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忘却の剣、彼方へ  作者: Zero3
第一章
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虚無②

拠点でしばらく休んだあと、ゼーナは立ち上がった。

水と食料が確保できたとはいえ、それだけでは到底この森では生きていけない。

何があるのか、どこまでが安全なのか、それを知るには“歩く”しかない。


『あんまり遠くへ行きすぎんなよ。けど、動くのは悪くない。拠点周辺に何があるかは先に見ておきたいしな』


ゼーナは頷いて、川から少し離れた林の中へと足を踏み入れた。


草の背丈はやや高く、ところどころに根の張った倒木がある。

虫の羽音が耳にまとわりつくが、ここも川辺と同じく、命の気配に満ちていた。


歩いているうちに、周囲の雰囲気が変わってきた。

日差しはほとんど届かず、湿気が増して地面がぬかるんでくる。

苔が分厚く広がり、足元の音が吸い込まれていくようだった。


ぬるり。


(……え?)


ゼーナが視線を向けると、木の根元の影で、淡く光る“何か”が揺れていた。

透明な粘体。地面に落ちた水滴が、生きているかのように、ずるりと形を変えて動いている。


(……なに、あれ)


初めて見る存在だった。しかし、不気味な違和感だけが体にまとわりつく。


ずり、ずり、と粘着質な音を立てながら、それはじわじわとゼーナに向かってきている。


『止まれ、ゼーナ』


内なる声が鋭く告げた。

ゼーナは反射的に体を固める。


『アレは魔物だ。スライムって呼ばれてるやつだ。

普通なら雑魚だが――ここのは違う。魔素を吸いすぎて変質してやがる』


(……魔物……スライム……)


言葉だけが頭に滑り込んでくる。

でも意味はわからない。ただ、目の前のそれが自分を脅かす存在だということだけは、本能が教えていた。


スライムは、ぼよん、と跳ねた。

小さな身体を弾ませ、一直線にこちらへ向かってくる。


『避けろ!』


声に背中を押されるように、ゼーナは横に跳ねた。


直後、スライムがゼーナのいた地面に叩きつけられた。

透明な体がぶよんと潰れ、その勢いで地面が大きくえぐれた。


(見た目より、ずっと重い!)


小さな身体に似合わぬ破壊力。

その違和感が、嫌な汗となって背中を伝う。


そして、スライムはさらに速く跳ねた。


私は必死で逃げ出した。

振り返ると、スライムが地面を跳ねながら追いかけてきている。


(ダメだ……速い……!)


バシン、バシン、と背後で地面を叩く音が、徐々に近づいてくる。


『逃げろ、ゼーナ! 川まで戻れ!スライムは水場に近づかねぇ!』


川。

――そこまでたどり着ければ、なんとかなる!


ゼーナは森を走った。通ってきた道ではなく、記憶を頼りに川へ一直線に。

枝が顔を打ち、棘が足を掠める。それでも止まらなかった。


粘体が跳ねるたび、地面が振動するような感覚すらあった。


(川へ……!)


息が上がる。足がもつれる。それでも必死に走る。


ゼーナの耳に、川の流れる音が、微かに聞こえた。

希望が見えた――その瞬間。


ズシャッ!


スライムが地面を叩き、跳ね上がった泥や石がゼーナに直撃した。

バランスを崩し、膝を打ちつける。


――痛!


だが、すぐに立ち上がろうとする。

しかしスライムはさらに距離を詰める。


『立て、ゼーナ! 止まったら終わりだ!』


ゼーナは必死で立ち上がった。足が震える。けれど、ここで止まったら潰されて殺されるかもしれない。


最後の力を振り絞り、ゼーナは川へ向かって走った。


川辺が見えた。

水音が、現実味を帯びて耳に響く。


ゼーナは浅瀬に飛び込んだ。

水が膝を打ち、冷たさが痛みを麻痺させた。


背後で、スライムが川の縁で立ち止まる。

透明な体を小刻みに震わせながら、こちらを見ている――ような気がした。


だが、それ以上は追ってこない。


(……助かった……)


