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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと忙しすぎたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/03

「エルヴィーナ・ラディアス。君との婚約を、今日この場で破棄する!」


 王太子殿下の声が、大広間に響いた。

 夜会の楽団が音を止める。

 貴族たちが息を呑む。


 殿下の隣では、白いドレスをまとった聖女ファゼル様が、不安そうに胸の前で手を組んでいた。


 なるほど。

 今日は婚約破棄の日だったらしい。


 わたくしは、一度だけ瞬きをした。


 王宮南棟の雨漏り修繕見積もり。

 北部孤児院への冬越し用薪の追加手配。

 隣国使節団の晩餐会席次。

 聖女様歓迎式典の花代超過分。

 殿下の明後日の演説原稿。

 王妃教育の復習課題。

 東部橋梁の補修予算。

 それから、殿下が昨日また失言なさった件の訂正文案。


 今日中に確認すべきことは、少なくとも8件あった。


 そのうち1件が、いま目の前で増えた。


「承知いたしました」


 わたくしがそう答えると、大広間は奇妙なほど静かになった。


 殿下が眉をひそめる。


「……何?」


「婚約破棄、承知いたしました」


「いや、そうではなく」


 そうではない、と言われても困る。

 殿下は、確かに婚約を破棄するとおっしゃった。

 ならば、わたくしはそれを受け取るしかない。


「エルヴィーナ。君は、ファゼルを長く苦しめてきた。彼女が聖女として選ばれたことに嫉妬し、私が彼女を気にかけたことに腹を立て、陰で嫌がらせを繰り返した」


 聖女ファゼル様が、びくりと肩を震わせた。


 わたくしは彼女を見た。

 嫌がらせ。

 何かしただろうか。


 少なくとも、ここ1か月は覚えがない。

 ここ1か月、わたくしは朝から晩まで王宮内の予定調整をしていた。


 殿下が聖女様との面会を増やすたび、予定表はぐちゃぐちゃになった。

 王妃様は「未来の王太子妃なら調整も学びです」とおっしゃり、殿下は「細かいことは君の方が得意だろう」とおっしゃった。


 だから、わたくしが調整した。

 聖女様の祈祷時間。

 殿下の視察予定。

 神殿側の来訪時刻。

 王妃様のお茶会。

 貴族令嬢たちへの説明。

 記録官の配置。

 衣装係の手配。

 聖女様が緊張で泣き出した日の予定変更。

 殿下が勝手に彼女を庭園へ連れ出した日の後始末。


 嫌がらせをする時間があるなら、わたくしは寝たかった。


「何か申し開きはないのか」


 殿下が言った。


 わたくしは少し考えた。


 申し開き。


 嫉妬していません。

 嫌がらせもしていません。

 証拠をご提示ください。


 そのように言うべきなのだろう。


 けれど、言葉がなかなか出てこなかった。


 喉が乾いている。

 頭の奥がぼんやりしている。

 今朝は何を食べただろう。

 食べた気はする。

 けれど、味を思い出せない。


「ございません」


 わたくしが答えると、殿下の顔に勝ち誇ったような色が浮かんだ。


「認めるのだな」


「いえ」


「では、なぜ何も言わない」


「忙しいので」


 大広間が、ざわめいた。


 殿下の目が見開かれる。


「忙しい?」


「はい」


「この場で、婚約破棄を告げられているのだぞ」


「存じております」


「それで、忙しい?」


「はい」


 わたくしは抱えていた革鞄を、近くの机に置いた。

 どさり、と重い音がした。


 貴族令嬢の誰かが小さく悲鳴を上げる。


 中に入っているのは、恋文でも、呪具でも、嫌がらせの証拠品でもない。


 未決裁書類である。


「婚約破棄に伴い、引き継ぎが必要です。殿下の署名が必要なものが12件、王宮側で確認していただきたいものが27件、至急対応が必要なものが6件ございます」


「待て。今、何の話をしている」


「婚約破棄後の業務引き継ぎです」


「業務?」


 殿下は、心底理解できないという顔をした。


 その隣で、聖女様も同じ顔をしている。


「まず、聖女様歓迎式典の花代が予定額を超過しております。追加支出の承認者は、今後、殿下へ変更いたします。それから、神殿側との連絡窓口ですが、わたくしは婚約者ではなくなりますので、王宮礼典局へお戻しください。殿下の演説原稿につきましては、明後日が本番です。修正途中ですので、残りは殿下ご自身で」


