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忘却の剣、彼方へ  作者: Zero3
第一章
15/28

外②

ゼーナが草原を歩き始めてから、しばらくの時間が経過していた。


空は高く、どこまでも澄みわたっていた。遠くの雲がのんびりと流れていくさまは、まるで別の世界に迷い込んだかのようだった。森や地下で感じた閉塞感とは違い、風の匂いも音も、すべてが新鮮だった。


だが、その広さが逆に孤独を際立たせていた。


(……寂しい)


そんな感情を、ゼーナが抱いたのは久しぶりだった。


リヴェリアの声がもう聞こえないこと。誰とも言葉を交わさないこと。ただ広がる空が、彼女にとっては少しだけ広すぎた。


ゼーナは小さく息を吐くと、腰の袋から干し果実を一つ取り出し口に運んだ。しかし、それだけでは到底足りない。星環門での激闘の後、彼女はほとんど何も口にしていなかった。ようやく動けるようにはなったものの、体内はほとんど空だった。


(食べ物……何か、見つけないと)


そう考えながら、ゼーナは草の揺れに注意を払い、耳を澄ませて進んだ。


やがて、草を踏みしめる軽い足音が聞こえてくる。ぱたぱたと跳ねるような、小さな音だった。


ゼーナはしゃがみ込み、風向きを確認して慎重に音のする方へと近づく。


そこにいたのは、草を食む小動物だった。長い耳と角を持ち、尻尾も長い。


それが魔物なのか動物なのかは、今のゼーナには判断がつかなかった。だが、空腹にその区別は必要なかった。


彼女は拾っていた石を構え、静かに呼吸を整える。


「……っ!」


一撃で仕留めた。


草の中で、小さな命が静かに消える。


ゼーナは血抜きをして、皮を剥ぎ、肉を切り分けて焚き火を起こす。どれも、リヴェリアに教わったことだった。


(……ちゃんと、生きていける)


焼けた肉に歯を立てながら、ゼーナはそう実感していた。


味は少し臭みがあり淡白だったが、それでも温かい食べ物が胃に落ちる感覚は、心まで満たしてくれた。


その夜、ゼーナは風下に身を寄せ、岩に背を預けて眠った。


――そして夜明け。


微かな地鳴りで目を覚ます。


「……なに?」


耳を澄ますと、複数の足音が草を踏みしめている音が聞こえてくる。寝床からそっと立ち上がり、剣の柄に手を添えた。


朝日に照らされた視界の先に現れたのは――四足歩行の魔物の群れだった。


鋭い牙を持ち、尾は鞭のようにしなる。森で見た魔物よりも数が多く、群れとして統制された動きで迫ってくる。


ゼーナはすぐに剣を抜き、構えを取った。


いくつかの個体が彼女に気づき、低い唸り声とともに走り出す。


「まずい……!」


一体目が飛びかかってきた。ゼーナは横に身をかわし、脇腹を狙って剣を振る。刃は深く食い込んだ。


だがすぐに、次の魔物が背後から迫ってきていた。


「っ、くっ……!」


後方へ跳び退く。だが、左右からも回り込まれていた。


ゼーナは瞬時に判断する。


(だめだ……この数じゃ、さばききれない)


加えて、魔力の回復も完全ではなかった。この地は魔素の濃度が森よりも薄く、回復の速度が遅い。


彼女は剣を振るいながら体勢を低くし、風上に向けて走り出した。


逃げる――今はそれが最善だった。


「バースト!」


魔力を足に集中させ、爆風で跳ねるように加速する。草が裂け、空気が弾けた。


魔物たちはすぐに追ってくる。だが平原の地形は、逃げには向いていた。障害物が少なく、一直線に走り抜けられる。


問題は、どこまで逃げ切れるか――そう思っていたとき。


遠く、地平線の先に複数の影が見えた。


人影――そう見えた。


彼らもゼーナに気づいたのだろう。いくつもの影が、草原を割るようにこちらへ駆けてくる。


その中の一人が、まっすぐにゼーナを目指していた。


魔物の気配はすぐそこまで迫っていた。


息を切らせながら、ゼーナは人影の方へと走る。


そして――


「こっちだ!」


鋭く低い声が、すぐ近くから響いた。


振り返る暇もなく、次の瞬間、何かが彼女の真横を薙ぎ払った。


轟音。風圧。魔物の悲鳴。


吹き飛ばされた魔物が地面を転がる。


ゼーナは思わず足を止め、その人物を見上げた。


背には一本の六角形の鉄棒。手にも同じものをもう一本。岩のような体格で、剃り上げられた頭は光を鈍く反射している。鋭い眼差しをしているが、どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。


