1話 雨の日に目覚める
『願いを叶えたいか?』
どこからか、誰かの声が聞こえてきた。
『願いを叶えたいか?』
頭の中に直接響くような声だ。俺の水の中に深く沈んでいたような意識が浮き上がっていく。寝起きのように朦朧としている意識の中で、ゆっくりと目を開く。
周りを見渡すと、ざぁざぁと雨が降っていた。濡れた頭から水滴が降りてきて、顔が濡れる。
体温が奪われていくのがわかる。その冷たさは朦朧としていた意識をはっきりと覚醒させていく。
「背中がいてぇ……。なんだよこれ………」
ジンジンと背中が痛む。仰向けに倒れて強く背中を打ったに違いない。
頭を振りながら、現状を把握しようと顔をあげる。目に映る光景は、見慣れていたもので、今は忘れかけていたものでもあった。
ボロボロの石畳。本来は綺麗に敷き詰められているはずの石床はひび割れて欠けており、丸ごとなくなっており、土が覗いている箇所も見えている。
雨が降っているにも関わらず、饐えた腐った臭いが鼻につく。狭い細路地は真っ黒に汚れた石壁が並んでおり、何年も掃除などはしたことはないのだろう。
隅にはゴミが積み重なっており、ネズミが壁に空いた穴から覗く。空気が澱んでいるのが、ここは人の住めるような場所ではないと伝えているようだ。
雨粒がバシャバシャと降り注ぎ、ところどころに汚いゴミを巻き込んで、水たまりができているのが目に入ってきた。
ここがどこかは理解している。だが、もはや記憶の奥に仕舞ってしまったものでもあった。
スラム街だ。無法者の住む区域だ。
「どうしてここに………」
酔っ払って、こんなところに来たのか? だが、ここに来るほど俺は酔うはずはない。
雨に濡れて、顔を顰めてしまう。そもそも酒を飲んでいたか? 最後の俺の記憶はなんだっけか……。
だが、考えようとする俺の思考は遮られた。
「おらっ! これが報酬だよっ!」
「アウッ」
人を虐めることに楽しさを見出しているとわかる男の声と、肉を叩く鈍い音。壊れて使い物にならない樽に激突し、叫び声をあげる子供の悲鳴。
完全に目を覚ました。
無意識に目が細まり、音の出処へと視線を向ける。
「おらっ、おらっ! なんだっけ? もう一回言ってみろよ!」
「いだ、いだい、やべでぇ」
そこには薄汚れた風体の男がいた。土や染みがついて汚れてはいるが、革のズボンに革のジャケットを着込んでおり、腰には古ぼけた剣を挿している。
酒浸りなのだろう。若いように思えるが、酒焼けで赤くなっており、肌も草臥れた布のようにくたくただ。その顔を醜悪にくちゃくちゃに歪めて下卑た嗤いを見せながら、なにかをボールのように激しく蹴っていた。
蹴られるたびに、泥だらけの水溜りに転がり、バシャンと音を立てて汚れていくのはボールではなかった。
子供たちだ。泥だらけで顔もよくわからないが、背丈から見て、10歳ぐらいだろうか。3人の子供たちが、先程から蹴られていた。
一人は壁に叩きつけられており、一人は体を丸めて蹲っている。最後の一人が泣きながら蹴っ飛ばされている。胸糞の悪い光景だ。
「や、やめてよぅ」
うつ伏せになって、泥を頭から滴り落として、子供たちの一人が泣きながら言う。
「はぁ? なんかいったか? お前ら聞こえたかぁ? 雨音が煩くって聞こえやしねぇ」
「もっと蹴ってくれと言ってたんだよ」
「なになに、全財産を渡すから蹴ってくれ? おいおいスラムのガキの全財産なんかゴミだよゴミ! 蹴るのは疲れるんだよなぁ」
男が嗤いながら後ろを振り向くと、同じような格好の男が二人、壁際で面白い見世物を見るかのようにニヤニヤと口元を歪めていた。
壁際に立つ男たちは仲間が子供たちを交互に蹴っているのを止めるどころか煽っている。
「雨の中でゴミの片付けとは、俺も優しくなったんもんだぁ」
「偉い偉い、拍手喝采だ。な、そこの口を聞くゴミもそう思うだろ?」
「拍手をすれば、お前たちは片付けないでおくぜ」
男たちは俺の方を見て、ゲラゲラと嗤う。裏切りを誘う行動に誘導するその姿に吐き気がするぜ。
「ど、どうしよぅ………ヨグ……」
クイクイと裾を引っ張られたので、横を見ると雨に濡れるがままに、立っている子供がいた。髪も雨に濡れてべったりとしており顔を隠している。頬についた泥やボロボロの布切れを着込んで、身体を震わせていた。
ヨグ……。俺の名前を知っているのか。どこかで会ったことがあるか? なんとなく記憶にあるような、ないような……。まぁ、今はそれどころではないか。
「拍手なんかする必要はありませんよ。裏切りは友だちをなくしますからね? 大丈夫、おじちゃんに任せてください」
「………ヨグ?」
濡れている頭に手を乗せてやり、安心させるように笑みを浮かべると、子供はキョトンとした顔になる。……なんか変だな?
