月と風の讃歌 ~another Old Far Place~
風が静かに鳴っている。
見えるのは緑と青の世界。それが雄大に広がっている。
その中に溶け込むように、
色彩の豊かないくつもの家屋の屋根が覗いている。
緑は、樹々の深い森林の群れ。
青は、無数に交じる河川と空。
平穏な空気の流れ。夐然とそびえる山脈の連なり。
空には少しいびつな白日の星々が浮き、少し遠い平原では四足の動物たちが戯れているのまで見える。
易しく眠りに誘われてしまいそうな場所。
そんな風景が見渡せる丘の上で、青年は一人物思っているように見えた。
落ち着いた様子で草の上に座り、澄んだ双眸で遠くを眺めている。
どこか哀し気な気配がなくもない。
青年の意識がどんな思索の中にあるのか、知りたくなるような雰囲気。
「何を見ているのかね?」
少し遠くの方で、その情景にしばし見入っていた老人は、青年に近付くと声を掛けた。
「ここから見える景色を」
青年は答えた。目はまだ正面の景色を見詰めている。
老人が、少し前から青年の事を見ていたのに気付いていたのか、突然の質問に動じている気配はない。
「何か面白いものでも、見えるのかね?」
老人もそこから見渡せる景色に目を移しながら、尋ねた。
「似ているんです。僕の知っている所と、ここは」
青年は、ゆっくりと後ろを振り返って答えた。
彼らの少し後ろには、半壊した建造物が立っている。
それほど大きくはないが、かつては見事な造形を誇っていたのが今でも見て取れる。
聖堂か、あるいは小宮殿のような造り。または庭園と言えなくもない。
それを樹々が遠巻きに取り巻いている。
絵の中のような光景に、あとは風がその音色で伴奏をつけている。
「ほう。生まれ故郷かね? それは」
「ええ」
簡素に答えただけで、青年は言葉を続けない。
少しの沈黙。
その間を埋めるように、風が少し強めに吹き過ぎていった。
「彼らは、どうなりました?」
青年が尋ねた。静かな口調だった。
「水葬したよ。所詮、流れ者のならず者だからな、簡易に済んでしまった」
「そうですか・・・」
「相手は三人だったのだろ? お前さん、全然強そうには見えんのにな」
青年は応えない。老人は続ける。
「しかし、殺すことは無かったのじゃないかね? あんなに強いのであれば」
青年は応えない。まだ穏やかに遠くを見ている。
老人は軽くため息を吐く。
「あんたは、旅の途中なんだろう?」
「ええ」
「何が目的の旅なんだね?」
「もう欲しい物は、手に入りました。後は帰るだけです」
「先刻、言っていた生まれ故郷にかね?」
「ええ」
「待っている人間がいるのだろう?」
今まで淀む事がなかった青年の応答が、そこで止まる。
老人が不思議そうに青年の横顔を見る。青年は虚空へと目線を上げる。
「ええ、います」
須臾の後、そう答えてから青年は初めて老人を正面から見た。
その顔は柔和で、口元には淡い笑みが浮かんでいた。
対顔すると青年の双眸は、とても幼く見えた。
それは、年端もいかない少女のような無邪気な印象を与える。
老人はそれまで見ていた青年とのその違いに戸惑い、視線を逸らした。
風の音色が静かに響いてくる。
「いつまで、ここに居るのかね?」
「迷惑ですか?」
「う~む。まぁ、正直言うとな・・・」
老人は苦い顔をして、言葉を続ける。
「この辺では争い事なんて、まず無いんだよ。勿論、あんたは我らを助けてくれた訳だから悪くはないんだが・・・。
しかしそれでもこの辺の連中は、そういうものを気にする方なんでな」
「もう少しここに居ては駄目ですか? そうしたらすぐに出て行きます」
「もう少しとは?」
「二、三日中には」
「う~む。まぁ、そのくらいならな。それじゃ、昼飯くらいは届けてやろう。
それとも、わしの家に食いに来てくれてもいいぞ? いや、何なら宿はわしの家を使っても―」
「いえ、必要ないです」
青年は老人の言葉を遮って答えた。
「しかし、食料は持参していないのだろう?」
老人は青年の荷物を見ながら言う。
「いくらここの土地が豊かだといっても、まぁ、野宿は出来ても、今の時期じゃ大した木の実は採れないぞ」
「いえ、物を食べる必要がないんです」
「・・・どういう事だね?」
「話しても納得出来ないと思いますよ」
「う~む。話したくなければいいんだが・・・。出来れば聞きたいな」
「僕は人を殺す事で、飢えが満たされるんです」
青年は淡白に言った。
「ん?」
老人は訝し気な顔をする。
「人肉を食べるとか、殺人に愉悦を感じるとかという意味じゃありませんよ」
青年は再び、柔和に頬笑んだ。しかし、少し哀し気な陰りがある。
「その言葉通りの意味なんです」
「つまりあんたに取っては人を殺める事が、食事をした事になると?」
「ええ」
青年の顔からは表情が消えていく。
その双眸には、偽りの色は無いように見える。
「ふ~む。確かに信じ難い話だが、それが事実だとしたら難儀な事だな」
「ええ、そうですね・・・」
「それじゃ、ならず者たちを生かさずに、殺したのもその理由でかね?」
「ええ」
その時、老人は何かに気付いたように目を見張った。
「それには・・・、彼らを殺した理由には、あぁ~と、つまり・・・、彼らが悪漢だったからというのも入っているんだろう?
