帰還①
魔門から少し離れた位置に到着したヴァルト率いる調査隊は、一度立ち止まり、周囲の様子をじっと見渡した。
見渡す限り平原が広がっていて、柔らかな草の匂いと初夏の風が、昨日までと変わらぬ日常を感じさせる。だが、そのはずなのに、遠くの地平線近くに見えるはずの開かれた魔門は、あまりに大きく、まるで今そこに迫っているかのように見えた。
星級冒険者、ヴァルトは背中の六角金棒を無造作に担ぎながら、ゆっくりと地平線の先を見つめた。
その背後には、金級冒険者八名がそれぞれの武器を構え、警戒を怠らぬよう立ち止まっていた。
「よし。ここから周囲を調査する。普段と変わったところがないか、細かい部分まで注意して見てこい」
低く響くヴァルトの声が、冒険者たちに鋭く通った。
その指示を受け、冒険者たちは二手に分かれた。四人ずつの班になり、それぞれが違う方角へ散開していく。
一人は地面に屈み、土の湿り気や草の状態を確かめる。別の者は目を細めて遠くの草むらを睨みつけ、風に揺れる草が何か隠していないかを探る。
倒れた草や動物の足跡、小さな羽虫の飛び方まで、わずかな違和感も見逃さぬよう、それぞれが入念に目を光らせていた。
ヴァルトは一歩も動かずにその様子を見届けていた。
その表情は険しくはないが、視線は鋭く、いつでも動けるように身を構えている。
「こっちは、爪痕だな……。浅いけど、地面を抉る勢いだ」
ひとりが岩陰を指さす。
石の表面に、狼型の魔物が残したと思しき爪痕が刻まれていた。
「見ろ、血の跡もある。……こいつ、今も近くにいるかもしれないぜ」
別の隊員が、地面の草をかき分けて足跡を確認していた。
「妙に深い跡だな。普通の狼型じゃねぇ、デカイぞ」
その声に呼応するように、茂みの奥から低いうなり声が漏れた。気配に気づいた隊員たちは素早く隊列を組み、剣と盾を構える。
「来るぞ、気を抜くな!」
調査を続けていた隊員の一人が声を上げた。
「この辺り、妙に魔物の足跡が荒れてたな。普段のより大きい気がしたが――」
その言葉が終わる前に、赤い瞳を光らせた狼型の魔物が飛び出してきた。
普段見る個体より二回りは大きく、体表のあちこちに赤黒い瘤が浮き出していた。棘のような突起もあり、明らかに変異している。
「……やっぱりか。こいつ、変異してやがる!」
険しい声があがったが、隊員たちはすぐに立ち直る。
「四人いりゃ問題ねぇ。囲め!」
一人が盾で一撃を受け止め、その反動を利用して後ろに跳び退く。もう一人が槍で間合いを詰め、残りの二人が左右から一気に斬りかかる。
幾度かの攻防の後、魔物は苦鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
「多少厄介だが、これなら問題ないな。周囲の確認を続けろ」
誰かが冷静に指示を出す。
再びそれぞれが周囲を散開し、調査を進めていった。
もうひとつの班が調査している場所では、蔓のように絡み合った植物の根元に、赤黒い瘤がいくつも蠢いているのが見つかった。瘤は脈打つように膨らみ、今にも何かを吐き出しそうな不気味な気配を放っている。触手のような蔓が地面を這い、次の瞬間、素早く伸び上がって冒険者たちに襲いかかってきた。
「うわっ、動いたぞ……!」
声を上げた冒険者の目の前で、触手が鋭く振り下ろされる。彼はすかさず後方へ跳び退き、間一髪でそれを避けた。
「魔物化してやがるぞ、この植物……!」
すぐさま周囲の仲間たちが駆け寄り、剣と炎の魔法が同時に振り下ろされる。鋭い剣閃が触手を斬り裂き、炎の魔法が根元を焼き払う。赤黒い瘤が悲鳴のように弾け飛び、植物型の魔物は抵抗する間もなく崩れ落ちた。
――――
「ここら周囲の調査、もう少しで一息着きそうだな」
調査を終えた冒険者たちが、いったんヴァルトのもとに戻り進捗を報告する。一人が額の汗を拭いながらそう言った。その声が終わりきらないうちに、遠くで不自然に揺れる動きがあった。
「……っ!」
全員の視線が一斉に影へ注がれる。その影は大きく、次第に鮮明に見えてくる。そして、地面を踏み割るような重く湿った足音と、獣のものとは思えないほど低く濁った唸り声が耳に届いた。
