虚無②
拠点でしばらく休んだあと、ゼーナは立ち上がった。
水と食料が確保できたとはいえ、それだけでは到底この森では生きていけない。
何があるのか、どこまでが安全なのか、それを知るには“歩く”しかない。
『あんまり遠くへ行きすぎんなよ。けど、動くのは悪くない。拠点周辺に何があるかは先に見ておきたいしな』
ゼーナは頷いて、川から少し離れた林の中へと足を踏み入れた。
草の背丈はやや高く、ところどころに根の張った倒木がある。
虫の羽音が耳にまとわりつくが、ここも川辺と同じく、命の気配に満ちていた。
歩いているうちに、周囲の雰囲気が変わってきた。
日差しはほとんど届かず、湿気が増して地面がぬかるんでくる。
苔が分厚く広がり、足元の音が吸い込まれていくようだった。
ぬるり。
(……え?)
ゼーナが視線を向けると、木の根元の影で、淡く光る“何か”が揺れていた。
透明な粘体。地面に落ちた水滴が、生きているかのように、ずるりと形を変えて動いている。
(……なに、あれ)
初めて見る存在だった。しかし、不気味な違和感だけが体にまとわりつく。
ずり、ずり、と粘着質な音を立てながら、それはじわじわとゼーナに向かってきている。
『止まれ、ゼーナ』
内なる声が鋭く告げた。
ゼーナは反射的に体を固める。
『アレは魔物だ。スライムって呼ばれてるやつだ。
普通なら雑魚だが――ここのは違う。魔素を吸いすぎて変質してやがる』
(……魔物……スライム……)
言葉だけが頭に滑り込んでくる。
でも意味はわからない。ただ、目の前のそれが自分を脅かす存在だということだけは、本能が教えていた。
スライムは、ぼよん、と跳ねた。
小さな身体を弾ませ、一直線にこちらへ向かってくる。
『避けろ!』
声に背中を押されるように、ゼーナは横に跳ねた。
直後、スライムがゼーナのいた地面に叩きつけられた。
透明な体がぶよんと潰れ、その勢いで地面が大きくえぐれた。
(見た目より、ずっと重い!)
小さな身体に似合わぬ破壊力。
その違和感が、嫌な汗となって背中を伝う。
そして、スライムはさらに速く跳ねた。
私は必死で逃げ出した。
振り返ると、スライムが地面を跳ねながら追いかけてきている。
(ダメだ……速い……!)
バシン、バシン、と背後で地面を叩く音が、徐々に近づいてくる。
『逃げろ、ゼーナ! 川まで戻れ!スライムは水場に近づかねぇ!』
川。
――そこまでたどり着ければ、なんとかなる!
ゼーナは森を走った。通ってきた道ではなく、記憶を頼りに川へ一直線に。
枝が顔を打ち、棘が足を掠める。それでも止まらなかった。
粘体が跳ねるたび、地面が振動するような感覚すらあった。
(川へ……!)
息が上がる。足がもつれる。それでも必死に走る。
ゼーナの耳に、川の流れる音が、微かに聞こえた。
希望が見えた――その瞬間。
ズシャッ!
スライムが地面を叩き、跳ね上がった泥や石がゼーナに直撃した。
バランスを崩し、膝を打ちつける。
――痛!
