31話 秘密の保険契約
真っ白な空間があった。その空間は地上も天もない。地平線の果てまで純白の世界は続いており、境目も存在しなかった。
静寂が支配し、生命体どころか、チリ一つない世界がゆらりと揺れる。
空間に水滴を落としたかのように波紋が生まれると、波紋の中心から少女が滲み出るように現れた。
金の糸を撚り合わせたような煌めく金髪をおさげに纏めて、その瞳は宝石のように輝いている。小さな唇は薄っすらと笑みを浮かべて、少女がふわりと空間内に浮く。
「トゥス保険会社のトゥス。お客様、ご連絡を頂いたようですが、どのような御用でしょうか」
涼やかな声で尋ねるのはトゥスであった。いつものアホな様子と違い、落ち着きのある姿を見せている。
トゥスの周りにポゥと光球が生み出されると、人型となっていく。おじいさんや女性、子供までその姿は様々だ。
おじいさんが最初に声をかけてくると、トゥスは頭を軽く下げる。
「トゥス殿よく来てくれた。この度のご足労痛みいる」
「いえ、お客様のお願いです。何をとっても向かわなければと、急いで来ました。で、ゼウス様のご用件はどのようなものでしょう」
「うむ………。支払った分の価値はあったのかと確認だ。どうであろう?」
ゼウスと呼ばれたおじいさんは、こほんと咳払い。して目を細める。その目には疑念はなく、安堵している様子が垣間見えていた。
ニコリと微笑むとトゥスは周りを見渡して、軽やかに淑女の礼をしてみせる。
「予定通りです。魅人とエルフの戦争は終わりました。それに伴う未来においての、世界荒廃も消えたと考えております」
フフッと妖しく微笑み、周りを囲んでいた者たちは、嬉しそうに顔を見合わせて喜ぶ者や、歓喜の声をあげてガッツポーズをとったりもしていた。
「『回帰保険』のお支払い。ゼウス様の分は終わりましたがどうでしょうか?」
「うむうむ、満足の行く結果となった。我らの中でも『未来予測』をする者が、もはや前回のような世界荒廃は起こらないと、太鼓判を押してくれている。さすがだトゥス殿」
褒め称えるゼウスのおじいさんに、フフッと微笑み、トゥスはおさげをぶんぶん振ると胸を張る。
「むふーっ、完璧! トゥスのお仕事は完璧。なので、支払い終了のサインはここにする」
すぐに元に戻るトゥスであった。
「うむ、わかった。これで世界がめちゃくちゃになることもないだろう。まったく父上は愚かなことをしてくれたものだ」
ぽんと空中に現れた契約書を、サラサラと書きながら、ゼウスは苦々しい顔になる。
「本当よねぇ……いくら『信仰心』が欲しいからって、緑人に魔石吸収能力を与えるなんて。将来どうなるか全然想像しなかったのかしら」
「しなかったのであろうよ。子供レベルの知性を手にして、クロノスへと感謝を捧げるカモになると考えていたようだからな」
波打つような美しい髪を押さえて、誰もが魅了されてしまうだろう美しき女性が困ったように嘆息する。ゼウスは肩をすくめて、呆れた声で返した。
他の者たちも神々だ。彼女は女神ヘラである。
トゥスを他所に、神々たちはクロノスの軽挙妄動を罵っているが、彼らも緑人をカモにするクロノスの行動を見てみぬふりをしていたのを知っている。
お客なので、敢えて言うつもりはないが。
手っ取り早く『信仰心』を稼ぐには、全然増えないエルフたちより、繁殖力が高い生物の方が都合が良かったのである。
しかし、想定と変わってしまった。緑人は肌の色が変化して、知性も大幅に上がってしまった。結局のところ、緑人のポテンシャルを見誤ったのだ。
緑人の寿命はこれまでは4、5年。これはだいたい殺されたり、病気で死ぬからだ。その分多産であり、すぐに増えるので絶滅を免れているのが現状だった。
しかし身体能力が大幅に向上し、寿命が伸びると緑人は変わった。多産とはいえ、そこまで増えることはなくなったのである。知性がついて、命の危険が少なくなったことで生活様式が変わり、進化したのだ。
クロノスたちは大慌てすることとなった。人類に対して脅威となると考えたからである。数は力というわけ。
しかし、実際は違った。種族戦争など起こさずに、同族で争い、金を稼ぎ、ドワーフたちと商売などで繋がる緑人は、殊の外平和的な種族と言えたのだ。
クロノスたちを始めとして、その思わぬ結果に喜んだ神々たちは、バブル期が来たとばかりに大喜びして、緑人の信者獲得に動き、名前も魅人と変えたのである。
誤算は、理性的だと思われたエルフが人類との種族戦争に移ろうとしたことだ。
「まさかエルフが人類滅亡を企むとはなぁ………。未来予測では、百年後に世界の殆どを砂漠に変える術をエルフも魅人も発明する……そして世界は滅亡するとは……」
