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忘却の剣、彼方へ  作者: Zero3
第一章
2/15

目覚め


(……ここは、どこ……?)


少女の意識が覚醒する。

しかし、まぶたを開けたはずなのに、目の前には何も映らない。

黒。濃密な、どこまでも重く沈んだ闇が、視界全体を押しつぶすように広がっていた。光の気配すらない。目の奥を手探りしても、微かな刺激すら感じられなかった。


耳を澄ますと、かすかに――本当にかすかに、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。

それは夢の中のようにぼんやりとして、現実との境界線が曖昧になっていく。

続いて、風が木々を揺らす音が頭上に広がる。葉が擦れ合う乾いた音が、ざわざわと不規則に聞こえる。


けれど、目は見えない。体も動かない。


唯一感じられるのは、冷たい地面に押しつけられている背中の感触。

それだけが、少女がまだ“ここにいる”ということをかろうじて証明していた。


(……私、誰、だっけ?)


ぽつりと、心の奥で問いが浮かぶ。

その瞬間、背筋に冷たい何かが落ちてきたような感覚が走った。


思い出そうとしても、なにも浮かんでこない。

自分の名前すら思い出せない。顔も、年齢も、過去も――白紙。


不安と焦りが、じわじわと意識の奥からにじみ出てくる。

考えれば考えるほど、空白は広がっていくばかりだった。

まるで濃霧の中で手を伸ばしても、何ひとつ掴めないかのように。


ただひとつ、確かだといえることがある。

――目を覚ましたとき、すでにこの闇の中にいた。


それ以外は、すべてが謎だった。


助けを呼ぼうとする。誰かに、誰でもいいから、自分の存在を知らせたくて。


「……っ……!」


声にならない音が、喉の奥で詰まる。

空気がうまく抜けず、擦れたような息が口から漏れるだけ。

喉が焼けつくように乾いていて、叫ぶことすらできなかった。


かすかなパニックになり、恐怖が胸を締めつける。

震える指先に意識を向けようとするが、腕は動かなかった。足もだ。

身体が、何かに押さえつけられている。硬く、冷たい、無機質な何か――岩のような、いや、それよりも乾いたような拘束。


手足の自由を奪われた少女は、ただこの暗闇に取り残されている。


「……誰か……」


喉の奥でつぶれた声が、助けを呼ぶにはあまりに心もとない。


それでも、声を出そうとする。

この沈黙の檻の中で、自分が存在するという証を、どうしても残したくて。

身体を捩じると、メキメキと拘束している物が音を立てる。力は入りづらいが、右腕を何とか動かす。指先にわずかな自由がある。


腕を、肩を、無理やりに捩じる。乾いた何かが擦れ合い、ミシミシと音を立てる。硬いものが肌を削るが、構っていられない。


「……っ……ぅ、く……!」


息だけの声が漏れる。喉が焼けつくように痛む。

それでも、もがく。

そして、右腕が強引に引き抜かれた。バキッ、と何かが砕けたような音。

その反動で、他の拘束にも微細な亀裂が走る。


いける――そう思った。


次は顔だ。覆っているものを引き剥がすように、自由になった右手を伸ばす。


指先がざらついた何かに触れた。乾いていて、硬くて、ところどころ崩れている。

迷う暇なく、それを掴み、引っ張る。


バラバラと崩れ落ちる破片。

次の瞬間、視界にぼんやりと光が差し込んだ。


まぶしい……


最初は、ただ白んだだけだった。ぼやけた視界の中で、まぶしさと温かさがじんわりと顔に降りてくる。

目が慣れてくるにつれて、ようやく少しずつ周囲の様子が見えてきた。

体を覆っていたのは、木だった。枝、根、のような断片――枯れ果て、朽ちかけた樹木の中に、少女は埋まっていた。

視線を動かす。大きな、曲がった壁が、少女を取り囲んでいる。

ふと鼻を突く、古い木のにおい。湿った苔と、長く放置された廃材のような匂いが、微かに混じっていた。

削れたような木のささくれ、虫食い跡のような穴、そして亀裂が幾重にも走る壁。真円ではないが、ぐるりと囲まれている。円筒状に近い、奇妙で、かなり広い空間。


