三話
何も見えない暗闇の中、必死に逃げる自分がいた。
真っ暗で周りも何も見えない。ただ、自分を追いかける足音だけが聞こえる。
なぜ自分を追いかけるのか、なぜその足音から必死に逃げているのかも分からないままただ逃げていた。
捕まったら殺される。
ただその恐怖に逃げ回る。
何も見えない黒の世界で、どこに逃げたらいいかもわからない世界で、ただ必死に走った。
足音は着実に近づいてくる。
どんどん大きくなる足音を耳に入れながら、後ろを振り返り、また前を向いて必死に走るその時、足がもつれ転び倒れた。
しまったと焦るが、もう遅い。
足音はもうすぐそこに来ている。
恐怖に震えながらも後ろを見ると、そこにはあの男が立っていた。
血が付いた包丁を高々と掲げ、下卑たる笑みを浮かべている。
頭をつかまれ、恐怖もあって抵抗ができない。
男は包丁を振り下ろした――
「あ……!!……あ……」
――夢
その事実に安堵のため息が出た。
だが、自分が今寝ている場所にまた恐怖心が舞い戻る。
あの時、殺されかけた部屋。
あの時は暗くてよく見えなかったが、今自分が寝ているこの寝台は間違いなく男に追い詰められた場所だった。
「いった……!!」
慌てて起き上がろうとした瞬間、体中に激痛が走りうめき声が漏れた。
体中痛みが走るが、何より背中が痛い。
恐る恐る背中を触ると、包帯が巻いてあり血はもう止まっているようだった。
背中だけではない。首も腕も刺された場所は全て包帯が巻いてあり、手当された形跡があった。
着ている服も、袴は無く肌着を一枚着ているだけだ。
いったい誰が手当をしてくれたのかと考え、思い当たるのはあの青年。
月明かりに照らされ、あまりにも美しい青銀髪をしたあの冷ややかな表情を持つ青年。
「助けてもらっただけじゃなく、手当までしてもらったのか……」
お礼を言わなければと起き上がろうとするが、体を動かそうとすると激痛に遮られる。
どうやら、寝台から自力で出ることはできないようだ。
ふぅとため息を漏らし、視線を窓へ移した。
いったい今は何時だろうと、劣化したカーテンの隙間から除く光を眺めた。
外の様子はわからないが、光や影からおそらく夕方近くだろうと推測できる。
大きな窓から反対側に目をやると、男から逃げ込んできた扉が視界に入った。
扉には見慣れない彫刻が施され、ドアノブにも装飾が施されていた。
異国の模様だろう。なじみのある雪見障子や欄間、陶器、掛け軸とどれともまったく違った細工がドアだけでなく天井や壁にも施されていた。
これに近い建物を学校の教科書で見たことがあった気がした。
先生がこれからどんどん異国の文化が日本へ入ってくると、そう言っていたのを思い出す。
これが異国の建物かと部屋中眺めていると、カーテンの隙間から差し込んでいた光が徐々に暗くなっていった。
「まずいな……もうすぐ夜か」
光が無音のまま消えていくのを眺めていると、扉の外から声が聞こえてきた。
「知るか!ルシファーが勝手に言っていることだろ。俺が知るかよ」
この声はあの時の青年の声。
殺されかけたあの時もそうだったが、内容とは裏腹に声に感情を感じない。
「そうは言ってもあの娘、殺さずそのまま帰す気ですか?あなたはお忘れでしょうが人間などあっという間にここのことを喋りますよ。あの男のように私に始末させてください。食事にしましょう」
あの青年の声ではない、別の声もする。
話し方とは裏腹に、声は幼い。
「やめろ。人間は食べる気にならねぇんだ。この前もそうだったろ。お前が殺した男何度口に運ぼうとしても気分が乗らなかった。それに」
「ルシファー様は大変心配なさっておられます。ロードは眠りに着く前からずっと人間を断っておられる。寿命に影響するのではないかと。恐れながら、私も」
唐突に壁を叩く音が響いた。
一瞬の沈黙後、口を開いたのは青年だった。
「メイ。お前はどちらに仕えてんだ?ルシファーか。それとも――」
「申し訳ございません。マイロード。ですが、ロードはあの人間を気にかけていらしゃる」
あの人間とは自分のことだろうか。
ロードと呼ばれる青年とメイと呼ばれる幼い声。話し声はどんどん近くなり、部屋の近く前来ていた。
「手当まで私にさせて、いったい何をお考えなのです?」
もはやドアの隙間から二人の姿がちらりと見える距離に来ていた。
「さぁな。ただもう人間の女を殺す気になれなかっただけだ」
「ロード……」
「安心しろよ。ルシファーには俺から連絡入れとくから」
そう言いながら、扉が開いた。
「お?なんだ目が覚めてたのか」
扉から入ってきた青年と視線が合った。
既に薄暗くなっていた部屋に、最近になって開発された電気を利用した明かりを点けてもらい、青年の顔を見つめる。
あの暗闇の中での印象は間違いないようで、表情はやはり冷ややかなものだった。
だが、異国の人なのだろう。
髪の色も、瞳の色も、肌の色も日本人のそれとは違っていた。
肌の色は限りなく白に近く、瞳の色は薄く青い。髪の色は白色で少し長めにふわふわとしている。
「よぉ。気分はどうだ?勝手に俺の住処で死にかけやがって。おら。傷口見せてみろ」
青年はどかどかと寝台に近づいてきた。
そのそばには想像したような幼い子供の姿はなく、青年は一人のようだ。
