門番①
ゼーナは階段を登りきったところで、足を止めた。
目の前にあるのは、古びた扉だった。長い時間の中で削れ、錆びついてなお、どこか威厳を感じさせる。
扉の隙間からは、微かに外の風が吹き込んできていた。土と石と草の混ざった匂い――それは、地下では感じられなかった空気の香りだった。
『……ここから先が、星環門のある広場だ』
リヴェリアの声が、少しだけ低く、重たく響いた。
「ついに……門の前に出るんだね」
ゼーナが呟くと、声が返ってくる。
『ああ。けど、忘れるな。“外に出る”には、門番を何とかしないと行けない』
「……分かってる」
ここまで来るのに、彼女は幾つもの困難を越えてきた。魔物との戦い、飢えと傷、魔力の枯渇――そのすべてを耐え抜いて、この場所にたどり着いた。
けれど、本当の出口は――この扉の先。星環門を越えた、その向こうにある“この国の外”だ。
ゼーナは深く息を吸い、両手で扉を押した。
ギィ……という低く軋む音とともに、重たい扉がわずかに動く。少しずつ、差し込む光が強くなっていく。
眩しさに目を細めながら、彼女はその隙間を抜けるようにして、一歩、足を踏み出した。
まぶしい――けれど、それ以上に、目の前の光景に言葉を失った。
「……ここは……」
広場だった。
広大な石畳の地面が、目の前に広がっている。所々にひびが入り、そこから雑草が顔を出していた。けれど、空は開けていた。
頭上を覆っていた枝葉も、黒く濁った霧もない。ただ、まっすぐな“空”がそこにあった。
左右には、崩れかけた建物が整然と並んでいる。その骨組みや配置から、かつては計画的に造られた都市の一角だったことが分かる。
商業区だったのか、あるいは兵の詰所だったのか――今では判断が難しいほど、全てが風化していた。
『……形だけは、まだ残ってるんだな』
リヴェリアがぽつりと呟いた。
「ここ……リヴェリア、来たことあるの?」
『あるも何も、何十回も通った場所だ。ここは王都の南区画――星環門の前の広場だ。兵士の集結地点、商隊の出入り口、旅人が最初に踏み入れる場所。活気に満ちてたよ、昔はな……』
ゼーナは崩れかけた建物をひとつ見上げた。柱の一部にはまだ彫刻の名残があり、かろうじて往時の華やかさを感じさせた。
それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。
「こんなに……静かになっちゃうんだね。賑やかだったんだろうな」
『時が経てば、どんな街も風に消える。けど、それでもこうして跡が残ってるだけマシな方だ』
ゼーナはゆっくりと振り返った。
開いた扉の後ろ、広場の反対側には、緑に埋もれた森が広がっていた。――あの森。彼女が命がけで抜けてきた、濃い魔素に満ちた森。
「……遠くまで来たんだな」
思わず、そう口にしていた。
そして、視線を廃墟へと戻す。
(リヴェリアの国……アストリア……)
彼女が守り、そして――壊してしまった国。
ゼーナはその静寂の中を歩き出した。
そして、視線を前に向けた瞬間――その“存在”が目に飛び込んできた。
「……あれが……星環門……?」
言葉に出した瞬間、背筋が震えた。
前方にそびえ立っていたのは、“門”と呼ぶにはあまりにも巨大な構造物。あまりに大きくて、最初はそれが門だと気づけなかった。
空の高さまで届くような壁。左右に展開する巨大な扉。まるで山のようにそびえ、金属のような質感の装甲に光がわずかに反射している。
門には装飾が施されていた。円と線が幾重にも絡まり、まるで夜空を模したかのような紋様。
その全体が放つ重圧感に、ゼーナは自然と歩みを止めていた。
『……そうだ。あれが、星環門だ』
リヴェリアの声が、わずかに揺れた気がした。
『あれを越えれば、森の外。アストリアの外。お前の“旅”の、本当の始まりだ』
ゼーナは唇を引き結び、拳を握った。
(外に出る……私の足で……)
そう思って、一歩、また一歩と歩き出す。
門は何も言わず、ただそこに立っている。
そのまま近づこうとした、その時だった。
「っ……!」
突然、空気が震えた。
まるで雷が鳴る前のような、肌がざわつくような感覚。
そして――
ドンッ!!
