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土星

 土星では金星以来三度目の全史レース(第三次全史レース)が繰り広げられる。

 土星で行われる第三次全史レースは、ソーラーパネルに依存する内部太陽系探査機にとって悲壮なものとなった。


 はやぶさはいままでずっと、相対的な性能の低さをがむしゃらさでカバーしてきた。


自身の最大の持ち味であるがむしゃらさを、はやぶさはとうとう発揮できなくなってしまう。元気さが取り柄の探査機が元気に動けなくなってしまうという状況は、本当に痛ましいもの。自分の力を発揮できない状況に、はやぶさはアイデンティティ喪失の危機に直面する。


 一方、元々スマートなさっちゃんは、この逆境に動じずスマートに乗り切ろうとする。


 妹のたくましい姿を目の当たりにすることによっても、はやぶさは、ああなんて自分は駄目な探査機なんだろう、と思ってしまう。


 また、はやぶさとさっちゃんは、月、水星、金星、火星の内部太陽系までは足並みをあわせて全史を更新していたが、木星に来るときの小惑星回避ミッションでは二人の間に初めて大きな差が生まれた。


 さっちゃんが自身のインパクターで小惑星を粉砕したのに対し、はやぶさがキュリオシティの持ち物を借りて使っていたためだ。


 第三次全史レースのゴールは、二〇〇ページ。


 さっちゃんがこの時点で一九〇ページ以上のページ数を持っているのに対し、はやぶさは一七〇ページという状況。


 太陽から遠い極限の地で、太陽光に依存する探査機であるはやぶさが三〇ページを更新するのは、奇跡でも起こらない限り無理だった。


 頑張ろうとする姿勢が、電力の無駄遣いとなって裏目に出てしまう。


 はやぶさはどんどん気力を失っていく。


 はやぶさが負のスパイラルに陥っていることに気づいた渡は、はやぶさに一日の休養を与えた。


 休暇の一日を、はやぶさは土星のリングで過ごすことにした。


 土星のリングは無数の小天体によって構成されている。


 はやぶさは土星のリングのなかに漂えば、小惑星に包まれているような気分を味わい、リラックスできるのではないかと考えたのだ。


 一基のアンテナ以外の観測機器を停止してはやぶさはスリープモードに入る。


 眠っているとき、ふいにアンテナにシクシクという泣き声が届いてきた。


 それは行方不明になっていたガリレオの妹カッシーニが発していたものだった。


 土星探査機カッシーニには、開発期間中に予算の縮小によって大幅な設計変更がなされたという、不遇の歴史がある。予算の影響でカッシーニは、きわめて有毒なプルトニウム238二酸化物を燃料とする原子力電池を、主電源として積むはめになった。大量の中性子が宇宙探査機に搭載され、打ち上げられるのははじめてのことだったので、アメリカではカッシーニの打ち上げに際して大きな議論が巻き起こることになった。


 その頃に市民から浴びせかけられた非難の声は、探査機ちゃんとして蘇ったいまのカッシーニの胸の中にも刻まれている。


 カッシーニが行方をくらませたのは、「自分は有毒な存在」というコンプレックスのためであった。


 ジュノーという後輩の木星探査機が背中を追ってきたガリレオとは違い、カッシーニは太陽系の片隅で最後まで一人ぼっちだった。その孤独な境遇も、内向的で自己否定的な性格に拍車をかけてしまった。


 カッシーニは行方不明の間ずっと、土星に隠れ続けていた。誰かと関わることを恐れていたためだ。


 土星探査機というのは後にも先にもカッシーニしか存在しないため、カッシーニはいままで土星にいるだけで誰にも見つからずにすんだ。


 しかし今回のグランドツアーで、大量のゲストとクルーとH探査機が、はじめて一度に土星になだれ込んできた。


 そのためカッシーニは、土星のリングを構成する氷の一つに身を隠していたのだ。


 はやぶさはカッシーニに、姉のガリレオがどれだけカッシーニのことを心配しているかを伝えた上で、ガリレオに会うよう説得を試みる。


 しかし、他者に迷惑をかけたくないから一人でいたいというカッシーニの言葉に、はやぶさはなにも言い返せなくなってしまう。


 はやぶさは、ミネルバを喪失したショックを引きずり、スペースミッションを負うことを拒んでいたかつての自分に、カッシーニがそっくりであるということに気がつく。


 さっちゃん。オペレーター。ハスキー。ニア。スターダスト。ディープ。イーグル。ルナ16。キュリオシティ。ガリレオ。


 さまざまな仲間と出会えて、一緒にいられたからこそ自分は変われたんだということを、はやぶさはカッシーニに伝えようとする。


 だがカッシーニは、「大切な相手だからこそ、迷惑をかけたくないの……」と言う。


「迷惑なんて、そんなこと……」


「はやぶさちゃんには、わからないの……!」


 カッシーニは感情的になって飛び出す。


 カッシーニは土星に落ちていこうとする。


 カッシーニの前世である土星探査機カッシーニは、土星大気との摩擦で燃え尽きるという形で最期を迎えた探査機だった。そのためカッシーニの中では、大気との摩擦で燃え尽きることが死のイメージなのだ。


