二話
間一髪で避けたが、腕を切られた。
このままでは殺される。
そう確信し、激痛にうめき声をあげながらも切られた右腕をかばい起き上がる。
「おぎゃーおぎゃー」
聞き間違いだろうか。赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
一瞬動きが止まり、また男に首を軽く切られ悲鳴を上げる。
「おぎゃーおぎゃー」
今度ははっきりと聞こえた。
男も赤ちゃんの泣き声が聞こえたのだろう。動きが止まる。
男の動きが止まったことを横目で確認すると、泣き声に導かれるように門へ走った。
門に手をかけると同時に男に髪をつかまれた。
また、悲鳴が上がった。
怖い。
殺される。
あまりの恐怖に体すべてが震えた。
男に首をつかまれ、振りかざした包丁が月明かりに照らされ自分の血液が付いた刃が妖艶に輝いた。
殺される!
そう恐怖に目をつむった瞬間、門が開き男もろとも煉瓦の建物の建つ敷地内へ転がり込んだ。
足をくじいたのだろう。男は右足首を両手で押さえうめき声をあげている。
――逃げなきゃ!
痛みに耐え、起き上がると目の前に玄関が見えた。
その玄関が自然と開く。
「おぎゃーおぎゃー」
煉瓦の建物から聞こえるのは気のせいではないようだった。
ここから入れ。
こちらに来い。
そう、言われているような気がした。
敷地の外ではなく建物の中へ逃げ込むため、必死に体を動かした。
玄関から中へ入ると背後で男が立つ気配がした。
後ろを振り向くと、逆上した男がこちらをにらんでいる。
既に多量の血を流し、弱り切っている体を叱咤激励しながら目の前の大広間の階段を上った。
男の負傷した足のおかげで、追ってくるスピードは先ほどの比ではない。
どこか、隠れるところを探しながら2階の廊下を歩く。
どの部屋の扉も隙間が空いていたが、暗闇で中がどうなっているのか用として知れない。
男が階段を上る息遣いが近づくのを感じ、適当な部屋へ転がり込んだ。
大きな窓があり、カーテンの劣化が激しく外の月明かりがうっすら入り込んでいた。
寝室のようで、部屋の中央に大きな洋風の寝台が置かれている。
寝台は高さもあり、自分を隠してくれそうだった。
弱り切った体を引きづりながら、寝台の部屋の入り口から影になる位置へ体を収めた。
絶え絶えの息を整えつつ、男が通り過ぎるのを静かに待つ。
かつかつと男の足音。
一部屋一部屋扉を開ける音がする。
はぁはぁと男の息遣い。
一歩一歩こちらへ近づいてくるのがわかる。
また一歩。
また一歩近づいてくる。
自分の隠れている部屋の近くで足音が止まる。
しばらく何の音も、息遣いも聞こえてこなかった。
「行ったのか……?」
気が緩んだのを見計らったかのように、横から腕が伸び首を絞められた。
急な出来事に必死にもがいた。
「馬鹿か!血の跡が一直線にこの部屋に入ってんだよ!なめたまねしやがって!」
片腕につかまれた首を今ある力で振りほどこうとするが、力はもはやなく。
かすむ目で男を見た。
男は、逆上し醜く顔が歪んでいる。
手に持った包丁の切っ先は眉間に一直線だ。
いやだ!
いやだ!死にたくない!
「つまんねぇ仕事させやがって!俺を恨むなよ。恨みを買った自分を恨めよ!」
男は皮肉な笑みを浮かべると包丁を振り下ろした。
――いやだ!助けて!誰か!
誰か助けて!!
だれか――!!
「っつあ!!」
鈍い、何か叩きつける音が響いた。
「何やってんだ?俺の住処で」
男は目を白黒させている。
部屋の中央に置いてあった大きな洋式の寝台から、細見の青年が現れ男を殴り倒したのだ。
青年は寝台の上から、倒れた男を見下ろしているようだ。
部屋が暗く、表情はうかがい知れない。
男は恐怖し、悲鳴を上げながら部屋を出て行った。
青年は男が出て行った扉を見詰めながら、静かに指を鳴らす。
指を鳴らしてすぐに、遠くで男の叫び声が聞こえたような気がした。
男の叫び声が途絶えた後、首を絞められ、今まさに殺されかけていた自分に青年の目が向けられた。
こみ上げてくる咳に抵抗できず、しばらく急き込んでいると青年は寝台の上で静かにしゃがみこんで顔を覗き込んできた。
劣化したカーテンの隙間から、雲から出た満月の光が部屋を照らし、二人の顔をも照らす。
青年はまるで天使のように美しい顔をしていた。だが表情は冷たく感情が感じられない。
月明かりに照らされた頭は、青銀髪に輝き月そのもののように輝いていた。
思わず、顔よりも髪の色に心奪われた。
自分が青年の髪色に心奪われるように、青年にも何か思うところがあったのだろう。
自分の顔をじっと見つめ、表情一つ変えずに目を見ている。
助けてもらったお礼を言わなければと、口を動かそうとする。
だが、うまく動かない。
どうしたものかと青年の顔を見ると、先ほどより黒くかすんでみえる。
これはまずいと思いつつも、そのまま気を失ってしまった。
青年は、倒れた人の顔を見つめながら話しかける。
「おい。ここは俺の住処だ。こんなところで寝るなよ」
だが、返答は無く。
「おい!起きろ!ここで寝るな!死ぬなら外にしろ」
もはやピクリとも動かない。
「……しかたねぇな。外に捨てるか」
腕を掴み自分のほうへ寄せると、ぐったりと力の抜けた体がだらりとする。
そんまま引きずると、軽くうめき声が上がった。
「なんだよ?まだ生きてるのか?」
しかし返答はない。
仕方なく、背中を支え頬を叩いてみる。
反応は無い。
背中を支えていた手のひらに生暖かいものが付いた。
見てみればそれは赤い血液。
よく見ると体中に傷があり、首にも切り傷が見られた。
すっかり青白くなった顔に、引っかかるものがある。
「しかたない。今回だけだ人間を助けるのは」
重力を感じさせない動きで抱き上げ、部屋中央の洋式の寝台へ寝かせる。
「なんか前にもこんなことがあったような気がするな。あの時も人間の女だった気がする――なんかよく覚えてないけど」
寝台に寝かせた女の前髪を軽く撫でて、窓に目をやった。
「さて、いったい何年たったことやら今回は」
窓の外では満月が輝き草木は眠っている。
まだ、そんな時間に目覚めてはいけないものが目覚めてしまった。