幕間-リヴェリア-
その国は、かつて確かにこの世界に存在していた。
名を《アストリア》。歴史にその名を刻んだ、栄え、恐れられた国家。豊かな自然と堅牢な守りを有し、人々は繁栄の中で生きていた。
大地を貫くように流れる《シルダ川》。その豊かな水脈に沿って街が築かれ、民は水と土地の恩恵を享受して暮らしていた。川の下流、扇状地の中心に聳えるのは、巨大な門《星環門》。都市はこの川を中心に同心円状に広がり、その最外周には、五十メルトルを超える堅牢な城壁が国全体を取り囲んでいた。
だが、アストリアが真に繁栄を極めた理由は、自然の恵みにとどまらない。
それは一人の存在――リヴェリア・アルトリウムという、強大な力を持つ女性がいたからだった。
彼女は女性でありながら、あらゆる武器を使いこなし、魔力を自在に操った。その戦場での威容は、敵国の兵士がその名を口にすることさえ恐れるほど。
アストリアが“魔領国”という魔物の支配地と隣接しながらも国土を一度たりとも侵されなかったのは、まぎれもなく彼女の存在あってのことだった。
彼女が戦に赴けば、敵は恐れをなし、撤退する。
彼女が武器を振るえば戦は終わり、彼女の背に立つ兵たちも民も、絶対の勝利を確信した。
それによって、アストリアは武による安定を得た。安定が文化を育て、知識を深めた。
シルダ川の両岸には市場が並び、交易船が行き交う。魔術学院では魔素理論と古代技術の融合が日々進歩し、夜には灯籠が川を流れ、まるで天の川が地に降りたかのような幻想的な光景を生み出していた。
――だが、その栄華は、彼女自身の手によって幕を閉じた。
リヴェリアは病に侵されていた。
そして、それを王も知っていた。
だが、王は彼女の死を受け入れなかった。
彼女の存在こそが国を支えていたからだ。
もし彼女を失えば、アストリアは瓦解する――そう考えた王は、ある手段に出た。
それは、“器”を作るという策。
リヴェリアの命を注ぐための、魂を定着させるための器。
その素材として選ばれたのは、リヴェリアの娘――“リシア”。
リヴェリアの魂と波長が合い、適性があり、健康で若い肉体を持つ彼女の娘が選ばれた。
それは、リヴェリアが遠征で国を離れている間に行われた。
のちに思えば、あの遠征自体が王の仕組んだものだったのだろう。
戦いを終え、リヴェリアが王都へと帰還したとき――
そこには、彼女の帰りを出迎えるべき姿がなかった。
誰よりも早く走り寄ってくるはずのリシアの姿は、城門にも、大広間にも、どこにも見当たらなかった。
「……どういうことだ」
胸に広がったのは、漠然とした違和感。
だがそれは次第に、明確な“何か”となって、リヴェリアの内側に押し寄せてきた。
侍女たちは視線を逸らし、口を噤む。
城内に満ちる空気は重く、言葉にならない沈黙が漂っていた。
“何か”が起きている。
そして、誰かがそれを隠している。
リヴェリアは私室へ戻るふりをして、誰にも気づかれぬよう裏門から外へ出た。
わずかな魔力の残滓を頼りに、彼女は王族直属の錬金術研究棟――普段は立ち入ることのない地下の施設へと足を踏み入れる。
その場所の扉の前に立った瞬間、彼女は悟った。
リシアはここにいる――否、“いた”。
扉を開けた瞬間、鼻を刺す薬品と血の匂い。
儀式台の中央には、リシアが愛用していた髪飾りが落ちていた。
そして、その脇の水槽の中には――人形のように変わり果てた、“何か”が静かに横たわっていた。
……これは……なんだ……?
