の部隊章を付けた作戦実験ティーム(Operational Experimental Team)が存在した。
ビアフラ以前の1966年8月26日に、J.D.Breytenbach大尉は最初のCOIN作戦として、南西アフリカでSAPの支援で、SWAPOの訓練キャンプを叩くOperation BLOUWILDEBEESを経験している。
Recceの名称が歴史の表舞台に登場したのはローデシア紛争の最中だ。
ローデシアSASは、1950年代にマラヤ動乱でCOIN作戦で活躍したマラヤスカウツを前身とするSASのC中隊から伝統を継ぐ部隊だ。
J.D.Breytenbach大尉と12名の落下傘部隊隊員は1967年、C中隊で6週間の教育を受けた。当時、第1落下傘大隊の中隊長だったWillam kaas van der Waals准将も、この頃にローデシア歩兵学校でJoint Services Counterinsurgency courseを終え、駐アンゴラ副領事として赴任。ポルトガルのCOIN作戦について情報収集している。
COIN(Counter Insurgency:対叛乱鎮圧)作戦の真髄を実戦で学び取った彼らは、南アフリカに帰国後、SADFに習熟した部隊運用や戦技を反映させて、1969年にOudshoornの陸軍歩兵学校に研究部隊が作られ、1972年10月1日に第1偵察コマンドー(1 Reconnaissance Commando)が誕生する。小説やゲームにも出てくるレックス・コマンドーだ。発音としてはレキースが正しいそうだ。
当時アフリカに於ける反共の最前線として周辺を囲まれていたローデシアは、連日の戦闘で疲弊しながらも南アフリカの支援で維持されていた。そんな中、SADFからRecce2個ティームがローデシアSASの支援として派遣されD中隊として活動した。
(J.D.Breytenbachは、第1偵察コマンドーと第32大隊の初代指揮官として軍事史に名前を刻んでいる。最近出版された、ローデシアのファイアーフォースの書籍に付属しているDVDにも出演しており、存命が確認されていた)
その後、特殊部隊は増殖していき1974年6月1日に国防義勇軍のハンターグループ(Hunter Group)を母体に第2偵察コマンドー、1976年5月1日に第3偵察コマンドー、12月5日に第5偵察コマンドーが、1978年7月14日に第4偵察コマンドーが、1980年3月14日にはローデシアSASを母体に第6偵察コマンドーが編成された。第6偵察コマンドーの指揮官はG.J.M.Barret中佐。
70年代のRecce選抜コースは、ローデシアSAS、Selous Scoutの選抜コースをベースに6週間行われた。80年代には実戦での戦訓が反映され、落下傘降下2週間、小型舟艇2週間、車両運行と整備1週間、小隊火器(FN MAG、RPG-7など)4週間、爆薬と地雷4週間、重火器(14.5mm、20mm、23mm対空機関砲、81mm迫撃砲など)6週間、野外衛生6週間、生存術4週間、基本戦術6週間と教育内容も充実して行った。※教育期間は時代や部隊によって異なる。
1RRの特殊部隊基礎訓練は2週間、体力テストとして20Km行軍(25kg装備で制限時間3時間15分)、5km走(20分)等が行われた。
Recceは、南アフリカ境界戦争で周辺国に越境作戦を展開した。1973年、南西アフリカ北部の治安維持任務をSAPからSADFが引き継ぐと、不正規特殊作戦の戦技習熟の為、ローデシアのSelous Scoutsに派遣された。
1975年9月と10月、アンゴラ南部にFNLAとUNITAの訓練キャンプが作られRecce隊員が派遣され教導した。サバンナ作戦では2 Recceが派遣された。
1976年3月、Malcom Kinghorn少佐の指揮下で、DurbanのSalisbury島に水陸両用作戦のティームが編成された。
1977年以降は1RC、5RCがローテーションでローデシアSAS D中隊として活動した。
ローデシアが消滅した後はSelous Scouts、SASメンバーがSADFやSAPに加わり特殊部隊、落下傘部隊等で人材面の拡充がなされたが、大半のローデシア人は改編時に退役した。