「そんなもの、今でなくていい!」


「今日中でなければ困るものから順に申し上げています」


「君は、少しも傷ついていないのか」


 殿下が苛立った声で言った。


 傷つく。


 わたくしは、その言葉を頭の中で繰り返した。


 傷つく。


 そうか。

 たぶん、傷つく場面なのだ。


 長年の婚約者から、公衆の面前で婚約破棄を告げられた。

 聖女様への嫌がらせを断罪された。

 貴族たちの前で、悪役令嬢として扱われた。


 ならば、普通は傷つくのだろう。


 泣くのかもしれない。

 怒るのかもしれない。

 殿下へすがるのかもしれない。


 けれど、胸の奥はとても静かだった。


 何も湧いてこない。


 悲しみも、怒りも、恥も、驚きも。


 ただ、眠かった。


「申し訳ございません」


 わたくしは言った。


「そこまで手が回りません」


 今度こそ、大広間は完全に静まり返った。


 王妃様が席から立ち上がる。


「エルヴィーナ。あなた、自分が何を言っているのか分かっているのですか」


「はい。おそらく」


「おそらく?」


「最近、少し記憶が曖昧で」


 そう答えると、王妃様の眉間に深い皺が寄った。


 殿下は顔を赤くしている。


 聖女様は、泣きそうな顔でこちらを見ていた。


「私のせいで、そんなにお苦しみだったのですね」


 聖女様が言った。


「わたくしが至らないばかりに、エルヴィーナ様に嫌な思いをさせてしまって」


 その言葉を聞いて、わたくしは少し首を傾げた。


 苦しい。


 嫌な思い。


 たしかに、最近は苦しかった。


 でも、それは聖女様のせいだろうか。


 聖女様が殿下と会う。

 殿下が予定を変える。

 王妃様が調整を命じる。

 礼典局が判断をこちらへ回す。

 神殿が回答を求める。

 貴族たちが噂をする。

 侍女たちが確認を待つ。

 殿下が「君ならできるだろう」と言う。


 聖女様は、その中心にいただけだ。


 彼女が悪いというより、全員が少しずつ、わたくしの机の上にものを置いていった。


 そして、誰も持ち帰らなかった。


「いいえ」


 わたくしは答えた。


「聖女様だけのせいではございません」


 聖女様の顔がぱっと明るくなった。


 殿下も少し安堵したように息を吐く。


「エルヴィーナ、ようやく分かってくれたか。ファゼルは悪くない。彼女はただ純粋で――」


「はい」


 わたくしは頷いた。


「皆様のせいです」


 殿下の口が止まった。


 王妃様の表情が凍る。


「殿下。王妃様。礼典局。神殿。財務官。記録官。侍従長。貴族院。聖女様。わたくし自身も含めて、皆様のせいです」


「君は何を」


「わたくしは、悪役令嬢になったのではありません」


 言葉にしてみると、不思議とすんなり出た。


「ずっと……、忙しすぎたのです」


 その直後、わたくしは倒れた。


 正確には、断罪の場から退出し、控室へ向かう廊下の途中で膝が抜けた。


 侍女のリーナが支えてくれなければ、顔から床に落ちていただろう。


 王宮医師が呼ばれた。

 王妃様も来た。

 殿下も来たらしい。

 聖女様は泣いていたと聞いた。


 けれど、わたくしはほとんど覚えていない。


 覚えているのは、医師がわたくしの手首を取ったこと。


 脈を測る指が、途中でぴたりと止まったこと。


 そして、低い声で言ったことだけだ。


「これは、休ませなければなりません」


 後からリーナに聞いたところによれば、医師はその後、王妃様へこう申し上げたらしい。


「重度の過労と睡眠不足です。少なくとも2週間、王宮から完全に離してください」


「それほど悪いのですか」


「この方は王宮職員ではないはずです」


 医師は、そう言ったという。


「王太子殿下の婚約者であって、王宮職員ではございません。礼典局、財務官、侍従長、神殿連絡役。それぞれ担当者がいるはずです。なぜ、担当部署のある仕事をここまで抱えておられたのですか」


