金星
太陽で第一次全史レースが終わったあと、全史は次のレースをすぐに設定しなかった。
水星滞在期間中はなんの動きもみせなかった全史であるが、はやぶさたちが金星を訪れたとたんに隠していた牙をむく。
金星を発つ一〇日後までに、全史を一三〇ページまで更新せよ。
というのが、第二次全史レースの期限設定とゴール設定だった。
金星は太陽系一濃厚な大気をもつ惑星であり、ここでのアクティビティの鍵は風が握る。
帆やパラグライダーを、ソリやスキーと結びつけたら面白いと渡は最初考えるものの、そのアイデアは渡に目をつけている同僚のスペースクルー達によって盗まれてしまう。
金星の気流は強いので、空の上にエキサイティングな風の旅があると謳われた。
太陽系観光時代の黎明期には、金星では気球や飛行船を使った空のアクティビティが一世を風靡した。
その歴史を参考に、「エアバッグ飛行船」というような観光用BTデバイスを用意してきたクルーは多かった。
ゲストの中では、あらかじめ持参していた「エアバッグ空いかだ」で、空の冒険を楽しもうとする人もいた。
「エアバッグ空いかだ」は金星のように猛烈な風が吹く環境では容易に遭難するため、スペースクルーの救助活動は忙しくなる。
金星の地表上空五五キロは、温度と気圧の面で地球表面とよく似た環境になっている。
この高度に移住することをあらかじめ決めていた大平という宇宙移民がいた。
大平は、気球のついた地球界コンテナとエアバッグ空いかだを組み合わせることで、空に浮かぶ家を実現するつもりなのだという。
「この高度にこういうすごい環境があるっていうことが、全然人に知られてないっていうのが、僕はなんか悔しいっていうか、悲しいんだよ」
と、大平は目の前にいる渡に語る。
「こういう、やろうと思えばなんでもできる時代だからこそ、誰かがきっかけをつくらなきゃ」
「どうしてそこまでするんですか?」
と渡がたずねると、大平は、
「わかんないなぁ……呼ぶ声が聞こえるとでもいうんだろうか」
「呼ぶ声?」
大平は渡に一眼レフカメラを渡す。
「それ使って仕事してきたの僕は」
「……写真家ってことですか?」
「うん」
八重歯をちらりとのぞかせながら、大平ははにかんだ笑みを見せる。
「宇宙ってのはさ、無限に広いんだよ。今が宇宙時代になったから感化されていってるわけじゃなくて、前から思ってたことなんだけど。日本という国ひとつ考えてもさ、そこに一億二〇〇〇万人の人がいて、おそらくはその半分くらいの数の家があって、それぞれの家に知られざる営みがある。外を見れば、木が生えてる。草が生えてる。一個一個、見尽くそうとしてもきりが無いくらい、命で溢れてる。岩とか水とか、命じゃないものもある。
そういうありとあらゆる万物に、本当は物語がある。この世は、無限の物語で溢れてる」
「無限の……物語」
「うん。……で、そんな風に、物語っていうのはこの世に溢れすぎてるもんだから、絶対に誰にも見てもらえなかったり、気にしてもらえなかったりって言うものが出てくる」
「……わかる気がします」
「どうして私に気づいてくれないの! 私を見て! 僕を見て! ……っていうような声が、たとえばどこにでもあるような一本の木から聞こえてくることがある。一軒の廃屋から聞こえてくることもある。……僕はそういう声に耳をかたむけるのが好きなんだよ」
「っていうことは、大平さんが住むことに決めたこの場所からも、同じような声が聞こえたっていうことですか?」
「そういうこと」
「宇宙の孤独が聞こえる……」
「そんな大げさなもんじゃないよ。単なる自己満」
「いえ」
そんなことない、というように首を振る。
「いまふと、はやぶさたち宇宙探査機の本質も同じなのかなと思ったんです。宇宙探査機っていうのは本当にどいつもこいつも、今まで誰も知らなかったことばかり好んで人に伝えようとするじゃないですか。その理由は、ひょっとして、大平さんと同じように宇宙の孤独が聞こえてるからなのかなって……」
「さあ……それはわからない」
大平が首をひねる。しばしの間、真顔で考えこむ。
「――でも、そうだとしても不思議じゃないと思う。なんたって彼女らは……そういう存在じゃん?」
大平の宇宙移住に渡は立ち会う。
金星の地上五五キロは、温度三〇℃台、気圧〇・五気圧、地球の九割の重力という擬似地球環境になっていた。
この環境で、大平の一眼レフは問題なく機能した。
金星の大気には〇・〇一五%の亜硫酸ガスが含まれているが、硫酸は金属は溶かしてもアルミやプラスチックは溶かさない。大平の一眼レフは非金属外装仕上げになっていたため、亜硫酸ガスの影響を受けることはないのだった。
このカメラを使って、大平は金星の地上五五キロの風景を写真に収めはじめた。
温度三〇℃台、気圧〇・五気圧、地球の九割の重力。
ここまで地球的な環境が揃っているのであれば、ずっとは無理でも一時的になら素肌をさらすことができるのではないか。そう思い大平にたずねると、やめといたほうがいいと釘を刺される。
「金星の大気には亜硫酸ガスってのが混じってる。亜硫酸ガスを一定以上吸い込むと、肺が犯される。亜硫酸ガス中毒って、ネットで検索してみな。
雲は一見地球と同じ雲のようだけど、水蒸気じゃなくて濃硫酸でできてる。こっちは肌が焼けるレベルだろうね」
要するに、雲の切れ間を狙って外に出て、最初から最後まで息を止めていれば大丈夫なんじゃないか?