それじゃぁ、もし・・・彼らが居なくて、あんたが空腹だったら、この辺の・・・。あ、いや・・・」
老人の言葉の語尾が濁る。
青年は老人が言いたい事を察したようだったが、特に何も言わなかった。
老人は少し逡巡してから、口を開いた。
「今までに、悪漢達の他に誰かを殺めた事は?」
「いえ、無いです。」
青年は、そこで一度言葉を切ると静かに続けた。
「この世界はそんなに平穏じゃありませんから」
「そうか・・・」
老人は少し安堵したように呟いた。
そして、おどけるように笑みを浮かべながら言う。
「お前さんの為に、この世界が平和にならない事を祈らなくてはならないな」
青年は応えない。
「いや、すまない。失言だ・・・」
老人が目を逸らす。
「いえ」
青年の応答は素っ気なかった。沈黙が少し重くなる。
静かに風が響く。
「あれは何をしているんですか?」
青年が突然聞いた。
「うん?」
老人の反応が遅れる。青年は虚ろな瞳で、眼下を見詰めていた。
老人はその視線の先を追う。
家屋が密集し、河川から続く水路もその辺りでは良く整備されている。
そこにはちょっとした広場があり、幾人かの人間達が集まって忙し気に動き回っている。
「ああ、あれは祭りの準備だ」
「祭り・・・」
「ああ、実はな、今夜その前夜祭があってな。実はそれが、この遺跡で行われるんだ」
老人はまだ少し重い口調で、後ろの半壊した建物の方へ振り向いて言った。
「ここは“月の宮殿”といってな、今はほとんど崩れてしまっているが、本来は尊貴な場所らしいのだ」
青年はその宮殿を真摯に見詰めている。老人はそれを見て続ける。
「世界の何処かには、これと対になる“太陽の宮殿”というのもあるらしいの・・・。
そういえば、あんた先刻ここと似ている場所が故郷だと言ったな」
「ええ、ここと同じくらい古い・・・。そして遠い・・・」
「ひょっとして・・・」
「そうかもしれませんね」
青年は言い終わらない内に立ち上がった。
「どうしたんだ?」
「やっぱり今日中に・・・、いえ、今すぐに発ちます」
老人が少し驚いた顔をする。
「唐突だな。せっかくの祭りなのだから、それを見てからでも良いだろうに?」
そう言うと老人も立ち上がり、服の汚れを払う。
「いえ、何だか一刻も早く帰りたくなってしまったので」
「そうか」
老人は寂し気な笑顔を見せる。
青年はじっと遺跡を注視している。
「あれから、もう十年も経ってしまっている・・・。
本当は少しでも休んでいる閑なんて無かったのに・・・。
ここが良く似ているから・・・」
青年は少しだけ自らの追憶に浸るように呟く。
「う~む。色々訳があるようだな。ともかく道中、気を付けなさい」
「ええ。それじゃ」
青年は淀みなく応答して一礼すると、足早にその場を去っていく。
二人の会話が途切れると、風の音色が静かに自らの主張を始める。
一際、強い風が吹くと、それに草木のざわめきが加わり爽やかな賑わしさを演出する。
老人は、一時青年の背中から目を逸らし、眼下の広場を覗き見る。
祭りの準備はまだ終わらないのだろう、人々の動きはまだ落ち着かない。
風の音色の邪魔になるものは無く。広場の喧騒もここまでは届かない。
すでに歩き出している青年は、何かを思い出したように振り返ると、少し声を大きくして言った。
「向こうでも、ここと同じで風の音色が聞こえます!」
そして軽く手を振った。
老人も笑顔でそれに応える。
風もそれに加わるように、一際強く吹き抜けていく。
空は鮮やかに青く、夜の気配はまだずっと遠かった。