門番②
ゼーナは、しばらく動けなかった。
肩で荒く息をつきながら、震える腕でなんとか立ち上がる。
手の中の剣は、今にも折れそうに軋んでいた。
けれど――
「……やった、の……?」
『……ああ。やりやがったな、ゼーナ』
リヴェリアの声は、いつになく穏やかだった。
そのままゼーナは膝をついた。
力が、音もなく抜けていく。
(やっと……ここまで……)
剣を支えに、膝をついたまま彼女は呼吸を整えた。全身の力が抜けていく。けれど、それは達成感からくるものだった。
勝った――そう思った。
けれど。
「……何?」
崩れ落ちたはずのガーディアンの体が、淡く輝き始めた。
装甲の継ぎ目から、白い光がにじみ出る。
「リヴェリア、これな―――」
『――ゼーナ下がれ!』
警告の声とほぼ同時。閃光が爆ぜた。
眩しさにゼーナは目を閉じる。風が巻き起こり、石片が舞い上がる。
その爆発のような一瞬が過ぎ去った後、ゼーナはすぐに目を開いた。
……そこには、何もなかった。
「え……?」
ガーディアンの姿が、どこにも見えなかった。
だが、違和感があった。空気がざわついている。視界の端が、妙に歪んで見えた。
『――後ろだッ!』
「っ――」
言葉の途中、ゼーナの背中に激しい衝撃が走った。
「ッがあっ!」
身体が宙に浮いた。肺から空気が押し出される。何が起きたのかも分からないまま、ゼーナは広場の外れまで吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
頭が回らない。けれど、必死に顔を上げた。
視界が揺れる中、彼女の目に映ったのは――
「……ガーディアン……?」
けれど、それは以前の姿ではなかった。
人間とそう変わらないほどの大きさ。圧縮され、無理やり詰め込まれたような不格好な姿。関節部は歪に曲がり、装甲はひび割れていた。
しかし、その胸元には確かに、ゼーナがつけたバツ印の傷跡が残っていた。
『……強引に体を圧縮して、戦闘力を一時的に引き上げてやがる』
リヴェリアの声が低く唸る。
『あんなのは、長く持たねぇはずだ。多分、自壊する前に“殺す”つもりなんだ。勝つとか、守るとかじゃねぇ。完全に殺すための形だ』
背筋が凍った。
動けない。腕が震える。すべてを使い果たして、立ち上がる力すら残っていなかった。
(ダメだ……)
歪な姿のガーディアンが、ゆっくりと歩を進めてくる。
小さくなった体は、大きかった時よりも圧力を増しているようにさえ見え、その足音は広場に染みこむように響いていた。
ゼーナは地面に這いつくばったまま、剣に手を伸ばす。
けれど、指先が震えて力が入らない。視界が歪み、呼吸もうまくできなかった。さっきの一撃で、肺――体の奥まで痛んでいるのが分かる。
「ぐ……っ……!」
それでも、必死に体を引きずって立ち上がろうとした。
けれどその動きより早く、ガーディアンが跳んだ。
小さくなった分、速く、正確だった。
次の瞬間、視界が右から左へ一気に流れる。
(殴られ――)
衝撃が遅れてきた。顔面を横から打たれた衝撃で、ゼーナはまた地面を転がった。
口内を切ったのだろう。口の中に鉄の味が広がった。起き上がろうとしたところに、今度は蹴りが入る。胃を抉られるような衝撃。身体がくの字に折れ、また飛ばされた。
『ゼーナ、動け!意識を保て!』
リヴェリアの声が響く。でも、思考がうまく繋がらない。
体は既に動かない。リヴェリアの声を頼りに立ち上がろうとする。けれど、焼け石に水だった。反撃できる余力なんて、もうどこにもない。
ガーディアンは冷たい機械のように、感情のない動きでゼーナを見下ろしていた。
そして――その手が、伸びてきた。
「っ……!」
ゼーナは剣を振ろうとした。だが、それより先に、冷たい感触が喉元を捕らえた。
ガーディアンの掌が、彼女の首を鷲掴みにする。
そのまま、ゼーナの身体が持ち上げられた。
足が地から離れ、宙に浮く。首を締め上げられるほどの力ではない。だが、もう振りほどく力はなかった。
目の前にあるのは、無表情の仮面のような顔。
その向こうに、感情も、理性も、何もなかった。
(ここで……終わる……?)