現れたのは、狼型の魔物だった。 だが、その姿はこれまでの変異した魔物とは比べものにならないほど異様だった。
皮膚は赤黒いまだら模様にただれて裂け、そこからどろりとした液体がにじみ出ている。膨張した筋肉は破裂寸前のように脈打ち、部分的に骨が飛び出している箇所すらあった。無数の棘のような突起が背中からはみ出し、呼吸のたびに苦しげな泡を口元から吐き出している。
その目は濁った血の色で、瞳孔は潰れたように開ききっていた。理性の欠片すら感じられず、ただそこにあるのは破壊衝動の塊のようだった。
「――っ!」
金級冒険者の一人が剣を構えたが、その視線の先に立つ影――ヴァルトが、一歩前に出た。
「下がれ。こいつはお前らだと多少手を焼くだろう」
低く太い声が隊員たちを下がらせる。
次の瞬間、狼型の魔物が地を蹴り、咆哮をあげながらヴァルトへ飛びかかってきた。巨体は宙を舞い、破裂しそうな筋肉が波打つように震える。
その刹那――。 ヴァルトの六角金棒が轟音を伴って振り抜かれた。 風を裂き、鉄塊の一撃が魔物の頭部を撃ち抜く。骨の砕ける鈍い音と、肉の潰れるような音が同時に響いた。
魔物の巨体は弾き飛ばされ、血飛沫をまき散らしながら地面に叩きつけられた。砕けた部分から赤黒い液体が溢れ出し、頭部を失ったその巨体は動かなくなった。
「――よし、周囲の調査はこれで十分だ」
ヴァルトの声は低く、普段と変わらない口調だった。
だが、その一振りには、金級冒険者八人が束になっても多少は手こずったであろう相手を、一瞬で沈めるだけの力があった。
その姿を目の当たりにした金級冒険者たちは、息を呑み、星級と金級の間の絶望的な実力差を痛感させられた。
「やっぱり、星級は……桁が違うな……」
誰とも知れぬ声が、震えるように呟かれた。
――――
日は傾き、草原の向こうが赤く染まり始めていた。
調査隊は一日の任務を終え、拠点へと続く道を静かに戻っていた。
「今日の調査はここまでだ。陽が落ちる前に、一度拠点へ戻るぞ」
ヴァルトの低く太い声が、緊張を緩めるように響いた。
「了解!」
冒険者たちはそれぞれの武器を収め、帰還の準備を整える。その歩みには、張り詰めていた緊張がわずかにほどけたような雰囲気があった。
拠点の柵が見え始める頃、誰もが少しだけ表情を柔らげた。
「意外にハードな調査だったな」
誰かが短く呟き、それに誰も返事はしなかったが、その言葉が胸の中に静かに広がった。
ヴァルトは振り返ることなく、一歩先を進みながら声を落とした。
「……明日も気を抜くな」
その一言で、ほどけかけた気持ちを再び引き締めながら、仲間たちは拠点を目指して足を進めた。
拠点が見え始めた頃、入口付近に転がる異様な死骸が視界に飛び込んできた。
赤黒く変色した皮膚に浮き上がる瘤、破裂しかけた筋肉、滲むように流れ出る赤黒い体液。
その姿を見て、ヴァルトは静かに眉を寄せた。調査中にヴァルトが始末した変異体にそっくりだったからだ。
これを相手にするなら、金級冒険者数人でも多少は手こずっただろう。
「カイル」
短く呼ばれ、拠点の入口にいた銀級冒険者ははっとして振り向いた。
息をのみ、一歩前に出る。
「……はい」
「この死骸について、説明を頼む」
カイルは息を整えるように拳を握りしめ、ほんの少し唇を噛み、前を向いた。
「調査隊が出ている間に……魔物の群れと、あれが拠点に近づいてきました。俺とリオンで応戦しました……」
声が途切れる。
指先が、微かに震えていた。
「……俺たちで何とか瀕死まで追い込めましたが……詰めが甘かったです。油断してしまい、あれを拠点に近づけてしまいました」
言い切った後、カイルは悔しさを押し隠すように口を引き結んだ。
その視線が、一瞬柵の向こうへ向かい――すぐに逸らす。
「それで……」
ヴァルトの低い声が確認するように問う。
カイルはわずかに目を伏せた。
その横顔には、後悔と自責の念が張り付いている。
「はい。あの保護された子が拠点から飛び出して来て、トドメを刺してくれました。あの子がいなかったら……」
その言葉には悔しさが滲み、自分の失態を責めているようだった。
「……はっ、余計なことまでペラペラ喋りやがって」
拠点からリオンが姿を見せ、苛立たしげに吐き捨てた。その視線は鋭く、感情を隠さない。