その瞬間、リヴェリアの背を這い上がるのは、怒りとも悲しみとも異なる、凍てつくような感情だった。
氷のように冷たく、静かに、しかし確実に彼女の心を覆い尽くしていった。
震える手で髪飾りを拾い上げ、彼女は床に散らばる羊皮紙に目を落とす。
そこに記されていたのは、すべての事実。
リシアは“素材”にされた。
リヴェリアの魂を定着させる“器”として――命を奪われたのだ。
王が――国が――彼女に隠れて。
そのすべてが、彼女のいない間に行われていた。
そして、娘はもう――戻らない。
リヴェリアは静かに立ち上がると、水槽の中から“娘だったもの”を抱き上げ、胸に抱きしめた。
その瞬間、彼女の中で何かが決定的に“壊れた”。
彼女は武器を構え、感情のままに研究装置へと振り下ろした。
術具が、装置が、法具が――音を立てて砕け散っていく。
彼女の力は、地下施設の基盤そのものを崩壊させ、王城は内部から崩れ始めた。
だが、それで終わりではなかった。
彼女は止まらなかった。
城を。議事堂を。王家の中枢を。
夜の闇に紛れて、リヴェリアは次々に武器を振るい続けた。
理も秩序もなかった。
怒りだけが、彼女のすべてを焼き尽くしていた。
こうして――アストリアは滅んだ。
それは正義ではなく、復讐ですらない。
ただ壊れてしまった心が、世界ごと崩れ落ちただけだった。
気がついたとき、リヴェリアは力尽きていた。
病に侵されていた体で、あまりに激しく暴れすぎた。
彼女は“娘だったもの”を両手に抱いたまま、静かにその場に座り込む。
そして――眠りへと落ちていった。
永遠の、深い眠りの中へ。
識の底から浮かび上がるような、ぼんやりとした目覚めだった。
どれほどの間、眠りについていたのかは分からない。
痛みも、感覚もない。ただ、暗闇の中に微かに流れる魔素の感覚だけが、彼女――リヴェリア・アルトリウムを世界と繋ぎ止めていた。
(……生きてる、のか?)
そう思考した直後、リヴェリアは悟る。これは“生きている”とは呼べない状態だ。
肉体の感覚は存在せず、呼吸もなければ、視界もない。だが確かに、何かの“中”に存在していた。近くで響く鼓動のようなもの――それは柔らかく、未成熟な音だった。
(誰かの……身体?)
そのとき、彼女はあの人形を思い出した。リシアの姿に似た、魂の器として造られた存在。
リヴェリアは死んだ。アストリアを滅ぼした夜、怒りのままに武器を振るい、魂ごと尽きたはずだった。
しかし、内から湧き上がる違和感が、彼女にひとつの答えを与える。
本来ならば消滅するはずだった魂――その意志が、“あの器”に定着したのだと。
いい気分ではなかった。むしろ忌々しいとさえ思う。
あの身体は元々リシアのもの。国の愚行によって造られた、許されざる産物。
それでも、流れる魔力の状態から推察するに、この体はごく最近まで眠っていたことが明らかだった。
心音は浅く、不安定で、まるで生命の境界に立つかのような曖昧な存在だった。
(まるで……新しく生まれたような……)
リヴェリアはその体に宿りながら、ただ静かに“時”を待っていた。思考すること以外に、彼女にはできることがなかったからだ。
意識が覚醒してから、どれほどの時間が経過したのかは分からない。
だが、それは突然、訪れた。
彼女の内に、もうひとつの“意識”が芽吹いたのだ。
それは、暗闇の中で怯えるような、か弱い少女の心。
リヴェリア自身の思考とは明らかに異なる、繊細で、不安定な存在。
その瞬間、身体が微かに震えた。
続けて、彼女の意思とは無関係に、体がゆっくりと動き始める。
どうやら、この体の主はその少女の方らしい。
一瞬、リヴェリアの心の奥で、かすかな希望が芽生える。
もしかして――娘のリシアが、生き返ったのではないか。
だが、すぐにその期待は打ち消された。
魔力の波長が違う。リシアとはまったく異なる――完全なる別人の魂。
この少女は誰なのか。なぜ、魂の器に宿っているのか。なぜ、リヴェリアと同居しているのか。
その答えは、まだどこにも存在しなかった。
少女は混濁した意識のまま、必死に外へ出ようと足掻いていた。
しかし、体は何かに拘束されているようで、もがき、手足を動かしている。
そして――
バキィッ、と外殻が砕ける音が響いた。
その瞬間、世界が“見えた”。
それはリヴェリアのものではない。少女の目が捉えた、初めての“光”。
けれどリヴェリアは、その一瞬を“共に見た”のだ。
