ひみつの
「ねえねぇ、あなたはだあれ?」
蝉の大合唱が騒がしい暑い夏のある日、木の葉で日が遮られて少し涼しい林の中で、石畳の道を歩いていると、僕の背後から声が聞こえた。
驚いて振り向くと、視界いっぱいに麦わら帽子があった。その下に白いワンピースの端が風に揺れている。
「ねえねぇ、あなたはだあれ?」
その女の子が顔を上げる。透き通るような目と、幼い顔立ち。僕より二つか三つくらい下だろうか。長く、黒い髪があっても、どこか涼しい印象があった。
僕が名前を言う。
すると、その子は僕の手を取って急に走りだした。
どこに行くのだろう。そう思っても、口に出す暇もなく、走りにくい石畳の道が途切れた。
そこはお寺だった。大きな、大きなお寺で、古いけれども汚い感じが少しもしない。
「いっしょに遊ぼう!」
その子はこちらを振り向いて、楽しそうにそう言った。
何をして遊ぶの?
そう聞くと、その子は歩いて行って、お寺に上がろうとし始めた。
それを見て僕が慌てて止めようとする。
怒られるよ。そう言おうとした時、僕は辺りに誰もいないことに気がついた。
耳を澄ませても蝉の音しか聞こえない。まるで人の気配がなかった。
よく見ればここはお寺の正面ではない。裏口のようなところで、ここで何をしたって誰にも見つからないだろう。
そう思うと、途端に止めようとする気持ちが吹き飛んだ。
お寺の裏口で、大人は誰も見ていない。僕は、僕とこの子は今、少し悪いことをしようとしている。
俄然、僕はお寺に入って見たくなった。
もしかしたら誰かいるかもしれない。当然だ。なので、こっそりと。
そうして僕はその子と一緒にその寺を探検した。中には広い部屋と、小さな部屋がいくつもあったが、不思議なことに、どの部屋も綺麗に片付けられていて、誰かが居た跡は無かった。
あまりに人が居ないので、寺中を全部回って、お寺の正面まで探検した。
それでも人はいない。僕は、ここが秘密の場所だと思った。
「誰かいた?」
被った麦わら帽子の両の端を下に引っ張りながら、楽しさを抑えきれないような顔で、その子が聞いてくる。
僕は嬉しくなって、首を大きく横に振る。
「じゃあ、かくれんぼしよっ!」
誰も人が居ないと分かってから、僕たちは遠慮なくはしゃぎ回った。追いかけっこ、隠れんぼ。だるまさんがころんだ。
本当に楽しくて、僕たちは瞬く間に仲良くなった。
その日、空が綺麗に夕色に染まった頃、僕がばあちゃんの家に戻ると、お母さんたちが慌てて出てきて、僕を質問責めにした。
「どこに行ってたの」
僕は、お寺、と言いかけて慌ててそれを飲み込んだ。そして、
「ひみつ」
と言ったのだ。
「もう帰っちゃうの?」
それから毎日、そのお寺で二人で遊んで居たけれど、お別れの日がやってきた。
僕がもう会えないと言ったのだ。
「なんで?」
ワンピースの裾を弄りながら、その子は何でもなさそうに聞いてきた。
僕は今、おばあちゃんの家に泊まりにきている事を話した。僕の家は別にあって、そこに帰らないといけない事を。
けれど、家に帰るのは明日なので、今日は遊べる。
「そうなんだ」
来年もまた来るよ、と言ってみる。
その子の顔は麦わら帽子で隠れて見えない。
少し裾を弄っていたけれど、すぐにこちらに笑顔を向けて、遊ぼう、と言った。
それから僕たちは遊んだ。
なぜか、今日はお寺が静かで、広すぎるように感じたけれど、僕はあまり気にしなかった。
次の日の朝には僕は家に帰る。夕方になってもまだ遊ぼうとするのを僕は遮った。また来年遊ぼう、と言って。
その子は別れ際に、バイバイと言った。蝉の声であまり聞こえなかったが、そう言ったと思う。
その時も、麦わら帽子で顔は見えなかった。