 王妃様は「未来の王太子妃として、実務を学ばせていたのです」と答えたらしい。


 すると医師は、一礼して言ったという。


「学びと実務代行は違います。いま必要なのは、謝罪でも説明でもなく、睡眠です」



 その翌朝、わたくしは王都を離れた。


 行き先は、ラディアス公爵家が所有する西海岸の保養地である。

 温暖な気候と白い砂浜で知られており、貴族たちは夏の社交に使う。


 わたくしは、寝るために使った。


 保養地に着いた初日、わたくしは靴を脱ぐ前に眠った。


 リーナが慌てて支えてくれたらしいが、記憶にない。


 次に目を覚ました時、窓の外では波の音がしていた。


 白い薄布のカーテンが、風でゆっくり膨らんでいる。


「お嬢様、お食事になさいますか」


「……今、何時?」


「翌日の昼を少し過ぎたところでございます」


「翌日」


「はい。昨日の午後にご到着になってから、ほとんどお休みでした」


 なるほど。


 一晩と、午前が消えたらしい。


 わたくしは少し考えた。


 王宮なら、この時点で4件ほど予定が詰まっていた。


 朝の謁見記録。

 殿下の午後の面会調整。

 孤児院基金の確認。

 晩餐会の席順。


 いいえ、4件では済まない。


 たぶん、7件ある。


 けれど、ここには何もない。


 誰も来ない。


 誰も呼ばない。


 誰も、わたくしに何かを決めさせない。


「スープだけ」


「はい」


「それを飲んだら、また寝るわ」


 リーナが、少しだけ泣きそうな顔をした。


 わたくしは不思議に思った。


 泣くようなことではない。


 わたくしはようやく、眠れるだけなのだから。



 2週間、眠った。


 最初の3日は、食事と湯浴みの記憶すら曖昧だった。

 4日目に、窓の外の海を見た。

 5日目に、温かいパンを一つ食べきった。

 7日目に、リーナから「今日は顔色がよろしいです」と言われた。

 10日目に、庭を歩いた。

 12日目に、王都から届いた手紙の封蝋を見ても、胸が詰まらなかった。

 14日目の朝、わたくしは自分で髪を梳いた。


 鏡の中にいたのは、婚約破棄された女ではなかった。


 少し眠った、公爵令嬢だった。


「王都からのお手紙です」


 朝食後、リーナが銀盆に手紙を載せてきた。


 封蝋は三つ。


 王家。

 王妃様。

 王太子殿下。


 わたくしは紅茶を一口飲んだ。

 熱いうちに飲めた。

 その事実に、少し驚いた。


「燃やして」


「お嬢様」


「では、机に置いて。後で見るわ」


「後でとは」


「3日後くらい」


「王家からでございます」


「ええ」


 少し前までなら、わたくしはその紋章を見るだけで起き上がった。


 髪を整え、服を替え、返事の文面を頭の中で組み立てていた。


 けれど今は、紅茶が温かい。

 焼いたパンに蜂蜜が染みている。

 窓の外で鳥が鳴いている。


 王家の紋章より、朝食の方が大事だった。


「お嬢様」


「なに」


「少し、お顔の色が戻られました」


「そう」


「はい」


「では、もう少し食べるわ」


 リーナは今度こそ泣いた。


 わたくしは、焼いたパンを半分食べた。


 そして、その後また寝た。


 眠ることには、少し練習が必要だった。


 最初のうちは、目を閉じても頭の中で予定表が動いた。


 明日の茶会。

 明後日の会議。

 殿下の移動。

 聖女様の面会。

 王妃様への報告。

 署名。訂正。確認。至急。本日中に。今すぐ。


 眠っている間も、誰かに呼ばれる気がした。


 けれど、何度目かの朝、気づいた。


 呼ばれない。

 誰も来ない。

 呼ばれても、起きなくていい。


 わたくしは初めて、枕に顔を埋めて笑った。


 冷害の冬の話は、幼い頃から何度も聞いていた。



 27年前。


 ラディアス領の麦が枯れた年。

 貯蔵庫を開けても、冬越しには足りなかった年。

 全領民の4割が飢えるかもしれないと、祖父が夜ごと帳簿を開いていた年。


 その時、先王陛下は動いてくださった。


 王都の貴族たちへ支援を求め、穀物を集め、薪を集め、薬を集め、毛布を集め、荷馬車を出し、雪の残る街道に護衛をつけてくださった。

 しかも、その支援は、ラディアス公爵家の面子を潰さぬ形で届けられたという。


 父はよく言っていた。

 あの冬、先王陛下はラディアスの民を救ってくださったのだと。


 王家とラディアス公爵家は、4代前に同じ家から分かれた兄弟筋でもある。

 王冠を戴いた兄君の血が王家へ。

 弟君の血が、ラディアス公爵家へ。


 だから当家は、ただの臣下ではなく、王家に近い臣下として、長く王宮を支えてきた。


 そして、先王陛下から受けた恩があった。


 だから、わたくしも王家を支えた。


 王妃様のご指示にも。

 殿下の頼みにも。

 礼典局の確認にも。

 神殿との調整にも。

 聖女様の式典にも。


 できる限り応えようとした。


 先王陛下から受けた恩の、ほんの一部でも返せるならと思っていた。


 けれど。


 恩返しと、使い潰されることは違う。


 それを、わたくしは2週間眠ってから知った。