金星の上空五五キロを私服姿で体感するという、前人未到のチャレンジの空想に渡はとりつかれるようになる。
いまはもう、金星滞在期間の終盤に差し掛かっている。
風に精通していなかった渡は、金星では思うように自分の力を発揮できていなかった。
はやぶさやさっちゃんもまた、金星では思うように力を発揮できていなかった。二人は前世の本質がタッチダウン機であるため地表には強いものの、大気観測ではどうしても他の探査機に引け劣ってしまう。
金星では、「あかつき」「マゼラン」「ヴィーナスエクスプレス」ら金星探査機をはじめとした、周回探査機が活躍していた。
渡には上空五五キロでの私服チャレンジが、金星での遅れを挽回する最後のチャンスに思えた。
自分の構想を船内のスペースチャンネルで発表すると、多くのゲストから激励された。
地球外で私服姿になるという人類史上初のチャレンジはやはり、誰にとっても興味深いものなのだろう。
発表だけでこの反響であれば、上空五五キロ私服チャレンジを収めた動画はスペースチャンネルでものすごいアクセス数を集めることになるはず。
上空五五キロ私服チャレンジのスペースワークとしての成功を確信した渡は、チャレンジに挑むことを決意する。
リスクのあるチャレンジに挑むことを、はやぶさは反対する。
だが、さっちゃんは「オペレーターを信じましょう」という。
第二次全史レースは、一〇日という異例の短期間で終わる。
このままでは確実に、はやぶさが脱落者になる状況だった。
生き残るためには、渡に賭けるしかない。
渡は大平に、高度五五キロに構えた家の庭(エアバッグ空いかだ上)をチャレンジの舞台にさせて欲しいと、頼み込む。
大平は一度は断ったものの、渡の熱意にほだされ、しぶしぶ了承する。
はやぶさはいかだ上で大気成分の遷移を、さっちゃんは軌道上から濃硫酸の雲をそれぞれ監視することになった。二機ぶんのデータをまとめることで、空いかだの進路と、チャレンジを行うべきタイミングを判断する。
チャレンジ当日、大平の庭にはタイタニック号から派遣された救命艇が横付けされた。万が一の場合に備えてのことだ。
亜硫酸は目の粘膜を刺激するため、今回のチャレンジでは息を止めるだけでなく、目もふさいでいなければならない。
だが、IMSの画面はコンタクトレンズ型ディスプレイだ。
そのためIMS装着者は、目を閉じながら何かを見ることができる。
渡ははやぶさに、「俺の目になってくれ」
といった。
「IMSリンクをしている間、はやぶさはずっと俺に寄り添いながら、俺の動きに倣って顔の向きを変えてほしい。そうすれば、俺は目を閉じたままでも自分の目で景色を見ている気分を味わうことができる」
金星の地表上空五五キロは、ちょうど地球表面と同じくらいの明るさだった。
地球では空と雲に赤みが差すのは夜明けと日暮れだが、この場所では地球の正午のような明るさにも関わらず、空も雲も赤みがかっている。それが面白い。
風の感触を味わうように、手を開いたり閉じたりする。その手から、風の温度を感じる。
耳で直接風の音を聞く。
地球外で素肌を露出した史上初めての人間に自分がなれたことを実感した渡は、感動に打ち震えた。
その感動と、感動を味わわせてくれたことへの感謝を、どうしても今この瞬間にはやぶさに伝えたいという気持ちが心内で膨れ上がる。
「ど、どうぶさか? オペレーター」
渡が口を聞けない状態であるにも関わらず、はやぶさが声をかけてくる。自分がきちんと渡の動きにあわせてカメラを動かせているか、不安になったのだろう。
「大丈夫だ。凄い景色が見えてるよ。本当に……凄い」