頭が、ぐらりと揺れた。視界がにじみ、意識が闇に沈もうとしていく。
体の感覚がない。もう、動かせなかった。
そのときだった。
「――おい」
聞き覚えのある声が、頭の奥に響いた。
「よくもまあ、うちの可愛い弟子を……ここまでボコボコにしてくれたなぁ……?」
怒気を孕んだ低い声。次の瞬間、周囲の魔素が震え出した。空気が熱を帯び、ざわめく。
『リヴェリア!?』
ゼーナの心の中に、驚きの声が響いた。
「少しだけ、借りるぞ」
死ぬ寸前で体が動かなくなった――その感覚は勘違いだった。
あのときと同じだ――目覚めたばかりで、森の中の大木から落ちそうになった時。
ゼーナの体が、彼女自身ではない何かに動かされた、あの感覚。
目の前――喉を掴んでいたガーディアンの腕を、リヴェリアがそのまま掴んだ。
「いつまで触ってんだ、コラァッ!!」
咆哮とともに、リヴェリアの拳が唸りを上げた。
ドガッ――!
ガーディアンの腕が、根元から千切れ飛ぶ。
それだけでは終わらなかった。続けざまに繰り出された蹴りが、ガーディアンの腹部に炸裂する。
その一撃で、ガーディアンの体が吹き飛び、地面を削りながら後方へ転がった。
『な、なんでそんな力が……!?私の体で!?』
ゼーナの心の中で叫びが上がる。リヴェリアが体の主導権を握ろうと、ゼーナの体はもうボロボロだったはずだ。
『それに、もう体は動かせないって、喋ることしか出来ないって言ってた…!』
「そうだ。もう一度この体を使えば……私の魂は消える」
静かに、けれど確かな覚悟を込めた声だった。
『そんなの、駄目……! あたしのために、そんな……!』
「黙ってろ。お前があのままだったら、二人とも終わってた」
言葉のひとつひとつが、重かった。
確かに、あのままではゼーナは殺されていた。けれど、それでも――リヴェリアが、自分を犠牲にしてまで助けるのは違うと、心の奥で叫んでいた。
「ゼーナ、これが最後の訓練だ」
そう言って、リヴェリアはゆっくりと構えを取る。
「魔力操作の頂――その一端を見せてやる。……しっかり見ておけ」
リヴェリアは、ニヤリと笑った。体から立ちのぼる魔力は、もはや暴風のようだった。けれど、そこに宿っていたのは怒りでも焦りでもない。
――弟子を守る師の、誇り。
「ゼーナ。魔力操作の最大の強みはなんだ?」
『え……えっと、自由度と、複数を同時に使えること、だと思う……』
「正解だ。じゃあ、私はいま、どうやって身体を強化してる?」
問いかけられたゼーナは、精神を通して体の魔力の流れを探る。
そして――絶句した。
リヴェリアは、魔力操作のあらゆる応用を“同時に”実行していた。身体強化、武器強化、治癒力強化、魔素吸収――そのすべてが、途切れなく維持されている。
常に全開で魔力を回し、それを絶えず吸収して補っている。あのときゼーナが命懸けで放った一撃を、“常時維持”しているようなものだった。
しかも傷一つ残っていない。すべてが、完全に治癒されている。
『…これが……』
「理解できたか? これが“極める”ってことだ」
その言葉に重なるように、ガーディアンが立ち上がる。
残った片腕を刃へと変形させ、咆哮もなく一直線にリヴェリアへ突進してきた。
「よし、木偶の坊。お前にも教えてやるよ。そいつの使い方ってやつをな」
リヴェリアは、無造作に宙へ掲げた手に魔力を流し込む。
その手に巻きついていたのは、彼女が奪ったガーディアンのちぎれた腕だった。
「――形態・篭手」
金属が蠢き、腕に沿って変形していく。そして生まれたのは、重厚な金属の篭手。
ガァン!