「大丈夫か、嬢ちゃん。怪我はないか?」


思いがけず柔らかな声だった。


ゼーナは息を整えながら、かすかに首を振った。


「……うん、だいじょうぶ……」


背後では、別の者たちが魔物たちを手際よく掃討していた。動きに無駄がなく、統率が取れている。


数分と経たずに、周囲には静けさが戻っていた。


ゼーナはその場に膝をついた。疲労と緊張で、脚に力が入らなかった。


「水、飲めるか?」


男が片手を上げると、後方から水筒が投げられてきた。ゼーナはそれを受け取り、小さく礼を言って口をつけた。


冷たい水が喉を潤す。


「俺はヴァルトだ。嬢ちゃんの名前は? どこから来た」


問いに、ゼーナは少し迷うように沈黙した。


「えと……ゼーナ。あとは……よく、分からない」


「分からない?」


彼女はゆっくりと首を振った。“どこから来た”には答えられなかった。

リヴェリアの言葉――アストリアの名は不用意に出すな、という忠告が頭をよぎっていた。


「思い出せないの。名前だけ……それ以外、なにも」


ヴァルトは眉をひそめたが、問い詰めるような態度は見せなかった。


「そうか……まあいい。今は無理に話すな」


彼はそう言って立ち上がり、仲間たちに声を飛ばした。


「全周警戒。魔物の群れが引いても、交代で監視をつけとけ。少女は保護対象だ。調査拠点へ一度送る」


「了解!」


隊員たちは即座に応じ、それぞれの持ち場へ散っていった。


ゼーナは、ヴァルトの背を見つめていた。


目覚めてから初めて出会った――“人間”だった。




調査隊に助けられたゼーナは、その場を離れ、彼らの拠点へと案内された。


その場所は、平原の手前に広がる小さな丘の上にあった。遠目には何もないように見えたが、近づいてみると、木材と厚手の布で組まれた簡素な建物がいくつも並んでいた。背の高い草を刈りならした地面の上に、木の骨組みと布の屋根――風や視線をしのぐには十分な、仮設の拠点といった趣だった。


中央には、使われた形跡のある焚き火跡が残り、その周囲には椅子や木箱が無造作に置かれている。武器を持つ十人ほどの冒険者たちが周囲に目を配りながら装備の整備に集中し、その一角では、非戦闘員らしき数人が荷物の整理や記録の記入に忙しそうに動き回っていた。


(ここが……この人たちの“拠点”)


ゼーナは静かに息を吐き、集まる視線に気づいた。警戒、好奇心、戸惑い、そしてわずかな同情。それらが混じったまなざしが、静かに彼女へ注がれていた。


「中に入れ。少し話そうか」


そう声をかけたのは、助けてくれた男――ヴァルトだった。彼は拠点内でもっとも大きな布の建物、テントの入口をめくると、ゼーナに促すように視線を送った。


ゼーナは一瞬ためらいながらも、小さく頷いて中へ足を踏み入れた。


中は思ったよりも広く、簡素な机と椅子が並べられ、紙の束や地図らしきものが広げられていた。天井の布は風に揺れ、時折わずかな光を差し込ませていた。


「そこでいい。座れ」


促されるまま、ゼーナは椅子に腰を下ろした。向かいにヴァルトが座り、その隣には弓を背負った女性が立っていた。栗色の髪を後ろでまとめ、鋭い目をしている。服装と佇まいからして、彼女もまた前線に立つ者なのだとすぐに分かった。