青年は寝台まで近寄ると、乱暴に腕を引き起き上がらせた。
背中に走る激痛に思わず、顔をしかめ、軽い悲鳴が上がった。
「ロード。あまり乱暴に扱うと傷口が開いて血が出ますよ。人間はもろいんですから」
どこから声が出ているのか、幼い声が青年から聞こえてくる。
青年はそんな幼い声を気に掛ける様子もなく。腕を引いた格好のままじっと痛みに耐える姿を見詰めている。
「ロード。どうしました?」
また、どこからか声がした。
「あうっ!痛いやめて……!!」
唐突に青年が激痛の走る背中に爪を立て、傷口をえぐるようにする。
あまりの痛みに、えぐられるたび悲鳴を上げた。
「やめて!やめて痛い!!」
痛い痛いと悲鳴を上げるが、青年はやめるどころか、口元が笑んでいるように見える。
ぐりりと今までで一番きつくえぐると、悲痛な悲鳴が上がった。
はぁはぁと息が上がり、布団にうずくまっていると、傷口が開いたのだろう。
青年は血の付いた自分の右腕をしばらく眺め、恐怖に体が震える女に目をやりながらその右腕に着いた血をねっとりと舐め取った。
そのしぐさが終わる前に、青年の髪がふわりと動き、隙間から黒いものがパタパタと飛び立った。
素早くその黒いものをつかむとただでさえ冷ややかな顔に、さらに冷たい表情を貼り付けにやりと笑う。
「メイ。知ってたな?」
ぎりぎりと黒いものを追い詰めるようにする。
その黒いものからあの幼い声が聞こえてきた。
「ロード!お許しを!ルシファー様が……」
「ルシファーのいうことを真に受けるな馬鹿が!お前のロードは俺だろうが!」
きゅぅと泣くとメイは黒い羽根をパタパタと自分を掴む青年の手を叩く。
「お許しください。お許しください」
「いいか。二度と裏切るマネは許さんからな」
青年が手を放すと、メイはパタパタと布団にうずくまっている女の背中に回った。
傷口を見詰め、包帯を取り換えにかかる。
「おい。女」
呼ばれてびくびくと青年の方に視線を移した。
「お前名前は?」
唐突に名前を聞かれ戸惑う。
「俺はシファカ。あいつはメイ。俺に仕えている」
急な自己紹介に戸惑いを隠せない。
メイが包帯を取り換えているのを手伝いながら、シファカに戸惑いの視線を送る。
「さっきは痛い思いさせて悪かったな。確認したいことがあったもんで」
「……確認したいこと?」
やっと言葉を発することができた。
そのたった一言がうれしかったのか、シファカは目じりを軽く下げながら言葉をつづけた。
「そう。メイを見ればわかると思うが、俺たちは人間じゃねぇ。前目覚めたときはモンスターとかって呼ばれてた。ここではなんていうんだろうな?メイ」
「ロード。こちらでは妖怪、もしくは化け物と」
その単語にびくっと体が震える。
「俺たちは、人間の恐怖が大好物だ。お前たちの悲鳴で目を覚ます。ただ、俺はちょっと変わっててな」
メイがパタパタと首へ飛んできた。
メイは小さな人間に黒い翼が生えたような姿をしている。
小さい体で包帯を交換する姿は何やらほほえましくさえ見える。
「俺は、目覚めるたび記憶を失う。だが、記憶を失う代わりに次目覚める時は俺が決めた奴が生まれ変わり、生まれ変わりの悲鳴で目覚めるようになってるんだ」
「決まった奴……?」
そう。とシファカは女の顔を覗き込む。
「今回はお前だった」
目を見張るようなセリフにぎょっとした。
「お前の悲鳴で目が覚めた。それが証拠だ」
メイが包帯をすべて取り換え終わったのを確認すると、シファカは軽く指を鳴らす。
目の前に机が現れ、その上に見たことのない食べ物が並べられた。
「食え。3日前から何も食ってないんだ。詳しい話はその後しよう。メイ行くぞ」
急に目の前に現れた見たことのない食べ物も出され、混乱はピークに達していた。
シファカは扉の前で、いったん動きを止めると振り返った。
「お前、ここではどんな名前を貰ったんだ?」
その質問が、名前を聞かれているのだと気が付き、混乱していたせいもあってか一瞬真があいた。
「……私の名前だったら、秋路。小禅師秋路」
「どういう意味だ?」
「秋のその落ち葉に満ちた道のように、暖かな人になれと」
そうか。とつぶやくとシファカ部屋を出て行った。
シファカ達がいなくなった部屋で、見たことのない食事を前に秋路は一人混乱を極めたいた。
いったい何がどうなっているのか。
とりあえず、頭を整理しようと目をつむる。
「えーと……まず?命を助けてもらって」
そうだ。包丁を持ったあの男から助けてもらった。
「治療をしてもらって……包帯を交換してくれて」
そして急に傷口をえぐられた。
秋路の悲鳴を聞いて、冷徹な笑顔をのぞかせていた。
「……妖怪って言って、私の悲鳴で目を覚ました」
そう言っていた。聞き間違いでなければ、秋路の悲鳴で目が覚めるようになっていると。
考えても秋路には理解ができなかった。
ふと腹の虫が鳴いた。
目の前には見たことはないが、惜しそうな香りがする料理が置いてある。
「……まぁ……とりあえず食べてから考えよう」
箸が見当たらず、見たことのない銀製のお玉のような形をしたものと、何やら鋭い形をしたもの、隙間がところどころにあいており、汁物をすくうことはできなさそうなものの三種類が置かれている。
どうやらこれを使って食べるようだが、よくわからず、またしばらく呆然と眺める羽目になった。