 15日目の午後、わたくしは王都へ戻ることにした。


 リーナは何度もこちらを見た。


「お嬢様。本当にお戻りになってよろしいのですか」


「ええ」


「まだ、もう少しお休みになっても」


「休んだわ」


「……2週間でございます」


「2週間も、よ」


 そう言うと、リーナは黙った。


 2週間。


 王宮にいた頃なら、2週間は百を超える案件で埋まる長さだった。


 けれど、保養地では違った。


 2週間は、眠るために使えた。


 その事実だけで、わたくしはずいぶん遠くまで来た気がした。


 王宮に戻ると、空気が少し変わっていた。


 門番はわたくしを見るなり姿勢を正した。


 侍従たちは慌てて道を空けた。


 すれ違う貴族たちは、こちらを見てすぐに目を逸らした。


 おそらく、この2週間で何かあったのだろう。


 だが、わたくしには関係ない。

 今日は謝罪を受けに来たのではない。

 復讐に来たのでもない。

 私物の回収。

 婚約破棄に伴う正式書類の確認。


 それから、王宮内でわたくしが私的に補助していた業務について、最終的に手を離すために来た。


 通されたのは、小会議室だった。

 大広間ではない。


 そこにいたのは、国王陛下、王妃様、王太子殿下、礼典局長、財務官、侍従長、神殿側の連絡役。

 そして、聖女ファゼル様だった。


 わたくしの後ろには、ラディアス公爵家の老家令が控えている。


 名を、モルネという。

 72歳。

 父の腹心であり、本日は父の名代として、全権委任状を携えている。


 祖父の代からラディアス家に仕え、27年前の冷害の冬には、届いた穀物袋の数も、荷馬車の到着時刻も、救えた村の名も、帳簿につけていた人だった。


「エルヴィーナ」


 殿下が立ち上がった。


 以前なら、わたくしの方が先に礼を取っただろう。


 今日は、少しだけ待った。


 殿下が何も言わないので、仕方なく礼をする。


「ご機嫌よう、殿下」


「本当に戻ってきたのか」


「はい。私物の回収と、正式書類の確認にまいりました」


「……それだけか」


「はい」


「君は……」


 殿下は何かを言いかけて、言葉を失った。


「眠りましたので」


「眠った?」


「はい。2週間ほど」


 殿下は、何を言われたのか分からない顔をした。


 聖女様が、気遣うように眉を寄せる。


「おつらかったのですね」


「いいえ」


 わたくしは首を横に振った。


「気持ちよかったです」


 小会議室が静まり返った。


「朝も昼も夜も、誰にも呼ばれませんでした。急ぎの書類もなく、確認もなく、代理返答もなく、殿下の失言の訂正もなく、聖女様の衣装代の調整もなく、王妃教育の復習もありませんでした」


 そこで一度、息を吸う。


「とても、気持ちよかったです」


 王妃様が、扇を握りしめた。


「エルヴィーナ。あなたの体調については、こちらにも報告が上がっています」


「左様でございますか」


「過労だったと」


「はい」


「なぜ言わなかったのです」


 わたくしは少し考えた。


 言わなかったのだろうか。


 忙しいです。

 今日は難しいです。

 少し休みたいです。

 それは明日でもよろしいでしょうか。

 何度も、言った気がする。


 けれど返ってきたのは、いつも同じだった。


 未来の王太子妃なら。

 君ならできる。

 皆が頼りにしている。

 少しだけだから。

 今回だけだから。

 急ぎだから。

 本日中に。

 今すぐ。


「申し上げました」


 わたくしは答えた。


 王妃様の顔が、わずかに強張った。


「ですが、休みたいという意味では受け取っていただけませんでした」


 小会議室が静まり返った。


「お願いすれば、励まされました。断れば、諭されました。遅らせたいと言えば、未来の王太子妃として必要な務めだと言われました」


 そこで、一度息を吸った。


「ですから途中から、言うより処理した方が早くなりました」


 礼典局長が机の上の書類に目を落とす。

 財務官が咳払いをする。

 侍従長は、最初からこちらを見ていない。


 殿下だけが、まだ分かっていない顔をしていた。


「だが、君がいないせいで各所に支障が出ている」


「でしょうね」


「でしょうね、ではない。君が担当していたものが止まっている」


「担当ではありません」


 わたくしは静かに言った。


「婚約者として、善意で補助していたものです。権限も役職も報酬もありませんでした。婚約がなくなった以上、わたくしが行う理由もございません」


「だが、現に困っている」


「それは、担当者が困るべきことです」


 殿下は言葉を失った。


 わたくしは鞄から一冊の綴りを出し、机の上に置いた。


「こちらが、わたくしの関与していた業務の一覧です」


 礼典局長が、ぎょっとした顔でそれを見た。


「これほど……」


「はい」


 わたくしは頷いた。


「王太子殿下関連の予定調整が42件。聖女様関連の神殿・王宮間連絡が26件。王妃教育に伴う実務課題が15件。礼典局から私的に回されていた確認事項が31件。財務官からの予算照会が19件。孤児院基金、医療院寄付、晩餐会席次、地方陳情、その他細目は別紙です」