「キャサリン。彼女に水と何か食べ物を頼む」


「了解」


キャサリンと呼ばれた女性は短く返事をすると、無言でテントを出ていった。


「……さて」


ヴァルトは軽く息を吐きながらゼーナを見据える。


「お前、ゼーナって言ったな。もう一度聞くが、どこから来た」


ゼーナは首を横に振った。


「……分からない。気がついたら、平原にいた。それから……ずっと一人だった」


本当は違う。だが、“星環門の中から出てきた”と正直に言えば、余計な騒ぎになるのは分かっていた。


ヴァルトはじっとゼーナを見つめた。静かな目だったが、その奥に疑念の色が滲んでいる。


「そうか。なら――その装備は?」


ゼーナは少しだけ視線を伏せる。


リヴェリアが言っていた。ゼーナの着ている服は、戦いに適した、とても良い物だと。だがそれが、他者の目にどう映るのかはゼーナには分からなかった。


「……それも、気づいたら着てた。はっきりしたことは……」


「……そうか」


それ以上、問い詰められることはなかった。


ちょうどそのとき、キャサリンが戻ってきた。両手には革袋と皿があり、皿には干し肉と焼かれた根菜のような食べ物が並んでいた。


「あ、ありがとう……」


ゼーナは思わず頭を下げた。


キャサリンは何も言わず、静かに微笑みながら頷いた。


「急に色々聞いて悪かったな。落ち着いたら、また話そう」


ヴァルトがそう言って立ち上がる。


「少し席を外す。食事をとって、ひと息つけ」


そう言い残してヴァルトは立ち上がり、キャサリンに目配せをしてテントの外へ出ていった。


ゼーナは、皿の上に置かれた食事に目を落とした。


運ばれてきたときから、実はずっと期待していた。こんがり焼かれた根菜の色、干し肉の照り、湯気を伴って漂う香り。


(……ちゃんとした……食事)


無意識にごくりと唾を飲み込む。


これまでは、生の果実をかじるか、焦げた獣の肉ばかりだった。味も見た目も、選ぶ余裕などなかった。ただ生きるためだけに、食べていた。


だが今、目の前にあるのは、火加減まで調整された干し肉に、芯まで火が通った柔らかな根菜。水も、泥の味がしない澄んだものだった。


(……すごい)


ゼーナはひと口、肉を噛んだ。


しっかりとした味。ほのかな塩気が肉の旨みを引き出し、口の中で温かくほぐれていく。その感触に、彼女は自然と目を細めていた。


焼き芋のような根菜も、ほんのり甘く、芯まで柔らかい。


こんなに“美味しい”と感じたのは、生まれて初めてかもしれない。


(美味しい……こんなに違うんだ)


胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。


ゼーナは、皿を抱えるようにして、最後のひと口まで丁寧に食べ終えた。


空になった皿の前で、そっと息を吐く。


風が、布越しに優しく揺れていた。


(私は……どうなるんだろう)


それでも、不思議と恐怖はなかった。


初めての“人”との接触。初めての“人のいる場所”。


彼らはまだゼーナを信用していない。だが、それでいい。彼女自身も、自分のことを何一つ分かっていないのだから。


少しずつでいい。ここから――また始めればいい。


そう思いながら、ゼーナはテントの布を見つめ、静かに目を閉じた。


――――


テントの外、焚き火の近くに集まる冒険者たちの中で、ヴァルトはキャサリンと共に少し離れた場所へ移動していた。


「……どう思う」


「記憶喪失ってのは、本当かもしれない。でも、何かしら嘘はついてるわ」


「……だな。嘘ついてますって顔に書いてあるようなもんだ。ただ、敵意はなさそうだな」


「ええ、私もそう感じた。ただ、あの装備は普通じゃない。かなり丈夫で、魔物の牙くらいじゃ破れそうにない。手袋も、ただの革手袋じゃなかった」


キャサリンの声は冷静だった。目立たぬよう淡々としていたが、その観察は鋭い。


「それに、あの歳でひとりで生き延びてたってのも引っかかる。見た感じ、十五、六くらい。装備に助けられてたとはいえ、全く無力ってわけじゃなさそう」


ヴァルトは腕を組み、静かに思案する。


「……何か事情がある人間なんだろうな。悪意は感じねぇ」


「どうする? 本部に報告は?」


「報告はする。だが、今すぐに引き渡す必要はない。あの歳で記憶が無い中、たった1人で生きてきたんだ。敵意がないなら、まず休ませてやるべきだ。身元不明、記憶喪失、敵意なし――だったら、様子を見ながら判断すりゃいい。もしかしたら、あの門に関係あるかもしれないしな」


そう言い残し、ヴァルトは再び拠点の中央へと歩を進めていった。



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