試験①
翌朝――
柔らかな光が、窓の隙間から差し込んでいた。
ゼーナはまぶたを押し上げ、ぼんやりと天井を見つめる。
まだ身体は重く、頭も靄がかかったようにぼんやりしていた。こんなにも整った環境で寝たのは初めてだった。そのせいか、何時もより微睡みを心地よく感じていた。
寝巻き代わりに身につけていたのは、中の皮鎧を外した黒狼装備。
革と布の部分だけを残した軽装状態でも、驚くほど着心地がよく、まるで身体の一部のように馴染んでいた。
ベッドの脇に置いていた黒革のブーツに足を通しながら、ふと視線を落とす。
森や平原を走り回り、何度も倒れ込んだはずなのに、装備には泥一つついていない。
深い黒は失われず、光沢は新品同様に保たれていた。
ゼーナは首を傾げるが、その理由は分からない。
本人は知らないが、魔力を通すことで自動修復がされる際に、清浄が行われる機能が備わっていた。
無意識の呼吸や感情に応じて、微細な魔素が流れ、それが衣服の状態を常に最適に保っていたのだ。
――コツ、コツ。
そんなとき、扉をノックする音が響いた。
ゼーナは少し驚きながら顔を上げ、ゆっくりと扉へと向かう。
扉を開けると、カイルが静かに立っていた。
「おはよう。準備できたら下に来てくれ。軽く食ってから行こう」
「……うん」
ぼんやりとしながらも、ゼーナは頷いて返事をする。
階下の食堂には、香ばしいパンの匂いと湯気を立てるスープが並んでいた。
ふたりは特に言葉を交わすことなく、静かに朝食をとる。
やがて食事を終えると、ゼーナとカイルは無言のまま席を立ち、訓練場へと向かった。
朝の通りは、すでに賑わいを見せていた。
石畳を軽快に走る荷馬車。店先で呼び込みの声を上げる商人。手桶を運ぶ娘と、それを手伝う小さな兄妹。そして交わされる挨拶の声が街の空気を温めていた。
やがて、ギルドの重厚な建物が視界に入った。
昨日も訪れた場所だが、ゼーナは少しだけ首をかしげた。訓練場へ向かうと聞いていたからだ。
「……ギルド?」
だが、カイルは迷うことなくギルドの扉を押し開ける。
「訓練場はギルドの裏手にあるんだ。中から入れる」
「なるほど」
ゼーナは小さく頷き、扉の先へ足を踏み入れた。
朝のギルドは、昨日とは違い、どこか落ち着いた空気に包まれていた。
ざわめきは控えめで、依頼掲示板の前にはまだ人影もまばら。
受付の職員が数名、文書の束を整理し、時折短く声を交わしている。
まるで嵐の前の静けさのような、奇妙な静寂が漂っていた。
カイルは慣れた足取りで建物の奥へと進む。
ゼーナもその後に続いた。
やがて扉を抜け、裏手へと通じる通路を進むと、視界が一気に開ける。
そこには踏み固められた広場が広がっていた。
朝の光が差し込むその場所には、木製の標的や人形が規則的に並べられ、武器の扱いや鍛錬のための器具がいくつも設置されている。
縄の張られたエリアや、複数人で運ぶような重量器具もあり、鍛錬に使われることがすぐに分かった。
その広場のさらに奥――
灰色の石壁に囲まれた、ひときわ目立つ建物がひとつ、静かに佇んでいる。
分厚い扉と、積み上げられた石材の壁。高くとられた天井と、鉄で補強された梁。
ゼーナは自然と足を止めた。
「もしかしてあそこ、で?」
「そう。闘技訓練場って言って、実戦形式の訓練をやる場所だ。ヴァルトさんが待ってる」
カイルの言葉に、ゼーナは息を飲み、小さく頷いた。
扉を開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