「……私的に、などと」


 礼典局長が弱く言った。


「正式な辞令はございませんでした」


「しかし、王妃殿下のご意向で」


「王妃殿下のご意向でも、辞令がなければ私的補助です」


 王妃様が口を閉ざした。


 そこで、モルネが一歩進み出た。


「恐れながら」


 その声は小さかったが、よく通った。


「当家の令嬢は、王宮へ奉公に上がっていたわけではございません」


 礼典局長の顔が強張る。


「それは分かっている。しかし、未来の王太子妃として」


「未来の王太子妃であったとしても、現在はラディアス公爵家の令嬢でございます。王宮各部署の未処理業務を、無償で、無権限で、無期限に処理する立場ではございません」


 モルネは、机の上の業務一覧に目を落とした。


「まして、婚約を破棄された後も継続を求められる筋合いはございません」


 財務官が唇を引き結んだ。

 侍従長は、何も言わなかった。


「では、こちらが当家からの書面でございます」


 モルネが、厚い書類の束を机に置いた。

 並べられた書類は、全部で4部あった。


 1部目。


『婚約破棄に伴う違約金及び名誉毀損に関する請求書』


 2部目。


『王宮内私的補助業務に係る労務提供相当額算定書』


 3部目。


『無権限労務提供に関する抗議及び再発防止要求書』


 4部目。


『王太子殿下による公衆面前での断罪発言に関する根拠開示及び訂正要求書』


 殿下は、2部目で手を止めた。


「労務提供、相当額」


「はい」


 モルネが答える。


「エルヴィーナお嬢様が、婚約期間中に王宮内で実質的に担っていた業務について、本来の担当部署に正規職員を配置した場合の給金を基準に、労務提供相当額を算定いたしました」


 礼典局長の顔色が変わる。


「待ちなさい。あれは王太子妃教育の一環で」


「礼典局の式典調整が、王太子妃教育でございますか」


 モルネは静かに返した。


「財務官からの予算照会が、王太子妃教育でございますか。神殿との日程調整が。孤児院基金の不足確認が。殿下の演説原稿の修正が。失言後の訂正文案作成が。各部署の未処理案件の催促が」


 誰も答えなかった。


「教育であるなら、教材、指導者、範囲、評価基準があるはずでございます。ですが、実態は業務でございました」


 モルネは、書類を一枚めくった。


「よって、王宮礼典局補佐相当、財務官補佐相当、神殿連絡調整官相当、王太子殿下予定管理担当相当、文書校閲官相当、対外折衝補助相当として、それぞれの規定給金を基に算出しております」


「ばかな」


 殿下が呟いた。


「君は、そんなものを請求するつもりなのか」


 わたくしは首を横に振った。


「わたくしではございません」


「では誰が」


「ラディアス公爵家です」


 殿下の口が止まった。


「わたくし個人の感情ではなく、当家の人員を無償で使用された件として、正式に処理いたします」


 モルネが続ける。


「加えて、婚約破棄に伴う違約金。公衆の面前で、事実確認なく断罪したことによる名誉毀損分。無権限で労務を担わせたことへの抗議及び再発防止要求。断罪発言の根拠に関する開示及び訂正要求。以上を添えております」


 財務官が、震える手で書類を取った。

 数枚めくったところで、顔が青くなる。


「この金額は」


「規定通りでございます」


「高すぎる」


「複数部署の業務を、数年分でございますので」


 モルネは、淡々と言った。


「むしろ、かなり控えめに算定しております」


「金を払えば済むという話ではない」


 殿下が低く言った。


 モルネは頷いた。


「おっしゃる通りでございます」


 殿下が少し安堵した顔をする。


 けれどモルネは、淡々と続けた。


「金銭の支払いは、済ませるためではございません。何が行われたのかを、帳簿に残すためでございます」


 殿下の表情が止まった。


「無償であったから、誰も量を見なかった。婚約者であったから、誰も責任を数えなかった。ですので、数えました」


 財務官が、目を伏せた。


「これは罰ではございません」


 モルネは言った。


「記録でございます」


 国王陛下が、そこで初めて深く息を吐いた。


「余は知らなかった」


 モルネは、深く一礼した。


「では、なぜ当家が王宮へ出入りする人員を増やしたのかも、ご存じなかったのでございましょう」


 国王陛下の眉が動いた。


「人員?」


「はい」


 モルネは、机上の書類を一枚めくった。


「3年前、お嬢様が王太子妃教育へ本格的に入られた際、当家は王宮との連絡役を1名置きました。2年前には、帰邸後も王宮書類の確認が続くようになったため、書類整理を補佐する文官見習いを2名。昨年には、夜間帰邸が増えたため護衛を2名と、馬車及び御者の夜間待機を手配しました」