部隊の構成は、複数の偵察ティームと82㎜迫撃砲や106㎜無反動砲等を装備した支援ティームで構成されていた。1つのティームは6名前後で構成される。4 Recceの場合、海からの作戦を行う部隊の性格上、ダイビング技術の他にカヤック、ゾディアック(Mk 2、Mk 3、Mk 5、K40、K50、F420、F470等)の装備で訓練を受けた。
Recceの活動はSEALsやSASと同じ様に様々な部隊の支援を受けていた。悪名名高い第7医療大隊(SA Medical Services(SAMS) 7 Medical Battalion Group)や軍情報部、落下傘部隊、警察特殊部隊(South African Police Special Task Force)などだ。
冷戦後は、部隊を取り巻く状況が変化し紆余曲折を経て、第45落下傘旅団から特殊部隊旅団として再編成された。
武勲輝く1RCは、1981年6月1日、第1偵察連隊(1 Reconnaisance Regiment)に、1993年8月1日、第452落下傘大隊(452 Parachute Battalion)に、1994年4月22日、第1特殊部隊連隊(1 Special Forces Regiment)にと改編が続き、1997年3月31日に解散する。
2RCは1981年1月1日に2RRに改編、1992年3月31日に解隊された。2RRはCitizen FoRCeではあるが、ハンターグループ、2RCの時代から作戦行動に従事していた。部隊章はサソリであった。
3RCは1981年1月1日に5RRに吸収される形で解隊された。
4RCは1981年に4RRに改編、1993年7月31日に第453落下傘大隊に改編、1995年9月1日に第4特殊部隊連隊に改編された。部隊章はバイキングの羽根が付いた兜である。
5RCは1981年1月1日に3RCを吸収して5RRに改編、1993年8月1日に第451落下傘大隊に改編、1995年9月1日に第5特殊部隊連隊に改編された。Selous Scoutsからの人員交流など密接な関係から、5RRの時代から部隊章はSelous Scoutsと同様の物を使用している。
6RCは1981年1月1日に1RRに吸収される形で解隊された。部隊章はローデシアSASからの継承で、本家イギリスSASと同様の物だった。
部隊も改編が激しい。偵察コマンドーから偵察連隊、落下傘大隊、特殊部隊連隊と変動し、現在存在するのは第4特殊部隊連隊と第5特殊部隊連隊で、部隊章は引き続き4RC、5RCと同様である。
直接戦闘部隊ではないが1978年4月1日に編成されたReconnaissance Supply Depotは1Maintenance Unit、Special Forces Supply Unit、Special Forces Support Depotと改編され続けた。
他に、SADFの指揮下にあるSWATFで第1南西アフリカ偵察連隊(1 South West African Reconnaissance Regiment)が存在した。1982年にSWATF司令部の下で第32大隊偵察ティーム等の人員で編成され、1986年には5.1偵察コマンドー(5.1Commando:1978年12月5日編成)の支援でアンゴラの極秘作戦に参加する。
南アフリカ国防軍の存続中に特殊部隊を統括した司令官は以下の通り。
1974年7月~1982年4月 F.W.Loots少将:南アフリカ特殊部隊の生みの親と言える人物。
特殊部隊司令部(Special Forces HQ)で指揮系統が一元化された以降。
1982年5月~1985年11月 A.J.Liebenberg少将
1985年11月~1988年12月 A.J.M.Joubert少将
1989年1月~1991年1月 E.Webb少将
偵察総局(Directorate Reconnaissance)に呼称変更後。
1991年4月~1992年3月 M.Kinghorn大佐
4.Executive Outcomes:世界最初の民間軍事会社。
Executive Outcomes(EO社)の誕生以前にも元SAS隊員が創設した警備会社なども存在した。EOの場合はその規模と成果、世界に与えた影響が格段に違う。
EO社は、南アフリカ国防軍の精鋭第32大隊の偵察ティーム副指揮官、CCB等を経験したイーベン・バーロウ(Eeben Barow)元中佐が、マンデラ政権で失業した第32大隊、Recce、koevoet、それと敵だった民族の槍(ゲリラの実戦部隊)。これらの隊員を集め、合法的に株式会社として南アフリカに拠点を置いた実戦経験者の多い人材派遣会社だ。ヘリテージ・オイル(Heritage Oil)のCEO、トニー・バッキンガム(Tony Buckingham)が協力者だった。