どことなく違和感を感じるが、優先するべきことに気を向ける。
薄笑いを浮かべたまま、男たちへと静かな声音で声をかける。
「申し訳ありません。ちょっと通りがかったんですが、貴方たちは何をしているんですか?」
腰に手を当てて、ゆっくりと告げると、男たちはキョトンとした顔になり、次に吹き出すようにゲラゲラと笑い出した。
「おいおい、通りすがりだってよ!」
「ブハハハ、仲間じゃねぇのかよ。一緒に暮らしているんじゃないのか?」
「僕ぅ〜通りすがりだから助けてくれってか。笑えるぜ、こいつは!」
なんだよこいつら? なにがおかしいんだ? この子供たちは見覚えがないし、俺の家族は別にいる。いや、どことなく見覚えがあるような……。
とりあえず現状を確認する必要がある。
「なにがあったんでしょう? 説明をしてくれると嬉しいのですが?」
「え? ヨグ? 何言ってるんだよ! こ、こいつらがお金を払ってくれないんだろ! 薬草取りで一人銅貨2枚くれるって言ってたのに、全員で2枚しかくれないんじゃないか! おかしいんだろ!」
まだガッツがあるのか、青痣だらけなのに、蹴られていた男の子が怒鳴るように言う。薬草取り……なるほどな。
「それで報酬をくれと伝えたら、路地裏に誘導されて殴られているんですね?」
「あ、あぁ、そうだろ?」
なぜか子供は戸惑っているが、それでもこくこくと首を縦に振って肯定してきた。肩を竦めてため息を吐いてしまう。ったく、懐かしくもふざけた古臭い手法を使いやがって。
「俺が子供の頃に流行った手法を使いやがって……。呆れちまうな」
薬草取りの仕事を冒険者ギルドで受けて、スラム街の子供たちを雇う手法だ。人数分払うと言って子供たちを集めるが、もちろん報酬は支払うことはない。
スラム街の子供たちを食いものにする手法だ。自然の薬草は森の中層にあるため、採取に危険が伴い、そこそこ値段が高い。
魔物が現れるため、雇った冒険者が護衛をやるという約束だが、子供たちを食いものにするレベルの低い奴らだ。もちろん守るつもりなど毛頭ない。
いざという時には子供たちを囮にして逃げてしまう。子供たちを消耗品としか考えていないクズの手法である。
4、5年は流行ったか。あまりにも子供たちが死にすぎてさすがに誰も話に乗らなくなって廃れた手法なのに、今頃使う奴らがいるとはな。
それ以外にも廃れた理由はある。
「それじゃ廃れた理由の一つを教えてあげるとしますか」
「あぁん? 廃れた? 最新の手法だぜ、これはよぉ」
「昔を知らない若い奴らにはそうかもしれません。だが……スラム街に一歩入ったのが間違いです!」
威圧するように口元を歪めて、足を踏み込む。体内の闘気を高めて、ダッシュをし一気に間合いを詰め
「あぎゃっ」
なぜか身体がふらついて、勢いよくすっ転んだ。泥の水たまりに頭から突っ込み、泥飛沫をあげてズザザと滑ってしまう。
ひび割れた石畳に身体が擦れて、ズキズキと各所が痛む。
「ギャハハハ! なんだよ、このガキ! かっこつけか? 笑わせてくれる」
「ぬぐぐ………なんだこりゃ?」
確かに少しカッコはつけたけどな! ググ、は、恥ずかしい。にしても、変だぞ?
「手足が……短くなっている?」
よく見ると、手は小さいし、足も短い。まるでハーフリングになったかのようだ。なんだこれ?
「オラァッ! シュート!」
「ガハッ」
男が笑いながら蹴っ飛ばしてきて、強い衝撃を受けて、簡単に吹き飛んでしまう。
ゴツゴツした石畳に叩きつけられて転がっていき、壁際に置かれている壊れた樽に突っ込んでしまう。
壊れた樽に突っ込んで背中がズキズキとする。ど、どうなってんだ? 大人の俺を軽々と蹴飛ばすとは………いや、これは俺の問題か?