だが、すぐに立ち上がろうとする。
しかしスライムはさらに距離を詰める。
『立て、ゼーナ! 止まったら終わりだ!』
ゼーナは必死で立ち上がった。足が震える。けれど、ここで止まったら潰されて殺されるかもしれない。
最後の力を振り絞り、ゼーナは川へ向かって走った。
川辺が見えた。
水音が、現実味を帯びて耳に響く。
ゼーナは浅瀬に飛び込んだ。
水が膝を打ち、冷たさが痛みを麻痺させた。
背後で、スライムが川の縁で立ち止まる。
透明な体を小刻みに震わせながら、こちらを見ている――ような気がした。
だが、それ以上は追ってこない。
(……助かった……)
ゼーナは川の中で膝をつき、荒い息を吐いた。
生き延びた。
けれど、膝からは血が滲み、腕にも擦り傷が無数に走っていた。
泥まみれの体を引きずるようにして、川を渡りきり拠点に戻った。
体は重く、泥と血にまみれていた。
浅い傷ばかりだったが、動くたびに鋭い痛みが走る。
それでも、生きて帰ってこられた。
それだけで十分だと、心のどこかで自分を納得させようとした。
しかし、胸の奥にはどうしようもない無力感があった。
(……怖かった)
魔物。スライム。
内なる声がそう呼んだもの。
自分より小さく、柔らかそうなそれに、ただ一方的に追い詰められた。
走るしかなかった。
避けるしかなかった。
一度でも足がもつれていたら――今頃、ゼーナはここにいなかっただろう。
ゼーナは倒木の陰に身を寄せ、浅く呼吸を整えた。
『……生きて帰ってきたな。まずはそれで上等だ』
内なる声が、どこか安堵したような響きで言った。
(……でも、これじゃ)
次はない。そんな予感だけは、ゼーナの中にはっきりとあった。
『ああ。ゼーナ、お前がここから脱出するのに足りない物がわかるか?』
(戦う……こと)
『そうだ、戦う手段だ。戦う手段を手に入れろ。私が教えてやる』
――今の私に、そんなことができるだろうか。
ただ逃げるだけで精一杯な自分にそんな事ができるとはゼーナは思わなかった。
『怖いか?』
(……怖い)
即答だった。
『それでいい』
声は、厳しくも優しかった。
『力をつけろ。動ける体を作れ。魔素を扱えるようになれ。
この森を脱出するには、それが最低限必要だ』
(魔素……)
以前にも聞いた言葉。
この世界に漂う目に見えない“力”。
(……私にも、使えるの?)
『使えるようにするしかねぇ』
ゼーナは膝に視線を移す。
小さな擦り傷から、じわりと血が滲んでいる。
『試してみるか?いわゆるヒールの魔法に近い方法だ』
(……ヒール?)
『ヒールは簡単な傷を癒す魔法だ。私が教えれるのはヒールとは“また別”だけどな。最初は応急処置程度だが魔素を扱う練習にちょうどいい』
(......やる)
ゼーナは小さく頷いた。
『まずは、魔素を感じろ』
内なる声が言った。
言葉だけで聞くと簡単だ。しかし、やってみると、何をどう感じればいいのかがゼーナにはわからなかった。
ゼーナがするべきことは、空気の中に漂う魔素を「感じ取る」こと。
けれど、どうしていいのかわからない。
目を閉じて、呼吸を整えながら、周囲の音に耳を澄ませた。
川のせせらぎ、遠くの風、木の葉が揺れる音。
そして――その奥に何か、他のものがいるような気がした。ただ、それが何なのかがわからない。
一瞬、ゼーナの体の中で何かが震えた気がするが、それが魔素だと確信できない。
『焦るな。落ち着け。目を閉じて、ただ意識を集中しろ』
(わかってる……)
ただじっと息を吸い、体をゆっくりと解放していった。
最初は、ただの違和感。
空気が少し湿っぽく、冷たい。
それが魔素のせいなのか、それともただの森の湿気なのか。
ゼーナはしばらく何もできずに苦戦していた。
でも、何かが違う。確かに、何かがある――その感覚が、身体の中に伝わる。
『それだ。その感覚を忘れるな』
しかし、そこから先がわからない。
ただ、「何か」を感じるだけだ。
(これが、魔素?)