「言っとくがな、あの魔物、俺があと少しで仕留められたんだ。こいつが突っかかってくるせいで油断したが……あのガキが割り込む前に片付けられたはずだ」
ヴァルトは二人からの報告を静かに聞き、低く息を吐く。
「それで、その少女は」
「あの子はトドメを刺した直後に意識を失ってしまいました。治療師によると魔力の使いすぎによるもので命に別状はないそうです」
カイルの報告に、ヴァルトは目を細めた。
その一瞬、瞳に鋭い光が宿り、厳しさを滲ませた。
「わかった。……お前たち、よくやった。ただ……あの子を保護対象として受け入れている以上、保護できなったことついては、責任を問う」
ヴァルトの声は淡々としていたが、その言葉の重みは、二人にしっかりと届いた。
「お前たちには今後も任務がある。ここで処分することはしないが、この件は後日、必ず処理する。分かったな」
カイルは深く頭を下げた。
リオンは不満げに鼻を鳴らし、目を逸らしながらその場を離れていった。
――――
夜の帳が降り、拠点のテントの中に淡い明かりが灯る頃、ゼーナは静かに目を開けた。
視界の端に焚き火の灯りが揺れ、どこかほっとした気持ちが胸を満たす。
全身がまだ重く、息をするたびに微かな疲労が滲む。
そのとき、テントの入口を開けてヴァルトが姿を現した。
星級冒険者である彼の背に六角金棒がいつものように背負われている。
その目は鋭くゼーナを観察する。
「目が覚めたか」
低いが穏やかさを感じさせる声だった。
ゼーナはゆっくりと上体を起こし、ヴァルトを見た。
「……うん」
ヴァルトはゼーナの前に腰を下ろすと、視線を真っすぐ向けて言葉を選ぶように続けた。
「まずは、礼を言う。あの魔物を止めてくれなければ、拠点は危なかった。本当に助かった」
ゼーナは少し俯いて、戸惑いを隠せなかった。
「……えと、私は……」
声は小さく、続きは言葉にならなかった。
ヴァルトの瞳が、一瞬鋭く光を放つ。
保護対象である少女が、瀕死とはいえ変異体を仕留めて見せた――。
だが問い詰めるべきかどうか、葛藤が胸をよぎった。
(いずれ分かることだ……今は、自分の勘を信じよう)
「同時に、謝らせてほしい」
声が一層低く沈み、その奥に滲む苦渋が伝わってくる。
「お前は俺たちが保護すると約束した。それが俺たちの役目だったが、結果的にお前に危険が及んでしまった。俺たちの責任だ」
ゼーナは慌てて顔を上げた。
「そんな……私が勝手にしただけで…」
ゼーナは急な謝罪に驚く。自分はヴァルト達から見れば謎の存在であるが故に、ここまで誠実な対応をされると思っていなかったからだ。
ヴァルトはその困惑している姿をしばし見つめると、深く息を吐いた。
「明日も任務は続く」
声を落とし、ヴァルトは言葉を続けた。
「だからしばらくは、ここで保護されていてほしい。この調査任務が終わるまで、この拠点で待っていて欲しい」
ゼーナは小さく首を振り、ヴァルトをまっすぐに見た。
「……私も、調査に行きたい。もしかしたら、私のことも分かるかもしれないって……」
その言葉に、ヴァルトの胸に再び葛藤が走る。
(この娘は多少戦えるようだが……)
この少女を連れていくのは、戦場に出すということだ。もしかすると危険な目に会う可能性がある。だが、この少女を、己の目で見極めるのにはいい機会かもしれない。
ヴァルトはそう感じた。
ゼーナは、ヴァルトの表情の揺らぎを感じ取っていた。
自分の申し出が、どれほど無茶で、迷惑になるかも分かっている。
けれど、あの雷光の槍さばきや仲間たちの戦い方を、この目で見てみたかった。
(あれは、リヴェリアが語っていた“魔法”というものかもしれない)
ゼーナは知りたかった。あの力を、冒険者たちの強さを、そしてこの世界のことも知っていかないといけない。
それに、この調査について行けば、もしかするとアストリアに何があったのかも分かるかもしれないから。
「……分かった」
ヴァルトはゆっくりと言葉を吐き出すように答えた。
「同行は許す。ただし、俺の指示には必ず従え。独断で動くことや勝手な戦闘は絶対に許さない」
ゼーナの瞳が輝き、真剣に頷いた。
「うん……!」
焚き火の影がテントの布を淡く照らし、夜の静寂に二人の決意を溶かしていった。