第七話 幸せでした
購買を通り過ぎ、裏庭までやってきてようやく、花菜は足を止めた。
「莉紅、大丈夫?」
「………うん。」
顔を上げ微笑む莉紅だが、その笑顔は弱々しく、いつもの明るさはなかった。
「私、最低なこと言ったね。」
玲奈が純粋に自分と千尋の仲を心配してくれていることは莉紅自身、よくわかっていた。
これは、莉紅が招いた結果であり、いつかこうなると覚悟していたつもりだった。それでも、いざ堪えられなくなって、別れて。心の安定を失った。
言ってはいけないことを玲奈に言ってしまった。
「莉紅だけが悪いわけじゃないよ。橘先輩が玲奈先輩を好きなのに莉紅と付き合ったから悪いんだよ。」
自分を励まそうとする優しい友人に莉紅は悲しげな笑顔を向ける。
「違うよ。それも、私が悪いの。」
「莉紅?」
「あの日、先輩は保健室で眠ってたの。」
あれはまだ2年生に進級したばかりの頃。葉桜が綺麗な季節だった。
その頃学校は玲奈に彼氏が出来た話題で持ちきりだった。当時副会長だった玲奈はその頃から既に人気で、いい意味でも悪い意味でも話題の中心だった。そのため玲奈に彼氏が出来たという話はあっという間に校内に広まった。
聞きつけた莉紅は千尋を探しまわり、保健室のベッドで彼を見つけた。
「せ~んぱい。」
「……またお前か。」
瞼を上げた千尋は一度だけ莉紅に視線を向け、すぐに興味なさげにふせられた。いつもならうるさいのが来たとすぐに何処かへ行ってしまうのに、その日の彼にそんな元気はないようだった。
今日だけでなく、玲奈に彼氏が出来たと知ってからは千尋は投げやりだった。
「葉月先輩、彼氏出来たみたいですね。」
莉紅の言葉にぴくり、と千尋が反応する。
「先輩、告らずして振られちゃいましたね。」
「うるさい。」
「葉月先輩の彼氏、どんな人なんですかね。」
「うるさい!」
腕を引かれ、気付いた時には莉紅は千尋に組み敷かれていた。真上にあるのは悲しげに歪む愛しい男の顔。
「好きです。」
「……俺が好きなのはお前じゃない。」
「それでもかまいません。先輩の悲しみも苦しさも私にぶつけてください。一緒に背負うから。……大好きです。」
莉紅が微笑むのと同時に千尋の唇が莉紅に重なった。千尋は本当に悲しみや苦しさをぶつけるように激しく莉紅を抱いた。
その瞳に自分が映っていないとわかっていながらも、次第に深く激しくなっていくキスに、千尋に求められることに、莉紅は幸せを感じていた。
そして、その日から2人は付き合い始めた。
「千尋先輩はね、好きで私と付き合っていたわけじゃないよ。私が、受け入れざるえない状況を作ったの。」
責任感の強い千尋はあの日感情に任せて抱いてしまったことを後悔して、償うように莉紅と付き合いだした。莉紅はこうなることを想定して、千尋に会いに行き、挑発したのだ。
「それでも、先輩の傍にいたかったの。」
汚いと、姑息だと、最低だと罵られたって構わなかった。どんな手を使ってでも千尋が欲しかった。
だから幸せだった。
例え千尋の瞳に自分が映っていなくても、抱かれる間、呼ばれる名前が自分でなく、玲奈であっても、莉紅は幸せだったのだ。
「でも、先輩の心が手に入らなかったら……、なんの意味もないね。」
必死に押しとどめていた涙が溢れだし、莉紅はその場に泣き崩れた。
どんなに傍にいてくれても、抱きしめてくれても、そこに自分への好意がなければなんの意味もない。
「先輩が、私を好きになってくれなきゃ、意味ないよ……。好きに、なってよ……。」
千尋と別れてから初めて泣いた。ずっと押し込めてきた想いを吐きだしながら。
「いーっぱい泣いて、すっきりしちゃった。」
翌日、莉紅は明るい笑顔で登校してきた。たくさん泣いたせいで目元が少々腫れていたが、それでも昨日よりは大分赤みも引いていた。
「ねえ、莉紅。」
「ん?」
「先輩と付き合ったこと、後悔してる?」
花菜の質問に莉紅は目を見開いたが、それはすぐに穏やかな笑みへと変わった。
「それはないよ。」
はっきりと告げられた言葉に今度は花菜が目を見開く。たったひとりの人を想い、微笑む莉紅を花菜は綺麗だと思った。
「私は幸せだった。一時でも、大好きな人の傍にいられたから。」
間違いだらけの恋だった。
たくさん傷ついたし、傷つけた。
つらい思いもしたし、千尋に大切に想われる玲奈を憎いとも思った。
それでも、莉紅は千尋が好きだった。今も変わらずに想えるくらい。
だから、たとえあなたの目に私が映っていなかったとしても、私は幸せだったの。ほんの少しでもあなたの傍にいられたことが、幸せだったの。
次回最終話となります。