初依頼③
カイルはゼーナが血抜きを始めたのを確認し、念のため周囲を見回していた。
(……ん?)
ふと、地面に違和感を覚える。
ひとつの“掘り跡”。だが、その規模が明らかにおかしい。
先ほどのグリンボアの痕跡と比べても、掘り返された範囲も深さも、倍はある。
カイルは眉をひそめ、慎重に足を運ぶ。
土には新しい爪痕のような線がいくつも走り、まるで地面を抉ったように荒れている。
(……別の魔物がいる……?)
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
カイルは即座に振り返り、声を上げた。
「ゼーナ、やっぱり今すぐここを離れたほうが――」
その言葉は、最後まで発することが出来なかった。
衝突音と共に、ゼーナの悲鳴が上がる。
「わああああああああ!」
目の前で、ゼーナの体が宙を舞う。
弾き飛ばされたように、グリンボアごと吹き飛び、森の奥へ消えていった。
そして、ゼーナと入れ替わるようにカイルの目へ飛び込んできたのは――グリンボアの体格を上回る二体の獣だった。
「……マジかよ」
カイルの喉が低く鳴る。
想定外の事態だった。
グリンボアの近縁種――ブルーボア。
より頑強な筋肉と長い毛皮を持つ。その靱やかで深い毛が森での静音性を高め、素早く動きつつも風の抜ける様な音しか出さない。
二人が突進の気配に気づくのが遅れたのも、その性質ゆえだ。
カイルはブルーボア二頭と対峙する。
群青を帯びた毛並みが陽を反射して鈍く光り、
その隙間から覗く黒鉄のような甲殻が硬質な光沢を放つ。
一体のブルーボアが、低く唸りながら地を蹴った。
湿った土が弾け、巨体が弾丸のように突き進む。
狙いは――カイル。
「来るか……!」
金属と骨がぶつかるような衝撃音。
剣を両手で受け止めた瞬間、腕に鈍い痛みが走る。
圧倒的な重量。
まるで岩そのものが落ちてきたような一撃に、靴底が地面に沈む。
歯を食いしばりながらも、カイルは両手で剣を支え、受け止める。
だが、ブルーボアは後退せず、鼻息を荒げながら力任せに押し込んでくる。
それでも、何とか踏みとどまり耐える。
だが、その視界の端で、もう一体の影が動いた。
青黒い巨体が、森の奥へ――ゼーナの吹き飛ばされた方向へ駆けていく。
「……っ、ゼーナ!」
声が漏れる。
カイルは歯を食いしばり、視線だけでその後ろ姿を追う。
しかし、すぐに意識を前へ戻す。今の一瞬ですら、隙を見せれば命取りになる。
相手はブルーボア。
本来なら銀級冒険者が複数人で挑むような討伐対象。
単独での対処は、危険とされる魔物だった。
「……やるしかない」
カイルは呼吸を整え、力を込める。
両前足を受け止める剣の刀身に、淡い風の魔力が収束する。
握る手の感触が軽くなり、空気が巻き上がる。
「――《ウインド》」
放たれた風の衝撃が、のしかかる前足を弾き返した。
その隙を逃さず、カイルは後方へ飛び退いて間合いを取る。
カイルは距離を取ったまま、ブルーボアを睨み据えた。
呼吸を整えながら、体の奥に残る魔力の感覚を確かめる。
(……残りは《ウインド》二回分。もしくは《ウインドランス》一発が限界だな)
どちらもカイルの剣に内包された風の魔法だが、性質が違う。
《ウインド》は風の魔力を一瞬だけ爆発させ、剣撃に勢いを加える。
一方の《ウインドランス》は、風を収束させて放つ貫通の一撃――。
(短期決戦だ。狙うのは一撃)
ブルーボアが前足を踏み鳴らし、低く唸る。
鼻先から立ち上る白い蒸気が、森の空気を揺らしているようだった。
本気で突進されれば防ぐ術はカイルにない。ならば、加速する前に叩く。
カイルは地を蹴った。
風が巻き、地面の枯葉が舞い上がる。
ブルーボアの眼が一瞬だけ驚きに見開かれる。
「――ッ!」
跳躍。
勢いのまま、上段から剣を振り下ろす。
鈍い光が走り、刃がブルーボアの顔面を切りつける。
だが、厚い毛皮と脂肪に阻まれ、切れたのは表面の皮だけで、わずかな血が飛び散る。
(……クソッ!手応えがない!)
