虚無①
枝を踏む音が、森の静寂に響く。
少女はゆっくり、慎重に、歩いていた。
背の高い草に足を取られないように、湿った地面に滑らないように、木の根を一歩ずつ確かめながら進む。
相変わらず空は見えない。頭上は枝と葉が幾重にも重なり、昼だというのに薄暗い。
空気はじめじめと湿っていて、呼吸するだけでも体力が奪われるようだった。
少女の喉の奥は、依然として焼けつくように痛い。声は出せない。
けれど、息の仕方、歩き方も、手の使い方はわかる。
そう――少女の身体は、生きるための記憶をかすかに持っていた。
それだけが、少女を前へと進ませていた。
(……食べるものを、見つけないと)
それは、内なる声が言っていたことだ。
とにかくまずは、生きるための“体”を作れと。
食べなければ、死ぬ。動けなくなる。
脱出する術を見つけるためにもこの森で生きていかなければならない。
目の前に広がるのは、得体の知れない植物たち。
細長い葉、赤黒く染まった苔、光を反射する紫の茸。
どれも、見たことがあるような、ないような。けれど、少女の直感に訴えかけてくるものもある。
(これは……ダメ)
少女は危険そうな物を自然に避けていた。
色が鮮やかすぎる。形が歪で。触れるだけでなにか害があるような気がした。
もしかしたらこれが、魔素の影響。内なる声が言っていた“変質”というやつかもしれない。
『お、勘はいいみたいだな』
耳の奥に、ふいに声がした。
『赤と紫のやつは特にヤバい。毒があるし、体内の魔素を暴走させるって話もある。……ま、あんたがどうなるか試したいなら食べてみてもいいんじゃないか。』
(試したく、ない……)
『だろうな。』
内なる声はぶっきらぼうで、適当で、けれど要点だけは押さえてくる。
『あー……そこ、右だ。地面の湿り方が変わってる。水場が近い』
(……水?)
『そう。生きるにあたって水は生命線だからな。幸先いいぜ。あんたのその潰れた声も水飲んでれば治るかもな』
促されるように足を進めると、やがて空気が変わった。
風が冷たくなる。地面の苔がより瑞々しく、踏んだ足から染み込むような感触がある。
数歩先、密集した木々の隙間から、白い光がこぼれていた。
葉の合間を縫うように差し込む柔らかな光。その下で緩やかに、水が流れている。
大きく浅い川だった。
苔むした岩の間を縫うように、水が流れていた。
水面には葉が浮かび、ところどころで光が反射している。
水音は静かだが確かで、森に響くすべての音の中で、もっとも“自然”に近い音だった。
少女は、そっと膝をついて水辺に近づく。
手を差し出し、少しだけ水を掬う。
冷たい。唇を湿らせ、ゆっくりと飲む。
喉に痛みが走った。
けれど、流れ込む水はとても美味しく感じた。
(……生きかえる……)
飲まず食わずであの巨木から降りてきた少女にとって、まさに生き返る様な感覚だった。
喉の乾きは癒えた。痛みはまだ完全には引かないが、少しだけ――声が戻ってきそうな感覚があった。
ふと、水面に映った自分の姿が目に入った。
そこには、10代後半ほどの少女がいた。雪のように白く短い髪が、森の中でもわずかに光を集めてきらめいている。薄い紅色の瞳は、淡く透き通り、顔立ちはどこか儚げだった。
身にまとうのは、無地の白いシャツと、同じく白いズボン。どちらも質素だが、しっかりとした作りで、素朴な布地だった。
(……これが、私?)
見覚えはない。けれど、映る姿は、確かに自分自身なのだと、水面が現していた。
水を飲み終えたあと、座り込んでこれからどうするかを考えていた。
この川周辺を拠点として森を探索するのもいいかもしれない。川の近くなら水を飲むのも、身体を洗ったりするのにも困らない。しばらくのあいだ身を置くには、悪くない場所だと思えた。
だとすると、次の目標はーーー
(……食べられるもの……)
森にある何かが食べられるとは限らない。
だが、水辺には他よりも緑が多い。命が集まりやすい場所ならまだ望みはある。
目を凝らすと川辺の岩陰に、小さな群生があった。
背の低い植物。葉は丸く、先がわずかに尖っていて、色はくすんだ緑。
地味で目立たないが、妙に整った姿をしている。
『お、それは“カーマ草”ってやつだな。味は薄いけど、毒はないし食べられる。……たぶん』
(たぶん?)