少女が拘束されている面は平らだ。天井は高く、上がどうなっているのかは分からない。円筒の内側、真ん中に少女がいる。


大きな木の中心にできた空洞に閉じ込められていた。


壁の一部、木の内側に走った大きな亀裂。その隙間から、光が差し込んでいる。

最初に感じたまぶしさはあの光だ。


残りの拘束を無理やり振りほどく。その光に導かれるように、ゆっくりとぎこちない動きで裂け目へ向かう。


裂け目へと顔を近づけ、そこから外を覗く。

緑。濃い影。揺れる梢。――そして、驚くほどに大きい。


裂け目の向こうに広がっていたのは、無数の幹。

太く、荒れた樹皮をまとい、遥か上空へと枝を伸ばす巨木たちが、視界いっぱいに並び立っていた。


どの木も、自分の目の高さと変わらない、あるいはそれ以上に高い位置で枝を揺らしている。

まるで、地面という概念そのものが存在しないかのように。


空間は、静かに呼吸していた。風が木々の間をすり抜け、梢をわずかに震わせるたび、ざわりと音が返ってくる。


ここは……森なのだろうか。

だが知っている森とは違う。ひとつひとつの木が、常識をはるかに超えた大きさで、まるで自分が小さくなったような感覚に少女は陥った。


見下ろしても地面はない。見上げれば、さらに高い枝葉の天井が霞んでいる。

どこまでが木で、どこからが空なのかさえ、境界が曖昧だった。


(……なんなの、ここは……)


裂け目の向こうに広がる異様な森を見つめながら、しばし言葉も思考も出てこなかった。

目覚めと同時に突きつけられた現実は、あまりにも非現実的だった。

裂け目から離れ、座り込む。


目覚めてから、身体の中に残り続ける怠さと寒気。

感覚は鈍く、まるで何日も眠り続けていたあとのようだ。


裂け目の内側に座り込むと、木の内壁の冷たさが背中に伝わる。

しかし、硬く乾いた木肌の感触すらも、今は安心材料のひとつだった。


しばらく、ぼうっとしていた。何も考えられず、ただその場に存在しているだけ。

時間の流れはつかめない。

光は差しているが、枝葉にふさがれ太陽は見えない。


現状をどうにかしなければ行けないと心の中では思っていた。

しかし、“何もわからない事”が恐ろしかった。

ここがどこで、なぜこんな場所にいるのか。

どうして、記憶が何もないのか。

なにもかもが曖昧で、自分の輪郭すら失っているような感覚。


足を抱えて縮こまり、少しだけ体を温めようとした。

喉は渇いて、口の中が粘ついていた。腹も空いているのかどうか、判然としない。

痛みはないのに、体中が重く、何かに押し潰されそうだった。


(……誰か……いないの……?)


声は出ない。けれど、その問いだけが心の中で反響する。

返ってくるのは、風が通り抜ける乾いた音だけ。


どれくらいそうしていただろう。

眠っていたのか、ただ時間が過ぎていただけなのかもわからない。


けれどふと――「ここにずっといてはいけない」という感覚が、頭のどこかに浮かんだ。

根拠はない。ただ、このまま何もしないでいると、意味もなく死んでしまうと考えた。

その考えが、徐々に胸の奥に染みこんでくる。


ゆっくりと身体を起こす。

立ち上がった拍子に視界が揺れ、膝が少し震えたが、それでも、目の前の風景がはっきりと映った。

裂け目の足元を見る。

そこに絡みつく、太い線――ツタだ。


自分が目を覚ましたこの巨木には、まるで蛇のように絡みついた無数のツタや枝が張り巡らされている。

それは裂け目のそばにも伸びてきており、巨木の側面に巻き付くようにしている。

太さは、普通の木の幹ほどもある。触れてみれば、硬く、しっかりと締まった感触が掌に伝わる。

乗れるかもしれない。


(……行くしか、ない……)


ここにいても、誰かが助けに来る気配はない。そもそも今のところ少女以外に人の気配はない。

なら、自分の足でここを脱出するしかないと少女は考えた。


裂け目から身を乗り出すと、風が頬を撫でた。

高所を吹き抜ける風にぞくりと震えながらも、細いツタに手をかけ、そっと足を裂け目の外へと滑らせる。

風が下から吹き上げ、肌に冷たくまとわりつく。


(大丈夫……ゆっくり……)