ブルーボアの毛は長く、層になって覆っている。
衝撃を吸収し、刃を通さない。毛皮そのものが一種の鎧のようだった。
切りつけられたブルーボアは仰け反り、その反動のまま――頭を振り下ろした。
鼻先がハンマーのように一直線に迫る。
回避より早く、カイルは剣を構え直し、切り上げるように振る。
「っ――らぁっ!」
鼻面を斜めに裂く手応え。だが、止まらない。
ブルーボアの勢いがあまりに強く、衝撃が受け止めきれずに弾かれる。
「ぐっ……!」
息が詰まり、視界が揺れる。
衝撃に耐えきれず、カイルの体は地面に叩きつけられた。
土が跳ね、鈍い音が響く。
咄嗟に受け身を取り、転がりながら立ち上がる。
息が荒く、体を打ちつけた部分が焼けるように痛い。
それでも、目は逸らさない。
ブルーボアは鼻先を振り、血を散らしながら突進の構えをとる。
カイルは構えを整えると、再び踏み込んだ。
風を切る音とともに、剣が閃く。狙うは――顔面。
刃が額を浅く裂き、血が飛び散った。
だが、ブルーボアは仰け反るかと思えば、すぐに反動の勢いをそのままに頭を振り下ろしてくる。
「――ッ!」
カイルは後方へ滑るように避け、再び踏み込む。
鋭い金属音が響き、毛皮の奥を浅く切り裂く。
だが、その傷は浅い。致命にはほど遠い。
(まだだ……!)
カイルは歯を食いしばり、さらに連撃を重ねた。
斬り上げ、斬り下ろし、横薙ぎ――
剣閃が幾度も閃き、青黒い毛を舞い散らせる。
ブルーボアも黙っていない。
振り回された頭が岩のような重さで迫り、前足が土をえぐりながら叩きつけられる。
その一撃一撃が、受け損ねれば即死になりかねない。
「っ……ぐっ!」
衝撃波のような風圧が頬をかすめ、肌が切れる。
それでもカイルは止まらない。
何度目かの攻撃の末、剣の切っ先が肉を抉り、血飛沫が視界を赤く染めた。
急な激痛に襲われたブルーボアが大きく後退する。
ブルーボアは何が起こったか分からなかったが、カイルの攻撃から初めて命の危機を感じた。
その喉奥から、森を震わせるような咆哮が響いた。
地面が震え、落ち葉が跳ねる。突進の構えだ。
だが、カイルは動かない。
両脚を固め、剣を中段に構え、迎え撃つように身を沈めた。
瞳が細まり、獣の動きを見極める。
「来い……」
次の瞬間、地面が揺れる。
ブルーボアの全力の突進。
巨体が地を割る勢いで迫る。
カイルは剣先を逸らさず、呼吸を止めた。
狙うは一点――何度も斬りつけ、毛を削り取ってきた額。
毛を断ち、防御を薄くするための連撃。
すべては、この瞬間のためだった。
ただ当てるより、相手の全力がぶつかってくる瞬間に撃ち込む。
風の魔力と突進の衝突――それを重ねて、貫通力を跳ね上げる。
(これで仕留める)
風が震え、剣に集う魔力が唸りを上げる。
指先がしびれるほどの圧が刀身に収束した。
「――《ウインドランス》!」
解放。
鋭い風の奔流が、剣先から放たれた。
圧縮された風の槍が一直線に走り、突進してくるブルーボアの額を貫く。
鈍い音とともに、毛皮を、骨を、そして脳を穿つ。
風が爆ぜ、血が霧のように舞った。
ブルーボアの足が縺れ、次の瞬間、巨体が前のめりに崩れる。
突進の勢いそのままに地面をえぐり、体を跳ね上げ、カイルの頭上を飛び越え――背後で、地面を揺らすように落ちた。
カイルはその場で力が抜け、背中から地面へと倒れ込んだ。
湿った土の感触が背に伝わる。
「……ったく、疲れた……」
息を吐きながら、額の汗を拭う。
空を見上げたまま、しばらく動けなかった。
全身が重く、腕は震えている。
「……絶対、リオンに文句言ってやる……」
ぼやきながらも、口元にはかすかな笑みが浮かぶ。
いつもの調子を取り戻そうと、息を整え、ゆっくりと体を起こした。
立ち上がり、倒れたブルーボアを確認する。
額を貫いた穴から血が流れ、巨体はもう微動だにしない。
完全に息絶えている。
「……よし」
安堵の息をつき、ゼーナの方へ視線を向けた
その瞬間。
(――――――ッ!)
空気が、一瞬だけ震えた。
方向は――ゼーナが吹き飛ばされた方角。
ほんの刹那。
だが、その短い瞬間に、何か“得体の知れない気配”がカイルの身体を貫いた。
殺気にも似て、怒気にも似て。
だが、どちらでもない。
言葉にできない重圧が、肌の下を這い上がる。
「っ……!」
カイルの呼吸が止まり、全身が硬直する。
動かない。
ただその“何か”を感じ取った本能が、体を縫いとめていた。
冷や汗が首筋を伝う。
一秒が、やけに長い。
やがて、気配は霧のように消えた。
残されたのは、不気味な静寂だけ。
「……ゼーナ……?」
喉が乾き、声が掠れる。
カイルは一度、深く息を吸い込み、震える足を踏み出した。
「くそっ、何かあったのか……!」
次の瞬間には、森の奥へと駆け出していた。