 王妃様の扇が、ぴたりと止まった。


 モルネは続ける。


「半年前には、王妃殿下主催行事の補助として、当家の侍女を1名。4か月前には、聖女様関連の調整が急増したため、連絡役をさらに1名、文官見習いを1名追加しました。2か月前には、お嬢様の体調不良が明らかになったため、侍女を1名、護衛を2名追加しております」


「それは、未来の王太子妃として必要な支度を」


「いいえ」


 モルネは、静かに遮った。


「当家のお嬢様が倒れぬよう、支えるためでございます」


 小会議室の空気が冷えた。


「お嬢様は、すでに限界に近かった。食事を抜き、眠りが浅くなり、手が震え、帰邸後も王宮から届いた書類を処理しておられた。当家はそれを把握しておりました。ゆえに、王宮内でお嬢様の負担がこれ以上増えぬよう、人員を厚くしたのです」


 国王陛下は、何も言わなかった。


 王妃様も。


 殿下も。


「同時に、公爵閣下はお嬢様を王宮から引き上げる旨を申し入れております」


 モルネは続けた。


「ですが、王妃殿下より、業務量を見直すとのご回答がございました。お嬢様ご自身も、聖女様歓迎式典までは務めたいと望まれましたため、期限を区切り、その間を支える人員を増やしたのでございます」


 王妃様の扇が、わずかに揺れた。


「ですが、業務量は減りませんでした」


 小会議室は、冷え切っていた。


「王宮では、それをどう受け取られましたか」


 モルネの声は、少しも荒れなかった。


「公爵家が勝手に支えている。未来の王太子妃なのだから当然。人手があるのだから、まだ任せられる。そうお考えになったのではございませんか」


 礼典局長が、目を逸らした。


 財務官は唇を引き結んだ。


「当家が人員を厚くしたのは、王宮の仕事をさらに引き受けるためではございません。お嬢様を守るためでございました」


 モルネは、国王陛下へ向き直った。


「一度や二度の増員ではございません。3年をかけて、当家は段階的に人員を厚くしてまいりました」


 国王陛下の顔色が、わずかに変わった。


「それでもなお、陛下のお耳に入っていなかったのであれば、当家の警告は、王宮内のどこかで都合よく処理されていたのでございましょう」


「それは」


「王太子殿下だけの問題ではございません」


 モルネは言った。


「王妃殿下は教育と称して職務を流し、各部署は便利な窓口として当家のお嬢様を使い、当家が差し出した支援人員すら、王宮の不足を補うものとして扱った」


 机上の書類が、一枚、静かに置かれる。


「その結果、お嬢様は倒れました」


 モルネは、深く頭を下げた。


「よって、ラディアス公爵閣下より指示が出ております。王宮内に出入りしている当家関係者は、一度、全員撤収させます」


「撤収、とは」


 王妃様が言った。


「当家の者を、王宮から引き上げるという意味でございます」


 モルネは答えた。


「王妃殿下主催行事の補助に入っていた当家侍女1名。お嬢様付きとして追加していた侍女1名。お嬢様の書類整理に入っていた文官見習い3名。王宮と公爵家の連絡役2名。お嬢様に随行していた当家護衛4名。夜間帰邸用の馬車と御者。式典準備に貸し出していた備品類。以上、本日をもって撤収いたします」


「それでは困ります」


 礼典局長が、思わずというように声を上げた。


 モルネは、そちらへ目を向けた。


「困るほど、お使いでしたか」


 礼典局長の顔が強張る。


「いえ、そういう意味では」


「当家の者は、お嬢様を守るために置いておりました。礼典局の人員不足を補うためではございません」


 財務官が低く咳払いをした。


「しかし、急に引き上げられては、王宮内の実務に支障が」


「王宮内の実務に、なぜ公爵家の人員が組み込まれているのですか」


 誰も答えなかった。


 モルネは、静かに続けた。


「それこそが、今回の問題でございます」


「ラディアスは王家の臣下であろう」


 国王陛下の声は低かった。


「はい」


 モルネは、即座に頷いた。


「臣下でございます」


 そこで、少しだけ間を置いた。


「ですが、臣下は備品ではございません」


 国王陛下の目が細くなる。


「王家とラディアス公爵家は、4代前、同じ家より分かれた兄弟筋にございます。以来、当家は王家に最も近い臣下として、時に盾となり、時に調停役となり、時に王宮の不足を黙って補ってまいりました」