第32大隊(バッファロー大隊)は、アンゴラからの元FNLAゲリラと反共産主義の兵士、SADFの将校で構成された。最も成功した対反乱鎮圧部隊としてアフリカ軍事史に名を刻んでいる。
もっとも、アンゴラの戦いに投入されたSADFの戦力が限定されていた為、最初のサバンナ作戦から最後まで参加していれば当然、戦果を上げる訳だ。
EO社のアンゴラやシエラレオネでの活躍は歴史的事実で、この会社が嫌いな人間でも否定できない成果をあげている。
アンゴラのソヨでは、攻撃の主力となったのはFAAの部隊である。EOの任務は、FAAの急襲支援。ソヨのHeritage Oil職員の警護。
バーロウは、南アフリカのプレトリアに詰めて指揮統制、兵站、衛生支援に当たった。AK-47、PKM軽機関銃、RPG-7、60㎜迫撃砲で武装したEOの3個小隊(Platoonと表記されているが人員は各±12名)がMl-17ヘリコプター3機で投入され石油施設を確保後、UNITAの反撃を撃退した。この時、EOの部隊を指揮したのは元5 RecceのBuks Buys少佐。EO第2小隊は元第32大隊D中隊長のHarry Ferreira中尉、ゾディアックボートで先行する偵察ティームは、Shaun Gullan大尉が指揮した。
この時の契約金はUS$80.000。
次の1993年~97年にかけて、FAAの教育にアンゴラ政府と結んだ契約はUS$60million。金額も大きいが、比例するように重要な役割を与えられた。
EOは、訓練(Training)と戦術面での助言(Advice)でFAA第16装甲旅団と密接な協力を行い、PC-7×2、Mig-23×2、Ml-17×2、Boieng727×2で航空支援を行い、BMP-2で地上からも同行した。FAA第16装甲旅団は、2個歩兵大隊(BMP-2)、特殊部隊、カタンガ歩兵(中隊規模)、砲兵(BM-21 MRL×2、D-30×2)、対空(ZSU-23-2×4)、工兵、兵站と衛生支援部隊で構成される。ここにBMP-2×11を装備したEO戦闘ティームと航空部隊が加わっている。
アンゴラで使用されたMi-17にはSAAFの迷彩が施され、ロシア製AGS-17(30㎜グレネードランチャー)が装備されていた。他にも23㎜機関砲、100㎏爆弾を搭載していたり、2012年6月、スーダンで使用されたRBK-500(500㎏クラスター爆弾)が、Mk82(500ポンド爆弾)と共にEOに使用されたとある。
シエラレオネに投入されたEOはさらに強力な装備が与えられていた。82㎜、120㎜迫撃砲。ランドローバー(12.7㎜Dshkと7.62㎜PKT機関銃をそれぞれ装備)、Mi-24だ。
シェラレオネでEOは5つの段階に分けて西から東へとRUFを掃討していった。
①フリータウン東側からRUFを掃討する。
②シェラレオネ中部のMakeni、Magburakaなどを経由してKoidu(Kono)までを解放する。
③Roifunk、BOを経由してKenemaまでを解放する。
④RUF司令部のあるJoruの掃討。
⑤シエラレオネでの作戦完了。
具体的、作戦投入兵力は以下の通り。
Operation Joru(1996) 10月11日、Joru地区のRUF司令部を攻撃すべくECOMOG(ナイジェリア空軍)、EOが展開した。この作戦でEOはMi-24を運用している。
Operation GolfRomEO134(1996) 10月24日、KonoのRUF攻撃をEOの82㎜迫撃砲、ランドローバー、Mi-17が支援した。
Operation Levuma(1996) 11月5日、LevumaのRUF攻撃をEO/RSLMF(シエラレオネ軍)混成部隊が実施。EOの82㎜迫撃砲、Mi-17が支援した。
RUFの切断した首の写真を見ると、現地の殺戮行為を止めさせる為に早急な軍事力の行使が必要だったと実感できる。シエラレオネでEOが受注した金額は、同時期の96年ボスニアでMPRI(1987年に創業した米国のMilitary Professional ResouRCes Inc.)が受注した金額の1割以下で、低価格で高品質なサービスを提供した。