「思いもよらなかったな。本当に『回帰保険』に入っていて良かったよ。さすがはトゥス神、外なる神なだけはある」
「我々が気づいた時には、もはや歴史の流れは変更できぬところまできていたからな……さりとて、神々は地上への介入は禁止されておる。トゥス神がいなかったらと考えるとゾッとするわい」
むふふと、トゥスは騒ぐ神々を見てほくそ笑んじゃう。もっと褒めて良いんだよと、キョロキョロと見渡しすが、皆はクロノスの愚痴に移行しており、もう褒められることがなくてしょんぼりしちゃう。
「むふーっ、とはいえ、大金が手に入った。ヨグにはナイショだけど」
ピピッと、空中を叩いて、自分の銀行口座を確認する。銀行口座には11桁の0が表示されており、支払いが終了したことを示していた。
とりあえず踊っておくかなと、両手をフリフリ、腰をくねくね幼女ダンスをしておく。とても可愛らしくて、女神の一人が拍手をしてくれる。
「でも『回帰保険』とは考えたものですわ。外なる神にしか行えない御業ですわね」
「『回帰保険』は貴女のやり直しを援助する。今回の世界滅亡を回避できたのはトゥス社だからこそ!」
ヨグにはナイショだが、『回帰保険』には実は神々専用コースがあるのだ。『回帰』をしなくてはならないほどに切羽詰まった神々によく売れる保険である。
それは『回帰』後に、神々が望む世界へと歴史を分岐させることである。
クロノスは実は既に封印されている。地球人ならすぐにピンとくるだろう。神話では、クロノスはゼウスに破れて、主神の座を追われている。
同じことがこの世界でも行われた。世界崩壊がわかった時点で、責任をとってクロノスは『回帰』を行使して封印された。
そして溢れる程にあった『信仰心』は、世界崩壊を防ぎたいゼウスたちが、『回帰保険』の支払いに充てたのだ。
これは『回帰』を行っても歴史に介入できない神々にとっては苦渋の選択だった。
公爵令嬢を助けるためだけに、神が世界を変えるなどあり得ない。その裏には世界レベルの困難をなんとかするためという理由が常にあるのだ。
「しかし、感心したぞ、トゥス神よ。まさか滅亡のきっかけとなる者を世界救済に使うとはな。そのような戦略は我らにはとれぬし、思いもよらなかった」
「中途半端な覚醒をしたヨグは爆弾みたいなもの。でも、育てて上手く使えば切り札になり代わる」
感心した様子のゼウスにフンスと笑ってみせる。
本来のヨグは『神気』を使える改造人間として、『回帰』が無ければ、少し未来に軍に捕まっていた。
何しろ軍にはヨグを改造した資料があったからだ。ある軍人がそれに気づいて、研究を再開。『回帰前』は弱かったヨグは捕縛されたあとは………。
『神気』を使える素体は、神の理に魅人が手を出すことを許してしまった。ポーションの製造方法が残っていたことも悪かった。
結局のところ、『回帰』が行われなかったら、彼は幸せな人生を歩むことはなかった。
全部、ヨグにはナイショだ。悲惨な未来を教えてあげても良いことはない。彼が救われたのは偶然にして、必然でもあった。
「むふーっ。一番大きな案件は片付いた。今年の売上は去年の500%アップ!」
早くも世界を救ったという案件が片付いたので、一安心だ。あとはそれほど重要な案件はない。
「あらん、世界を救ってもらえたのには感謝するわん。でも、あたくしの案件も残っているのよん?」
「儂のもだ。世界滅亡とは別に大きな案件を片付けてもらいたい」
「おっと、俺っちの案件もよろしく〜」
次々に押し寄せてくる神々に、トゥスは資料をぶんぶんと振って、ペカリと輝くような笑顔を魅せる。
「ふぉぉぉ、大丈夫! トゥス社の保険は必ず履行される。皆落ち着いてほしい!」
トゥスの契約は達成率100%なのだ。
「神域を跨ぐトゥス社の『回帰保険』。安心安全で格安!」
次の案件はどうしよう。今回は大きな案件だったから、次は小さい案件にするべき?
どちらにしても、ヨグをまた導く必要があるだろう。
神の知恵は深遠で、人間には想像もつかないのだ。
そして、ヨグにも幸せになってほしい。これは神として世界を救済したヨグへのご褒美でもある。
「むむ、これが良い! これをヨグにやらせるべく導く!」
ちょうど良い案件があったので、ビリッと破いてポケットに押し込む。
そろそろ地上に戻る時間。トゥスは再びヨグを敷き布団にするため、降臨するのであった。
一旦、プロットを考え直すため完結とします。
練り直して『ヨグの大航海』という新作であげてますので、よろしかったら読んで頂ければ嬉しいです。