 モルネは、机上の書類に手を置いた。


「先王陛下より受けた27年前の御恩も、当家は忘れておりません」


 室内の誰も、口を挟まなかった。


「ですが、恩義は白紙委任ではございません」


 国王陛下が、重く言った。


「余は、父の恩を笠に着たつもりはない」


「恐れながら」


 モルネは、深く一礼した。


「陛下が笠に着る必要はございませんでした。王宮の誰もが、当家が支えることを当然としておりましたので」


 国王陛下の表情が止まる。


「先王陛下は、当家が困窮した時、当家の面子を潰さぬよう支援を届けてくださいました。ですが、このたび王宮は、当家のお嬢様が限界にあると知りながら、その面子も、健康も、名誉も守らなかった」


 モルネは、机上の請求書へ視線を落とす。


「先王陛下が救ったラディアスの民は、王家へ奴隷を差し出すために生き延びたのではございません」


 小会議室が、完全に静まった。


「当家の厚意は、先王陛下への恩義でした。現王家への白紙委任ではございません」


 王妃様の扇が、かすかに震えた。


「下働きなどと申してはいません」


 王妃様の声は冷たかった。


「はい。王妃殿下は、そうはおっしゃいませんでした」


 モルネは深く一礼した。


「ですが、扱いはそうでございました」


 王妃様の表情が止まった。


「お嬢様は、王妃殿下の下働きではございません。王太子殿下の失態を隠す布でもございません。礼典局の不足を埋める臨時職員でもございません」


 モルネは、静かに続けた。


「王妃殿下は王宮内の席次において尊きお立場でございます。ですが、お嬢様は王家の血を引く継承権者でもございます。比較すべきものではございません。問題は、王家がその方をどのように扱ったかでございます」