「ひょー、ナイスシュート。お前、カルチョの選手になれるぞ!」
「だろう? こうやってゴミを蹴って練習すりゃプロの選手になれるぜ」
ゲラゲラと嗤う仲間の声を聞いて、機嫌よく男は俺に近づいてくると、蹴ってくる。
「そりゃ、もう一発」
大人の全力の蹴り。込められた力には悪意が乗っている。
ズンと肉を叩く嫌な音が僅かにして……。
「あ、ああん?」
怪訝な顔になる。
なぜなら俺が腕を交差して防いだからだ。交差した腕はビクともせず、俺は体幹を崩すこともなく、吹き飛ばされることもない。
「悪夢ですね、こりゃ。ですが、一方的にやられると思わないでください!」
『大木剛体』
交差した腕の隙間から、ニヤリと嗤い返してやる。
「な、なんだこいつ? このっ!」
再び蹴ってくる。だが、俺の防御を突破することはできない。硬い大木に蹴りを入れるが如く、ビクともしない。それにしても、こいつ、子供相手に全力じゃねーか、クズだな。
3回目の蹴りは喰らわない。足を引き戻した瞬間に、隙を狙って身体を持ち上げて突進する。
どうやら身体が小さくなっているが、それならそれでやりようがある。身体を縮めて、体勢が崩れないように摺り足で男の横に飛び出る。
「な、こいつ!?」
動揺して隙間だらけの男へと、拳を握りしめて、横腹へと殴りつけた。硬い感触が拳に返ってきて、舌打ちをしてしまう。筋力もかなり衰えているのかよ。
そして殴りつけられて驚いた顔の男は、すぐに見下した表情へと変わる。革のジャケットはボロでもそれなりに硬い。どうやら今の小さくなった身体ではダメージを与えることはできないようだ。
普通ならな。俺の拳は少し違う。
『闘気衝』
「ご、ごふぅ!」
バンと空気が破裂した音がすると、苦悶の表情となり、男は脇腹を押さえてズルリと倒れ込む。
「な? いまのは闘技?」
「こ、このガキ、闘気を使うのかっ!」
「チンピラなりに、判断力があるようですねっ!」
笑いながら様子を見ていた残りの二人は顔色を蒼白に変えて剣を抜き放つ。手入れをサボった錆びた切れ味の悪そうな剣だ。
バシャバシャと水たまりを蹴り、二人へと間合いを詰めるべく走る。闘気を体内に駆け巡らせて、身体能力を上げているために、普段とは比べ物にならない速さだ。
「お、おぅひゃぁ」
恐怖を感じたのか、一人がでたらめに剣を振るってくるが、腰が引けてまったく勢いがない。子供を虐めるだけのつもりだったのに、予想外に強い奴が現れて慌てているのだろう。
その程度で、俺に敵うかよ!
軽く頭を下げて、軌道を読んであっさりと剣をかいくぐると、拳を腹に押し付けて闘気を流し込んでやる。バシンと音がして、二人目も先程の男と同じように崩れ落ちる。
「な、なんでスラム街に闘気使いが……」
「廃れた理由の2つ目です!」
「ゲベ」
最後の男が震えて、立ち尽くすのを見て、ジャンプして頭めがけて蹴りを食らわしてやる。短い足でも、それなりに効いたようで、悲鳴をあげて男は仰向けに倒れるのであった。
「見たかよ。これが2つ目の理由。最底辺の冒険者はスラム街の連中にとっては金になるから狙われる……」
こいつらの最期を教えてやろうとするが、言い切る前にガクリと膝をついてしまう。
ハァハァと吐く息が荒い。心臓がドクドクと激しく脈動する。手足が冷えてきて、身体から力が抜けていく。
馬鹿な……。たったこれだけの闘気で生命力が空っぽになるなんて……。
ヤバい。スラム街で意識を失うのは命を捨てるのと同義だ……。どうなってんだ?
子供たちが驚いた顔で、俺に駆け寄ってくるのが、視界が暗くなっていく中で垣間見える。
『願いを叶えたいか? 今なら洗剤も一ヶ月分つける』
それと、さっきからうるさいんだけど、お前は誰だ?
薄汚れた子供たちとは違う、綺麗な装いの小さな少女。耳元で囁くのは止めてくれ……。
抵抗虚しく、俺は意識を失った。