足元を確かめるように、ツタや枝を足場に移動する。ぎしりと音はするが、しっかりと体を支えてくれる。

息を整えながら、ゆっくりと、足を進ませる。


木々の間には絡み合うように巻き付いたツタや枝が、自然の足場を形成している。

どこまで続いているのか、どこに繋がっているのかも分からない。

だが確かに、森を構成する無数の幹と幹のあいだには、枝やねじれたツタが網の目のように張り巡らされていた。

そのどれもが太く、上を歩いてもほとんど影響がないほど頑丈だった。


少女はできるだけ丈夫そうな道を選び、慎重に移動していく。

振り返れば、自分がいた巨木の裂け目が、もう随分と上の方にかすんでいた。


空は見えない。下った分光はさらに薄くなってきた。

見上げれば枝葉の天井、見下ろしても同じく枝葉の道の連続。

この森には、空も地面も存在していないかのようだった。


そして――不思議なほどに、静かだった。


風が枝を揺らす音はある。だが、それ以外の生命の気配がほとんどない。

下り始めて少し経った頃に小さな虫が一匹、ツタの裏側を這っていくのを見つけた。ようやく何か“生きているもの”の存在を確認できた。

それ以外にはたまに、目の端を羽虫が横切る程度。動物の姿はまったくと言っていいほど見当たらない。


それなのに、森は確かに“生きている”気配に満ちていた。

どこかで見られているような感覚すらある。

気のせいだと打ち消しても、背中のどこかがうずく。


どの方向に向かっているのかもわからないまま、枝とツタの上を慎重に移動し続ける。

たまに枯れた樹皮がぱきぱきと音を立て砕け、つまづくような事もある。

息を詰めるようにして、ただ前へ。




しばらく降り続けるうちに、足元の森が、ほんの少しだけ開けてきた。

密集していた幹と幹の間に、わずかな隙間が生まれ、そこから遠く、緑の地表がちらちらと覗き始める。


自然の道に塞がれていて、見えずらく、距離感はつかめない。けれど、確かに“地面らしきもの”がある。

どこまでも幹しか見えなかったこの世界に、ようやく地面が見えた。


更に下に降りられそうな場所を探し少しづつ降りていく。


(いける……このままなら、いける……)


希望が、ほんのわずかに胸に灯る。


だが――


ふと、足元が、微かにぐらついた。


(……あれ?)


次の瞬間、バキッ、と何かが砕ける感触。

足場にしていた枝が、長い年月で枯れ、内側から崩れたのだ。

体が傾いた。掴んでいた枝も、あっけなく折れる。


「――っ!」


声は出ない。喉が枯れているせいか、驚きのせいか。

重力に引かれ、身体が落ちる。

風が、顔を叩く。視界がブレる。

どこまで落ちるのかもわからない。ただ、抗えない。

途中、枝葉の道に何度か衝突するも、それもすべて頼りなく砕け散る。

落ちるまで遠くに見えていた地面がそこまで来ている。

もう間に合わない。


もうダメだと思った次の瞬間――


少女の体が、勝手に動いた。

意識とは無関係に、腕が、足が、自分の意思とは関係なく動く。


(なにこれっ!……どうなって――


どん、と爆発にも似た音が身体を駆け抜ける。

大地に叩きつけられた、はずだった。けれど、痛みはない。


地面が、ひび割れていた。

しかし少女は立っていた。それも無傷で。

足元から広がる粉塵。割れた地面。膝を曲げ、右手を地に突き刺すよう――まるで、少女が地面を打ち砕いたかのように。


(……え?)


理解が追いつかない。息だけが荒く、胸が上下する。

でも、自分の意思でこうしたわけではない。

着地の瞬間、あの体を強制的に動かされているような感覚。あれは一体...

そう考えていたその瞬間


『なにやってんだ...!マヌケッ!』


頭の奥で、不意に声が響いた。

それは自分の思考とも、外の音とも違う、妙にくっきりとした感触を持った“誰か”の声だった。


驚きと混乱に体が跳ね、尻もちをつく。

地面に尻をついた衝撃が遅れて感じられる。

骨に伝わる感触がやけに生々しく、自分が今も“生きている”ことだけが、かろうじて理解出来た。


(な……に……?)