飛び込んできた斬撃を、その拳で難なく弾いた。まるで虫を払うかのように。
「もう一回、ぶっ飛べ」
そのまま拳が唸りを上げて突き出される。
バキィッ!!
ガーディアンの頭部が歪む音がして、巨体が跳ね飛ばされた。地面を数度跳ねながら、瓦礫の中に突っ込んでいく。
『な、何それ……』
「この金属はな、“メタモライト”ってんだ。私のお気に入りだったんだよ。魔力を流せば、どんな形にも変えられるんだ。見てろよ」
そう言って、リヴェリアは再び構えを取った。
そして、倒れたガーディアンへ追撃をかける。
頭部を潰されながらも、ガーディアンはゆっくりと立ち上がる。
だが、リヴェリアの前ではただの訓練道具のようなものだった。
彼女の戦い方は凄まじかった。攻撃のたびにメタモライトを武器へ変形させる。
剣から槍へ、槍から篭手、篭手から斧へ――流れるように変形し、無駄なく、淀みなく、それでいて荒々しくも見える。
すべての動きが戦いそのものを象徴していた。
『……すごい……』
ガーディアンの戦い方は、確かにリヴェリアを模したものだったのだろう。だが、その完成度は比べ物にならない。
「ほらほら、遅いぞ。どうした?」
リヴェリアはメタモライトを触手の様な槍へ変形させる。
その槍はガーディアンの胴を貫き、そのまま引き戻してリヴェリアの目の前まで引き寄せた。
「オラァ!」
次の瞬間、メタモライトは一瞬で斧へと変形し、そのまま振り抜く。衝撃が空気を割り、ガーディアンがまたも吹き飛んだ。
「ハハッ!久しぶりに身体動かすのは気持ちいいなあ!」
その姿は、まるで遊んでいるかのように見えた。
『遊んでる……?』
「遊んでねえよ。……ま…時間もないし、そろそろ終わらせるか」
『リヴェリア……?』
彼女の戦いが凄まじすぎて、ゼーナは忘れていた。忘れようとしていたのかもしれない。
リヴェリアはこの後、消えてしまう。
ゼーナは気づいた。彼女の“存在”が、どんどん薄くなっている。
「ゼーナ。ありがとうな。……最後に、いい思い出ができた」
『やだ……リヴェリア、ダメ……』
「泣くなって。代わりに、とびきりの奥義を見せてやるから」
彼女は、篭手に戻したメタモライトに魔力を注ぎ始めた。武器強化だ。それに加え限界を超えた身体強化――ゼーナの肉体へ、本来耐えられないほどの魔力が集中していく。
「治癒、身体強化、武器強化……全部を、極限まで重ねる。無理やり肉体の限界を越えさせる技だ」
リヴェリアの声が、最後に静かに響く。
「――絶虚解放」
言葉と同時に放たれた拳は、まさに空間そのものを抉るような威力だった。
ガーディアンは防ぐ暇もなく、その衝撃に飲まれる。
放たれた拳圧が、そのまま星環門へ突き進み――
バゴォオオオンッ!!!