傍らにはやぶさがいるためだろうか、胸が高揚感に満たされていく一方、恐怖心は限りなく麻痺していた。
「オペレーター、喋っちゃだめなんじゃ……!」
はやぶさは先ほど、この場所における亜硫酸の濃度を二〇〇〇ppmと観測していた。
二〇〇〇ppmは吸って即死する濃度ではなかったはず。少しの会話なら大丈夫だろう。
「大丈夫みたいだ」
「そ、そうなのぶさか……?」
コクコクとうなづいてみせる。
「よかったぶさ……」
はやぶさは安堵の息をもらす。
渡は顎をクイッと動かす。自分の目が渡の目に繋がっていることを失念しているはやぶさに、前をむくよう促したのだ。
「も、申し訳ないぶさ!」
改めて、橙に染まった雲海の景色を仰ぐ。
「どうぶさかオペレーター、ここの景色は?」
はやぶさが自信満々にたずねてくる。自分とさっちゃんが大きな雲の切れ間を見つけ出せたことが、誇らしくて仕方ないのだろう。
「ああ、最高の景色だ。こんなすごい景色、生まれて初めて見た」
「本当ぶさか!? 探検をやってきたオペレーターでも、そう思うぶさか?」
「ああ。この景色はまちがいなく、俺が今まで見てきた中で……ごほっごほっ……最高の……」
「オペレーター?」
「大丈夫だ、ちょっと咳が……ごほっ!」
「オペレーター、大丈夫ぶさか?」
咽が火に炙られるように痛い。咳き込めば咳き込むほど、痛みが増していく。すぐに、正気を保てないほどの激痛になった。
「オペレーター、どうしたぶさか? オペレーター!」
渡は倒れ、咽を押さえてもがき苦しむ。
「オペレーター!? しっかりするぶさ!! オペレーター!!」
はやぶさに揺さぶられながら、渡は意識を失う。
一時的な心配停止の後遺症で、渡は三日間目を覚まさなかった。
渡の左右の肺は壊死したため、手術で人工肺が取りつけられた。
渡が生死の境をさまよっている間、はやぶさは崇女に呼び止められる。
崇女に頬を打たれる。
「お前がついていながら、どうしてこういうことになった!」
怒声を浴びせてきた崇女の目に、涙が滲む。
はやぶさは胸を鋭いもので突き刺されたように感じ、頭が真っ白になる。
「亜硫酸を吸わないよう口を閉じてる人間に対して、話しかけるなんて……!
やはりロボットには所詮、人の痛みはわからないということか」
目を覚ましたあと、渡は自分にしがみついて泣きじゃくるはやぶさに、「ごめんな」と言った。
「ごめんな、またいつもの無茶につきあわせちまって」
はやぶさとさっちゃんは、善意で協力しているように見せかけて、裏では渡を利用している。
全史レースがデスゲームの意味を持ち、はやぶさとさっちゃんが自分達の生き残りをかけて全史を稼ごうとしている事実を、渡は知らない。
姉妹は決して渡のことを騙したくて騙しているわけではない。
全史レースがデスゲームの意味をもつことを人間に打ち明けてはならないという「探査機ちゃん同士の決まり」が二〇〇機会議で定められていたため、どうしても伝えられないのだ。
渡は命知らずだから、怪我や死を恐れない。月のジョルダーノブルーノ・クレーターでは両足を怪我しながらも、はやぶさたちの全誌のページを稼いでいくれた。あのときはやぶさは、ページが増えてほっとした反面、全史の存在を隠しながら渡を利用している自分が嫌になり泣きたくなった。
今回もまったく同じことが起きた。
渡が伝説を積み上げていく様子を、いつまでもそばで見ていたい。見ていたいけど、怖い。そして、真実を告げずに渡を巧みに利用し続ける自分のことが、許せない。どんどん、心が引き裂かれていく。