少女は混乱していた。記憶もなく、声も出ず、何も理解できていない様子。
状況が理解できないのはリヴェリアも同じだった。なぜ、彼女がこの森にいるのか。
リヴェリアはアストリアの王城付近で力尽きたはずだった。
そんな困惑を抱える彼女をよそに、少女は歩き始めた。
リヴェリアは、その心の奥底から、ただ静かに見守っていた。
少女がどこへ向かうのか、何を成すのか。最初は話しかける気も、干渉する気もなかった。
少女は、自身が囚われていた巨大な木から脱し、地上を目指していた。
だが、足場が崩れ、彼女の身体が宙へと放り出される。
一瞬、時間が止まったように感じた。
(落ちる――死ぬ)
確信をもって、そう思った。
その瞬間、リヴェリアは考えるよりも先に“動いて”いた。
魂の力を引き絞り、少女の身体の主導権を奪う。
どうやったのかは分からない。ただ、体さえ動かせれば、どうにかなると本能的に悟っていた。
魔力の流れを直接制御する。筋肉を強化し、体全体を硬化させ、着地の衝撃に備える。
――魔力操作。リヴェリアが生前、極め抜いた技。
それを、未熟なこの器に流し込むように使った。
制御は困難だった。筋力は足りず、訓練もされていない体だったが、それでも“生かす”ための技術を、彼女は持っていた。
着地の衝撃を足から拳へと分散させ、それを地面へ返す。
骨は折れず、意識も飛ばなかった。
成功だった。
その勢いで、少女に説教までしてしまった。
本来、そこまで干渉する気はなかった。だが、いきなり死なれてはこちらも困る。まだ何も解明できていないのだから。
……だが、その代償はあまりに大きかった。
リヴェリアの存在が、“擦り減って”いた。
どうやら魂を犠牲にして、強引に身体を操作してしまったようだ。
結果として、魂の核が摩耗し、“存在そのもの”が揺らぎ始めていた。
今のような行動を繰り返せば――いずれ、完全に消えてしまう。
体の主導権を奪えば奪うほど、魂は崩壊していく。
思考も、記憶も、何もかもが失われていくのだ。
だが、あのとき手を出さなければ、少女は命を落としていた。
リシアではない。だが、その身体は、リシアが奪われて生まれた“器”。
忌まわしく、憎しみの対象でありながら――それはリシアが最後にこの世に残した“何か”のようにも思えた。
そう考えたとき、リヴェリアは心の奥で、ほんの少しだけ、この少女が生きる手助けをしようと決めていた。
――それから、間もなくのことだった。
少女とリヴェリアは、川を見つけた。
森を進み、枝を掻き分けて、ようやく辿り着いた水場。
その流れは静かで、どこか澄んでいて、森の厳しさに似つかわしくないほど穏やかだった。
辺りには、かすかに花の香りすら漂っている。
この水の匂い……記憶にある――。
リヴェリアは、胸の奥にざらついた何かを感じながら、少女の行動を見守っていた。
少女は川辺で膝をつき、水面へ手を伸ばす。
そして、川面が揺らめき、そこに映ったのは――“顔”。
思わず、リヴェリアは息を呑んだ。
水面に映っていた顔――それは、かつて毎朝見ていた娘の面影と酷似していた。
……リシア……?
胸が、締めつけられるように痛んだ。
けれど、違う。
よく見れば、輪郭はわずかに細く、瞳の色も異なる。
髪の色も、かつての金ではなく、白く淡い光沢を帯びている。
――似ている。だが、まったくの別人だ。
器として生み出された身体が、年月や魔素の影響によって変質したのか。
それとも、別の因子が作用しているのか。
それは分からない。
ただ、はっきりしていることがひとつだけあった。
この身体は、かつてリシアが持っていたものの“延長線上”にある。
忌まわしく、愛しく――壊れてなお残り続ける、“形見”のようなもの。
少女は、自分の姿を水に映して見つめていた。
表情は読み取れなかった。
記憶も感情も不確かなまま、ただ“自分”という存在を確認しているようだった。
その姿を見守っていると、リヴェリアの胸に過去の記憶が去来する。
シルダ川――かつてアストリアの中心を流れていた豊かな水脈。
その流れに、あまりにも似すぎている。
地形も、よく見れば、どこか見覚えがあるように思えた。
もちろん、ここまで自然に覆われてはいなかった。だが、まるで――国土そのものが、森に飲まれてしまったかのような感覚。
リヴェリアは、少女の中から、もう一度周囲の風景を見渡した。
……ここは、アストリアなのか……?