それとも、ゼーナの体が未だにそれを誤解しているのか。
『そうだ。今はまだ感知しただけだ。次はこれを自分の中に引き寄せる流れがあるのを感じろ』
(引き寄せる……)
『息をするのと同じように、人間は空気中の魔素を体全体で取り込んでいる。その“流れ”を感じとるんだ』
ゼーナは再び意識を集中させる。
手のひらを胸に当て、何もない空間に心を開く。
最初はやっぱり、ただの違和感。
どこか空気が重い気がする。
少し、ぼんやりとした温かさがゼーナを包み込み、息をするたびにその温もりが深くなっていく。
『それだ。もっと強く意識しろ』
(強く……)
ゼーナは息を深く吸い、吐く。
空気の中に、今度はより強く感じる“何か”を捉えようとする。
少しずつ、体の中にその感覚が入ってくる。
ただ、それが魔素だと確信できない。どこか、手探りでしか感じられない。
それでも、確かに――今、ゼーナの中で何かが流れた。
その瞬間、視界がはっきりとしたような気がした。
その流れを、体全体で感じている。
(……これが)
『ようやく認識したか。今、お前の中に流れているそれは、魔力だ』
ゼーナは魔素を“魔素”として認識することができた。次に体内に“魔力”が流れていることを認識した。その感覚がわかった時、胸の中で小さな息が漏れた。
『それじゃぁ、体内の魔力を使って傷を癒すぞ。体内の魔力を傷に向かって流す。最初は手に流し、その手を傷口に当てるようにしてもいい』
ゼーナは傷口を見る。
膝の傷はまだ痛む。血も滲んでいる。
(でも、これで……)
ゼーナは、手を膝に当て、魔力を感じ取る。
『そうだ、ゆっくりな。自分の傷を癒すという意思と魔力を合わせて、傷に流し込め』
言われるままに、ゆっくりと膝に手を押し当てる。
指先から温かさが広がり、少しずつその感覚が膝の傷口に浸透していく。
それだけで、血が止まった。
じんわりと痛みが引き、傷口の周囲が温かくなる。
『よくやった。だが、今のはまだ練習だ。完璧には治らねぇ』
(うん……でも、できた)
それが、ゼーナにとっては小さな成功だった。
そっと手を離し、膝を見下ろした。泥にまみれた膝に、血のあとだけが薄く残っている。
まだ、痛みはある。けれど、それでも前よりずっと“生きている”気がした。
手のひらを見つめながら、ゼーナはふと、思った。
この声に、ずっと助けられてきた。この森に放り出されてから、ずっとそばにいた。名も知らない存在に。
(ねぇ)
ゼーナは心の中で、そっと呼びかけた。
(あなたの、名前は?)
一瞬、沈黙が落ちた。
すぐには答えが返ってこない。
やがて、遠く、くぐもった声が響いた。
『……リヴェリア・アルトリウム。
昔、そう呼ばれてた』
(リヴェリア……)
ゼーナはその名を心の中で反芻する。
リヴェリア――
重く、冷たく、それでいて誇り高い響き。
その瞬間だった。
ゼーナの頭の奥に、断片的な光景が流れ込んできた。
高い城壁に囲まれた国。
怒りに燃える女性が、拳を振るう。
その拳は圧倒的な力で国を砕いていく。
瓦礫の中で、血に濡れた腕が小さな子供を抱きしめる。
燃え尽きる国の中、女性は子を守ったまま崩れ落ちていく――。
(……今の、なに……?)
ゼーナは戸惑い、思わず問いかけそうになる。
しかし、それより早く、リヴェリアが言った。
『……気のせいだ』
(……え?)
『疲れてるんだろ、ゼーナ。もう今日は寝ろ』
やけに軽い口調。
けれど、その声の奥に、微かに痛みのようなものが滲んでいるのを、ゼーナは感じた。
(……教えてくれて、ありがとう)
結局、ゼーナはそれ以上、踏み込めなかった。
『別に、礼なんかいらねぇよ』
ぶっきらぼうな応え。
それでも、不思議とあたたかい響きを持っていた。
ゼーナたちは、まだ何も知らない。
互いの素性も、過去も、目的も。けれど、二人は今ここにいる。それだけは確かだった。
ゼーナは深く息を吸い、空を見上げた。
もうすっかり夜だった。
葉の間からこぼれる光は、薄く白い月光に変わっていた。
明日も生きなければならない。
この森を出るために。
ようやく、ここから本当の一歩が始まる。