それから一年経って、僕はその子の事を忘れていなかったけれど、おばあちゃんの家に行く事にはならなかった。
次の年も、その次の年も。
僕はお母さんに行きたいと言ったけれど、忙しそうにしていて殆ど聞いてもらえなかった。
六年ほど経った夏、僕が毎年のようにまた、おばあちゃんの家に行きたいと言うと、母はいつも通り反対した。
「いや、もう今年で高校生になったんだ、一人で行ってこい」
毎年僕が駄々をこねても何も言わなかった父が、許可を出してくれた。
僕は驚きつつも、言う通りに、一人で行くことにした。
入念に用意をして、三泊の予定を立てて、旅費をどうしようかと悩んでいたら、父が出してくれた。
あの子はどうしているのか。今から考えると、かなり可愛い子だった。あの時みたいにお寺で遊ぼうとは思わなかったが、会って色々話したいと思った。
「どこに行くんだい?」
やっとおばあちゃんの家に着いて、挨拶を済ませてすぐ僕はお寺に行こうとしていた。長旅で疲れているのなんて気にならなかった。
正直にお寺に行くと答えようとして、僕はそのお寺がどこにあったのか覚えていない事に気がついた。
「それぁ、裏口だねぇ」
大きくて、古い。林の中の石畳の道の向こうにある、綺麗なお寺だ。
そのお寺は知っているとおばあちゃんは言うけれど、人が居ないなんてことは無いと言った。
僕が首を傾げているのを見て、笑いながらおばあちゃんは寺への道を教えてくれた。
「そんな子は居ませんよ」
おばあちゃんの言う通りに家を出て、お寺への道を行くと、参拝客で賑わうお寺に着いた。そのお寺は僕の記憶にある通り、大きくて古い、綺麗なお寺だった。
そのお寺のお坊さんを適当に捕まえて聞いてみるけれど、誰もが同じ事を言う。
よく考えてみると、僕があの子について知っている事は、全くと言っていいほど何もなかった。
僕は呆然と立ち尽くした。裏口から入ってみようと林をぐるっと回りこんでみたが、石畳の道を掃除しているお坊さんに変な目で見られて入れなかった。
結局、その夏はその子に一目会うことも無いまま自分の家に帰った。
次の年と、その次の年はおばあちゃんの家に行ったが、やはり何も変わらない。
あの女の子に関することは何も分からなかった。
その次の年は、おばあちゃんの家に行くことはなかった。
十年ほど経って社会人になり、僕は結婚した。大恋愛の末、と言うことではなかったが、子供も二人出来た。すくすくと育って行く子供達を養う為に必死に働く生活は、それなりに幸せだった。
順調に新婚生活が進み、子供が十分大きくなったところで、僕の祖母の家に行く事になった。十七年ぶりの事だった。
「まぁ、昔はこの人もやんちゃだったんですね」
祖母と家内が談笑しているのを横目に、僕は縁側に座って揺れる御簾と風鈴を眺めていた。日が落ちてきて、風鈴が綺麗な音を響かせる。朝はそんな和風の家を珍しそうに駆け回っていた息子と娘は昼頃にどこかに遊びに出た。ついて行こうかとも思ったが、子供達の元気について行けなくて、自由にさせる事にした。
少し昔は、僕もああやって外に出てはしゃいでいたはずなのに。
「ただいま!」
そう、ちょうどこれくらいの、綺麗な夕色の空だった。帰ってきた僕を、過保護気味な母は飛んで出てきて抱きしめたのだ。
そんな昔を彷彿とさせる息子の声。少し違うのは、それを迎える僕たちは、のんびり迎えた事だ。
「どこに行ってたの?」
優しい目でそう問いかける家内を見て、何か奇妙なものを覚える。
僕は、この答えを知っている気がする。
むしろ、自分の口が代わりに動きそうなほどに。
息子達は顔を見合わせて、楽しそうに笑った後、声を揃えて言ったのだ。
「ひみつ!」