もし、これが本当にあの“シルダ川”であるのなら――
この流れを下っていけば、いずれ“星環門”が見えてくるはずだった。
扇状地の下部、川の流れが一度緩やかになる地点――そこが門の建っていた場所。
リヴェリアはこの川と、その流れにまつわる地形を熟知していた。だからこそ、この先に何があるかも、ぼんやりとだが想像できた。
かつてのアストリアは、川の周囲にあらゆる施設を集中させていた。
交易の要、魔術の拠点、王都への道筋――すべてはこの水脈に寄り添う形で築かれていた。
つまりこの川沿いを進めば、国の痕跡や情報を拾える可能性がある。
――だが、問題はこの少女だった。
確かに、少女は前へ進もうとしていた。だが今のままでは、この森で命を落とすのは時間の問題だった。
魔物の気配は濃く、地形は複雑。魔素も異常な偏りを見せている。
何より、戦いを知らない者にとって、この森はあまりにも苛烈すぎる。
だからリヴェリアは決めた。
この少女を鍛える。自身の知識と経験を、彼女の身を通して伝える。
それは彼女自身のためでもあった。国を滅ぼしたこの手で、今さら何かを償えるとは思っていない。
だが、この森を抜けるには、そしてこの国の“結末”を探るには、少女自身の足で歩いてもらうしかない。
それに――
少女は“生きたがっていた”。
落下の瞬間、リヴェリアはそれを見た。
死を恐れ、必死に抗おうとする小さな意思。
それに彼女は、突き動かされたのかもしれなかった。
リヴェリアは少女に名前を与えた。
ゼーナ――“空白”という意味を持つ、彼女の故郷の言葉。
その時はただ、名前がないと呼びづらいと思ってつけたものだった。
だが少女は、その名を大切にしていた。まるで、それが自分そのものであるかのように。
――そして始まった訓練。
魔素の感知。魔力操作。呼吸と動作の連動。
強化、制御、攻防――そのすべてを、リヴェリアは言葉と感覚で伝えた。
ゼーナはひたむきだった。
不器用だが吸収が早く、説明が通じない部分は感覚で補って理解していった。
まるで、生まれたときから身体が“戦う”ために在ったようにすら感じられた。
そして迎えた初戦――“スライム”との戦い。
あの魔物は見た目より遥かに危険だった。魔素の影響で大型化し、粘性も強い。
取り込まれれば最後、まともに抗う術はない。
リヴェリアは助けることができなかった。ただ、声を送り、指示を出すことしかできなかった。
それでもゼーナは、勝った。
全身の力を振り絞り、魔力を制御し、自力であの魔物を斃した。
その瞬間、リヴェリアは確信した。
こいつは、きっと“強くなる”。
翌日、ゼーナはさらに危険な敵と遭遇する。
四肢に鋭い爪を持つ、猿のような魔物。跳躍力に優れ、どこかから奪った鋼の剣まで手にしていた。
ゼーナは逃げずに向き合った。結果として群れに囲まれ、逃げざるを得なかったが――生き残った。
それが重要だった。
そしてリヴェリアは、改めて思う。
この少女には、生まれながらの“戦いの才”がある。
あるいは、“そう作られた”のかもしれない。
偶然とは思えなかった。
この森で生きるために、この世界で“生かされる”ために生まれたかのような身体と、勘。
……そして、その猿型魔物との戦闘中、リヴェリアはひとつの確信を得た。
魔物が吹き飛ばされた先に、小さな塔の残骸が見えた。
それはかつて“ミリエール”内に点在していた、魔術学院の制御塔と酷似していた。
さらに、ゼーナが拾った剣に刻まれていたのは――アストリア正規軍の紋章。
ここがどこなのか、ようやく確定した。
間違いない。
ここは、アストリアだ。
あの川は、シルダ川。
この地は、かつてリヴェリアが守り、そして滅ぼした国の“亡骸”だった。
リヴェリアはゼーナを誘導し、ミリエールの地下へと進ませた。
探索の結果、王城の地下にも近づいたが、かつてリヴェリアが力任せに崩したため、既にほとんどの構造は失われていた。
それでも、そこ以外の地下道の保存状態は良かった。
だが、そこで新たな疑問が生まれる。
なぜ――ゼーナの身体だけが、完全に“残っていた”のか。
他の者は風化し、塵となっていたり、魔物に喰われていたりしたというのに。
どうして、あの器だけは、こうして蘇ることができたのか。
謎は深まるばかりだった。
この体は、なぜ滅びずに残されていたのか。
なぜ、この魂がそこに宿っていたのか。
そして、なぜ今、この世界で“ゼーナ”として歩み始めたのか。
……その答えはまだ分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
リヴェリアはずっと、この少女を“内側”から見続けてきた。
眠るときも、悩むときも、戦うときも――短い時間ではあったが、常に、彼女の中にいた。
最初はただ、義務のようなものだった。
この森で死なせないため、情報を集めるため、自身の過去を確かめるため。
けれど気づけば、リヴェリアはこの少女の変化を喜び、成長を誇りに思っていた。
声をかけるたびに反応が返ってくるのが、いつしか心地よくなっていた。
……似ていない。
リシアとは、まったく違う。
だが、それでも。
この胸に芽生えつつあるものを、リヴェリアは否定できなかった。
それが何なのか、まだ明確には言葉にできない。
けれど――この少女が前に進むなら、彼女はきっと、その背を押し続けるだろう。
まるで、そうすることが“当然”であるかのように。