喉から漏れたのは、ほとんど音にならない掠れ声。

誰かに問いかけたかった。けれど、声はまだ戻ってきていない。

焼けついたような喉の痛みに、ただ息を吐くしかできなかった。


『無理して喋んな。聞こえてっから』


その声は、投げやりなようで、どこか人間味のある調子だった。

若くも老いてもない、低く落ち着いた声。粗野ではあるが、怒っているわけではない。


『ったく……本当は黙って見てるだけのつもりだったんだよ、こっちは。あんたがそのまま頭から地面に突っ込んで死ぬんなら、それもまあ“しかたなかった”ってことでな』


『でも……やっぱ、見てらんなかったわ』


自嘲気味なその言葉に、なにか感情の揺らぎが見えた気がした。

けれど、その真意までは分からない。


(誰……なの……?)


問いが、心の中に広がる。

少女の問いに対して、声は少し間を置いて答えた。


『“あんたの中の声”。頭の奥か、心の深いところか……ま、どこでもいい。そういう存在だと思っとけ』


(中の声?……)


意味がわからない。

けれど、それを否定できるだけの情報も持っていなかった。


それに――

体が勝手に動いて、ありえない形で着地したあの瞬間。

あれは、自分の意思じゃなかった。


(……あなたが……?)


『ああ。ちょっとばかし無理したけどな。』


その言葉に、胸の内がざわめく。

だったら――もう少し、助けてくれればいいのに。


(……これからも……助けてくれるの?)


一拍の沈黙。

それから、はっきりとした拒絶が返ってきた。


『無理だな。さっきのアレで、だいぶ力を使っちまった。もう何もできない。口だけだ、今できんのは』


声の調子が変わった。冷たいというより、本当に無理と言うような感じだ。


『いいか、私は何でも代わりにやってくれる存在じゃない。今はただ、“あんたと一緒にいる”ってだけだ。だから、甘えるな』


それは拒絶だった。でも同時に――道標でもあった。


(……何も、わからないの……)


『だけど、色々教えてやる。せっかく一度助けた命だ。生き残る手助けくらいはしてやるよ。』


声の温度が、わずかに戻る。


『この森は魔素が溢れる森みたいだ。私もここが何なのか、今は分からない』


(……まそ?)


聞き慣れない単語だった。

けれど、言葉の響きだけは、妙に耳に残った。


『魔素ってのは、不思議な力の源だ。魔法を使ったり不思議な現象を起こしたりな。それが空気中に漂ってる。見えないけど、確かにそこにある“力”。この森は、その魔素が異常なほどに濃いんだよ』


(……魔法って……なに……?)


ふと浮かんだ疑問を心の中で呟く。

すると、声は少しだけ驚いたような、苦笑したような響きを返してきた。


『……ああ、そうか。記憶がないんだったな』


『魔法ってのは、魔素を色々な力に変える技術だ。使用には知識と訓練が必要になる。この森じゃ魔素が濃すぎて動物や虫までもが、普通より危険な状態になってる。それに、勝手に何かが起きることもある。風が切り裂く刃になったり、木が動いたり、虫の毒が魔素に反応して即死レベルの猛毒になったりな』


(そんなの……)


生きていけるわけがない――

けれど、それを言葉する間もなく、声が続けた。


『だからまず言っとく。今のあんたは、無力だ。力もねぇ、記憶もねぇ。』


(じゃあ、どうすれば……)


『まずこの森で生きるための力をつけるんだよ。食う。飲む。動く。休む。それができなきゃ、話にならねぇ。この先、森を生きて出たかったら、“生きられる身体”を作ることが先決だ。脱出はそのあとだ』


少女の胸の奥には、できるはずがないという不安がこびりついていた。

それでも、立ち止まっていたら本当に何も始まらない気がした。


『私はほとんど何もできない。でも、あんたが前に進もうとするなら手を貸してやる。まぁ、手はないんだが』


皮肉のような事も言っているが、この声の言う通りだと少女は思った。

少女は、立ち上がる。

ここがどこなのかも、自分が何者なのかも、何ひとつ思い出せない。

けれど、それでも――このまま終わるのだけは嫌だった。


生きたいと思った。


たったそれだけが、今の彼女を支えるすべてだった。

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