重たい着地音。地面が揺れ、土煙が巻き上がる。
目の前の地面に、何かが“降ってきた”。
ゼーナはすぐに剣の柄に手をかけ、身構えた。
『来たぞ……』
土煙が晴れ、姿を現したのは――巨大な影。
身の丈が彼女の倍以上。全身を黒鉄の鎧で包んだような異形。武器は持っておらず、素手のままだ。
顔はなく、目に光もない。まるで無機物がそのまま動いているようだった。
『あれが、門番“ガーディアン”だ。アストリアを守るために作られた魔道人形――ここを出るための、最後の壁だ』
ゼーナは唾を飲み込んだ。
この戦いに勝てば、外に出られる。
けれど、負ければ――ここが、“終わり”になる。
要は今までと一緒だ。
彼女は深く、息を吸った。
「……来い」
剣を握りしめたまま、目の前の巨影を見上げる。
それは、正しく“壁”のようだった。
全身を黒鉄の装甲に覆われ、無言のままただ立つ存在。形こそ人に似てはいたが、どこか違う。目も口もない。声も発さず、ただ立っているだけで、空気が緊張に引き締められていくのが分かった。
ガーディアン――星環門を守る“門番”。
『油断するな、ゼーナ。そいつはただの鎧じゃねぇ』
リヴェリアの声が低く響いた直後、ガーディアンの“腕”が動いた。
変形。まさにその言葉通りだった。金属でできていたはずの腕が、ぐにゃりと曲がり、まるであのスライムのように動く。
そして――槍のように先端を尖らせた。
「来る!」
叫ぶより早く、ガーディアンが踏み込んできた。
一歩。
その一歩が、地面を叩きつける。地響きとともに空気が唸る。
二歩目と同時に、槍状に変化した腕が、一直線にゼーナを貫かんと突き出された。
「っ……!」
とっさに身を沈め、地面を滑るようにして避ける。だが次の瞬間、避けた側から空気が押し潰されるような感覚。
(――もう次が来てる!?)
振り返ったゼーナの目に映ったのは、再び変化したガーディアンの腕。今度は槌のように変形し、上段から叩き潰すように振り下ろされてきていた。
彼女はもう一本の剣を抜き、二振りの刃を交差して受け止める。
ガンッ!!
衝撃が骨にまで響く。腕が痺れる。
そのまま逸れた槌が地面を割る。
跳び退きながら息を整え、魔力を全身に巡らせる。身体強化。けれど、それでもなお、力負けしそうだった。
『ゼーナ、あいつは魔力で形を変えてくる。後手に回ると不利だ!こっちから攻めろ!』
「分かった……!」
ゼーナは双剣に魔力を流し込む。刃が淡く輝きを帯びる。
再び、彼女は踏み込んだ。正面からは無理だ。だから回り込む。側面から斬りつけ――ガーディアンはそれを、腕を盾のように変えて受け止める。
(流れるように……防御が変わる……!)
斬撃の衝撃を吸収するように流し、巻き込むような動きで反撃に転じる。鞭のような軌道を描くその腕が、すぐ間近に迫っていた。
ゼーナは反射的に後ろに跳ぶ。ギリギリ、回避。
けれど――見誤った。
鞭の先が、ゼーナの脇腹をかすめた。
「ぐっ……!」
鋭い痛み。息が漏れる。装備が衝撃を軽減してくれたが、完全には防ぎきれなかった。
着地と同時に再び剣を構える。魔力を再分配。もう少し、威力を高めなければ通じない。
「まだまだ……!」
ゼーナは一気に間合いを詰める。正面ではなく、斜め下。ガーディアンの足元に滑り込むようにして飛び込み、剣を突き上げる。
ガーディアンの脚が動く。回避ではなく、受け止めに来た。
刃が触れる瞬間、その脚は装甲を軟化させるように変化した。弾力を持ち、衝撃を吸収する構造。
(……効いてない!?)
ゼーナは即座に後退しようとするが、遅れた。
ガーディアンの腕が、刃のように長く伸びた――
ガキン!
ゼーナは咄嗟に両の剣を交差して受け止めた。
それでも、その衝撃で吹き飛ばされた。空中で回転しながら地面に叩きつけられる。
「ぐぅ……!」
視界がぐらつき、音が遠のく。肺に残っていた空気が一気に抜けた。
地面を転がって起き上がり、彼女は膝をついた。
『ゼーナ、大丈夫か!』
「……大丈夫……っ!」
ゼーナは膝を伸ばし、再び立ち上がる。剣を握り直し、ガーディアンを真っすぐに見据えた。
相手は、淡々とこちらを見下ろしている。
その顔には目も口もない。表情もなかった。けれど、確かに“敵意”がそこに宿っていた。
(形を変えられて、力も私より上、距離だって自由自在……強い……)
ゼーナは深く、息を吐いた。
だけど、負けるわけにはいかない。
ここで倒れたら、これまで歩いてきたすべてが無駄になる。
(怖い。でも、逃げたくない。あの門の向こうに、私は行くって決めたんだから……!)