※EOの活動は日本語書籍では『戦争請負会社』に概略が掲載されている。洋書だとEOのCEOイーベン・バーロウが執筆した「Executive Outcomes Aginst all odds」が著名だ。この記事では、同書に作戦や戦闘の詳細は記述されていないので、別の文献も参考にした。
EO社が契約先に提供する教育内容は、基礎である小火器射撃、通信、野外衛生、戦闘訓練に始まり、重・軽迫撃砲、対戦車ミサイル・ロケット発射筒、重・軽機関銃などの重火器操作、HALO/HAHOの降下訓練、ゲリラ戦、偵察、都市部の叛乱鎮圧、諜報活動、防諜、不正規作戦、榴弾砲を含む部隊の陣地展開・火砲の操作・射撃訓練、防空戦闘に於ける火器管制、ミサイルやレーダーの操作、架橋、道路や宿営地の建設、破壊、測量、総合的な兵站の支援、指揮官・幕僚の訓練など高度な専門分野で、守秘義務、プロ意識に基づく兵站・補給・輸送・殺傷行為を含まない支援行動の提供を売り文句にしていた。
レオナルド・ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」に出てくる民間軍事会社はこのEO社がモデルだ。ディカプリオ演じる主人公はローデシア出身の設定で、刑務所のシーンでは右腕に第32大隊の部隊章である牛の刺青が写っている。
EOの下部航空会社としてIbis AiR(IBIS AIR INTERNATIONAL)が存在した。Mil-17ヘリコプターを保有しており、輸送能力の高さから顧客の要望に合わせて迅速な展開が可能だった。
Executive Outcomesの系譜に連なる民間軍事会社――Private Military Company(PMC)としてSandline Internationalがかつて存在した。
Sandline InternationalのCEO:T. Spicerは元英軍中佐で、フォークランド紛争や北アイルランドの戦いに参加したベテランだ。社員には南アフリカ、オーストラリア、英国の特殊部隊経験者が集められた。
提供するサービスも例に漏れず基礎訓練に始まり、班長、小隊長、下士官の育成。狙撃、落下傘降下、舟艇、爆薬の扱い。地雷/IED、Close quarter battle (CQB)など多岐に渡る。
Heritage Oil and Gas IncのA. Buckinghamが資金提供者となっていた。
傭兵と企業化されたPMCの違いは大きい。個人の技量が特殊部隊の猛者だったとしても、組織的な兵站の維持と言ったサービスが提供できる訳ではない。
96年、ザイールのモブツ政権が雇用した時では、臨時編成の傭兵は脆弱さを表した。マイク・ホアー、ボブ・ディナールのような傭兵の時代は終わり、高度な専門知識や支援を提供できる民間軍事会社が注目を浴びるようになる。
PMCが一般的に注目を受けたのはイラクでの不祥事だ。今までは影の存在であったが、「警備員」の範疇を越えた虐殺行為で国際的に規制がかかり、業界の先行きを暗い物にした。
Executive Outcomesの様な攻撃性の強いPMCの存在は現状的に認められにくい。それこそ二次元や想像の産物、中二病な妄想でしか存在できなくなった。
リビア内戦でカダフィ側に徴募された傭兵にしてもPMCとは異なる物で混同してはならない。PMC=軍隊並みの傭兵部隊は創作の世界だけだ。
2004年1月28日、イラクで元Koevoetの隊員フランソワ・ストリドム(François Strydom)が死亡した。KoevoetはRecceの系譜に連なる南西アフリカ警察の対テロ特殊部隊だ。同年3月7日には赤道ギニアクーデター未遂事件が発生し、元EO社のサイモン・マン(Simon Francis Mann)、第32大隊と第5偵察コマンドーの所属だったニック・デュ・トイト(Nicolaas Servaas "Nick" du Toit)ら70名が逮捕された。マンは禁固34年4月ならびに1億CFAフランの罰金を受けたが、2009年11月に恩赦により釈放されて、この事件を自伝として出版した。
2012年7月26日には、アンゴラのソヨでEO第1小隊を指揮したラフラス・ルッティン(Lafras luitingh)が、ソマリアで軍閥の援助をしていると報道された。この様に、南アフリカの亡霊たちは世界にまだ存在している。