巨大な扉が、凄まじい勢いで開かれた。
まるで、その拳が“出口”をも切り開いたかのようだった。
崩れた広場に、静寂が戻っていた。
吹き荒れていた魔力の嵐も、今はただの風に変わっている。
星環門の扉は、リヴェリアの一撃で大きく開かれ、先の景色をかすかに覗かせていた。
その中心に立つリヴェリアの気配が、ふと、弱くなる。
『……リヴェリア?』
ゼーナが呼びかけると、彼女の声が、ふわりと返ってきた。
「……ああ。そろそろ限界みたいだ」
『嘘、でしょ……?』
「いや、もう分かってたことだろ。魂の摩耗ってやつだな。魂を体に無理やり通したせいで、私の魂が崩れてきてる。……もう、長くは喋れない」
『でも……でも、リヴェリアがいなくなったら、私は……』
「いいんだ、ゼーナ」
彼女の声は優しく、静かに響いた。
「これからは、自分のために生きろ。アストリアの事はもういい、私ももう消える。気にするな」
ゼーナは、何も言えなかった。
リヴェリアが、ずっと導いてくれていた。魔力のこと、戦いのこと、そして、生き方のこと。全部、リヴェリアが教えてくれた。
「……じゃあ、私は……」
少しずつ戻ってきた体の感覚とともに、ゼーナはようやく言葉を紡いだ。
「私は、リヴェリアと……それから自分のことを、もっと知りたい。それが、私の“やりたいこと”だと思う」
しばらく沈黙が続いたあと、リヴェリアはかすかに声だけで笑った。
『……そっか。それなら……もう、何も言うことはないな』
空気が震えた。リヴェリアの存在が、さらに希薄になっていくのがわかる。
『ありがとう、ゼーナ。お前がいてくれて、最後に戦えて……私は、嬉しかった』
そして、彼女は言った。
『アストリアの最後の戦士よ。お前は私に選ばれた者だ。過去を探すのはいいが囚われるなよ。胸を張って生きろ。そして……』
一瞬、声が途切れる。
『……ゼーナ……ありがとう』
その言葉と共に――何かが、ゼーナの中に流れ込んできた。
まるで、記憶の欠片が染み渡るように。
濁った水の底から浮かび上がるように、イメージがいくつも脳裏をよぎった。
――小さな少女が笑っている。金色の髪。澄んだ声。リヴェリアに抱きつき、名を呼ぶ声。
リシア。あれが、リヴェリアの“娘”。
リシアの手のぬくもり。あの日の朝食の香り。小さな足音。川沿いの帰り道。ひとつひとつが、どこまでも温かくて、愛しくて。
だが、それはやがて――暗闇に包まれていく。
血の匂い。悲鳴。儀式の器。水槽に横たわる少女の姿。髪飾りだけが残された、哀しい最後。
心が裂けるほどの怒りと喪失。
すべてを壊してなお、抱きしめたあの冷たい身体。
娘の身体をもとに作られた器。
そこに宿ったゼーナ。なぜ意思を持ったのかもわからない存在。
ゼーナは――リヴェリアの器として、リシアを代償に生み出された存在だと理解した。
「……」
喉が、ひゅっと鳴った。
ゼーナはただ、生きようとしていた。けれど、その命は誰かのものを踏み台にして得られたものだった。
自分の存在が、リヴェリアの“悲しみの痕跡”から生まれていたことに、ゼーナの胸が痛んだ。
目の前がぼやける。
(私は……ただの代わりだったの?)
しかし。
その問いに、同じ記憶の中で、答えが返ってきた。
リヴェリアが、ゼーナを見ていたまなざし。
名を与え、導き、叱り、励まし、力を貸し、最後には命を懸けて守ってくれた――その全ての瞬間に、ゼーナという存在が“ただの代替品”として扱われたことは、一度もなかった。
ゼーナが誰であろうと、どこから来たものであろうと――リヴェリアは、確かにゼーナを娘のように愛してくれていた。
その想いが、心に満ちてくる。
「……私の、お母さん……」
記憶と想いが重なり、ゼーナの存在を肯定してくれた。
心の奥深くからあふれ出た言葉だった。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
涙が止まらなかった。
――行け
静かに、けれど力強く、背を押す声が心の奥から聞こえた。
もう戻ってはこない、あの声。
そして、沈黙が訪れた。
ゼーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
なにも返せなかった。ただ、胸の奥から、あふれてきたものがあった。
「う……ぁ……う、ああああああああっ!!」
広場に、彼女の叫びが響いた。
張り裂けそうな、泣き声が、誰もいない空に向かって溶けていった。