第一話 偽りの関係
あなたは私を抱きしめてくれるけど、キスはしてくれなかった。
あなたは笑ってくれるけど、弱さを見せようとはしてくれない。
あなたは付き合ってくれたけど、ただの一度も…、好きだとは言ってくれなかった。
間違いだらけの恋だったのだと思う。でも、私の想いは間違いじゃないから。だから、たとえあなたの目に私が映っていなかったとしても、私は幸せだったの。ほんの少しでもあなたの傍にいられたことが、幸せだったの。
廊下の窓の向こうに目当ての人を見つけて、有坂莉紅は走りだした。この1年で熟知した校内を駆け回り最短ルートでその人の元まで向かう。
「千尋先輩!」
肩で息をしながら莉紅は大好きな人の名前を呼んだ。呼ばれた人物、橘千尋は物凄く迷惑そうな顔を一瞬して、すぐにそれを笑顔で隠す。
「偶然ですね。」
「……息切れしながらよく言えるな。」
千尋はそう言って莉紅の額を弾いた。正直かなり痛いのだがかまってもらえることが嬉しくて莉紅の顔には笑みが浮かぶ。そんな彼女に千尋は呆れたようなため息をつく。
「そんなに俺が好き?」
「はい。」
少し頬を染め、笑顔で断言する莉紅に千尋は苦笑する。
「ばかだな。」
「いいんです。」
そうして莉紅はいつものように千尋の隣を歩く。
莉紅が1つ上の千尋と付き合い始めてもうすぐ3ヶ月。
付き合いだす前から莉紅は千尋を追いかけていた。そして、今も変わらず千尋を追いかけている。3ヶ月前と変わったことは千尋が莉紅を受け入れていること。千尋はあまり自分の周りに女子を寄せ付けない。付き合う前は莉紅もいつもの張りつけたような笑みでかわされ続けていた。しかし今は、いつもの笑顔以外の表情も莉紅に向けてくれる。笑ってくれるし、怒るし、呆れるし。何でもないような表情だけれど、莉紅には特別で、こうして隣を歩かせてもらえるのだって、以前なら考えられないことだった。
放課後、莉紅は帰ろうとしたところを呼びとめられ、今現在、2,3年生に囲まれていた。2年生の中には同じクラスの女子も混ざっていた。千尋と付き合いだしてから何度目かもわからない呼びだしに莉紅は知らずため息が漏れる。
「あんた、まだ橘くんと付き合ってるわけ?」
毎度毎度同じことを聞かないで欲しいと思いながら莉紅はこれまたいつも通りの返事を返す。
「付き合ってますが?」
「別れなさいよ!」
「何でですか?」
至極当たり前の事を尋ねたはずなのに彼女たちはここぞとばかりに噛みついてくる。
「調子に乗ってんじゃねーよ!」
「釣り合ってると思ってるわけ!?」
そう口ぐちに言われ、さらには肩を押され後ろの壁に背中を打ちつけた。馴れてしまった莉紅は怯むことなく真っ直ぐに彼女たちを見返す。
「じゃあ、あなたたちの誰なら千尋先輩と釣り合うの?」
「………!!」
誰も何も答えない。否、答えられないのだ。だって、彼女たちは千尋に受け入れられなかったのだから。釣り合う、釣り合わないではないのだ。千尋が受け入れるか受け入れないかなのだから。彼女たちにもそれはよくわかっていた。こうして莉紅を呼びだすのは悔しいからだ。
「……によ。何よ!偉そうに!あんただって葉月さんのかわりでしかないくせに!」
その言葉とともに莉紅の頬に衝撃が当たり、頬がじんじんと痛んだ。でも、頬の痛みよりも彼女の言った言葉の方が莉紅には痛かった。
何故今になって彼女の名前が出てくるのか、と。
「何してるんですか!」
凛とした声がその場に響く。やってきた綺麗なロングの髪の人物に莉紅は瞳を瞬かせる。そこにいたのは友達の御坂花菜だったから。
「花菜。何でいるの?」
「そんなことどうでもいいのよ!頬、どうしたの!?」
半狂乱気味の友人に莉紅は瞳を泳がせる。普段温和なだけに怒ると怖いのだ。絶対に後でのこのこ呼びだしに応じたことを怒られるだろうと莉紅は覚悟する。
「よってたかって一人の人間に何してるんですか!?だいたい、莉紅に当たったって何も変わらないでしょう!」
「花菜、落ち着いて。ほら、行こう。」
先輩も混ざっているというのに説教を始める花菜の背中を押す。そして、去り際に莉紅はもう一度彼女たちに向き合った。
「何よ。私は、事実を言っただけなんだから。」
「はい。それでも好きなんです。」
泣きそうな笑顔を浮かべながらもはっきりとそう言う莉紅にもうそれ以上、誰も何も言えなかった。
「莉紅、平気?」
教室で頬に濡れたタオルを当てる莉紅の様子を花菜は心配そうに窺う。そんな彼女に大丈夫だと、微笑んで見せる。
「にしても、毎回毎回呼びだしに応じるのやめなよね。」
「あはは。」
花菜の説教を笑って誤魔化していたら、どたどたと廊下を走る音が聞こえた。そしてそれは莉紅たちの教室の前で止まった。
「莉紅!」
現れた人物に莉紅は驚きに目を瞬かせる。
「千尋先輩?」
珍しく息を切らし、慌てた様子の千尋に莉紅はただただ驚くばかりだ。
「さっき橘先輩にメールしたの。莉紅が頬を叩かれましたって。走って来てくれたんだね。愛されてるね、莉紅。」
にやにやと含みのある笑みを浮かべる花菜に莉紅は照れたような、困ったような笑みを浮かべる。
違うんだよ、花菜。
心の中でそう呟く。しかし表ではありがとう、と花菜に礼を言い、心配そうにしている千尋の傍に寄る。
「頬、痛い?」
「大丈夫です。女の力だからたいしたことないですよ。」
そう言って微笑めば、千尋は少し安心したようで優しく微笑んでくれた。その笑顔が何よりも愛しくて、失いたくなくて、縋りつくように千尋の手を掴んだ。
「どうした?」
「帰りましょう、千尋先輩。」
笑顔を向ければ、千尋は頷き、手を握り返してくれた。花菜に別れを告げ、2人で学校を後にした。他愛もない話をして、莉紅の話に千尋が屈託なく笑ってくれる。この時間が、愛しい。
『愛されてるね、莉紅。』
違うんだよ、花菜。私は、愛されてなんかない。
本当は、愛しいこの時間全てが、偽りなんだよ。