ゼーナは川の中で膝をつき、荒い息を吐いた。


生き延びた。


けれど、膝からは血が滲み、腕にも擦り傷が無数に走っていた。


泥まみれの体を引きずるようにして、川を渡りきり拠点に戻った。

体は重く、泥と血にまみれていた。

浅い傷ばかりだったが、動くたびに鋭い痛みが走る。


それでも、生きて帰ってこられた。

それだけで十分だと、心のどこかで自分を納得させようとした。


しかし、胸の奥にはどうしようもない無力感があった。


(……怖かった)


魔物。スライム。

内なる声がそう呼んだもの。

自分より小さく、柔らかそうなそれに、ただ一方的に追い詰められた。


走るしかなかった。

避けるしかなかった。

一度でも足がもつれていたら――今頃、ゼーナはここにいなかっただろう。


ゼーナは倒木の陰に身を寄せ、浅く呼吸を整えた。


『……生きて帰ってきたな。まずはそれで上等だ』


内なる声が、どこか安堵したような響きで言った。


(……でも、これじゃ)


次はない。そんな予感だけは、ゼーナの中にはっきりとあった。


『ああ。ゼーナ、お前がここから脱出するのに足りない物がわかるか?』


(戦う……こと)


『そうだ、戦う手段だ。戦う手段を手に入れろ。私が教えてやる』


――今の私に、そんなことができるだろうか。


ただ逃げるだけで精一杯な自分にそんな事ができるとはゼーナは思わなかった。


『怖いか?』


(……怖い)


即答だった。


『それでいい』


声は、厳しくも優しかった。


『力をつけろ。動ける体を作れ。魔素を扱えるようになれ。

この森を脱出するには、それが最低限必要だ』


(魔素……)


以前にも聞いた言葉。

この世界に漂う目に見えない“力”。


(……私にも、使えるの?)


『使えるようにするしかねぇ』


ゼーナは膝に視線を移す。

小さな擦り傷から、じわりと血が滲んでいる。


『試してみるか?いわゆるヒールの魔法に近い方法だ』


(……ヒール?)


『ヒールは簡単な傷を癒す魔法だ。私が教えれるのはヒールとは“また別”だけどな。最初は応急処置程度だが魔素を扱う練習にちょうどいい』


(......やる)


ゼーナは小さく頷いた。


『まずは、魔素を感じろ』


内なる声が言った。

言葉だけで聞くと簡単だ。しかし、やってみると、何をどう感じればいいのかがゼーナにはわからなかった。


ゼーナがするべきことは、空気の中に漂う魔素を「感じ取る」こと。

けれど、どうしていいのかわからない。


目を閉じて、呼吸を整えながら、周囲の音に耳を澄ませた。

川のせせらぎ、遠くの風、木の葉が揺れる音。


そして――その奥に何か、他のものがいるような気がした。ただ、それが何なのかがわからない。

一瞬、ゼーナの体の中で何かが震えた気がするが、それが魔素だと確信できない。


『焦るな。落ち着け。目を閉じて、ただ意識を集中しろ』


(わかってる……)


ただじっと息を吸い、体をゆっくりと解放していった。

最初は、ただの違和感。

空気が少し湿っぽく、冷たい。

それが魔素のせいなのか、それともただの森の湿気なのか。


ゼーナはしばらく何もできずに苦戦していた。

でも、何かが違う。確かに、何かがある――その感覚が、身体の中に伝わる。


『それだ。その感覚を忘れるな』


しかし、そこから先がわからない。

ただ、「何か」を感じるだけだ。


(これが、魔素?)