 国王陛下の表情が硬くなる。


「王家の血を引く継承権者を、無償で働かせ、権限なく責任を負わせ、倒れるまで使い、公衆の面前で悪役と断じた。その事実は、王都中の貴族が見ております」


 王位継承権。


 そう言われて、わたくしは少しだけ瞬きをした。


 もちろん、知ってはいた。


 ラディアス家は4代前、王家と同じ家から分かれた。だからわたくしにも、遠い順位ではあるが、継承権がある。


 けれど、それは古い戸棚の奥にしまわれた儀礼用の剣のようなものだった。


 存在はする。

 磨かれてはいる。

 けれど、抜くためのものではない。


 少なくとも、わたくしはそう思っていた。


 王位など望んだことはない。

 玉座より、今は枕の方がずっと魅力的だった。


 けれど、モルネの言葉で初めて理解した。


 わたくしが望むかどうかと、わたくしが軽んじられてよいかどうかは、別の話なのだ。


「ラディアス公爵家は、継承権を持ち出すつもりか」


 国王陛下が言った。


 小会議室の空気が、さらに重くなる。


 モルネが答える前に、わたくしは首を横に振った。


「いいえ」


 国王陛下がこちらを見る。


「絶対に嫌です」


「嫌、とは」


「わたくしは2週間眠って、ようやく自分の体に戻ったところです。なぜ、もっと忙しくなる椅子に座らなければならないのですか」


 モルネが、後ろで小さく咳をした。


 たぶん、笑いを堪えたのだと思う。


「都合の良い奴隷は、もうおりません」


 モルネの声は、静かだった。


 静かだったからこそ、小会議室の隅々まで届いた。


「奴隷などと、言葉が過ぎる」


 殿下が低く言った。


 モルネは、殿下だけを見なかった。


 まず国王陛下へ。

 次に王妃様へ。

 最後に、殿下へ。

 順に視線を移した。


「では、正式な職位をお与えになりましたか」


 誰も答えなかった。


「給金は。権限は。休暇は。責任範囲は。指揮系統は。業務量の上限は。倒れた際の補償は」


 モルネは、机の上の書類に手を置いた。


「無償で働き、権限なく責任を負い、礼もなく叱責を受け、最後には悪役として切り捨てられる。そのような人間を、当家は二度と王宮へ差し出しません」


 殿下の顔が青ざめる。


「当家のお嬢様は、人でございます。王家の空白を埋める備品ではございません」


 モルネは、深く一礼した。


「今後は、王宮の仕事は王宮の人員でなさいませ」


 しばらく、誰も言葉を発しなかった。


 わたくしは、机の上の書類へ視線を落とした。


 婚約破棄。

 労務提供。

 違約金。

 名誉毀損。

 撤収。

 継承権。


 大きな言葉が並んでいる。


 けれど、わたくしがしなければならないことは、一つだけだった。


 もう、戻らない。


「必要でしたら、今後は正式な依頼書を公爵家へお送りください」


 わたくしは言った。


「内容、権限、責任範囲、報酬、期限を明記の上、当主である父の承認を得てください」


「報酬まで求めるのか」


 殿下が言った。


 わたくしは頷いた。


「はい。仕事ですので」


 小会議室は、また静かになった。


 モルネは何も言わなかった。


 今の言葉は、わたくしが言うべきものだった。


「最後に確認いたします」


 わたくしは書類を一枚、机に置いた。


「婚約破棄は、殿下のご意思で間違いございませんね」


「……ああ」


「王家側の正式承認も下りていますね」


 国王陛下が、重く頷いた。


「下りている」


「では、本日をもって、わたくしは王宮内の私的補助業務から完全に離れます」


 殿下は何も言わなかった。


 わたくしは微笑んだ。


 2週間眠った後の笑みは、思ったより自然に出た。


「悪役令嬢ではなくなりましたので」


 聖女様が、小さく声を震わせた。


「エルヴィーナ様」


「はい」


「わたくし、そんなつもりでは」


「存じております」


「殿下にお会いしたいとお願いしただけで」


「はい」


「衣装も、お花も、皆様が用意してくださると」


「はい」


「わたくし、本当に何も知らなくて」


「では、これから知ってください」


 わたくしがそう言うと、聖女様は目を見開いた。


「ファゼル様が悪いと申し上げているのではありません。ただ、知らないまま誰かに任せると、その誰かが眠れなくなります」


 聖女様は、何も言えなくなった。


 王宮を出ると、午後の風が少し冷たかった。


 リーナが馬車の扉を開ける。


「お嬢様、この後はいかがなさいますか」


「屋敷へ戻るわ」


「はい」


「それから、少し寝る」


 リーナは目を丸くして、それから笑った。


「まだお眠りになるのですか」


「ええ」


 わたくしは馬車に乗り込んだ。


「忙しくならない練習をしなくてはいけないもの」


 扉が閉まる。


 王宮の白い尖塔が、窓の向こうで遠ざかっていく。


 2週間眠って、わたくしは戻ってきた。

 けれど、戻ったのは王宮ではない。

 自分の体の中だった。


 その後、王宮ではしばらく混乱が続いたらしい。


 聖女様歓迎式典は規模を縮小した。

 殿下の演説は短くなった。


 礼典局では、王太子殿下と聖女様に関係する部局横断業務について、誰が何を担当し、誰に権限があり、誰が責任を負うのかを、初めて一覧にしたという。


 それを聞いた時、わたくしは少し驚いた。


 今までなかったのか。


 殿下からは、何度か手紙が届いた。


 最初は謝罪だった。


 次は相談だった。


 その次は、少し未練のようなものが混じっていた。


 わたくしは、返事を書いたり、書かなかったりした。


 急ぎではなかったからだ。


 ある日の午後、リーナが新しい手紙を持ってきた。


「王宮からでございます」


「机に置いて」


「本日はご覧になりますか」


「そうね」


 わたくしは少し考えた。


 窓の外では、庭師が薔薇の枝を整えている。


 紅茶はまだ温かい。


 膝の上には、読みかけの本がある。


 眠気はない。


 けれど、無理に起きている必要もない。


「明日でいいわ」


 リーナが微笑んだ。


「かしこまりました」


 わたくしは椅子の背にもたれ、目を閉じた。


 悪役令嬢になったのは、ずっと忙しすぎたから。


 ならば、悪役令嬢でなくなったわたくしは。


 今日も、忙しくならない練習をする。

疲れて眠たい令嬢を書きたかった気がするのですが、気づいたらモルネという強キャラが生まれていました。


どうして。


ただ、エルヴィーナが自分で立ち上がるには、まず誰かが「それはおかしい」と言ってくれる必要があったのかもしれません。


眠ることも、休むことも、断ることも、本当は仕事ではないはずなのに、なぜか許可が必要になってしまう時があります。


そんな話でした。


お読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
本当に奴隷そのもの。王家も聖女も職員も血も涙もない冷血な人間ばかり。あ、聖女は自分のためだけなら涙も流せるのかも。
この手の王家は滅んで良し!
>「殿下にお会いしたいとお願いしただけで」 いや、婚約者持ちの男に会いたいって何やねんwおかしいだろwって思わず突っ込んでしまった。 >「わたくし、そんなつもりでは」 じゃあどんなつもりで、エルヴイー…
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