戦い①
鳥の声で、ゼーナは目を覚ました。
森の夜は、冷たい。空気は湿り気を帯び、地面には一切の温もりがなく、時折吹き抜ける風が肌を鋭く刺す。
ゼーナは川辺の倒木の裏に身を寄せ、葉を重ねた簡素な寝床に丸まっていた。頭上には大きな葉が数枚、重なるように広げられており、夜露を弾く音が微かに鳴っている。もし火が使えれば、もっと暖かく過ごせたはずだった。
この寝床に使った葉や、頭上に張った葉は、どれもゼーナよりも大きかった。おそらく魔素の影響による異常成長だと考えられる。
スライムに襲われ、怪我を負ったあの日から、すでに数日が経っていた。
ゼーナはゆっくりと右手を伸ばす。膝にある、あのとき擦りむいた傷跡に触れるためだ。傷はほとんど治りかけている。
彼女の一日は、傷の治療から始まる。
膝に手をかざし、深く息を吸い込む。空気の中に漂う気配に意識を向け、感覚を研ぎ澄ませる。
……感じる。
ほんのわずかな温もり。湿気にも似た、目には見えないが確かにそこにある何か。それが――魔素だ。
ゼーナはそれを体内へと取り込んでいく。
リヴェリアが言っていた。
魔素は自然に存在する力だが、それを使うには体に取り込み、自身の“魔力”へと変える必要があると。
魔素は空気のようなもので、魔力は血液のようなもの。
体の中を巡る魔力を、思考と感覚で操ることで、様々な効果を得る。
それが、“魔力操作”と呼ばれる技術だ。
ただし、使用すれば消耗する。魔力が切れれば、しばらく動けなくなることもある。
実際に、一度強く魔力を使いすぎて、立ち上がれなくなった日もあった。
それでも今は、少しずつではあるが、魔力の扱いに慣れてきている。
魔力を掌に集中させると、指先がじんわりと温まり始めた。かざした手から薄い光が広がり、膝の傷口がゆっくりと温かさに包まれていく。
痛みが引き、かさぶたが少しずつ柔らかくなっていく感覚があった。
今日で、膝の傷は完全に癒えた。
顔にできた細かい切り傷も、今では集中さえすればすぐ治せる程度にはなっていた。
だが、全てをすぐに治すわけではない。いくつかの傷は、血を止めた程度でわざと残してある。
それは、リヴェリアの助言に従った結果だった。
『毎日、傷を癒す練習を繰り返せば、魔力の流れ方や治りの速さの違いが実感できる。そのために傷は治せても1日1箇所にしておきな』
その言葉通り、ゼーナは毎朝、ひとつだけ傷を癒やすという習慣を続けている。
治療が終わると、次は火を出す訓練に移る。これもまた、魔力操作の一環だった。
リヴェリアはかつて、こう語っていた。
―――
『魔力操作と魔法の違いを教えておく』
「……え? そもそも違うの?」
『全然違う。いいか、ゼーナ。魔力操作ってのは、“魔力”そのものを直接使うやり方だ。魔力を火に変えたり、身体を強化したり――まあ、応用の幅は広い。けどそのぶん、自分で制御しなきゃならない』
ゼーナは静かに頷いた。実際、治療のときも集中しなければ効果は薄かった。
『対して“魔法”ってのは、呪文や術式って仕組みに乗っかって、魔力を使うやり方だ。“火よ、灯れ”みたいな言葉に反応して、決められた現象が起きる。』
「……それって、魔力操作より簡単?」
『簡単なものはな。小さな火をつけたり、水を出したりってのは、呪文と魔力があれば誰でもできる。でも、難しい魔法になると知識や理解、訓練が要るし、必要な魔力も多くなる。使い手によって結果も変わる』
「じゃあ、魔力操作の方が弱い……ってこと?」
『いや、違う。魔力操作は“自由”で“単純”なんだ。炎を出す、体を強化する、風の刃を作る――そういった単純な現象しか起こせない。だが、上限はない。自分の魔力量によって、どこまでも伸ばせる』
ゼーナは感心したようにうなずいた。
『でも魔法なら空を飛ぶとか、天候を変えるとか、複数の属性を同時に扱うとか、そういう芸当も可能だ。もちろん、その呪文を理解できていればの話だがな』
「……リヴェリアは魔法を使えないの?」
『私は“体があった頃”いろいろあって魔法を使えなかった。だから魔力操作を極めたんだ。それを教えてやってんだ、感謝しろよ』
―――
魔法と魔力操作の違い――
ゼーナにはまだ、呪文の知識も理解もない。
だからこそ、今は魔力操作を身につけるしかなかった。
ゼーナは手のひらに魔力を集め、熱に変える。
リヴェリアの教えが頭の中に蘇る。
『火を出すには、魔力を“凝縮”させるんだ。そしてその塊を火に変えるイメージを持つ。コツは拡散させないこと。ぎゅっと、小さく、強く、でも制御を誤れば暴発する。焦るな。まずは指先に熱を感じるところからだ』
ゼーナは指先に意識を集中させ、深く息を吸った。
けれど――何度やっても、うまくいかない。
熱を感じるところまではいく。けれど、火までは出せない。