それとも、ゼーナの体が未だにそれを誤解しているのか。


『そうだ。今はまだ感知しただけだ。次はこれを自分の中に引き寄せる流れがあるのを感じろ』


(引き寄せる……)


『息をするのと同じように、人間は空気中の魔素を体全体で取り込んでいる。その“流れ”を感じとるんだ』


ゼーナは再び意識を集中させる。

手のひらを胸に当て、何もない空間に心を開く。

最初はやっぱり、ただの違和感。


どこか空気が重い気がする。

少し、ぼんやりとした温かさがゼーナを包み込み、息をするたびにその温もりが深くなっていく。


『それだ。もっと強く意識しろ』


(強く……)


ゼーナは息を深く吸い、吐く。

空気の中に、今度はより強く感じる“何か”を捉えようとする。

少しずつ、体の中にその感覚が入ってくる。

ただ、それが魔素だと確信できない。どこか、手探りでしか感じられない。


それでも、確かに――今、ゼーナの中で何かが流れた。


その瞬間、視界がはっきりとしたような気がした。

その流れを、体全体で感じている。


(……これが)


『ようやく認識したか。今、お前の中に流れているそれは、魔力だ』


ゼーナは魔素を“魔素”として認識することができた。次に体内に“魔力”が流れていることを認識した。その感覚がわかった時、胸の中で小さな息が漏れた。


『それじゃぁ、体内の魔力を使って傷を癒すぞ。体内の魔力を傷に向かって流す。最初は手に流し、その手を傷口に当てるようにしてもいい』


ゼーナは傷口を見る。

膝の傷はまだ痛む。血も滲んでいる。


(でも、これで……)


ゼーナは、手を膝に当て、魔力を感じ取る。


『そうだ、ゆっくりな。自分の傷を癒すという意思と魔力を合わせて、傷に流し込め』


言われるままに、ゆっくりと膝に手を押し当てる。

指先から温かさが広がり、少しずつその感覚が膝の傷口に浸透していく。


それだけで、血が止まった。

じんわりと痛みが引き、傷口の周囲が温かくなる。


『よくやった。だが、今のはまだ練習だ。完璧には治らねぇ』


(うん……でも、できた)


それが、ゼーナにとっては小さな成功だった。


そっと手を離し、膝を見下ろした。泥にまみれた膝に、血のあとだけが薄く残っている。


まだ、痛みはある。けれど、それでも前よりずっと“生きている”気がした。


手のひらを見つめながら、ゼーナはふと、思った。


この声に、ずっと助けられてきた。この森に放り出されてから、ずっとそばにいた。名も知らない存在に。


(ねぇ)


ゼーナは心の中で、そっと呼びかけた。


(あなたの、名前は?)


一瞬、沈黙が落ちた。

すぐには答えが返ってこない。


やがて、遠く、くぐもった声が響いた。


『……リヴェリア・アルトリウム。

昔、そう呼ばれてた』


(リヴェリア……)


ゼーナはその名を心の中で反芻する。


リヴェリア――

重く、冷たく、それでいて誇り高い響き。


その瞬間だった。


ゼーナの頭の奥に、断片的な光景が流れ込んできた。


高い城壁に囲まれた国。

怒りに燃える女性が、拳を振るう。

その拳は圧倒的な力で国を砕いていく。

瓦礫の中で、血に濡れた腕が小さな子供を抱きしめる。

燃え尽きる国の中、女性は子を守ったまま崩れ落ちていく――。


(……今の、なに……?)


ゼーナは戸惑い、思わず問いかけそうになる。

しかし、それより早く、リヴェリアが言った。


『……気のせいだ』


(……え?)


『疲れてるんだろ、ゼーナ。もう今日は寝ろ』


やけに軽い口調。

けれど、その声の奥に、微かに痛みのようなものが滲んでいるのを、ゼーナは感じた。


(……教えてくれて、ありがとう)


結局、ゼーナはそれ以上、踏み込めなかった。


『別に、礼なんかいらねぇよ』


ぶっきらぼうな応え。

それでも、不思議とあたたかい響きを持っていた。


ゼーナたちは、まだ何も知らない。

互いの素性も、過去も、目的も。けれど、二人は今ここにいる。それだけは確かだった。


ゼーナは深く息を吸い、空を見上げた。


もうすっかり夜だった。

葉の間からこぼれる光は、薄く白い月光に変わっていた。


明日も生きなければならない。

この森を出るために。


ようやく、ここから本当の一歩が始まる。

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