 はやぶさは、カッシーニはいま死のうとしているのだと、直感的に気がつく。


 はやぶさはカッシーニを追って飛び出すが、途中で推進剤を使い果たしまう。


 軌道変更ができなくなったはやぶさは、このままでは土星に落ちていってしまう。


 はやぶさの変化に気づいたカッシーニは、落ちるのをやめてはやぶさを助ける。


 カッシーニは動けなくなったはやぶさをタイタニック号に送り届ける。


 このときカッシーニは、はやぶさの体がもうボロボロであるということに気がつく。


 カッシーニは、はやぶさが気を失っているあいだにこっそりはやぶさの全史を読み、はやぶさが全史レースで脱落の危機に瀕していることを知る。


 眠っているはやぶさをタイタニック号の甲板に横たえると、カッシーニはふたたび土星の輪のなかに隠れてしまう。


 はやぶさはカッシーニと会ったことをみんなの前で打ち明ける。


「生き残っておることがわかっただけで十分じゃ」


 とガリレオ。


「早く見つけたいが、今ははやぶさの全史を更新することの方が先決じゃな」


 土星での残り時間が少なくなるにつれ、はやぶさは塞ぎこむようになる。

 お姉ちゃんを絶対に死なせないと心に誓っているさっちゃんは、その姿を見て心が引き裂かれそうになる。


 さっちゃんは、探査機の立場からオペレーターに対し、異例の「直訴」をする。


「お願いします、オペレーター。今まで何度も奇跡を起こしてきたあなたなら、また同様の奇跡を起こせるはずです。今こそ……お願いします。この通りです」


 その場面に、はやぶさは偶然通りがかってしまう。


 さっちゃんの言う渡の奇跡とは、自分とさっちゃんの全史を一〇ページ以上更新した太陽観光での宇宙遊泳や、金星の地上五五キロでのチャレンジを指しているのだと、はやぶさにはわかった。


 さっちゃんは、全史的に追い込まれている自分を救うために、渡に以前のようなリスクを負うチャレンジをしてくれとお願いしているのだ。


 そう思った瞬間、金星上空五五キロで目に焼きついた渡が倒れる姿が、はやぶさの胸内にフラッシュバックする。崇女に打たれた頬の痛みがよみがえる。


 その日の夜、渡はチームの四人の前で、衛星エンケラドスの間欠泉内部を探検するミッションを発表する。このミッションは危険な分コース作りが重要で、はやぶさとさっちゃんの地上探査能力が鍵をにぎることになると説明した。


 自分が足を引っ張るせいで渡がまたリスクのあるチャレンジをすることになった。


 その事実に耐えられなくなったはやぶさは、船を飛び出していってしまう。


 翌朝、渡ははやぶさ以外の探査機たちから、はやぶさが姿を消してはやぶさの電波もなくなったと伝えられる。


 いつも泰然としているはずのさっちゃんが泣きながら嘆き続けている様子に、渡は衝撃を受ける。


 キュリオシティとガリレオは、渡に話があると伝える。


 二人は今まで秘密にしていた全史レースの存在を、渡に洗いざらい話した。


 はやぶさが自分で自分を追い詰めた本当の理由を知った渡は、三機を総動員してはやぶさを捜索する。


 しかし土星は広すぎて、はやぶさがどこにいるのかまったく見当がつかない。


 そんなとき、カッシーニが三人の前に現れる。


 話を聞いたカッシーニは、はやぶさは自分にとっての大切な人に迷惑をかけないため、自ら命を投げようとしたのではないかと直感的に思った。


 カッシーニの中では、土星大気との摩擦で燃え尽きることが死のイメージだった。


 はやぶさにとっても同じなのではないか。


 はやぶさもまた、自分と同じように、大気との摩擦で燃え尽きる最期を迎えた探査機だ。


 でも、土星大気と地球大気はまったく似ていない。


 地球大気と似ているのは、むしろ衛星タイタンの大気だ。


 土星の衛星タイタンの表面気圧は、太陽系の天体で一番地球に近く、その差は一・五倍しかない。


 はやぶさが自分の墓場である地球を思い出す場所と言ったら、あそこしかないはず。


 カッシーニのこの見解を信じて、渡と四機は捜索場所をタイタンに定める。


 最初にはやぶさを見つけ出したのは、カッシーニだった。


 はやぶさはタイタンの液体メタンの海の岸辺に横たわっていた。半壊し、眠ったように動かない。はやぶさはやはり、自ら命を絶とうと墜落していたのだ。


 はやぶさが見つかったという報せを受けたとき、渡は低い丘の上にいた。


 このとき、ちょうど雨が降り始めた。


 衛星タイタン特有の自然現象として知られる液体メタンの雨は、地球の雨とはだいぶ違う。


 雨粒一つ一つが、直径二センチの球形をしている。それが、地球の雪くらい緩慢に降ってくる。降ってくるというより、天から沈み落ちてくる。


 渡にはその雨が、神様の涙が零れてきている風に感じられた。

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