焦げる匂いが立ち上ったこともある。反動で手のひらを火傷しかけたこともあった。
(……難しい)
魔力操作には、感覚と思考のバランスが不可欠だ。
だが、それは言葉で教えられても、すぐに身につくものではない。
『まあ、すぐできるとは思ってなかったがな。続けろ。地味な繰り返しが一番効く』
リヴェリアの言葉を信じ、ゼーナは今日も訓練を続ける。
午前中の魔力操作の練習が終わると、今度は身体を動かす訓練に入る。
武器といっても、ただの木の枝だ。
そこらの枝を拾い、削って整えた簡素な“剣”や“槍”。
ゼーナはそれを手に、川辺の少し開けた場所で構える。
相手は木の幹。斬る、突く、振り下ろす。
魔力による身体強化を意識しながら、それを繰り返す。
最初はただ振り回すだけだった。
だが今では、角度や距離、体重の乗せ方を意識し、魔力も少しずつ操作できるようになっていた。
リヴェリアは戦い方も教えてくれる。
腕の角度、足の位置、重心の移動、全てを言葉で叩き込まれる。
『それじゃ刃が滑る。しっかり刃が入る角度で切り込め』
『突きは最短距離。迷うな、止まるな。速度が命だ』
ゼーナは汗をかきながら、何度も何度もその動きを繰り返す。
静かな森に、木を打つ鈍い音が繰り返し響いていた。
食事は主にヒユの実やカーマ草。味は淡白で、満足できるものではない。
だが、食べれば力は出る。
食後、少しだけ休憩を挟んでから、また訓練を再開する。
午後になると、日差しが強くなってくる。
川辺の岩陰だけが、わずかな涼を与えてくれる場所だった。
ゼーナはそこに腰を下ろし、静かに目を閉じる。
頭の奥では、リヴェリアの声が反省点を淡々と語っていた。
『さっきのは踏み込みが甘かったな。武器が当たる直前に体が止まってる。魔力操作に意識が行きすぎたな』
『振るだけなら誰でもできるが、“当てて効果のある振り方”ってのは別物だ。理想は身体強化を無意識でできるようになって戦うことだ』
その声に怒気はなかった。ただ、必要なことを伝えてくるだけの、真っ直ぐな助言だった。
それがゼーナには嬉しかった。真剣に向き合ってくれていることが、言葉の端々から伝わってきた。
休憩のあとは、再び魔力操作の練習に戻る。
次は、魔素の感知――空気中の魔素を感じ取る訓練だ。
森の空気に意識を向け、まるで水面に指を浸すように感覚を研ぎ澄ませる。
この森は魔素が濃い。そのため感知はしやすいが、濃すぎる魔素は時に圧迫感として身体にのしかかる。
ゼーナはその圧に耐え、魔素の流れを感じ取り、体内へと引き込む。
取り込んだ魔素を魔力に変換し、熱へと変える。
指先に、熱が集まってくる――
いける。そう思った。
だが、次の瞬間、指先で小さな爆ぜる音がした。
火にはならず、煙だけがくすぶった。
(……また、だめか)
ゼーナは軽く息を吐き、手を振った。
焦らない。焦らない。
『魔力操作で炎を出すのは魔法よりも難しい。すぐに出来るとは思ってないさ。だがそれができなきゃ次へ進めない。その分、森からの脱出が遅れて死ぬ可能性も高まる』
その言葉が胸に残る。
現実は厳しい。けれど、だからこそ進むしかなかった。
訓練を重ねてしばらくが経ったある朝。ゼーナは異変に気づいた。
いつものように川辺で食料を探していたが、熟した実がほとんど見当たらなかった。
ゼーナはしゃがみ込み、木の根元に落ちた実を一つひとつ確認する。
潰れておらず、食べられそうなものだけを拾うが、それもほんの数個しかなかった。
「少ない……」
魔素の影響で成長の早い植物もあるが、やはり限界はあるのだろう。
数日前から感じていた違和感が、確信へと変わった。
『……残り、三日もつかどうかってとこだな』
リヴェリアの声が淡々と響いた。
『狩りができりゃ別だが、今のお前にはまだ早い。ってなると――そろそろ、動くしかねぇな』
「川から、離れる?」
『ああ。川沿いを移動しながら、次の拠点を探す。水が近くにあるって条件だけは捨てられねぇからな』
ゼーナは小さく息を吐いた。
この場所には慣れてきたが、いつかは離れなければならないと、最初から分かっていた。
けれど、不安はある。
「また、魔物に出くわすかも……」
『出くわすだろうさ。むしろ“出会わないつもり”で動くほうがバカだ』
言葉は厳しかったが、嘘はなかった。
『けどな、ゼーナ。動かなきゃ死ぬんだよ。動いて、食って、戦って、生き残る。その先にしか出口はねぇ』
ゼーナは、残ったヒユの実を葉に包んだ。
目覚めたあの日と同じように、今また“生きるために動く”という選択を迫られていた。
荷物らしい荷物はない。
ヒユの実を包んだ葉を、腰に巻いたツタに固定し、使い慣れた木剣を腰に差す。片手には木槍。
空を見上げる。
枝葉の隙間から、細く差し込む光が地面を照らしていた。
(……行こう)
ゼーナは小さく心の中で呟き、川沿いの下流へ向かって、歩き出した。