中は広く、円形の石造りの空間が広がっていた。中央には踏み固められた土の闘技場。周囲をぐるりと取り囲むように、石の階段席が設けられ、すでに何人かのギルド職員が腰を下ろし、静かに様子を見守っていた。
視線を中央に移すと、そこにヴァルトが立っていた。腕を組み、無言のままこちらに背を向けている。その隣には、灰色のスーツをまとった男――ハロルドが、笑みを浮かべてこちらを見ていた。
一方、少し離れた壁際にはリオンがいた。背をもたれかけ、腕を組んだまま目を伏せ、興味無さそうにゼーナたちをちらりと一瞥する。
ゼーナとカイルが中に入ると、ハロルドが軽く手を上げ、声を張った。
「よし、全員揃ったな。予定通りだ」
その声に、職員たちが顔を上げる。
ハロルドは階段席に目を向け、朗らかな調子で言葉を続けた。
「諸君。既に話は通っていると思うが、今日は実戦形式の冒険者試験を行う。対象はあの嬢ちゃん、“ゼーナ”。嬢ちゃんはヴァルトが任務中に魔物に襲われているところを保護した。詳しい内容は書類を見てくれ」
職員からの視線が、無言のままゼーナに集まる。
視線の色はさまざまだ。興味、猜疑、冷静、無関心――。
ゼーナはその中心に立ちながらも、じっと黙って前を見据えていた。
「ギルドへの登録にあたって、実力を見極めるための場としてここに立ってもらう」
ざわつきこそないが、職員の一人が小さく頷くのが目に入る。
「残りの二人――リオン、カイル。こいつらは……まあ、言ってしまえばお灸だ。先日の任務で少々気を緩めて、拠点に魔物を近づけちまった。試験のついでに、星級のヴァルトさんにボコってもらうってわけだ」
リオンが舌打ちし、カイルは肩をすくめて苦笑する。
ハロルドは少し笑みを深め、ヴァルトの方に顎をしゃくった。
「順番は、ゼーナ、リオン、カイルの順。全員、ヴァルト相手の一対一だ」
視線をゼーナに戻し、やや静かな口調で続ける。
「準備が整い次第、すぐに始めよう。……ゼーナ、お前が最初だ。心の準備ができたら教えてくれ」
ゼーナは小さく息を吸い込み、闘技場の中心に佇むヴァルトをじっと見つめた。
ヴァルトは無言のままゼーナを見据え、一歩だけ前に出る。
「……遠慮は要らない。力試しだ。全力で来い」
その静かな声には、脅しも奮起もなかった。ただ、ごく自然な指示のように聞こえた。
ゼーナは手にした剣を見つめ、小さく眉を寄せる。
「でも……私、真剣しか持ってなくて。怪我とか……」
困惑の色を滲ませたその言葉に、返ってきたのは一瞬の静寂――そして、微かなざわめきだった。
ギルド職員たちの何人かが、思わず目を見開き、他の者たちは口元にわずかな笑みを浮かべる。
冗談だと思ったようだ。中には、小さく鼻で笑った者もいた。
驚きと失笑。それが混ざり合った空気が、場の温度をわずかに変えた。
本気で言っているのか。
そんな疑念が、視線となってゼーナに突き刺さる。
それでも誰ひとり声には出さず、ただ静かに成り行きを見守っていた。
ヴァルトはその様子を当然のように受け止めたまま、ゼーナに向けて言葉を続けた。
「大丈夫だ。並の攻撃じゃ、俺を傷つけることはできない」
ゼーナは冗談でも虚勢でもないと、声の温度と眼差しからすぐに分かった。
「魔物だと思ってかかってこい」
あの襲撃の日から三日。戦闘は一度もなかった。魔素の濃度が薄いこの街でも、身体の奥に蓄えた魔力はすでに満ちている。体調も悪くない。――けれど。
(人を相手に、剣を……)
魔物とは違う。血の通った相手。表情を持ち、声を発し、倒せばそれで終わりでは済まない存在。
