第二話 本命
私は、先輩の彼女だけど、先輩に好きになってもらったわけじゃない。偽りの恋人。
「莉紅ちゃん。」
廊下を歩いていたら呼びとめられた。聞き覚えのある声に莉紅の表情が緊張で強張る。
「莉紅?」
隣を歩いていた花菜がその変化に気がつき首を傾げる。花菜の問いかけに答えることはせず、莉紅は深呼吸をし、表情を作る。意を決し、背後の人物に笑顔を向ける。
「こんにちは、葉月先輩。」
「こんにちは、莉紅ちゃん。」
振り返った先にいたのはセミロングの髪を靡かせた綺麗な顔立ちの女生徒だった。1つ上、3年の葉月玲奈。品行方正、容姿端麗、成績優秀の三拍子揃っているうえにこの学校の生徒会長。男女問わず憧れの的とされる人。気さくで分け隔てなく接してくれる彼女は後輩としても好感が持てる。
だが莉紅は、この先輩が苦手だった。
「もう、玲奈でいいのに。」
「いやいや。恐れ多いです。」
冗談交じりにそう言うが、苗字で呼ぶのは莉紅のせめてもの抵抗だった。この人と距離を置きたい。近づきたくない。そんな思いからくるものだった。
「そうだ。莉紅ちゃん、千尋見なかった?」
ドクン。莉紅の心が騒ぐ。何度も落ち着けと自分に言い聞かせる。そして再び作り物の笑顔を顔に張りつける。
「今日はまだ見てないです。何か用事ですか?」
「うん、ちょっと相談にのって欲しくて。」
「じゃあ会ったら葉月先輩が探していたって伝えておきますね。」
「ありがとう。」
礼を言い去って行く玲奈に莉紅は笑顔のまま手を振る。そして彼女の姿が見えなくなった所で緊張の糸が解けたように深々とため息を吐く。そんな莉紅に花菜は一言呟く。
「変。」
「はい?」
いきなり変、と言われ訝しげに隣の花菜の方を向く。
「だって胡散臭いくらい笑顔だった。」
否定できなくて、莉紅は曖昧に微笑む。花菜は納得のいかないような顔をしてこちらを見ていたが気付かないふりをした。
昼休み。莉紅は今日ようやく千尋を発見することが出来た。本当は立ち入り禁止のはずの屋上。実は鍵が壊れているので知っている人ならば誰でも入れる場所。
入口の上が千尋のお気に入りのお昼寝スポット。案の定、千尋はそこですやすやと気持ちよさそうに寝息を立てて眠っていた。莉紅は千尋の傍に腰を下ろし、いつもより幼く見えるその寝顔に愛しさを募らせながら彼の髪にそっと手を伸ばす。
「玲奈……。」
千尋の髪に触れるか触れないかの所で莉紅の手が止まった。
葉月玲奈。品行方正、容姿端麗、成績優秀なみんなの憧れる優等生。そして、千尋の幼なじみ。そして……。
千尋先輩の好きな人。
莉紅は伸ばしていた手を握り締める。
やっぱり、あの人は苦手だ。
心の中でそう呟き、莉紅は苦笑いを浮かべる。
千尋が偽らずに接する数少ない人。彼の大切な人。
けれど玲奈は別の男を選んだ。彼女にとって千尋は幼なじみでしかなかった。それを知っていても尚、玲奈は千尋にとって唯一無二の人。
「ん……、莉紅?」
先ほどまで閉じられていた瞼がゆっくりと上がり、その瞳に莉紅の姿を映す。莉紅は微笑むと不自然に止めたままだった手を伸ばし、千尋の鼻を人差し指で弾いた。
「いっ!」
油断していただけにかなり衝撃だったらしく千尋は飛び起きる。
「あはは、先輩ってば、いい反応!」
「いい度胸だな、莉紅。」
にやり、鼻を押さえながら意地悪く笑った千尋は莉紅の鼻を空いている方の手で摘まむ。
「ふぎゃ!」
「……お前、女子としてその反応はどうよ。」
「ふぇんふぁいのふぇいじゃないへすか(先輩の所為じゃないですか)!」
「仕返しだよ。」
やっと解放された鼻を押さえながら恨めしげに睨めば、千尋は悪戯が成功した子どもの様な無邪気な笑顔を浮かべていた。
その笑顔に胸がきゅう、となって苦しくなる。やはりこの人が好きだと思う。
「先輩。」
「ん?」
「大好きです。」
突然の言葉に千尋は一瞬面食らったが、莉紅がほんのり頬を染め、大切そうにその言葉を紡ぐから、自然と頬が緩み、優しげな笑みを浮かべる。
大好きです。あなたが誰を好きであっても………。