「まだ、やれる……!」
ゼーナは、魔力を脚に集中させた。
次の攻撃――絶対に、通す。
「バースト!」
足元が爆ぜる。爆風が脚と背中を押し、視界が流れる。一瞬で間合いを詰め、右の剣を横薙ぎに振るった。
ガーディアンは即座に反応する。腕を盾のように変形させ、斬撃を受け止めた。
構わない――もう一発。
「バースト!」
再び爆ぜる。今度は逆方向から切りかかる。その刃も、金属の鞭のようにしなる腕に弾かれた。
けれど、それでも止まらない。何度も、何度も、連続で切り込む。魔力の消費は激しく、体中が軋んだ。それでも、ゼーナは止めなかった。
何度かの斬撃が装甲を裂き、金属の表面に傷を刻んでいく。ガーディアンの足取りがわずかに揺らいだ。
ゼーナはとどめを狙って跳躍する。空中から落下の勢いを乗せ、両の剣を構えて振り下ろした――その瞬間。
「……っ!」
地面が震えた。
ガーディアンが両腕を大地に叩きつける。瞬間、足元から衝撃が奔った。
(衝撃波……!?)
空間が歪んだように感じた。痛みはない。けれど、体勢が崩れ、動きが止まる。
ゼーナは、空中で無防備になってしまった。
(まずい――!)
思考するより先に、“それ”が迫ってきた。
ガーディアンの右腕が、螺旋状の槍へと変わっていた。唸るような音と共に迫ってくる。魔力が濃縮され、渦を巻くような圧力。見ただけで、ただならぬ威力を感じ取れた。
(……間に合わない!)
咄嗟に魔力を集中させ、後方への回避を試みる。
「バースト!」
辛うじて軌道を外す――だが。
「うああっ!」
直撃は避けた。だが、螺旋の一撃が放った余波――圧縮された風と魔力の衝撃がゼーナを包み込む。
ゼーナの身体が弾かれ、宙を舞った。
視界がめまぐるしく回る。空、地面、廃墟。
そのすべてが交錯する中で、ゼーナの身体は広場の外れにある廃墟の外壁へと叩きつけられた。
「ぐ、ぅ……っ!」
壁が悲鳴のように軋み、崩れた瓦礫と共に、彼女は地面に転がる。
魔力強化と装備がなければ、余波だけで粉々に砕かれていたかもしれない。
重い。身体が、自分のものじゃないみたいだった。それでも、ゼーナは歯を食いしばって顔を上げた。
ガーディアンは、確かに傷を負っている。さきほどの連撃で装甲にひびが入り、大きく欠けているような箇所さえあった。
だが――まだ、動いている。
螺旋状だった腕を、ゆっくりと元の形に戻しながら、無言のままゼーナを見据えていた。
その眼差しはないはずなのに、はっきりと“敵意”を感じる。
(まだ……やれる)
ゼーナは、剣を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
荒くなる呼吸を抑えながら、もう一度、柄を強く握り直す。
(でもこのままじゃ、倒しきれない……)
傷はつけられる。けれど、それだけ。倒すには至らない。
今のままでは、どれだけ斬っても決定打にならないのだ。
だったら――やるしかない。
「リヴェリア」
『……ああ』
「……これで終わらせる」
ゼーナは両手の剣を構え直す。今までとは違う、攻めの姿勢。
両腕を交差させ、防御を捨てた突撃の構えを取った。
その瞬間、全ての魔力を行使する。
まずは、身体強化。
筋肉、骨、血管――動かすすべてを、限界まで強化する。
次に武器。二本の剣へ、魔力を集中して流し込む。
刃がうっすらと赤く光り始めた。
最後に――バースト。
脚に、背に、推進力のための魔力を仕込む。
魔素が熱を帯び、視界がゆらめいた。
『ゼーナ……失敗すれば、死ぬぞ』
「それでも……やるしかない」
ここまで来た。
逃げ場なんてない。後戻りもできない。
ゼーナは地面を蹴った。
「これでっ!!」
爆ぜる足元。爆風が背を押し、彼女の身体が一直線に飛び出す。
空気が裂け、音が遅れる。
ガーディアンは反応し、盾のような巨大な腕を作り出す。
けれど、それでも――ゼーナは飛び込んだ。
剣を交差させ――
「はぁあああああっ!!」
全力を込めて、振り下ろす。
交差した双剣が、盾を斬る。
ガァンッ!!と金属が悲鳴を上げた。
ガーディアンの盾が、バツ印に断ち割られる。
中心から裂け、両側に吹き飛んだ破片が空を舞う。
ゼーナはそのまま、剣を滑らせるようにしてガーディアンの背後へと駆け抜けた。
斬撃が、その装甲を深く裂いていく。
音が止んだ。
着地の衝撃を殺しきれず、彼女はそのまま地面を転がる。
突っ伏したまま、首だけを捻って振り返った。
そこには――
ガーディアンの胸に、深々と二本の斬撃痕が刻まれていた。
鋼鉄の装甲を、赤く光る魔力の刃が深く抉っていた。
一瞬、ガーディアンは動かなかった。
ただその場に、無言で立っていた。
しかし次の瞬間――
ゴゴ……ゴッ……と、鈍い音を立てて膝をついた。
巨体が、ゆっくりと傾く。
地面に、その全身を預けるようにして倒れた。