その“人間”に、剣を向けることがこんなにも怖いものなのかと、彼女は初めて実感していた。
だが――この場を逃げるわけにはいかなかった。冒険者になり、自分の求める情報を探さなければ行けない。
ゼーナは深く息を吸い、胸の奥に沈んだ迷いを一つ押し込める。
「……準備、できました」
その言葉を受けて、闘技場の入口に立つハロルドが手を挙げる。
「――始めてくれ」
朗々と響くその一言が、闘技場の空気に静かな緊張を走らせた。
それと同時に、カイルとリオンが軽く助走を取り、壁を蹴るようにして跳躍する。身軽に外壁飛び越え、石階段の一段目に腰を下ろす。
観戦の体勢を整えつつも、その視線は真剣だった。
「まずは攻撃だけ見よう。好きに打って来い」
ヴァルトのその一言に、ゼーナの奥底で何かが燻る。
(……舐められてる)
本気で相手にされていない。そんな風に感じたその言葉が、心のどこかで火を灯した。
ゼーナは一歩踏み込み、剣を握り直した。魔力が肉体と二振りの刃へと注がれ、踏み込みと同時に勢いよく振り抜かれる。
だが、その一撃は――わずかに緩んでいた。
ほんの少し。ごく僅かに。剣筋が逸れ、力が抜けていた。
(やっぱり、怖い……)
本気で斬れば、傷つけてしまうかもしれない――そう思った瞬間、無意識に力が緩んでいた。
それでもゼーナの剣はヴァルトの胸元を正確に捉えた。だが返ってきたのは、固い布を押し込んだような、重く鈍い感触だけ。
手応えもなく、血も出ない。
ヴァルトは微動だにせず、そのままゼーナを見つめて言った。
「……これで分かって貰えたか?俺は傷つかん。今度こそ、全力で来い」
その言葉に、ゼーナは驚く。剣で斬られて無傷でいられる人間がいるのか、と。だが、現実に刃が通らなかった以上、本気でやるべきだとゼーナは考えた。
ゼーナは静かに息を吐き、ヴァルトとの間合いを再び取った。
地を蹴り出す寸前、右手をヴァルトに向けて構え、掌を開いた。
「バースト」
低く呟いた瞬間、手のひらから爆風が弾ける。爆音と閃光が空気を裂き、砂煙が一瞬にして視界を覆った。
ゼーナの姿が掻き消えるように消えたその刹那、背後――
「はっ!」
ヴァルトの背中へ、ゼーナの斬撃が襲いかかる。だがその一撃もまた、石を打ったような鈍い手応えと共に弾かれた。
「……いい攻撃だ」
振り返ったヴァルトは、動じることなく淡々とそう言った。
斬撃は届いていない。ゼーナは確信する。 ならば――手加減の余地など、もうどこにもない。
地を蹴る。同時に足の裏から爆風を放ち、体を瞬時に加速させる。
一閃。
次の瞬間には別の角度から、さらに一撃。
爆風と共に放たれる加速斬撃――ゼーナの「バースト」による連撃が始まった。
縦に、横に、斜めに。速度と角度を変えながら、絶え間なく襲いかかる斬撃。 それはゼーナが、ガーディアン戦で見せた本気の連撃だった。
「……おぉ」
階段席から、思わず声が漏れた。
今まで黙って見守っていたギルド職員たちが、微かに身を乗り出し、目を見開いている。驚きと関心の入り混じった視線が、闘技場の中心に注がれていた。
「……速いな」
「いや、違う。爆風を利用した加速。魔法?いや魔刻術か……?」
低く呟き合う声がいくつも交錯し、空気がわずかにざわめいた。
それでも、ヴァルトはただ静かにそこに立ち続けている。
幾度となく振るわれる剣を、身一つで受け止め続けながら――
ゼーナは斬って、爆ぜて、跳ね、斬る。
最初に感じていた人を傷つけることへの迷いは、今や完全に消えていた。斬っても斬っても傷一つ付かない相手の存在が、ゼーナの心から遠慮という感情を奪い去っていた。