『今のあんたが食ってどうなるかは知らねぇけど、まあ、昔は戦争中の非常食にされてたらしいし、大丈夫じゃねぇの』
疑わしい自信に、少女の眉が寄る。
けれど、それでも背に腹は代えられない。
少女は根元から数枚の葉を摘み、恐る恐る口へ運んだ。
噛むと、わずかに苦味と青臭さ。
味と呼べるほどのものではない。
けれど、咀嚼して飲み込むと、体の奥に温もりが広がるような感覚があった。
『どうだ、生き返った気でもするか?』
(……うん。あったかい気がする……)
『食うってのは、そういうもんだ。腹が減ってればそう感じるさ。腹の底に火が灯る感覚。あれが、生きてる証だ』
(でも……なんだろう。ちょっと……寂しい)
『そりゃまあ、“食事”ってやつを期待してたなら、がっかりだろうな。火も塩もねぇ、味気ない葉っぱだ。
だがな――生きるってのは、まず“体をつなぐ”ことからだ』
(……体を、つなぐ)
『ああ。うまいもんを食うのは、余裕のある奴の話だ。まずは死なねぇこと。話はそれからだ』
少女は無言で、もう一枚の葉を口に運ぶ。
さっきよりも苦味が強く感じる。けれど、咀嚼するたび、どこか体が動きやすくなっていく気がした。
『食わなきゃ、動けねぇ。動けなきゃ、生き延びられねぇ。……それだけの話だ。』
(それだけ、って……)
『酷いと思うか?でもな、現実ってのは大抵そんなもんだ。
それに――腹が満たされれば、心だって少しは持ち直す。だから食え。ちゃんと噛め。味なんて考えなくていい』
少しの沈黙のあと、ふいに声が和らいだ。
『……ほんとはな、ちゃんと火を通して、香草なんかも使ってな、湯気立てて食うもんだ。
そしたら、同じ葉でもうまく感じられる。味ってのは、そういう工夫の積み重ねだ』
(……なんか、あなた……食べるの、好きそうだね)
『はっ。嫌いじゃなかったな。昔は、それなりにいいもん食ってたし』
(“昔”?)
『……詮索すんな。今は、“今”の話だ』
声はそれっきり黙ったが、不思議と険はなかった。
むしろ、どこか遠い懐かしさのようなものが、言葉の隙間に漂っていた。
『で、そろそろだ』
(……?)
『あんたの呼び名だよ。さすがにずっと“おい”とか“お前”とか呼ぶのも面倒になってきた』
(名前……)
記憶がないせいか、自分に名前がなかったことすら気づいていなかった。
確かに少女は、“誰でもない”。
『だから、私がつける。――ゼーナって名前だ』
(ゼーナ……)
『私の故郷の言葉で、“ゼロ”とか“空白”って意味だ。……あんたにぴったりだろ?』
(……うん)
無意識に心の中で頷いていた。
けれど、ほんの少しだけ少女の胸の奥がざらついた。
(ゼロ。空白。確かに今の私に似合っているのかもしれない)
でも、だからこそ――「お前には何もない」と告げられたような気がして、胸の奥がわずかに軋んだ。た。
それでも。
今、少女には、何もないからこそ、ここから何かを積み上げるしかない。
そのための“名前”だと思えば、悪くない……そう少女は考えた。
(ゼーナ。私は、ゼーナ)
そう思った瞬間、自分がここにいて、何かを始めようとしているという実感が湧いた。
少女、ゼーナは拠点とした川辺を少し離れ、周囲をぐるりと見て回る。
苔むした岩。陽の光を細く透かす葉の天井。水音が近くにあるだけで、森の表情は少し柔らかく感じられた。
地面にしゃがみこみ、苔や草の感触を指で確かめる。
濡れてはいるが柔らかく、意外にも温かい。
この森の土は、生きている――そんな感覚すらあった。
木の幹に手を伸ばすと、ざらりとした樹皮が指先をくすぐった。
その木は、他よりもずっと背が低く、腕を回せば包めそうな太さだった。
この森にしては珍しく“普通”に近い木だ。
(……こういうのもあるんだ)
この森には異常なものしかいないと思っていた。
だが、全てが異常なわけじゃないとゼーナは思った。
魔素に侵された森の中でも、こうして“触れても平気”なものも、ちゃんとあることに気づく。
(自分で確かめるしかない。何が大丈夫で、何がダメなのか。……食べ物も、もっと探さなきゃ)
ゼーナはカーマ草の残りを思い出し、石の影に戻しておいた葉を確認する。
まだ傷んではいなかった。あと数枚は食べられそうだった。腹の減り具合は、まだよく分からない。
けれど、少しでも身体を保てるものを蓄えておかないといけない。
ふと、枝に絡まった果実のようなものをゼーナ見つけた。
丸く、くすんだ黄色をしていて、表面にはうっすら産毛がある。大きさは拳くらいだ。
慎重に手を伸ばし、枝を折らずに果実だけを摘み取る。
(……これ、食べられるのかな)
『ヒユの実だな』
内なる声が言う。
『食えるぞ。魔素の影響で普通の物よりでかいな。水分が多くて甘い、栄養もある』
手の中で転がすと、ほのかに甘酸っぱい匂いがする。試しにひと口かじると、みずみずしい甘い果汁が舌を濡らした。
(……美味しい)
さっきの草とは違う。ちゃんと“味”がある。
甘さの裏に、少し渋みが残るが、それも心地よい。
『カーマ草に比べたらうまいだろ? こういうのを見つけたら場所を覚えとけ』
ゼーナはもう一個、実を摘み取り、ゆっくりと食べた。
そして、平たい岩に腰を下ろし、空を見上げる。
葉の隙間から、少しだけ光が差し込んでいた。
風が吹いて、森の匂いが変わる。
木の香り、湿気、そしてわずかに花のような香りも混じっていた。