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さくらのしきさい

 私がその女と出会ったのは横浜の新山下だった。海を望む大きなクラブには無理な若作りを化粧で誤魔化した女や慣れない化粧で背伸びしたガキどもが集っていた。ズボンの裾を震わせるほどのウーハーが脳天にまで響いていた。何が楽しくてこんな場所に人が集まるのかさっぱりわからなかった。

商売女に手をつけて一緒に逃亡した男を追って私はこの街にやって来た。その頓馬な男が逃げ込んだ先がこの騒々しいクラブだった。女のケツを追っかけているような男を探しだすのは簡単だ。男に簡単に口説かれる女を探すのも同じだった。

「おい、お前自分が何をしたかわかってんだろうな。こっちは客に謝罪のしっぱなしなんだぜ。無事に済むと思ったら大間違いなんだよ」私は店内で踊り狂っていた頓馬を店の外に連れ出した。

「勘弁して下さいよ。長尾さん。本気で惚れちまったんだよ。どうにもならねぇじゃねぇか」頓馬男は泣きながら謝罪した。

「お前が惚れた女は連れて帰るぜ」私はジャケットのポケットからナイフを取り出してその刃先を頓馬に向けた。頓馬は土下座して何度も頭を下げた。

「お前の事情に興味はねぇんだ。命がけの恋で幕を閉じるなんざ、てめぇには出来過ぎた人生だぜ」私は殺意をちらつかせた。本気で殺す気はなかった。しかしこの手の輩には恐怖が一番効果的な薬だった。少々痛めつけて死の恐怖に直面すればナメた真似をしなくなることを私は知っていた。

「おい!そこのノッポ。物騒なモノを人に向けるな」私の後方から女の声が聞こえた。振り返ると化粧もせずヨレヨレのTシャツにオーバーオールを身に付けた女が立っていた。

「かずちゃん、大丈夫」その女は頓馬に駆けよると私と頓馬の間に立ち塞がった。

「おい、姉ちゃん、怪我したくなかったらとっとと帰りな、とか言うんだろう!」その女は私のセリフを私が言う前に口にした。私は絶句した。

「弱い者いじめは許さないぞ!」その女は私に向かって言いたいことを言った。

「いい度胸してるじゃねぇか」私はナイフを仕舞った。女に刃物を向ける趣味はない。

「かずちゃんは今一生懸命働いているんだぞ。不始末はお金で解決してあげなよ」その女は面白い提案をした。

「いいだろう。証文はいただくぜ」私が言うとその女は頓馬を立ち上がらせて「今から証文作ろうよ」と言いだした。

「だったら静かな場所を教えてくれねぇか」私は意識して穏やかに言った。

「いいよ」その女は頓馬を伴って元町に向かって歩き出した。その女が案内した店は老夫婦が営むカフェだった。客は私たち以外誰もいなかった。

「おばちゃん、コーヒーみっつ」女は勝手に注文をした。

「どんな証文を作るの?」女は私に聞いた。

「その前に金額を決めねぇとな」私が言うとその女は「百万!」と言った。

「そんなに払えるのかい?」

「月々五万で二十回払い」女は頓馬の了解も得ずに勝手に話しを進めた。

「そんなに待てねぇな」

「だったら十万で十回払い」

「あのなぁ、一回で払ってもらいてぇんだよ」私が言うと「だったら五十万円」とその女が言った。

「その男がそんな現金持っているのかよ」私が聞くとその女は「明日払うからそれでいいでしょ」と言った。

「本気かよ?」私は半信半疑で聞いた。

「本気だぞ」その女は私を真っ直ぐ見て言った。なかなか肝っ玉の据わった姉ちゃんだ。

「明日さっきのクラブに来てよ。夜の八時なら来れるでしょ」そう言うとその女は頓馬を連れて店を出ていった。女のペースに呑まれて私は三人分のコーヒー代を支払った。

 翌日の八時にクラブに足を運ぶとみすぼらしいスーツを着た頓馬が待っていた。

「すいません。長尾さん。これで勘弁してください」頓馬は封筒を差し出した。

「あぁ、これでいいぜ。もう街には帰って来るなよ」私はそれだけ言うと封筒の中身を見た。五十万千五百円入っていた。前日のコーヒー代も込みだったのだ。私はクラブの駐車場に停めたポルシェに戻った。そこにあの女がいた。

「これってあなたの車?」女は私に聞いた。

「あぁ」

「かっこいいね。今描いていたんだ」女は前日同様の冴えない恰好をしていた。

「こいつを描いたのかい?」私はその女に聞いた。女はスケッチブックに描いたポルシェを見せた。

「おい、この車はこんな色じゃねぇぜ」私は女に言った。

「この色がいいんだよ。おじさんに黒は似合わないよ」

「おじさんじゃねぇ」

「何さん?」

「長尾だ」

「長尾さんにはこの色が似合うよ!」その女は描いた絵を私に差し出した。

「あげるよ。かずちゃんを許してくれてありがとう。お礼だよ」女が言った。

「この金はお前があいつに貸したんだろう」私は頓馬から受け取った封筒を見せて女に聞いた。

「インドに行くのがちょっと遅くなるかな」女は海を見ていた。

「夜の海は照明を反射するのに同じ形のままではいないんだよね。描きづらいな」女は独り言を言った。

「海が好きなのか?」

「海は青空の下がいいよね。南太平洋が見たいなぁ」

「インドじゃインド洋しか見えねぇぜ」

「でもインドには大きな川があるからね。見た事がない色だよ」女の笑顔が弾けた。

「どんな色なんだい?」

「見ないとわからないなぁ」

「なんでポルシェをこの色にしたんだ?」

「似合うでしょ、この色。さくらいろ」

「女々しいぜ」

「そんなことないよ。帰ったら塗り直してネ」

「気が向いたらな」

「お前、名前なんていうんだ?」

「さくら、佐倉響子!」女は私に手を振ると走り去って行った。


 おしまい

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み始めてすぐ、自然に作品の世界にはいりこんでしまいました。 読者を一瞬にして物語に惹き付ける力がある作品です。 描写力があるからでしょうか? 主人公、ヒロイン共にキャラクターも魅力的です…
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