だが――
「よし、次は防御を見るぞ。しっかり受けろ」
低く、重みのある声。
次の瞬間、ヴァルトの拳が走った。
ゼーナは即座に反応し、二本の剣でそれを受け止める。
「くっ……!」
衝撃。膂力が桁違いだった。まるで獣に体ごと弾かれたような衝撃が、剣を通して全身に響く。
ゼーナの身体が後方に吹き飛んだ。
「少しずつ上げていくぞ」
そう静かに言い放つと、ヴァルトは無言で追撃を開始する。
巨岩のような拳が連続で襲いかかる。ゼーナはそれらを寸前で躱し、受け、紙一重で逃れていく。
だが、防戦一方の中で、ついに受けきれなくなり、一瞬の隙が生まれた。
「っ……!」
交差した剣が、強かに弾かれた。腕が跳ね上げられ、胴が無防備に晒される。
次の瞬間――
「……っ!」
今までで一番重い一撃が、ゼーナの腹部に叩き込まれた。
だが、彼女は倒れなかった。
一瞬のうちに魔力を胴に集中させ、身体強化で耐えた。
口から短く息が漏れる。視界が揺れる。臓腑が軋むような痛み。
それでも、ゼーナは倒れなかった。
ヴァルトは拳を引き、無言で距離を取った。ゼーナの様子を一瞥し、低く言葉を落とす。
「攻撃に比べて、防御はまだ甘いな」
だがその声の奥――わずかに、感嘆が滲んでいた。
(……完全に落とすつもりだったんだがな。しかし、この戦い方は……)
ゼーナは荒い呼吸を整えながら、視線だけでヴァルトを見据えた。まだ、立っている。まだ、終われない。
ヴァルトが腕を組み直し、穏やかに続けた。
「――奥の手があるなら、最後に見せてみろ」
その言葉に、ゼーナはゆっくりと首を縦に振る。
「少し、準備に時間がかかって……。それでも……いいですか?」
「構わない」
即答だった。
ゼーナは静かに剣を収めた。右の鞘に一本を納め、残った一本を両手で握り、正面に構える。
その柄の下――手の甲から、淡く光る銀の流れが這い出す。手袋の縫い目から滲むように、光の金属が滑るように剣へと移り込んでいく。
メタモライト。
その不定形金属が、ゼーナの魔力に応じて剣を包み、ゆっくりとその姿を変えていく。
刃は厚く、重く、長くなる。片手で扱うには明らかに大きすぎる剣――大剣へと、静かにその姿を変貌させていった。
周囲の空気が変わる。石造りの観客席でも、その異変に気付いた職員たちが、再びわずかに息を呑む。
「なんだあれは?!」
「見たことがない物質だ……」
ゼーナの体には、魔力の光が淡く灯っていた。集中するごとに、手先から、足の先まで、魔力の通りが加速していく。
メタモライトの利点は“変形”だけではない。魔力との適正の高さにより、武器強化との相性は格段に優れている。
ゼーナは、全身全霊の魔力を、脚に、腕に、そして今、握る大剣に――込めた。
これまでのどの攻撃よりも重く、どの動作よりも慎重に。瞳を伏せ、深く息を吐いた。
「……この技、まだ……一度も試したことがなくて……。どうなるか私にも分からない……です」
静かに呟いたその言葉に、ヴァルトは微笑もせず、ただ静かに返した。
「問題ない。見せてみろ」
ゼーナはその言葉を確かに受け取り、笑みを見せる。
魔力が体内で爆ぜ、血液が唸る。
そして――
「はああああっ!!」
(“虚撃解放”)
かつてリヴェリアがガーディアンと星環門を同時に吹き飛ばした“絶虚解放”。その名を一部冠し、ゼーナの今できる全てをぶつける技。
裂帛の気合と共に、巨大な剣が空を裂くように振り上げられ――
ヴァルトへ全力の一撃が、振り下ろされた。




